【四】咲村朱色/スカーレット
一
保健室は昔から好きだった。
消毒液のつんとする匂いとか、触り心地の良いシーツの感触とか。後は人が少なくて、騒がれることも少ない事とか。誰かが騒いでいても、そっとベッドに潜り込めば空気を読んでくれるとか。
別に病人ではなくても、私はよく一人になる手段としてこれを使った。
最近は特にそれが頻繁だった。
真皓が居なくなってから教室が息苦しくなったのもあった。
普段からよく話すし、よく会話するグループは私を気遣って黙りこんでしまうし、逆に普段私と疎遠だったクラスメイトはよく声をかけてきては生ぬるい微笑みをかけてくるようになった。彼らもそれなりに心配してくれていることは分かっているのだけれど、私には鬱陶しいだけだ。
壁掛けの時計は十二時前を示している。私は秒針の動きに合わせて呟く。
「ご、よん、さん、に、いち」
十二を指し示すと同時にスピーカーからベルが鳴って、一斉に椅子が床を擦る音が聞こえた。
保健室の前を横切る人影が扉の曇りガラス越しに見えた。
横切るシルエットを眺めながら、しかし茅野先生も、件の生徒も来ないので、先に昼食を取ってしまおうと傍の机に持参したサンドイッチと魔法瓶を広げた。
雪浪高等学校から失踪者が出てから、既に一週間が経っていた。
警察は教師達を相手に連日聴取を続けているし、特ダネ狙いのフリーライター、記者達は登校中の生徒達に声を掛けては何か美味しい情報を手に入れようと躍起になっている。
当然私にも食い付いてきた。弟が失踪したばかりのところにこの事件だ。食いつかないわけがない。それまで家庭に問題があったのではと論じてきた液晶の向こうのコメンテーター達は掌を返して悲劇の家族扱いを始めていて、私が今どんな場所に立っているのか分からなくて気持ち悪かった。
保健室通いが増えるのも仕方ないことだと呟きながらサンドイッチを齧って魔法瓶に入れてきたお茶を啜る。一時は学校を長期的に休む話を母から提案されたが、私は断った。
真皓を発見するには学校に行かなくてはならない。協力してくれている茅野先生の下に行く必要がある。そう思うとどうしても母の提案は受け入れることはできなかった。母は首を振る私に最後まで食い下がり続けたが、「登下校は俺が送る」という父の言葉でようやく話がついた。
私を家に閉じ込めたがる母に恐怖を抱きつつ、同時に私は少し安堵もした。それなりに大事にしてもらえていたという事をここ数日で実感したからなのだろう。
母が落ち着くのは、恐らく真皓の行方がはっきりした時だけだ。多分、父も考えは同じだと思う。本来なら真皓が見つかるまでは危険な目に自ら足を踏み入れるべきでは無いのだろうけれど、今更一人家の中にいたくはなかった。
あの喧嘩が発端なら、この状況はきっと私にも原因があるし、もしあの時真皓にもっとまともな言葉を返していたら、咲村家は今も失踪事件を客観的に見ている立場にいたのかもしれない。
だから、私は私なりの結末を探して動かなくてはいけない。
「大丈夫、私はいなくならないから」
ベッドの上で膝を寄せながら、私は呟く。
扉が開いた。
食べかけのサンドイッチをテーブルに置いて、カップの中を飲み干してベッドを降りると、カーテンを開く。
「お待たせ」
茅野先生はポケットに突っ込んでいた手をひらひらと私に振る。
「わざわざありがとうございます」
「いいのよ。危ないことならともかく、これくらいなら私にもできるからね。さあ入って」
茅野先生は扉の向こうにそう言って手招きする。
「失礼します」
保健室に入ってきた女子生徒は私を見て小さく礼をする。
彼女の話で、もしかしたら何かが変わるかもしれない。私は生唾をごくりと飲み込むと拳を強く握り締めた。
「突然呼んでごめんね若苗さん。こっちの子は咲村朱色ちゃん。苗字で分かると思うんだけど、失踪した弟さんを探していて、少しでも何か足取りを掴みたくて、話を聞いてみたかったの」
茅野先生の丁寧な口調は、多分彼女を慮ってのものなのだろう。刺激せず、柔らかい物腰で彼女に取り入る。私一人であったなら、きっと率直な言葉を投げかけて場を乱して終わったかもしれない。何より私の目は、あまり人によく思われないみたいだから、尚更だ。
若苗と呼ばれた女子生徒は用意された椅子に座ると、暫く下を向いて何か考えているようだった。
「本当に申し訳ないんですが、実は私もよく分かっていないんです」
申し訳なさそうに俯いたまま彼女は力無い声で言葉を口にした。私と先生は互いに顔を見合わせてから、首を傾げる。
「失踪した日は会っていなかったの?」
茅野先生が尋ねると、彼女は上目遣いで先生を見てから、首を横に振った。
「学校で会っただけです。あとは……他の友人といる時に電話がかかって来たくらいで、それ以降は会っていません」
「その電話って、どんなものでした?」
「さあ、たった一度だけ着信があっただけで、それ以降は私から掛けてもまるっきり出てくれませんでした。だから一体何のためだったのかはさっぱり分からないんです。まあその電話のお陰で私は私で助かったんですけどね」
「助かった?」
彼女は息を飲んだ。つい口が滑って知られたくない部分まで口にしてしまったらしい。
「私は弟を見つけたいだけなから、貴方の事情を誰かに告げ口する気は無いわ。そう簡単に信じられる言葉ではないかもしれないけど、貴方さえ良ければ、その「助かった」って言葉の理由も一緒に話してもらえないかしら」
若苗さんは俯いたまま暫く考えているようだった。詳細は分からないけれど、彼女にとってはどうしても知られたくない部分だったことだけは理解していた。
ただ、あの時モッズコートの青年が教えてくれたねむりひめの生態がもし正確だったとすれば、彼女の人となりも知っておくことは必要である気がした。
大切な人を失った一人と考えると、彼女もまた私と同じように餌として認識されてしまう可能性だってあり得る。
茅野先生はすっかり黙りこんでしまった彼女の両肩にそっと手を添えた。若苗さんはびくりと反応すると振り返って先生の顔を見つめた後、嘆息すると漸く頷いた。
「その日、クラスメイトにカラオケに誘われたんです。最近付き合いが悪いって言われたらなんだか断れなくて、私淡音を置いてそっちに行ったんです。正直、気乗りしなかったけど断った後が怖くて……」
「そんな時に、藤紅さんから電話が来たのね」
先生の言葉に、若苗さんは頷いた。
「いい口実が出来たから、私はそれを利用して逃げたんです。簡単な嘘のせいで後が大変だとは思いつつ、一秒でも早くそこを出たかった。淡音に会いたかった。でも、口実を作ってくれた彼女に電話しても反応は無くて、結局その後行方知れずになってしまって……」
彼女は携帯を取り出すとディスプレイを見つめながら、下唇をぎゅっと噛み締める。
「淡音がどこに行ったのか、私が知りたいくらいです」
肩に手をやったままの先生は、私に目を向けると首を振る。ここまでだ、と彼女の顔は言っていた。
「色々ありがとう。大事な昼食の時間にごめんなさいね」
「いえ、教室は教室で同情ばかりでちょっと息苦しいから。むしろ気が楽でした」
そう言って笑う彼女に共感を覚えながら、私は一度伸びをすると、再びベッドに腰を下ろす。緊張が一気に解れていく。
「咲村さん」
突然呼ばれたことに驚いて、私は慌てて彼女の方を見た。その反応が面白かったのか、彼女は笑みを零す。
「私よりもっと近い人がいなくなったのに、そうやって自分で探そうって思えるの、すごいです。私なんてずっと落ち込んで、うじうじしてましたから」
「ああ、でも多分、それが普通なんだと思います」
そう言って微笑むと、若苗さんはそうですかね、と首を傾ぐ。
「私、弟が……真皓が居なくなったって聞いた時、一人だけ泣けなかったんです。もう帰ってこないかもしれないって言われた時も、一滴も涙が出なかった。お母さんは毎日泣いて、お父さんも私達のことを心配しながら、時々寝室で泣いてたりして。涙が枯れそうなくらい泣いていたのに、私だけどうしても涙が出なかった」
吸い込んだ息を吐き出して、私は髪を掻き上げる。
「多分、私が真皓を探したいと思ったのも、それが理由なんです。私はきっと現実を突き付けられないと駄目みたいだから、弟の行く末をちゃんとこの目で見ないと納得ができそうにない。泣けそうにないんです」
言い終えて私は口を閉ざした。
蛇口を捻る音、水が濁流のように流れ落ちる音がして、私達は水道の方に目を見やった。
「ごめんなさい、折角だから何か淹れようと思って。若苗さんも朱色ちゃんも何飲みたい? といっても珈琲か紅茶くらいしかないのだけれども」
「私、紅茶で」
若苗さんは手を上げて言う。
「私は珈琲で」
次いで私がそう言うと先生は頷いて、水で一杯になったポットの電源を入れた。次にティーパックとインスタントのドリップパックに、マグカップを三つ用意する。
「珈琲が好きなんですか?」
若苗さんはそう私に尋ねる。私は頷いた。
「その子ブラックしか飲まないのよ。砂糖もミルクも絶対に入れないの」
「甘いのが駄目なんですか?」
茅野先生の話を聞いて彼女は更に興味を持ったようだった。目を泳がせながら、どう言うのが一番良いだろうと頭の中で必死に言葉を纏める。
「駄目っていうか、ブラックはなんだかハッキリしている気がして、飲んでいて気が楽なの」
前にも先生に対して説明しようとした事だ。でもやっぱり今回のうまく説明できない。
私があたふたしていると、若苗さんはくすくす笑い始めた。そんなに面白おかしかったのだろうかと怪訝な顔を浮かべていると、彼女はそれに気がつき、「違うんです」と慌てて首を振る。
「この間似たような事を言う人がいたから、同じ考えの人っているんだなあって思ったら少し面白く感じちゃって」
「似たような事?」
私が首を傾げると、若苗さんは補足するように言った。
「真崎先生ってわかります? 真崎葵先生」
その意外な人物の名前が出てきた事に驚いた。
「ブラックは苦手で甘いものが好きだけど、ブラックを飲むと、自分がここにいる感じがするって言ってました。はっきりするからって。不思議ですよね」
「はっきりするからって、本当に言っていたんですか?」
若苗さんは頷いた。
真崎葵に向けての電話も、今となっては随分と前の出来事だが、それでも鮮明に思い出すことができる。
あの時、葬式の時に一度も泣かなかった彼を私は見ていた。だから弟を失っても泣けなかった時、思わず衝動的に彼に電話をかけた。
――泣くこと、できましたか?
あの時彼は返事をはぐらかして電話を切ってしまった。だから彼の答えは未だに知らない。結局ちゃんと涙を流すことができたのかさえ知らない。
でも、私と彼は同じ気持ちだったのかもしれない。
若苗さんの言葉を聞いて、私の中の冷たい塊が溶けていくのを感じた。
「そっか、あの人も、そんな理由でブラックを」
「大切な人を失って間もないですもんね。それに葬式も泣いてなかったし、多分咲村さんとどこか似ているのかも」
そうかもしれないと笑う私を見て、若苗さんは安心したのかほっと一息つくと、お湯の注がれたマグカップを先生から受け取り、ふうふうと紅茶に向かって息を吹きかける。
私も先生から珈琲を受け取ると、芳ばしい匂いを嗅いで一息ついてから啜った。
苦味と香味が口の中で広がって、じわりと染みこんでいく。喉の奥へと流れ落ちていく黒くて熱い液体を感じる。でも辛くない。むしろ心地よかった。
「そういえば」
一息ついたところで、若苗さんは再び口を開く。
「淡音から電話が来た日に、雪浪通りで真崎先生に会ったんですよ。なんとなく入った喫茶店で会って。その時に珈琲の話を聞いたんですけどね」
耳を傾けながら私は再び珈琲を啜る。
「姪の子が来ているらしくて、そのおかげで大分気が紛れてるって言っていました」
「真崎先生に姪ね。奥さんも子供が出来る前だったし良い機会なのかもしれない」
頷く若苗さんを見て、茅野先生は微笑んだ。
でも何故だろう。二人の話を聞いていて何かが引っかかった。けれど理由がどうにもはっきりしなくて、それがまた気持ち悪い。
「なんにせよ、ありがとうね若苗さん。お友達の安否が心配な時なのに」
「いいえ、探したくなる気持ちは、分かりますから」
若苗さんの言葉に私が顔を上げると、彼女はこちらを見て微笑み、それから時計を見て時間だと呟く。
「ねえ、先生」
保健室を出る直前で、彼女は私達を見た。
「何かしら」
先生はポケットに手を突っ込んだまま首を傾げる。
「淡音は戻ってくると思いますか?」
その言葉は、淡くて触れればぱちんと割れてしまいそうな、泡沫みたいな問いだった。
茅野先生は、口を閉ざしたまま彼女を見つめている。若苗さんはじっと言葉を待っている。私はどうにか言葉を探すけれど、暫く考え続けて、それはむしろ私が欲しいくらいだという事に気づいて、やがて考えるのをやめた。
先生は、この問いになんて答えるだろうか。
その先生の言葉に、私は何を思うのだろう。
静寂が流れる。生温い粘液みたいな静けさが部屋を満たして、三人の間を埋めていく。酸素が消える。口を開けても、呼吸の仕方を忘れてしまったみたいでうまく息が吸えない。秒針でさえも動きを躊躇うほどの重たい静寂が私達の間に横たわっている。
あまりにも苦しくて私は俯いてしまった。とても耐え切れない。
「……そうね」
音を忘れた部屋に、漸く言葉が姿を現す。
先生は微笑を口元に浮かべていた。
「貴方がそう信じたいなら、それで良いと思うわ」
私に答えは出せないもの、と付け足すように彼女は言う。
「私が決めること、ですよね。やっぱり」
若苗さんはそう言って目を細めて笑う。
「慰めが欲しかったなら、ごめんなさいね。私はそういうの好きじゃないから、正直に言うことにしてるの」
「いえ、こっちで良いです。嬉しいです」
そう、と先生は笑った。
ええ、と彼女も笑った。
分針がかちん、と動いて、スピーカーからチャイムが鳴り響いた。
「では、授業がありますので」
若苗さんはそう言うと深く丁寧なお辞儀をして、保健室から出て行った。
「彼女に必要なのは、結果じゃない」
チャイムが終わった頃に、先生は窓の外を眺めながらそう口にした。じゃあなんですと私が問いかけると。彼女は一度大きく背伸びをしてから息を深く吐き出す。
「納得することよ」
ニ
ホームルームを終えて、私は幾月絵美に今日は美術部に行くと伝えた。
彼女は酷く驚いたようだったけど、そろそろ気分転換に何かしたいと言うと納得してくれたようだった。
一人で事を進展させるのにも限界があり、若苗さんとの会話以降何も進んではいない。
ただ、少なくとも犯人はまだ雪浪町で何かするつもりだと思っていた。確証は無いけれど、少なくとも「美味しそうな」私をこのままにはしないだろう。
電話で部活に出る旨を父親に伝えると、大体の帰宅時間についての確認と、部活後に連絡を寄越すようにと言われた。友人も一緒だと言うと、ならその子も乗せて帰ろう、と半ば強引に話をまとめられてしまった。
「なんか、お父さんがごめんね」
ホームルーム後の廊下を二人で歩く。当たり前だったことがなんだか遥か昔の出来事みたいに懐かしく感じてしまう。非日常から日常へ。少なくとも絵美といる時の私は、とてもリラックスしている。
開いたままの廊下の窓から風が吹き込んで、絵美の髪が揺れる。ふわり、と彼女からシャンプーの匂いが香った。
「シャンプー、変えた?」
「いつものだけど、変わったように感じた?」
絵美はおかしそうに首を傾げる。
「朱色が褒めてくれたのをずっと使ってるんだけどなあ」
残念そうな彼女に私は必死に弁解する。
最近会ってなかったからとか、色々とあって落ち着く暇もなかったから、なんて言葉を沢山並べていると、絵美はくすりと笑った。
「大変みたいだもんね、今」
その言葉に私は頷く。
絵美は私のことを見て立ち止まると、突然後ろから私の背中を押した。
「こういうこと言っちゃいけないと思うけど、多分朱色なら怒らないって勝手に決めつけて言うよ」
「何?」
「慣れるのも、悪いことじゃないよ」
絵美はそう言って後ろから私を抱きしめる。
彼女の横顔に目を向ける。シャドウが微かに塗られた二重。きりりと上を向いた長い睫毛に潤んだ瞳が見える。
彼女から目を逸らすと私は俯いて、一呼吸置いて頷いた。
「私は何も知らないけど、朱色が今頑張ってるって事だけはわかるよ。真皓君、探しているんでしょう?」
「……うん」
「がんばれ」
単純な一言だった。
「がんばれ」
でも、その単純な一言が、今の私にはとても救いになっていた。
「……ねえ、絵美」
「なあに、朱色」
絵美との出会いに感動的なエピソードなんて無いし、絆を確かめ合うような出来事だって存在しない。ただなんかいいなって思って、隣にいて安心したから一緒にいただけだ。
それでも、私は彼女のことを親友だと思っている。これはおかしいことだろうか。
「もし私が死んじゃったりしたら、絵美は悲しんでくれる?」
私の言葉に、彼女はしばらく考えた後、眉根を寄せた。
「勝手に死んだりしたら、怒るよ」
その返答は予想していなかった。
「怒るの?」
絵美は頷いた。
「なんでそうなる前に一度も相談しなかったのかって怒る。事故とか理不尽なものならともかく、貴方の言い方、なんとなく分かっていて死ぬつもりっぽいから」
「別に死に方を指定は……」言いかけたところで、彼女はしてる、とぴしゃりと私の言葉を断ち切った。
「自分の行動がきっかけでしょうね。なんにせよ、私を頼ってくれなかったことを怒るわ。もしかしたらそれで私も死んじゃうかもしれないけど、まだそっちの方が納得できる」
「そんなこと言って、実際にそうなったら『ついてくるんじゃなかった』とか文句言うんでしょう?」
「当たり前でしょ、だって死の危険に晒されてるのよ? 幸せだった出来事を一つ一つ確認して幸せだったって死んだほうが良い? そんな感動シーンは要らない」
「本当に? なんだかんだ文句言いながらも最後まで見て泣いちゃうのが絵美じゃない」
「別にどうでもいいでしょそれは! とにかく、貴方と私の最期があるとしたら、感動で終わらせたりなんてしてやらない」
そう言ったところで、絵美は私の頬にそっと触れた。くすぐったさに身を捩らせると、彼女は私を向き直らせ、正面から私を抱きしめる。絵美の身体は柔らかくて、暖かくて、気持ちが良かった。
「親友でしょう?」
「……うん」
「ちゃんと言葉にして」
「絵美は、私の親友だよ」
よろしい、と耳元で彼女は嬉そうに言った。
「ねえ、一つお願いしてもいいかな」
そう言うと、「何?」と彼女は言った。
「化粧、してくれない?」
絵美は喜んでと言って私から離れると、にっこりと笑った。
美術室の隅で絵美はポーチを取り出すと化粧品を一つ一つ並べていく。チークがどうだとか、グロスはこれが一番良いとか、マスカラ、化粧水はこれ以外譲れないと説明に押され気味になりながら、でもその一方的な彼女の言葉に安らいでいる私がいた。
全て並べ終えると机の前に鏡を置き、絵美は私に化粧を施し始める。鏡の前に映る私の顔が少しづつ変わっていく。その変化がなんだか怖くて思わず目を背けてしまうのだけれど、その度に絵美は強引に私の顔を鏡に向けた。
ある程度終えると、今度は髪を弄り始める。根本から毛先まで真っ直ぐに落とされる櫛の感触は、擽ったくて、でも気持ちが良かった。元々頭を触られるのは嫌いじゃなかったし、あとは絵美に触られているというのもあるかもしれない。ただ普段からそれほど手入れをしていない私の髪は処々で引っかかって、その度に頭が傾いた。
ファウンデーションを塗った顔は滑らかなで均一な肌色になった。目元にブラウンのアイラインが引かれ、その上にさり気なくラメが散りばめられる。よく見ないと分からない位のものだけど、あると大分印象が違うんだなあなんて人並みな感想を抱いて感心してしまう。
「つり目の子って、目元弄るだけですごく印象的になるんだよ。むしろ折角ある特徴なんだから、前に出してあげないと」
「そうかな。この目、私はあまり好きになれないんだけど」
でも、化粧を施した今の目は悪くないと思えた。
「その目で見つめられたら、皆きっと貴方の事が忘れられなくなる」
「そう、かな?」
「朱色はさ、名前もそうだし、目元もそうだし、誰かに憶えてもらうには良い武器を持ってる。男の子って、印象に残るといつの間にかそれを好意と勘違いしちゃうとこあるから」
「そう?」
「目だったり、髪だったり、色んなところを見て印象的な部分を探してるように思えるの。まあ必ずしもその部分が見られて気分良くなる場所でもないけどね」
こことか、と絵美は私の胸に触れる。驚いて思わずその手を掴んでしまうと、彼女は楽しそうにあははと声を上げて笑った。
大分櫛が通りやすくなって、鏡越しに見てもおかしくない真っ直ぐになった髪を見て私は感心した。こんな私の髪、見たことがない。
「うん、大分綺麗になった」
最後に彼女は前髪を髪留めでぱちんと止めて、満足そうな顔をして両肩に手を置いた。
鏡の中の咲村朱色は、まるで別人だった。
苦手だったつり目も、見ていてそれほど悪く見えない。
絵美は最後に紅色のリップを出すと私の唇に引いた。口紅程主張はしないが、引いただけで血色がよくなったように見えた。
「誰か見せる相手がいたらもっと楽しいんだけどなあ」
「残念ながら」
「好きな人とかいないの? 朱色はそういうところ淡白だから」
「そういう絵美も浮いた話ないじゃない」
絵美はにっこり笑った後、ポーチに化粧品を詰めていく。
「実はこの間振られたばっかりなの」
私が驚いて振り向くと、絵美は変わらず笑っていた。
「他校の美術部の子で、コンクールで知り合ってから定期的に遊んでたんだ。最近はしょっちゅう二人で遊びに行ってたかな。朱色とも中々会えなかったし……。で、一昨日かな。告白したら振られた。友達以上には見られないってさ」
絵美は淡々と言った。
窓から夕陽が差し込んできて、絵美の顔に陰が落ちる。もう随分な時間ね、と彼女は言った。
こんなときどうしたらいいのか分からなくて、再び鏡の中の私を見つめる。化粧で変わった私は、私をじっと見つめていた。
「二人きりでしょっちゅう遊びに行って、“そういう”雰囲気にも何度かなって、でもそれ以上は重たく感じるんだってさ」
「重たく?」
「そう、重たく」
「それから、どうしたの?」
「そっかって言って、今は連絡取ってないなあ。彼はどんな距離が好ましいのかよく分からないし、私もなんで好きになったのか分からなくて、ぐちゃぐちゃになっちゃった」
ポーチを鞄にしまって、鏡を閉じる。そこに映っていた私がいなくなると、自分はもしかしたら元に戻ってしまったのではないかと途端に不安になった。
「さあこれでおしまい。朱色、とっても可愛くなった」
不安を抱く私に勘付いてか、単純に思ったことを口にしただけなのか。絵美は後ろから私に抱きつくと耳元でそう囁いてくれた。
「人の心って不思議。ほんと底が見えなくて、全部知りたくても息が続かなくてどんどん苦しくなっちゃう」
「まるで水の中みたいな表現ね」
「うん、水の中っていうか、海とか湖みたい。恋なんてその人に溺れてるみたいでさ、その人の事知りたくて、でも距離を縮めてく度に呼吸もつらくなるくらい胸がきゅってなって……。ロマンチスト過ぎるかな、私」
恥ずかしそうに俯く絵美を横目に見て、私は首を横に振る。
「素敵な表現だと思う。私は好き」
「ありがとう」
さて、と絵美は言った。
「これからどうする?」
そう尋ねる絵美に、私は首を振った。
「どうしても、行きたいところがあるの」
「私も付いて行こうか?」
いい、と一言。
「それは、さっきの問いかけと関係があるの?」
「問いかけ?」
「もしも私が死んだらっていう。さっきのあれ」
そう言って見つめる彼女の目はとても素直で、返答次第ではきっと無理矢理にでも連れて行こうとしているのが分かった。
下手な嘘はつけないと分かっていたから、私は正直に頷いた。
「死ぬかもしれない事?」
もう一度頷く。
モッズコートの青年は私のことを「美味しそう」だと言っていた。これ以上踏み込む事に対しても警告していた。
「納得したいの」
「何に対して?」
「真皓が消えたことに対して」
その言葉がするりと出てきた事に少し安心した。大丈夫、ブレてはない。そう思うと自分の言葉に自信を持てた。
「犯人とか、犯行理由とか、方法とか、そんなのどうでもいい。私は、真皓の行方さえ判ればそれでいい。生きているのか、死んでいるのか。もう記憶の中だけの存在なのか、また触れることができる存在なのか……」
そして、何よりも――
俯いたまま、両拳を強く握りしめる。
「ごめんって言いたいの」
「そっか、じゃあ私はここで絵を少し描いてから帰るよ」
残念そうな絵美の顔に罪悪感を感じたけれど、私は手を振った。彼女は笑顔で手を振り返すと、準備室の方に消えていった。
私は彼女の後ろ姿を見送ってから美術室を出て携帯電話を取り出す。
通話記録を開いて、真皓が失踪した日の履歴を呼び出す。
あの日打ち込まれた番号は、すぐに出てきた。
発信ボタンを押して耳に当てる。
ひとつ、ふたつ、みっつとコールが鳴るのを、私は息を呑んで聞いていた。誰もいなくなった美術室から少し離れた廊下の隅に座り込んで待ち続ける。
『もしもし』
電話が、繋がった。
「突然のお電話すみません」
私の言葉に、彼は暫く沈黙する。
『……君か。以前私に電話してきた子だね』
「はい、咲村朱色と言います」
スピーカーの奥で溜息が聞こえた。
『それで、今度は何の用かな』
「できれば、直接お話しがしたいのですが、お時間をいただくことはできませんか?」
『話とは?』
彼の問いかけに、私は息をごくりと飲み込む。
足が震える。心臓の鼓動する音がやけに大きく聞こえる。胸元に手を当てて、私はもう一度深呼吸をしてから、あの日、葬式の時の真崎先生の姿を思い出しながら、言った。
「ねむりひめに関する事です」
返答は帰ってこない。
私は続ける。
「ねむりひめは、人の記憶を糧にする生物だそうです。どういった原理かは分かりませんが、彼らは餌を見つけるとそれらを引きずり込んで食べてしまう」
無言
「先日、私も被害に遭いました。なんでも彼らはマイナスな感情を強く持っている人間の記憶を好むとか。『悲劇』とかそういう類の体験者なら尚更危ない」
返答は無い。
「それで、ふと思ったんです。失踪者である弟を探す私に魅力を感じたのなら、私よりも更に大きな別れを迎えた人はどうなるのだろうって」
『……妻を失った私も襲われたかもしれない、と?』
漸く彼は言葉を口にする。
「そうです。私はこの原因を探って、ねむりひめを地上に引きずり出したいと思うんです。真崎先生のここ数日間の出来事を知ることができたなら、何かつかめるかもしれない。協力、して頂けませんか?」
暫くの間、再び真崎先生は沈黙した。彼の返答次第で状況は変わっていく。
危険は承知の上だ。安全を確保したままで何かを成せるほどこの事件は簡単じゃない。ましてや一介の女子高生にそんなことできない。
飛び込むしかないのだ。私にできることはそれくらいだ。
『……校内にまだ残っているのかな?』
「はい」
『なら屋上に来なさい。普段は開放していない場所だ。そこなら誰かが来る可能性も少ないだろう』
それだけ告げて、彼との通話は切れてしまった。番号だけの表示されたディスプレイをじっと見つめるながら、私は無意識に入っていた肩の力を抜く。
――可能性は二分の一。
吉と出るか凶と出るか。鬼が出るか蛇が出るか。少なくとも、真崎葵はなんらかの形でこの件に加わっていると思う。失踪事件を執拗に追い続ける私が餌として認識されたにも関わらず、奥さんを亡くした真崎先生に何も起こっていないとは考えられない。
預かった姪の存在もそうだ。ここ数日間、あまりにも偶然が横行しすぎていて気持ちが悪すぎる。この中のどれが偶然で、どれが必然的であったのか。その一つ一つをうまく繋ぎ合わせた先に、真皓がいる。
突然の体調不良からの欠勤。
大幅に遅れての出勤。
あの間に、何かあった筈だ。いや、そこで何も無かったならもうそこまで。真皓にもねむりひめにも辿りつけず、いつ喰われるかを気にし続ける生活を送るしかなくなる。
携帯の電源を切って、ポケットにしまい込む。父から連絡が入る可能性だってあり得なくはない。部活に行く口実だっていつまで通用するか分からないし、念には念を入れておきたい。
私は屋上への階段へ向かうために立ち上がると、踊り場への道に目を向けた。
「やあ、朱色」
モッズコートの青年は私の名前を呼ぶと、壁に身体を預けながら手を振る。上げそうになった悲鳴を手で抑え、私は思わず身構える。
「貴方、なんで」
「君に会いに来たわけではないんだが、どうにも僕が向かう先と君が向かう先は交じり合う事が多いみたいでね。全く不思議な縁だ」
彼はポケットから手を抜く。その手に握られているのは、一丁の銃だった。
彼は私に銃口を向けた。あまり武器の類を知らない私でも分かる。あれは恐らく本物だ。彼なら持っていてもおかしくない。引けば、私の身体はいともたやすく撃ちぬかれて、当たりどころが悪ければ死ぬかもしれない。
どうする、この状況で私は一体どうすればいい。手元には鞄しか無いし、投げつけたとしてもダメージはおろか、怯ませることもできるか怪しい。いや、むしろ投げる動作に入る前にきっと引き金は引かれる。彼は自分にとって都合の良いことだけを行うと言い続けている。私の死によって彼の都合が良くなるのなら、迷いなく私を殺すだろう。
ならば、今ここでただ銃口を向けられ、威嚇されているだけの状況はなんだろう。私は思考を巡らせる。
威嚇に留まっているのは、まだ彼にとって私の死が一番都合の良い状況にはなっていないから。
「私を、撃つ気ですか?」
「そうだな、君が僕の邪魔になる可能性も今は捨てられない。かといって互いに望んだ結果を手に入れることができる可能性も無くはないんだ。状況によるね」
やっぱり彼は、まだ私を殺すつもりではない。
「じゃあ、何故私にそれを向けるんです?」
私が問いかけると、彼は微笑んだ。
「ねむりひめという存在は、記憶を餌に行動するところまでは説明したね」
「はい、聞きました」
「ねむりひめは記憶を喰ってその身に蓄えると、それらを自由に引き出せるようになる。例えばパスワード、恋人との秘め事、生まれてから現在まで起こった出来事を自由にね」
「そんな事まで……?」
銃口は決して動かさないまま、彼は頷いた。
「ねむりひめは知識を蓄えていない状態では最弱だ。餌の狩り方も知らない、襲い方も分からない。だから、その際に彼らは宿り主を探すんだ」
「人間、ですか?」
肯定。
「彼らはその際に『人間が自分に貢ぎたくなる』ような姿で現れる」
大体話が見えてきた気がする。しかし、そうするとやはり真崎葵は――
「なんで、そんなことを私に教えるんですか?」
私は率直な疑問を彼に向ける。青年は何も言わず手にしていた銃をポケットに突っ込み、嘆息して右の爪先で地面をこん、こんと打ち鳴らした。
「君は、美しさってなんだと思う?」
「え?」
突然の彼の問いがどうにも理解できずに立ち尽くしていると、彼は微笑んだ。
「僕はね、美しいものを愛したいんだ」
彼はそう言って肩を竦める。
「外見的なものでは決して無いよ。分かっていると思うけど」
「それは、自分の欲に解放的な人って事ですか……?」
「大体あってる」
彼は銃を突っ込んだ手を再びポケットから出した。その手にはシガレットケースが握られていて、彼はそこから一本取り出すと咥える。
「煙草、吸うんですね」
「ああ、そういえば君と会った時はいつも出してなかったっけ。煙は嫌いかい?」
「いえ、別に気にしませんけど……。一応ここ、学校ですよ?」
「生憎ここの生徒ってわけでもないから多目に見てくれ」
彼は煙草に火を点けて大きく吸い込むと、濁った白色の煙を吐き出す。その煙は薄暗い廊下にふわり浮かぶと、やがて霧散して消えた。
煙草を吸う彼の姿は、どこか淋しげで、しかし画になった。絵美が見たら早速題材にして書き出すかもしれない。
「なんで私に、銃を向けたんですか」
「死ぬって実感をちゃんと感じさせたかったんだ。でも効き目が無くて残念だ」
「どうして」
続けて言った私の言葉を、彼は理解しているようだった。吸って吐くだけの喫煙を終えると彼は吸殻を窓の外に投げ捨て、煙草のケースをしまった。
「僕が言うのもなんだけれど、君は今とても狂っている」
突き付けられた言葉に、私は奥歯に力を込めた。
「きっと色んな非現実を見てきたせいで感覚が麻痺しているんだ。死ぬつもりは無いように見えるけど、どこかで君は『きっと死にかけても助かる』と思っている。あの時助かったみたいにね」
何か言おうと思うけど、言葉がうまく出てこない。狂っているという一言に思いの外ショックを受けてしまっているみたいだ。
「真崎葵に会いに行くのは構わない。でも彼はきっと待ってくれるだろう。先に僕の問いかけに対して応えては貰えないかな」
私は後ずさる。なんでいけないのだろうか。姉が弟を探し出したい。喧嘩したことを謝りたくて、彼の結末を納得したくて。
「君はここまで色んな人から色んな言葉をもらってきた。けど、それが活かされるのは、君が『まとも』であった場合だけだ。今の君はとても歪んでいる気がするんだ」
なんだ、私は何故突然追い詰められた気分になっているのだろう。いつも通り、他の人に尋ねられたみたいに言えばいいだけじゃないか。喧嘩した弟に謝罪したいと、それだけの理由だと。そう言えば良い。
彼のその全てを見透かしたみたいなその言葉に私は酷く動揺している。何故彼はこんなにも私のことを知っているのだろう。
彼が開けた窓から冷たい風が吹き込んで、私の顔を撫でる。刺さるように冷たかった。
彼はもう一本煙草を取り出し、火をつける前に一言、私に告げた。
「君は、僕になってしまいそうだから」
三
短髪で、鼻筋も通っていて、私と同じつり目でもむしろその鋭い視線が魅力的だった。家族にも献身的で情も厚い。運動好きで、興味を持ったことには努力を惜しまない。
咲村真皓は、好青年という言葉をそのまま形にしたみたいで、私を含めて父も母も皆、彼の事をとても愛していた。
私からしたら彼はどこまでも魅力的で、自慢で、だからこそ大事な存在だった。
ただ貧乏くじを引く事が多く、その結果努力が無下になる事も少なくなかった。受験だってそうだ。些細な事で彼は雪浪高校を落としてしまい、一つ下のランクの高校に彼が行くことになってしまった。
どうして私より容量の良い弟が、私よりも下にいるのか。運の良し悪し一つで決まっていい事じゃないと悲しむ私に、彼はただ「仕方ないことなんだ」と笑っていた。一番悔しいのは自分なのに、彼は決して悲しむ姿を見せようとはしなかった。
入学後も真皓は腐ることは無く、勉学も学校生活も精一杯楽しんでいた。父も母もそれを見て安心していたし、私もとても安堵した。
そんな彼に、恋人が出来た。
一つ上であることは教えてくれたが、それ以上は彼女の方からまだ秘密にしてほしいと言われたようで、どんなに私や家族が尋ねても口を割ることは無かった。家でそうなのだから、多分校内でも秘密にしていたのだろう。いや、もしかしたら恋人すらいない体で過ごしていたのかもしれない。生真面目な真皓なら無くはない話だ。
どんな状況に置かれても精一杯生き抜く彼を私は尊敬していたし、願わくばこれを機に彼の進む先が明るい方向になる事を願った。
――けど、その願いは容易く裏切られてしまった。
普段より少し早く起きた私がリビングに降りて行くと、既に着替えた真皓がソファに座っていた。何時も時間一杯まで寝ているのに、珍しいなと思いながら、まあ少し早起きしたい日もあるのだろうと思って、おはようと声をかけてコップ二つ取り出すとオレンジジュースを注ぎ入れて、ソファに座ってテレビに視線を向けたままの彼の前に置いておいた。テーブルには既にミルクを飲み終えたコップが置いてあって、私はしまったな、と思いながらも気にせず置いておいた。
よく見ると真皓の目元は酷く腫れていて、目も充血しているのが分かった。思い切り泣かないとならないくらいの腫れだ。
私は驚いてどうしたのかと尋ねた。
けれど真皓はちらりと私のことを見て、それから再びテレビに視線を戻すと、なんでもないとだけ言った。でも、それだけ目を腫らしておきながら何でもないわけは無いだろうと、私はもう一度、本当に何もないのかと確認してみた。
真皓は暫く私の事をじっと見つめ、首を振った。
彼の異変に首を傾げながら、今はきっと、そっとしておくべきなのだろうと思いそれ以上は何も言わなかった。
彼女と喧嘩でもしたのかもしれない。なら私に入る余地は無いし、相手の事も知らない私には何も言えない。
そう思って隣に座ると、彼はそういえば、と話題を切り出した。
「真崎葵の奥さんが亡くなった時さ、葵さんだっけ、あの人は全然泣いてなかったよね。あれはどうしてなんだろう」
「そんなの、私にわかるわけないじゃない」
そう答えると、彼は更に質問を口にした。
「もし自分が同じ状況に立ったら、自分の親しい人間が死んだら、姉ちゃんは泣ける?」
「突然どうしたの」
突然の問いかけに私が戸惑っていると、彼は微笑み、それからあの一言を口にした。
「俺が死んだら、姉ちゃんは泣いてくれる?」
気がつくと、私は思い切り弟の右頬を叩いていた。全くそんなことするつもりなかったのに。
暫く呆然としていた真皓は、私をちらりと見て、それから自分の頬に手を当てると、しばらく目を閉じて、それから立ち上がってリビングを出て行ってしまった。
私はハッとして閉じていく扉に駆け寄り、廊下へと顔を出す。真皓は玄関で靴を履いているところだった。私は、手に残るじんじんとした熱をぎゅっと握り締めると、真皓に向かって吠えた。
「馬鹿なこと言わないで!」
その言葉に、彼は動きを止め、振り返り、それから哀しそうに俯くと私から目を逸らした。
「死ぬなんて、冗談でも言うな」
言いたいことは沢山あるのに、それしか出てこない。私に罵倒されている間真皓は何も言わなかった。
彼は玄関を開ける。紺色のブレザーを纏った黒髪の短髪。肉付きがよく服越しにも体格の良さがわかる。
「いってきます」
彼は、こちらを振り向かないままそう告げた。
「……うん」
私が頷くと、彼は玄関の扉を閉めて、行ってしまった。
結局、真皓はこれ以降ただいまと言って玄関に戻ってくることは無かった。何度電話を掛けても、両親が探しまわっても、連絡はおろか高校にも登校していない事がわかり、やがて失踪事件として警察の管轄となった。
真皓は、道の真中で消えた。
―――――
全てを話し終えると、モッズコートの彼は小さな拍手をする。素晴らしかったと言う彼の顔は満足気だった。
どうしてこんな話をすることになったのかは分からない。けど、多分必要だと感じたからしたのだろう。青年の「僕になってはいけない」という意味を知りたかったのもあった。この出来事の中で、私が本当に彼になる可能性があるのか判断して欲しかったのかもしれない。
「君は真皓くんの事が好きだったんだね」
その言葉に、少し顔が熱くなった。
「でも今の話で分かった。君と僕は似ていただけだ」
「そっか」
彼の言葉に、少しだけ安堵している自分がいた。
「真崎葵に会ってくるんだろう? 行ってくるといい」
彼はそう言って背を向けた。窓越しに差し込む月のひかりを浴びた彼の後ろ姿は、儚げで、抱きしめたくなる背中をしていた。でも多分その役目は私ではない。
「ねえ、貴方の名前って……」
私の言葉に彼は振り向くと、笑っているような、泣いているような、そんな判別しにくい表情を浮かべる。
それ以上先は言うべきじゃないと思った。きっとそれは事実なのだろうけど、彼に確認すべきことではない。
私は踵を返すと踊り場へと走り出す。
「その化粧、僕は好きだよ。特に目元がね」
振り帰ると、彼の姿はもう無かった。月夜に照らされた廊下が続くだけだ。
自分の顔に手を触れる。ファウンデーションのざらりとした感触があった。
窓に映る自分をじっと見つめて、彼女に向かって私はにこりと笑いかけてみた。映る彼女も私に笑い返してくれる。薄く塗られたチークと、紅色をした唇がきゅっと上がる。
大丈夫、今の私なら大丈夫。
窓から目を離し、踊り場へと向かうと、階段の先を見つめる。切れかけた蛍光灯がちらちらと光っている。下校した道の街灯も、確かこんなふうになっていたなあと思いながら、私は一度深く深呼吸して、一段目に足を掛けた。
その時、甲高い悲鳴が聞こえた。
階段の先からだ。私は一段飛ばしで階段を駆け上がる。手すりを掴んで身体を引っ張りあげるように力を込めて二階、三階と上がっていく。流石に息が切れて途中の踊り場で私は立ち止まってしまう。荒い呼吸をどうにか整えようと背中を丸めて身体を揺らす。
――そういえば、あの声って。
突然脳裏に若苗萌黄の顔が浮かぶ。もし悲鳴を上げたのが彼女だとしたら、藤紅淡音の件も真崎先生と関連していたことになる。
あの先で、何かが起こっている。階段の先の、屋上へと繋がる扉を見上げ、私は一度深く呼吸をすると再び階段を駆け上がる。
重たく佇む扉のノブに手を掛け、私は全身を使ってその扉を押し込んだ。錆びついた蝶番が呻くように軋む。
冷たい風が吹き込んでくる。私は突風じみた風に目を細めながら屋上に飛び出した。
「今日はお客さんが多いのね」
それは、私の想像していた光景とは少し違っていた。
若苗萌黄が、地面に呑み込まれている。
まるで液体のように波打ち波紋を起こしながら、コンクリートの床に彼女が消えていく。
そんな若苗萌黄を見て、向かいに立つ少女は腕を組んだまま笑っていた。真崎葵は萌黄を気に掛けながらも、彼女からは決して視線を外さない。
少女は風で乱れた髪を掻き上げると、にやりと私に笑みを向ける。
「ああ、叶わないものにしがみ付いてる人ってほんと素敵……こういうのって儚いって言うのよね。真っ黒くて甘くて、それでいて胸が苦しくなるくらい濃厚で……とても美味しそう」
「藤紅、淡音……」
真崎葵の言葉に、私は目を見開く。
あれが、藤紅淡音?
真皓と同じ被害にあったとばかり思っていた。
少女は真崎先生に呼ばれるととても嬉そうに目を細め、顔を傾いでみせる。
「君は、咲村朱色さんかな」
私が頷くと、彼はどこか安心したようだった。
「君とは一度深く話をしておきたいと思ったんだが、どうにもそんな時間は無さそうだね」
なんだ、一体何が起こっているのか。
私の描いていた真相と、何もかもが違っている。
何故藤紅淡音が居るのか。
何故真崎葵の方が襲われているのか。
「みどり、彼女のもとへ行ってくれ」
傍でじっと藤紅淡音を見つめていた少女は、真崎葵の顔をじっと見つめると、小さく頷いた。
次の瞬間、まるで若苗萌黄の消えていった波紋の中に飛び込むと、ずぶずぶと沈み込んで消えてしまった。
「何、これ……?」
非現実的な出来事に思考がついていけない。
確かに私も同じ目にも遭ったけれど、こうして客観的に見てしまうとやはりどうにも信じ難い光景だった。
「せん、せい……」
私の言葉に、真崎先生は頷き、そして、口を開いた。
「そうだよ、みどりは、君の言うねむりひめだ」
真皓、真皓は一体今どこにいるのだろう。
私は右手をぎゅっと握り締めると、胸に当てる。あの時衝動的に弟を殴ったこの手に、まだ彼の熱が残っているような気がする。
モッズコートの青年。
笑う淡音。
消えた萌黄
ねむりひめと真崎先生。
どうして、真皓だけここにいないんだろう。
私は、真皓に会いたいだけなのに……。