30話 緋に染まる大河
ナルヴィア大河は緋色に染まっていた。
レドフィンのブレス攻撃が頭上に降り注ぎ、甲皇軍兵士たちは恐慌状態に陥った。戦死者多数、負傷者も数えきれない。凍結していたナルヴィア大河が融解したことで、あちらこちらで孤立して身動きが取れなくなっている部隊も多い。
それでも近代的な指揮系統を有する甲皇軍は立ち直りも早く、ゲル大佐が不在の中でも部下たちが懸命に体制を立て直そうと指揮を執っていた。
「あいつは…! 私の眼を奪った赤い竜!」
中でも、ゲルの部下の女性士官、甲皇軍参謀スズカ・バーンブリッツ大尉の働きが目覚ましかった。
彼女もまた“竜の牙”による被害を受けた一人で、顔の左半分に無残な火傷跡を残している。それさえなければ二十代半ばの妙齢の美人だというのに、台無しという具合に。
(見ていて、パパ…! 今度こそあのキモいトカゲ野郎を…!)
スズカの父バーンブリッツは、我が子に軍人としての生き方を選択して欲しくはないと願っていた。ホロヴィズの側近として甲皇国でも高名な軍人として知られるバーンブリッツだが、若い頃は最前線で死ぬ思いを幾たびもしてきた。だから子供が生まれても娘なら戦場に出なくて済むと思っていたが、娘が父に憧れて軍人の道を志した時、せめて前線には出なくて済むようにと後方の参謀本部へ推薦した。後方であれば一般女性と同じようにそのうち良縁に恵まれて寿退役することもあるだろう、と。
「撃て、撃て! 奴を撃ち落とした者は黄金骨騎士勲章ものだぞ!」
スズカのヒステリックな絶叫が戦場に響き渡る。
バーンブリッツの願いとは裏腹に、“竜の牙”の災禍がスズカを変えてしまった。
レドフィンに受けた顔の傷が、恋をして結婚をして子供を産んで…といった一般女性としての生き方をすることを、スズカの脳内から完全に消し去った。
それまで軍人としては未熟で甘えが残る女性士官だったスズカだが、冷徹で自分にも他者にも厳しい鬼士官へと変貌を遂げた。竜人への復讐心がために。
参謀にも関わらず、スズカは前線の砲兵隊の士官や兵卒に的確な指示を下していく。これはスズカがゲルの部下であるおかげだった。
甲皇軍第一打撃軍が最強とされる理由の一つ。それは、どこの軍団よりも兵卒は練度も士気も高く、士官にも高度な教育が施されていること。尉官クラスの士官でも佐官相当の指揮能力を有しているのだ。おかげでゲルは部下のことは気にせず、本人の高い戦闘能力を躊躇なく前線で振るうこともできた。ゲルが倒れても、スズカが倒れても、代わりの者が軍の指揮を執ったであろう。要は地力が違うのだ。
スズカの指揮で、体制を立て直した甲皇軍砲兵隊が弾幕と言えるほどの対空砲火を浴びせかけるまでそう時間はかからなかった。
「ちっ……うっとうしい連中だ」
これには戦場の空を我が物顔で羽ばたいていたレドフィンも舌打ちする。
固い竜の鱗は、小銃の弾程度なら弾いてしまうが、大きな砲弾となると無傷とはいかない。
ブレス攻撃をするには空中で停止して溜めの動作をしなければならないので、砲撃を回避しながらでは難しいのだ。
レドフィンのブレスを封じたことで、地上戦も甲皇軍にとって優位に働いた。
凍結した河川もすべてが溶かされた訳ではない。渡河作戦は続いていた。
ナルヴィア大河北岸沿いのトーチカ群からは矢や銃弾が雨のように斉射されていた。身を隠せるような遮蔽物が何もないので、トーチカへ近づこうとする甲皇軍兵は易々と斃されていく。
「恐れるな!」
そんな中、激を飛ばしたのはゲル・グリップ大佐だった。
「大佐!? 生きておられたのですか!」
「当然だ。ちょっと服を焦がした程度よ」
ゲルはレドフィンのブレスをまともに受けたように見えたが、すんでのところで川の中に潜って難を逃れていた。
「さぁ、この渡河を成功させ、この戦争を終わらせるぞ!」
「り…了解であります!!」
ゲルはボロボロとなった軍服のジャケットを脱ぐ。傷だらけのその上半身は、膨れ上がった筋肉を隆起させていた。この寒さだというのに何も感じないのか、体から湯気まで立ち上っている。
余談だが、この時のゲルの姿が印象的だったということで、甲皇国・SHW合同製作でその様子が演劇化され、「鉄拳ゲル~怒りのナルヴィア~」というタイトルで世界的な大ヒットを飛ばすのだが……それはまた別の話である。(更に余談だが差別的表現が多いということでアルフヘイムからはクレームが殺到した)
「敵はアルフヘイムの弱兵だ。ケツでも蹴っ飛ばせば泣いて逃げ出すぞ!」
頼れる上官ゲルの指揮により、甲皇軍はがぜん士気を取り戻してトーチカに押し寄せる。
対するクラウスの部下ニコロが率いるクラウス軍主力部隊も、トーチカにこもりながら粘り強く防衛するも、甲皇軍の数に押されていく。徐々にトーチカは破壊、奪取されていった。
やはり、正面衝突で力と力のぶつかり合いとなれば───。
アルフヘイム軍は正面からでは勝てない。
クラウスもそれは十分に分かっていた。だからこそ義勇軍時代からずっと奇襲やゲリラ戦に重きを置いてきたのだ。ボルニアという盾が無い今、ニコロがいくら頑張ったとしても余り長くは持ちこたえられない。
(時間が無い)
擦り切れたシャツの袖で、クラウスは額の汗をぬぐった。袖にハートマークの刺繍が縫い付けられている。いつも身に着けるものは恋人のミーシャにつくろってもらっていた。
(ミーシャ、俺を守ってくれ…)
戦いを終わらせ、恋人の元へ帰るためにも…。
今、ここで敵の総司令ユリウスを討たねばならない。
ユリウスの周辺には僅かな兵士しか配置されておらず、それらもクラウスとその仲間達によって切り伏せられていた。
ユリウスと対峙するは並々ならぬ剣気を放つ三人の剣士……エルフの老剣士シャム、エルフの女剣士アリアンナ、SHWからの人間の中年傭兵ダンディ。
軍事的天才ではあるが個人としての強さは大したことはないクラウスを除き、いずれも凄腕として名高い三人の剣士である。
噂に聞くユリウスの強さが本物だとしても三人がかりならば勝てるはずだ。
クラウスもそう計算していたし、三剣士もそのつもりで剣を構えていた。
「分を弁えぬ者どもめ」
漆黒のマントがバタバタとはためている。マントの奥から傲岸不遜に口端を歪め、三剣士を嘲笑っていた。
脂の乗った男盛りの三十歳。威厳のある髭面に、堂々たる巨躯は服の上からでも筋肉の隆起が分かるほど固太りし、皇太子という高い身分に相応しい上質な黒衣で身を包んでいる。
皇太子という地位にありながら個人としての戦闘力も高いと噂されるが、プロパガンダであると見る向きもあり、実際のところを目撃したアルフヘイムびとは皆無。これまでもまず前線に出てくることはなかった。
すらり、ユリウスは腰の長剣を抜く。何とも不気味なことに、柄に甲皇国の紋章である髑髏が装飾され、刀身が闇を塗り固めたように黒かった。ただの長剣ではないのだろう。かつてユリウスは“竜の牙”でレドフィンの尻尾を切り落としたという。鉄より硬い竜の鱗を易々と切り裂くことができるのだから、切れ味は相当なものに違いない。
空気が張り詰める。
剣が得意という訳ではないクラウスでさえ理解した。
ユリウスの剣気が並々ならぬということを。プロパガンダなどではく、確かな強さを。
シャムが、ダンディが、アリアンナが気おされていた。
「どうした…? かかってこないのか」
ただ、剣を構えているだけのユリウスに対し、三剣士は一歩も動くことができない。
(───これは、あの時のゲオルク以上の……)
シャムは瞠目した。かつて、天空城アルドバランにおいて、彼がこれまでの長い人生で戦ってきた中では最強の剣士と対峙した時よりも。今のユリウスのプレッシャーが勝っていたのだ。
「───風の精霊よ、あたしに力を、敵を打ち倒す力を!」
ユリウスのプレッシャーに耐え切れず、そう叫んだのはアリアンナだった。叫ばなければ動けなかった。動けないまま殺されると、衝動的に思ったのだ。
「いかン! アリアンナ!」
制止するシャムの声も聞かず、アリアンナはユリウスにおどりかかった。
アリアンナはアルフヘイム軍で一騎当千とされる精霊剣士である。精霊樹より力を付与され、常人離れした強靭な肉体、力と素早さを備える。女剣士というくくりで言えば、ホタル谷の戦いで奮戦した上に戦死したエイルゥとも同等の戦闘力はあるとされていた。
エイルゥが炎であれば、アリアンナは風。
「ハアァァァ!!!」
裂帛の気合と共に、アリアンナはレイピアによる鋭い突きを繰り出した。まるで砲撃のような突きであり、剣圧による衝撃波が螺旋状に放出される。
ユリウスはその巨体に似合わぬ素早さで、易々とそれをかわしてみせた。
ユリウスが元いた場所が爆撃を受けたように土がめくりあがった。アリアンナの突きの衝撃の凄まじさを物語る。が、かわされたことでただ土煙を上げてアリアンナの視界を遮る。
「……!」
突きのモーションの大きさが災いして、アリアンナの腕が伸びきって体が硬直しているところへ。
ユリウスが黒剣を横凪に払った。
「危ない!」
すんでのところで、ダンディがアリアンナを押し倒してユリウスの黒剣から逃れる。
だがダンディもただでは済まなかった。ユリウスの黒剣には触れてはいなかったはずなのに、その禍々しい黒剣からほとばしるオーラのようなものがダンディの体を痛めつけた。
「ぐぅ……」
アリアンナの体を抱きかかえつつ、ダンディの顔には大粒の汗がびっしり張り付いていた。
(まさか、これほどのレベルの差が……)
名だたる剣士が三人がかり。圧倒的に有利と思われた戦いだが。絶望感が押し寄せていた。
「個々に戦っては勝ち目がないゾ…」
シャムが歯ぎしりをしてそう呟く。
「そうだ。まとめてかかってこい…」
ユリウスが不敵に笑う。
「貴様ら凡夫どもには、矮小で薄汚いエルフ共には、そうすることでしか私には抗えぬだろう」
「何を…!」
アリアンナが歯ぎしりをする。老獪なシャムとダンディは力の差を認めて冷静であるが、彼女はまだ若い。
「落ち着ケ、アリアンナ」
再度、シャムが叱責する。ぞっとするほど冷たい目をアリアンナに向けていた。シャムの眼はどうなっているのか黒目と白目が逆になっており、まるで魔物のような迫力がある。
アリアンナはシャムの眼光にも気おされ、口をつむぐ。
「フン…凡夫と言ったカ」
シャムが、そのぞっとする冷たい目をユリウスに向ける。
かつてアルドバランで対峙した剣の好敵手と比べても、確かにこの男は驚くほど強い。
「だが、笑わせてくれル。貴様のような男が皇太子だト!? 血を求め、殺戮を繰り返し、亜人を滅ぼし、人だけの世を作ろうとする貴様ガ!」
「その何が可笑しい…? 言葉もろくに話せん下等民族が」
「貴様の“父”は違ったゾ!」
「この───」
ユリウスの顔色が変わる。額に青筋を立て、黒剣を横凪に払う。禍々しいオーラが放たれるが、大雑把な狙いだったのでシャムや他の者達は易々と回避する。
「真の王ハ、貴様のような“悪”には務まらヌ。誰も、おヌシのような男にはついていかんだろう!」
「王だと? 無礼な! 私は皇帝となるのだ!」
めちゃくちゃに放たれるユリウスの黒いオーラだが、シャムにはかすりもしない。力ではかなわないにしても、素早さではシャムに分があった。
「まったくもって、人間族というのは……」
シャムは嘆息した。
「───甲皇国が成立するずっと昔、かつてミシュガルドと呼ばれる伝説の大陸があったガ……」
その単語に、ユリウスは剣を止める。
「貴様……随分と詳しいようじゃないか。何だ、何を知っている!?」
「良かろウ。少し昔話をしてやるとも」
そう言いつつ、シャムはクラウスに目配せをする。今のうちだ、と。
「───かつて、この世界は一つだった。今では三つに分かれてはいるが、アルフヘイム、甲皇国、SHWとその三つの大陸を合わせたよりも更に巨大な一塊の超大陸だった。それがかつて、ミシュガルドと呼ばれた存在」
「……!」
ユリウスが顔色を変え、黙って聞いている。シャムは歌うように続ける。別人が乗り移ったかのように、いつもの片言っぽい口調とは違う。
「……ミシュガルドは平和そのものだった。楽園と言ってもいい。エルフ、ドワーフ、ホビットなどなど、全ての者が善良で、様々な種族に分かれてはいたが、皆が助け合って生きていた。人種による差別、抑圧も無かった。そう、忌まわしき人間族が現れるまでは……。新しい種族である人間族が出現すると……。人間族には善人もいたが悪人もいた。強い繁殖力、底知れぬ欲望を持っていた。その人間族の特性は他種族へまで影響を及ぼした。ために、それまで平和だったミシュガルドは一変した。全ての種族が差別し合い、欲を満たし、人が人を支配することを覚えた。人間族の影響を受けたエルフやドワーフらは、人間に対抗するために自らも武器を取った。国ができ、様々な魔法や、科学技術が進んだ。すべては互いを滅ぼしあうために。そして遂には───」
「……世界は滅びた」
「そうダ! 知っているのではないカ! ミシュガルドは沈み、世界は三つに分かれたのだ。貴様がやろうとしているのは、それと同じ過ちなのだゾ!」
「フン……それがどうしたというのだ」
ユリウスは笑った。あくまで傲岸不遜に。
「人は戦わねば進化は無い。平和だと?楽園だと?そんなもの、毒にも薬にもならぬわ。この世は淘汰の繰り返し。戦いが進化を促すのだ。ゆえに、戦うことが生きる者のさだめ! ならば、そのさだめを果たさずして、どうして生きていると言える!」
「その驕り、その悪、やはり生かしてはおけぬナ…」
「できるのか、貴様らごとき亜人などに───」
「貴様のようなやつを殺すことが、かつてのミシュガルドの係累のさだめなれば───」
シャムは言わなかったが、彼はエルフの中でもとびきり長寿であり、いつから生きているかも分からない人物だった。その魔物のような眼と言い、ミシュガルドに関係するのは明らかなのであるが。
言葉はもうかわす必要はない。
ユリウスと三剣士は互いに最後の勝負をしかけようとしていた。
尋常ならざるプレッシャーが互いの間をびりびりと痺れさせ、空気が震えていた。
刹那。
アリアンナが右に、シャムが左に回り込む。
そしてダンディが大剣を振りかぶり、正面からユリウスへ向かって突きを繰り出した。
三剣士が同時にユリウスに切りかかる。
「ハァッハァッハァッハーーーー!!!」
ユリウスが哄笑する。
右に、左に、正面に。目にも止まらぬ速度で剣気が繰り出されていた。そう、刃そのものが触れた訳ではない。剣からほとばしるオーラ。目に見えて禍々しく黒いそれが三剣士を襲ったのだ。
「こんなことが……!」
「チート野郎め…!」
「ウ、ウヌゥ」
地べたを舐めて倒れる三剣士は、もはや立ち上がることもできない。
それと共に、ここに至って彼らはユリウスの異常性にも気づいていた。
いくらユリウスが強いと言われていても、納得がいかなかった。奇妙なことに、“まるで自分たちの方が弱い”ように感じる強さなのだ。
純粋に強いというよりは、何か異次元の領域で戦わされているというか、対等な条件では絶対にない理不尽さを感じていた。
だが、そのユリウスの力の謎を探ることもできない。
もはや勝負はついた。
そう、誰もが思った時だった。
「うおおおおお!」
不意に、クラウスが指揮杖を手にユリウスにおどりかかった。
何を無謀な、ユリウスはあっさりと返り討ちにするつもりで剣をふりかぶろうとして───。
「危ない、若!」
背後のホロヴィズが叫ぶ。
経験豊富な歴戦の将軍ホロヴィズは、それを見たことがあり、何であるかも知っていたのだ。
ユリウスはホロヴィズの声で思いとどまる。近くで倒れていた既に死体となっている兵士を片手で拾い上げ、クラウスに向けて放り投げる。
クラウスの指揮杖からほとばしった光線が、その死体の兵士の体を貫いた。
光線は兵士の体を貫通し、ユリウスの頬をかすめて背後の岩まで砕く。
それは、クラウスがアルフヘイムの将軍アーウィンから譲り受けた必殺の“即死魔法の杖”だったのだ。
「……ちぃ!」
クラウスは舌打ちした。あと一歩のところだったのに…。残念ながら、即死魔法の杖は一度きりしか使えない。杖はぼろぼろに崩れてしまった。
ゾッとした表情をユリウスはする。
苛烈な皇位継承権の争いがあった頃から数十年ぶりに、彼は死の恐怖を覚えていた。
咄嗟に、クラウスから距離を置こうと、ユリウスはクラウスを蹴飛ばした。数メートルは吹き飛ばされ、クラウスは地面に叩きつけられる。
「……っ!」
ユリウスは頬に熱さを覚え、手を当てる。べっとりと赤黒い血が。
即死魔法の光線がかすめたことで、ユリウスの頬から一筋の血が流れ出ていた。
「ふ、ふはははは! よくもやってくれたものだな! このユリウスの、甲家の貴い血を流してくれるとは!」
ユリウスの眼が血走っていた。完全に怒り狂っている。
「下劣で! 無能で! この世に一匹も生かしておく価値もない! エルフの割には良く頑張った! だがここまでだ。万策尽きたであろう!」
「……ここまでか」
クラウスは腰の剣に手をかける。無駄と分かっているが、最後まで抵抗は。
「では、今、楽にしてやろう……」
ユリウスが大きく黒剣を振りかぶろうとして……。
ふと、ユリウスは瞠目する。
頭上にレドフィンが迫っていたのだ。
急降下してきたレドフィンが、巨大な爪を突き出し、自身に襲い掛かってくるではないか!
無理をせず、ユリウスはそのレドフィンの突進を正面から受け止めることはしなかった。ひらりとかわして後退する。
「これはこれは」
ユリウスはレドフィンの姿を認めると、不敵な笑みを漏らした。
「あの時、しっぽ切りで逃げ出した無様なトカゲじゃないか」
「……!」
その侮辱に、レドフィンは赤い目をぎらつかせる。
普段のレドフィンであれば、ここで我を忘れて突撃したことであろう。
だが今の彼は違っていた。今は戦争なのだ。さしもの彼も、独断専行が過ぎて、甲皇国本土を襲ったり、南方戦線で独力で戦おうとしたことが裏目に出たのは身に染みていた。
何より今は、クラウス、シャムなど。自分を認めてくれた者達が傷つき倒れている。
今、この場で戦えば、例えユリウスに勝てたとしても…周囲の甲皇国兵士が押し寄せてくるのは時間の問題である。クラウスもシャムも捕らわれるか殺されるだろう。
「……テメェとの勝負は後でとっておく」
レドフィンは傷ついたクラウスやシャム達を抱きかかえると、そのまま羽ばたいて上空へと逃れようとする。
それは、レドフィンにしては大変な決断だった。彼が初めて自ら引くことを覚えた瞬間でもあった。
「逃げるのか、哀れなトカゲめ…」
ユリウスは黒剣を構える。逃すものか、撃ち落としてやる。
そう、黒剣のオーラでレドフィンを薙ぎ払おうとしたが……。
「若」
背後のホロヴィズが声をかける。
「なんだ、じい。今、いいところなんだが」
「本国から緊急通信が入っております」
無線機の受話器を放り投げられ、ユリウスは仏頂面でそれを受け取る。
「……ああ。そうか。ちっ、喚くなガデンツァ。分かっている! それで、父上は無事なのだな?」
忌々しげに受話器を握りつぶすと、ユリウスは怒りをたぎらせた表情のまま振り返る。レドフィン達のことなど一瞥もしない。
「くたばりぞ損ないめ!」
時間切れであった。
「全軍、戦闘停止。撤退する!」
その一声で、ナルヴィア大河の戦いは終結した。
後に分かったことによれば…。
甲皇国本土では一つの暴動が起きていた。
反帝国主義を掲げるマルクス・コムニストゥス・プロレタリウスと呼ばれる革命家が出現していたのだ。
長引く戦争により経済は疲弊、甲皇国の被差別階級、即ち下層民達の不満は高まっていた。
マルクスは皇帝による専制支配を批判し、約二十万にも及ぶ人民の支持を得て、武器を手に立ち上がったのだった。
「五月一日の反乱」と呼ばれるこの暴動は、一時は帝都マンシュタインを占領する事態となる。
だが、皇女ガデンツァが率いる機械化部隊によって暴動は鎮圧。
多くの人民の血が流れたという。
……が、そのことは遠く離れたアルフヘイムにまでは届かず、ごく一部の上層部、即ちユリウスとホロヴィズだけが握る情報だった。
本土の暴動を知れば、ゲルやスズカといった軍団の士官たちがそれを放置してアルフヘイム侵攻を続けることはよしとしなかったであろう。そう計算して。
六月になってユリウスが突如としてセントヴェリアへ進軍しようとしたのも、この革命の動きを知ってのことだったのだ。
本来ならば皇太子であるユリウスもアルフヘイムで戦争をしている場合などではなく、即座に本国へ帰還せねばならない事態。
しかし、ユリウスはこの事態を黙殺した。アルフヘイムを我が物として、その功を持って本国へ取って返したかった。
暴動が起きたというなら幸いだ、邪魔な皇帝や他の皇位継承権者どもが死んでくれればいい。ぐらいに思っていた。
ところがクラウスの活躍により、このユリウスの野望は阻止された。
ユリウスはナルヴィアから兵を引くと、ボルニア包囲を続けるバーナード・スミス第四軍将軍に後事を託す。甲皇国本土へと帰還せねばならなかった。
───斯くして、西方戦線は膠着状態となる。
事態が動くのは、ゲオルクが北方戦線のフローリアで活躍を見せる一年後であった。
つづく