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優越感中毒

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私は、様々な「善」を様々な場所で行っている。
コンビ二などでよく見かける募金箱。私は買い物で小銭ができると、必ずそこに寄付をする。
盲目な人が道に迷っていると、例え仕事に遅れようが丁寧に道を案内する。
路地の裏で誰かがお金を巻き上げられそうになっていようものなら、私は自分の危険も省みず、そこに飛び込んでいく。
捨て猫が道の端で、雨に打たれてれば、たとえ動物厳禁のアパートに住んでいても、連れ帰って大切に育てる。
道端に分厚い財布が落ちていれば、私は自分が借金取りに日夜追われている立場だとしても、すぐさま交番へ届けるだろう。
そんな私は、よく周りの人たちから、尊敬の目で見られる。
もっとその目で見て欲しい。私は素晴らしい人間なのだから。

私がしている行為は、「偽善」だと言うことは私が一番わかっている。
というよりもこの世に「善」など無いのだと私は考える。
偽善が、善人の振りをして見返りを求める行為だとするならば、善とは、見返りを求めず他の人に尽くすことだ。
他の人に尽くす、ということは案外簡単なことなのだが、「見返りを求めず」これが非常に難しいというか、不可能であると私は考える。必ず人は見返りを求める。
キリスト教などの信者は、「善」を行う見返りとして、天国へと行きたがる。
恋人がその相手に行う「善」は、見返りとして愛を求める。
小学生がボランティアとして地区内を清掃して回ったとすれば、その見返りとしてお菓子や、又は大人からの「良く頑張ったね」「偉いね」などの言葉を求める。
私が善を行う見返りとしては――これは大多数の人間に当てはまると思う――「優越感」や「満足感」「他人の尊敬の目」を求める。わかりやすく言うと、自己満足だ。
このように、全ての人間は見返りを求めない純粋な「善」を行うことは不可能だと考えている。全ては「偽善」であって、少なからず見返りを求めてしまうものだ。
しかし私は、「偽善」を悪いものだとは考えていない。むしろ素晴らしいことだと思っている。
やらぬ善よりやる偽善という言葉がある。正にこの通りで、たとえ偽善であっても、それをすることにより助かる人がいて、喜ぶ人が居る訳だ。少しくらい見返りを求めてもいいじゃないか。指をくわえて、困っている人を見ているだけの「偽善」すら行わない人々よりは何百倍もマシだと私は思っている。

この辺りで、私の善に対する考え方の講義はやめにして、私自身の話に移らせて頂く。

私は、先に説明したとおり偽善が大好だ。正確にいうと偽善を行った後の優越感が大好きだ。
それは小さい頃から好きだった。そして時がたつに連れ、更に更に好きになっていった。
初めは本当に小さなことで、私の心は満たされていた。
教科書を忘れた隣の男の子に、「一緒に見よう」といって教科書を差し出したとき、男の子はありがとうと言ってくれた。小さい頃の私は、その一言だけで満たされ、満足していた。
人間の心というものは貪欲で、私は少しづつ、もっと大きな優越感を望むようになった。次第に私の心は乾き、善行を行っていないと苦しさに似た感情を感じるようになった。
私は大きな優越感を求めた。大きな優越感を得るために必要なのは大きな善。大きな善とは、より大きなことに貢献すること。より多くの人に貢献すること。

しかし、現実は厳しい。大きな偽善どころか、小さな偽善さえも難しい世の中になってきたように思う。
ご年配の老人に、荷物お持ちしましょうか、と手を差し伸べても、それくらいできますと振り払われてしまう。
私が小さい頃は、足の不自由な人の杖となり歩いたものだが、最近では電動の車椅子や、エスカレーター・エレベーターの普及により、その機会も減った。
まったく便利な世の中になったものである。音声案内ガイドにスロープ完備の階段。世間はバリアフリーバリアフリーと騒ぎ、デパート・駅・空港・会社までもが次々に改良されていく。
小さな優越感では満足できなくなってきたことに加え、その小さな優越感すら味わえる機会が減ってきたのだ。私は飢えていた。優越感に。他人の羨望の眼差しに。
そんな私が、自ら「優越感を味わえる舞台」を作ろうと考えるのは、当然のことなのかもしれない。

偽善にかかせないのは、「困っている人」だ。この困っている人を助けることにより、周りの人たちは私に羨望の眼差しを向ける。結果、私は優越感を得る。
私は自ら、「困っている人」を作り上げた。初めは可愛いものだった。
会社の同僚が大切に持っていた書類を盗み、決して見つからないように隠したのだ。
もちろん、同僚は上司からの大目玉を食らい、目を赤くして他の同僚たちに書類を一緒に探してくれと哀願した。
初めは皆、一緒に書類を探していたのだが、一向に見つからない。それも当然、私が決して見つからない場所に隠しているのだから。
初めは熱心に探していた他の同僚たちも、時間がたつにつれその表情にかげりが見え始めた。当然のことだろう。彼らには自分たちの仕事もある。いつまでも他人の尻拭いなんかやっている暇は無いのだ。
一人、一人と書類探しをやめ、自分たちの仕事に戻る。30分もすると、書類を捜しているのは書類を無くした同僚と、私だけになった。
頃合を見計らい、私は隠していた書類を取り出し、さも私が見つけましたと高々と掲げる。「あった」とわざと大声を出し、注目を集めるのを忘れない。
瞬間、私に羨望の眼差しが向けられる。同僚たちはきっと「自分の仕事も後回しに、無くした書類をあんなに懸命に捜してあげるなんて、なんてできた人なんだ」とでも思っているのだろう。
書類を無くした同僚は、なんども私にありがとう、ありがとうと頭を下げた。お礼を言いたいのはこっちのほうだ。あなたのお陰で私はまた優越感に浸ることができたのだから。

私はこの一件で味を占めた。「困っている人」を幾度と無く作り上げたのだ。
初めは些細なことばかりだったが、先に言ったように人間の心は貪欲。私の行為はエスカレートしていく。
駅のホームから人を突き落とし、自らそれを助けたりした。海でわざと子供を溺れさせ、助けたりもした。
もっと、もっと、もっと。私の心は私に訴える。
今より更に優越感を求めるならば、より困っている人が必要だ。また、一人より二人がいい。二人よりもっと大勢がいい。
「大勢の非常に困っている人々」これが私の求めるもの。

意外とそれは、私が作り上げる必要などなく、実在した。TVのニュースキャスターは語る。
「アジアの国々では、今現在もなお、食料不足により、人々は非常に苦しい生活を強いられています…」
見た瞬間、これだと感じた。次のターゲットはアジアの貧困に苦しむ人々だと。
私は家を売り、土地を売り、家具を売り、電化製品を売り、全財産をアジアの貧困に苦しむ人々に寄付した。中途半端な額では優越感を得られないと考えたからだ。身を粉にして他人に尽くす姿こそ、羨望の眼差しは大きい。粉にすれば粉にするほどだ。
また、全財産を寄付したのは別の狙いもある。話題性があるからだ。10万や20万では、私が寄付した事実さえ誰も知らないまま終わってしまう。だが全財産ならどうだろう。いまだかつて全財産を寄付した人物はいただろうか。いるわけがない。自分の生活を捨ててまで他人に尽くす人などいない。
私の狙い通り、マスコミは食い付いて来た。全財産を寄付した人物として、私は有名になった。私はカメラの前で語る。「困っている人がいれば、自分のことなど省みず尽くすことは当然だと思います」
この映像はTVを通じて、全国に放映される。私はついに、全国民の羨望の眼差しを受けることができるのだ。世界で最大の優越感を感じることができるのだ。

予想は大きく裏切られる。私に向けられた目は、可哀想な者を見る目。奇異な者を見る目だった。
身を粉にして、全財産まで寄付した私を、世間は大馬鹿者と笑った。会社からも解雇を言い渡された。私がいるだけで、企業のイメージダウンに繋がるそうだ。
解雇を言い渡された夕方。私は会社の前で座り込んでいた。これからどうしよう、私には生活していく資金さえないのだ。
「どうされました?」
不意に、私に声が掛かる。見上げると、まさしく好青年といったサラリーマン風の男が立っていた。
その目を見てすぐに分かった。この青年もまた、私の同類。困っている人を探して歩く、優越感中毒だと。
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