その4
Ⅳ
pちゃんとのskypeが始まった。
「saitoさん、お久しぶりっす」
「こちらこそ。一昨日ぶりだねpちゃん」
「saitoさん、最近どうっすか? 」
「どうって……? 」
「ほら、面白いことがあったとか、彼女ができたとか、ひきこもり脱出の手立てが見つかったとか……色々あったりなんかしてるんじゃないんですか? 」
「……ないよ。そんなの。そんなpちゃんが期待しているようなことなんて…最近は何も起こってないよ」
「なんだよ……つまんねーの」
「しょうがないだろ。だって僕の人生はつまらないことばかりなんだし」
「ああもう! つまんねーな! そんなんだから童貞でひきニートなんだよ!!」
そう画面越しに怒鳴るpちゃんは、定時制高校に通う男子高校生だった。それなりの進学校に進学したものの、どうにも周りと合わず、入学から数か月で中退し、現在は市の少し外れにある、そこそこの進学校に併設された定時制高校に通っている。
僕とpちゃんが知り合ったのは、とあるチャットサイトがきっかけなのだった。そこまでは普通の範疇に入るのだけれど、一つ異質な点は僕とpちゃんは、pちゃんがチャットサイトでネカマをしている時にであったということだった。
「ネカマに言われたかないよ」
怒鳴るpちゃんを黙らせる禁じ手。それが「ネカマに言われたくない」という言葉だった。そう言われるとpちゃんは決まって何も言えなくなるのだった。
「いやいやsaitoさん、それはずるいっすよ。それを言われちゃあ、俺何にも言えなくなるじゃないですか」
「そうかそうか。黒歴史を掘り返してしまったみたいだね。ごめんね」
「いやぁ…謝られると…それはそれでっつーか……その……」
文面だけのやりとりなのに、その……とメッセージを返してくるpちゃんがとても愛おしくて仕方なかった。かわいかった。結婚しよう。……いや、いかんいかん、何をやっているんだ僕は。そんなんだから、こんなただの男子高校生のネカマに、危うく数十万を振り込むまで騙されかけたんじゃないか。無論pちゃんは性根が腐っていないから、数十万を振り込む間際になって、自分はネカマだったということを明かしてくれて、僕の振り込みを阻止してくれたのだが。でもその事実を勘案すると、余計に愛おしく感じてたまらなくなる。pちゃんはなんて良い奴なんだろう。こんなどうしようもない童貞の上にひきこもりのニートを、騙したところでなんてことはなかったろうに。
……いや、ひきニートが振り込むために外に出られるかどうかが疑問ではあるが。どうしたってお外に出られないからひきこもりなのである。
「それでpちゃん、話というのは」
「saitoさんに相談すること……っていえば大体察しはつくと思うんですけど、やっぱりあいつの件です」
「楓さんの件か」
「そうっす。妹の楓の件っす。あいつ、最近ようやく家にひきこもるのをやめて、家から出てきたと思ったら、今度はリスカしてやるー、って言って聞かなくって」
「えっ、ああ……。それで楓さん、リスカはしたのか」
「いや結局リスカはしなかったんですけどね。あいつ、いや楓はリスカしてやるって泣き叫びながら意気込んでたんですけど、いざカッターナイフを握ってみって、切ってみる段になると、血がどうしようもなく怖くなってしまって、手が震えて全然切れないみたいで。ほんと、笑っちゃいますよね。リスカしようとしてるのに、血が怖いって。はは」
「……ま、まあリスカしなかっただけマシじゃないか」
「ほんとそうなんすけどね。リスカなんてしたら、どうしようかと思うところでしたし」
「妹さん、どうにかなるといいね」
「ほんとそうっす。どうにかなって欲しいですよ。駄目な兄の俺を反面教師にして、楓にはまともな人生を歩んで欲しいっす」
「馬鹿言うなよ。僕はpちゃんの人生だってどうにかなって欲しいぞ」
「それを言うなら…saitoさんだって若いんですし、まだまだ人生どうにかなるじゃないですか、多分。俺は社会のことなんてよく知らないですけど、若けりゃなんとかなるっていうじゃないですか。だからきっとsaitoさんも人生どうにかなりますって」
「そうかなぁ。まあでも、お互い、それと楓さんもどうにかなるといいな」
「そうっすね。ほんとそう。……ところで、ちょっと横道逸れるんですけど、saitoさんって今何歳でしたっけ」
「……何歳にみえる? 」
「うーん……と、二十歳くらい? ってsaitoさんこの前自分で歳言ってたじゃないですか。自分は童貞ひきニートの二十二歳だー、って」
「はは、そうだったっけ」
「あんなに声高々にこの前skypeのチャットで叫んでたじゃないですか。……いや、チャットなんで肉声は出してないんすけど」
壁にかけてある時計の針を見る。もう深夜の十二時だった。きっと窓の外の世界は、もうすっかり静まりかえっているだろう。pちゃんとチャットをすると時間の流れが早い。あっという間に過ぎ去るこの感覚に、友達と話す時の時間の早さを重ね合わせていた。体感では数分しか経っていないのに、実際にはその数十倍もの何時間も時間が過ぎていっているという、この感覚。懐かしい感覚。
放課後の、あまり人気の少ない校舎の裏の片隅、吹奏楽部が奏でる管楽器の音、野球部が外周を走る時に出す掛け声。空き教室の片隅で交わされる男女のひそひそ話。その話を密かに聞き耳を立てる僕。夕暮れ色に染まった空と、空の色が滲んで微かにパンプキン色に染まる緑の廊下。
きっと中高生の頃に見ていたであろうそんな光景を心の内に描きながら、僕はpちゃんとskypeでチャットをしていた。
「それで、なんですけどね、saitoさん。もしよければなんですけど、というか絶対なんですけど、妹の楓を、もうリスカもひきこもりもしないように説法していただけませんか? 」
「説法って…いや、僕はただのひきこもりでニートだよ? 人に説法をするなんてそんな高尚なこと、できるわけじゃないですか」
「いやいやsaitoさん、だからこそなんです。そういう駄目な人間が話す言葉の方が、きっと妹には響くと思うんです。まともな人間の講釈なら散々聞かせました。でも妹は、そんなのには一つとして耳を貸そうとしなかったんです。お兄ちゃん、その人は真面目で、その人の垂れる講釈は確かに正しいけど、私はそんなまともな人間じゃないから、その人の言う通りに事を運んでも、きっと私はまともな人間にはなれはしないよ、だってその人、私とは何もかもスペックが違うんだし、って。全然効かないし聞かないんです」
「そうか……。それでひきこもりで駄目なニートの僕に白羽の矢が立ったというわけか。なんというか……複雑だなぁ」
「まあそれはそうなんすけどね。人を駄目人間呼ばわりした上に、こんなことを年上の人に頼むなんて、礼節がなってないにもほどがあるっていうことはわかってます。でも、僕にはsaitoさんしかいないんです。だから、妹を助けてやってください。お願いします。この通りです」
「……そう言われてもなぁ。だって僕、ひきこもりだし、外に出られないし」
「そこをなんとか……、頼みます。ちょっとでいいんで、先っぽだけでいいんで、妹と会っていただけないでしょうか」
そんな風に頼み込まれると、断るに断れない。pちゃんのずるい癖だ。
「……しょうがないにゃあ、ちょっとだけだよ? ほんの少しだけ」
「流石saitoさんっす、頼んだ甲斐がありましたよ! 」
そう快諾したはいいものの、実際問題、僕は本当に外に出られないひきこもりで、コンプレックスまみれのニートだった。
pちゃんが提示した約束の日取りは、僕のひきこもり具合も勘案して一週間後の木曜日。果たして僕はこの部屋から出ることはできるだろうか。この部屋から出て、外に出ることはできるだろうか。外に出て、電車に揺られて、無事にpちゃんの家に辿り着くことは出来るだろうか。
きっと大丈夫でしょう、という楽観的な天使の声と、まあ無理だろうという悪魔の囁きの両方を頭に浮かべながら、僕はノートPCをぱたんと閉じて、布団を頭から放りかぶって目を閉じた。だけど今日は眠れそうにない。
いつもなら聞こえない秒針を刻む音が、心臓の鼓動のように、深く、大きく聞こえる夜だった。