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プロローグ

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 雨が降っていた。


 カラトは、もう追っ手を撒くのは無理だと判断した。

 シエラを背負って森に入って数時間である。
 いつもの追っ手とは何か様子が違うと感じて、急いで森の中を移動したが、接近しすぎず離れすぎず、組織的に追跡してくる追っ手に、カラトは、これが大人数を動員している作戦行動だと理解した。それも、相当に鍛えられた集団だ。
 だとすれば、当然、自分を捕まえるところまで想定した上で仕掛けてきたはずだ。

 逃げ切れない。

 カラトは、さらに、その先を考え始めた。
「カラト……」
 カラトが背負っているシエラが心配そうな声で言った。
「ごめん、シエラ。もうちょっと辛抱してくれな」
 言って、ずっと小走りだったカラトは一気に走る速度を上げた。
 脇道に入り全力で走った。
 水溜りに入るたびに泥水が跳ね上がり、草木に当たるたびに水飛沫がかかったが、構わず駆けた。
 とにかく、今はできるだけ後ろの追っ手との距離を離すことだ。

 数十分駆けて森の中の川に行き当たった。
(よかった……。とりあえず記憶は間違ってなかった)
 そこで止まって、少し息を整えてから、カラトはシエラを地面に降ろした。
 二人とも、ずぶ濡れだ。
 心配そうな顔をして見つめてくるシエラに、カラトは微笑んだ。
 そして、片膝をついてシエラと目線の高さを合わせた。
「シエラ、そこの木の根元に隠れて五百数えるんだ。五百かぞえたら、川に沿って下流に向かって、ひたすら走れ。半日ぐらい進んだら小さな村がある。誰でもいいから、そこの人に、ボルドーって人はどこにいるか聞くんだ。ボルドーって人に会ったら、カラトに言われて来たって言え」
 カラトは首に掛けていた、紐に繋がれている小さな金属の首飾りをシエラに渡した。
「それを見せれば、ボルドーって人は、お前を保護してくれるはずだ」
 カラトはシエラの肩に手をのせた。
「できるな」
「カラトは……?」
「俺は……」
 カラトは少し言葉を選んだ。
「大丈夫、後から行くさ。一人の方が動きやすいんだ」
 少し間があった後、シエラは頷いた。
 カラトはシエラの頭を撫でて微笑んだ。
「川に落ちないように気を付けるんだぞ」





 シエラが木の根元に入ったのを確認してからカラトは、来た道を少し戻った。
 それから方向を変えて森を出た。開けた場所で立ち止まり、待った。
 向こうも、標的のシエラがいないのは分かっているはず。それでもカラトには、確信があった。

 追っ手は自分に集中するはず。

 数分後、森の中から、こちらを窺っていた数人が、そろそろと出てきた。ただ、自分を遠巻きにしたまま動かない。

 カラトは、それでも何もしないで待った。
 雨音が間断なく続いている。
 不思議と心は落ち着いていた。
 目を閉じて、昔を思い出した。
 いろいろあったと言えばあったかな。ただ、何か足りないと言えばそうかもしれない。
 結局どこまで言っても満たされないのが人間なのか……。
 自分も含めて……。

 何を今更、と一人で苦笑してしまう。
 静かに目を開けると、百人近くに増えた追っ手がゆっくりと近づいてきていた。
 その先頭を進んでいた女性をみとめて、カラトは、この集団の能力の高さに合点がいった。
 黒い髪が背中まで届いていて、黒い瞳。整った顔が厳しい形相で、カラトを睨んでいる。
「やあ、シー。久しぶりだな」
 何事もないようにカラトは言った。
 追っ手の集団が完全にカラトを取り囲んで止まり、シーと呼ばれた女性だけが一歩前に出た。
「カラト……。私は、今回の貴方の行動が理解できない」
 感情を押し殺した声でシーが言う。
「今からでも遅くない。投降して」
 シーの厳しい形相が少し崩れる。
「私は、貴方を殺したくない……」

 雨音は続いているが、シーの小さい声は、はっきりと聞こえた。
 カラトは、微笑んだ。
「今までは、理解できていたのか?」
「勿論! 私は貴方を尊敬している」
「それはきっと気のせいだよ」
「気のせい?」
「オレ自身が、自分の行動を完全に理解しているかと聞かれれば、はっきり言って分からないんだ。だけども人は、理屈じゃなくて感覚的に動く時があると思う。オレは、ずっとそれを大事にしてきたつもりだ。今までも、そして今回も」
「今回あなたがしていることは、あきらかに間違っている!」
「そうかもしれない。だけどねシー。今もまったく後悔はしていないんだ」
 そう言って、もう一度カラトは微笑んだ。
 俯き黙るシー。
 数秒。

「今更、私は今の地位を捨てる気はない……」
 俯いたまま身体を震わせながら話すシー。

「貴方を殺します」
「ああ」
 シーは顔を上げ、カラトを見つめる。

「私がカラトを殺します」

 三度カラトが微笑む。
「そう易々とは殺されてやらないけどね。だけど、君に殺されるんだったら、それもいいかもしれない」

 カラトは腰にある剣を鞘から引き抜く。
 すると、一斉に百人近い追っ手もそれぞれの武器を取り出し構えた。

 カラトは、改めて自分が死ぬことを確信した。


 それでも、やはり不思議と心は落ち着いていた。




 数ヶ月旅をした。


 産まれて初めての旅だった。

 知識も体力もないので、つらいと思うことも、いろいろあった。
 それでもシエラは楽しかった。

 旅の内容が楽しかったのか、一緒にいたのがカラトだったから楽しかったのか……。
 きっと両方だろう。



 雨の中、川沿いを下流に向かってシエラは走っていた。
 走りながら、カラトの行動の意味がだんだん分かり始めた。
 考えれば考えるほどに、それしかない、と思えてきた。
 カラトが死ぬかもしれない。

 今更になって気付く馬鹿な自分に怒りを覚える。
 いてもたってもいられなくなり、シエラは来た道を引き返した。
 どう考えたって自分が戻っても邪魔なだけなのは、馬鹿な自分にでも分かる。
 それでも……。

 人は理屈じゃなく動くことがある。カラトが、よく言っていた言葉だ。
 まさに今が、それなんじゃないか。
 シエラは、もう考えることをやめた。

 自分が隠れていた大木の近くまで戻ってきたシエラは、さっきとは違うところに気が付いた。
 血を引きずったような跡が地面にある。
 少し迷ったが、シエラはその血の跡をついていった。
 嫌な予感が頭から離れなかった。
 自分の呼吸の音が聞こえる。
 大木の裏を十歩ほど入っていって、シエラは、息が止まった。
 木に寄りかかり、足を前に投げ出し、全身血まみれで俯いて座っているカラトがいた。
「カラト!」
 シエラは急いで駆け寄る。
 カラトの片目だけが、少しだけ開く。
「おいおい……。約束破っちゃダメだろ……」
 なんとか搾り出すような、嗄れた声でカラトが言う。
「カラトっ、カラトっ」
 触っていいのか分からず、名前を言うしかなかった。
 これは、すべてカラトの血なのか。これほど出血して生きてられるものなのか。
「カラトっ、カラトっ」
 シエラは、自分が泣いていることが分かった。
 カラトの呼吸音が頼りなく小さい。
 そのカラトが、少し微笑んだ。
「シエラ……、聞いてくれ……」
 カラトの開いている片目がシエラを見た。
「俺のことは忘れるんだ……。カラトという男は、初めからいなかった……、そう考えてほしい……」
「何言ってんの……」
「君の人生は……、まだまだこれからずっとある。俺は、その中でたかだか数ヶ月の人間だ……。だから……」
「何言ってんのよ! 無理だよ! 無理に決まってるじゃんかよ!」
 俯き、身体を震わせるシエラ。
「人生が何だって……? 私にとっては、この数ヶ月が、今までの人生の中で一番意味があったんだよ……。それを、なかったことにしろだって? じゃあ、なんで私に会ったんだよ。なんで私を助けたんだよ。そんなことなら、初めから、会っていたくなかった!」
「シエラ……」
「でも、もう会っちゃったんだよ……、忘れられないよ……。私は、カラトのこと……忘れたくないよ……」

 沈黙。
 再び、雨音が耳に入ってくる。

「そうか……」
 言って、カラトの表情が、急に明るくなった。
「いやぁ、悪かった。ごめん。冗談だよ。我ながら、ちょっと弱気になってたみたいだ。そんなに深刻な傷は負ってないよ」
 シエラは、顔を上げてカラトを見た。
「だけど、やっぱり歩けそうもないから、村まで行って人を呼んできてくれないか、シエラ。それしか助かる方法が思いつかないんだ」
「本当……? その血は?」
「これは、ほとんど返り血だよ。こんなに出血して生きていられる人間なんていないだろ」
 おいおい、と言って声を出して笑うカラト。
 シエラは、じっとカラトを見つめた。
「本当だよ。俺が、嘘をついたことがあるか?」
「さっきついた」
「ありゃ、本当だ」
 もう一度、声を出して笑うカラト。
「ああ、いてて……なぁ、たのむよシエラ。傷が痛くてしょうがないんだ」
「……わかった」
「おっ、そうか。じゃあ、頼むよ」
 シエラは、立ち上がって歩き始める。
 カラトの言葉をすべて信じたわけではないが……。
 自分にできることは本当にそれしかないから。
 振り向くと、カラトが片手を、ひらひらと振っていた。
 それを見てから、シエラは走り出した。





 シエラが見えなくなってから、カラトは深く息を吐いた。
(ごめんな……)




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