第三十四話 接敵
当初、懸念事項は二つあった。
一つはもちろん白とリリヤテューリの安否。こちらは初撃の回避と同時に旅館から大きく離れることで憑百琥庵を遠ざけ容易く解決できた。
そして二つ目は街中での戦闘ということ。寝静まった夜更けとはいえ、この敵を前に物音への注意を払う余裕は無い。
ただどういうわけか、見下ろす街々からは人間の気配は極端に減っていた。近くに住宅街がある手前、完全に居ないわけではないが密度自体はだいぶ変移している。それも、この周囲数キロ範囲の内部において。
覚えのある状況だった。かつて退魔師と共闘した折に戦域内を覆った隠形の結界。一般人への被害を極力に抑える為の方策。
これが展開されているという現状。おそらくアルの動きを読んで打ってくれたわけではない。となればだ。
(旦那も旦那で何か立て込んでるってわけか!この野郎の仲間か、それとも別口か?)
そもそもが陽向旭がこの街に任務で来ているという情報のみでの推測に過ぎなく、どこまで当たっているかもわかったものではないが、今はそれに意識を費やしている場合でもなかった。
肌で感じる空間の違和感。それの正体は仮定として予想した陽向の結界―――だけではないように思える。
(淀み過ぎだ、陽向ってのは名前通り陰でなく陽の一族だったはず。連中の展開する術法にしては、この空気は不自然なほどに不味い)
陽の結界内でさらに蠢く陰の影。清潔な木編みの籠の中で、さらに鉄錆だらけの格子に押し込められているかの如き息苦しさ、不快感。
堕ちた悪魔としての側面が、不明瞭な要素に警鐘を鳴らし続けている。
「ケッ…だからってうんうん考え込んでるわけにはいかねえよなァ!!」
跳んで、身を捻り斬撃を放つ。千切れた邪気は溶けて消え、一瞬で宿主の下へと戻る。
「滅べ、見苦しく足掻く様は見るに堪えぬ」
悪しき気を纏う琥庵の全身に絡むは蛇のような悪霊の奔流。細く太く、それは肉体を守っているようにも、瞬時に牙を向けるようバネを縮めているようにも見えた。
黒色の頭巾に始まり爪先の足袋まで闇色の憑百は感情も策謀も表に出さない。表情すらも読めないというのは不気味であって薄ら寒さまで感じさせるが、言葉からも察せるように押さえ切れない殺意だけは変わることなく邪気と共に吐き出され続けたままだ。
「こんだけ離れりゃもういいだろ。オラ来いよ滅魔師、俺がそんじょそこいらの妖精と同じだと思うな」
旅館から充分に距離は取った。これで最悪でも、街を大破させ死傷者を出すことになっても守らなければならない一番大切なものは守れる。
アルは陽向旭ほどの情をこの人界に抱いてはいない。|幻獣《ユニコーン》救出戦の一件からむしろ人間に対しては悪感情がほとんどを占めている。『反転』の原因である憎悪も、元を正せば愚かしく忌々しい人間共によるものだ。
だからこちらも情け容赦は掛けたりしない。多少気を配ってやる程度が限界だ。
全力で挑み、|倒《ころ》す。
「せぇあ!!」
琥庵の体から打ち上げられた邪気の砲弾が曲線を描いて降り落ちてくる。同時に射出された数発も横一線に正面から迫る。
それらを瞬間で視界に捉え、より速く身に触れるものを見極め斬り払う。大袈裟な力も技術も必要無い。ただ刃に食いつくよう軌道を合わせてやれば自然とそれらは霧散する。
どうやらこの錬鉄、想像以上に精度は高かったようである。満足げににやけるアルを、頭部を覆う頭巾の隙間からギョロリと細い血管の走る眼球が睨む。
「…妖魔、貴様…その刀は」
「バレたか?ハッ無論よな。ただの|鈍《なまくら》で掻っ捌くにはその邪魂、あまりにも筋が張り過ぎて刃が立たねぇっての」
白を引き連れて妖精界へ帰還してからというもの、アルとてすっかり平穏無事な日々に怠けてしまっていたわけもなし。『反転』を経験してより強力となった自身の力を磨き続けていた。
北欧に出自を持つアルムエルドの、妖精として残った武装創造の力。金行を得てとするアルヴの精鉄能力。
『魔法の金属細工師』の異名通り、良く鍛え拵えられた武具へ付与される伝承の効力。以前までは自分の生まれ故郷である北欧限定でしか生み出せなかったそれも、重ねた練磨の甲斐あってようやく範囲を広げることが出来た。
今持つ一振りもそう。金色の刀身、両端が三又に分かれた奇怪な柄のそれは本来剣を名称する両刃のはずが、どういうアレンジが加わったか造形自体が刀に近い反った片刃となっている。
大日如来の化身、無数の信仰を寄せる御仏が一柱の加護を梵字として刻んだ調伏の鋭剣。
(〝|不動利剣《コウマミョウオウ》〟。実戦運用は初だがまぁ、いい出来じゃねえの)
指先で刃の峰をつつとなぞって出来映えを確認。効力も今しがた問題なく起動しているのを確かめた。
通る。この魔を伏す刃は〝憑依〟の一族にも通用する。
「それで?まさかこんなんで終わるわけねえよな憑百の!」
攻撃を捌き、打ち消しながら駆けるアルの斬撃は既に幾度も琥庵の肉体を叩いていた。籠手で受け止めきれるほど勢いは弱くない。すぐさま袖から砕けた籠手の破片が零れ出て、素手での防御を余儀なくされた琥庵の手首に鋭い斬り返しを放つ。
すぐさま邪気が腕を覆い籠手の代わりを果たすが意味など成すものか。不動明王の剣はその為にある。
邪気ごと骨肉を斬り、手首を落とす。固めた覚悟に違わず殺害の意志と闘争の本能が入り混じる本気の一閃。
ガチンッ!
「不愉快だ」
「…なんだそりゃ」
互いに相手へは言葉を送らない。それは自らへ語る憎悪と疑問の一言。
刀を押さえる蔦のような邪気流。チェーンソーの刃に近い、表面を高速で流れる気がアルの刃を噛んでいた。
遮れるはずがなかった。この利剣の特性はあらゆる魔の調伏。つまり悪霊への特効も意味している。これを前にして、憑百のお家芸などは薄紙一枚肌に張り付けているようなものに過ぎない。
「どうなってんだオイ」
峰に片手を叩きつけ、噛んだままだった刃を強引に引き下ろし後退する。その間にも、膨れ上がった怨霊悪霊の類は膨張し退いた敵を追って魔の手を伸ばす。
(勘違いだったか。俺の間違いだったか。こんなことなら旭の旦那から他の特異家系についてよく話を聞いとくべきだった)
まず、大前提として確定させたつもりでいた認識が違えていたことを知る。
刻々と肥大していく怨念邪念の増大。最初に刃を交えた時からこの短時間での想定を覆す強化速度。
確かにこれは致命的な判断ミスだったと言える。
「図に乗るなよ、大概にして死ね妖魔」
腕が振るわれる。後退して確保した距離は目測十メートル。それを埋めるは腕を覆い尽くした怨霊の巨腕。咄嗟に防御でも回避でもなく迎撃を選んでしまった。
利剣の刃は僅かに食い込むだけでそれ以上進まず、勢いに負けたアルの体が斜め後方へ吹き飛ぶ。
「つぉっ!」
手足をバタつかせるも空中に掴めるものは何もなく、それどころか背後に迫るは中規模のオフィスビル。
「あっぶねぇ!?」
背中から急速展開させた蝙蝠じみた黒羽で空中制動を掛け、ギリギリのところで衝突を免れる。
妖精の薄羽は失われ、魔性種にも成り損ねたアルの羽は被膜もボロボロで前のように自由自在に空を飛ぶことは不可能となってしまっている。こうして少しの間だけ浮遊したり滑空したりするので精一杯だが、どうにかビルの破壊ひいては自身へのダメージは避けられた。
そう、ほっと一息つきかけた彼を夜よりさらに濃い影が降った。
「ッ……マジかよ、テメェ」
今や琥庵の姿は元の三倍ほどに膨らんでいた。外殻のように概念種の鎧を着込んだ巨体が、吹き飛ばしたアルを追い掛けて眼前にまで詰めている。
純粋に腕力以外、機動力も人外級に達しているこの力の出所は何だ。
滅魔とは、憑百とは概念種をその身に取り込み力を引き出す一族のこと。それはアルにも分かっていた。
だが人が人である限り、人外の力を宿すにも限度がある。だからアルは当たり前のようにこう考えていた。
『おそらくは原則的に、憑百は一人につき強力な概念種をひとつ身に宿している』、と。
「本当に人間か、中に…何匹飼ってやがるっ」
やはり間違いであり、やはり改めるには一手遅かった。
この男は、アルの剣にとって薄紙にも等しい邪気の層を何千何万と束ねていた。これが刃の通らなかった理由。
「我が真名、『|虎覆《こふく》|逆霆《げきじょう》』……たかが一匹で歯向かえると思ったか」
彼の名は憑百琥庵。
古き初代当主の行った大偉業『憑百』を超えた|憑代《つきしろ》の器である。
彼こそは当家当主の真逆に位置する滅魔師。
万にも億にも上る概念種を取り入れ、その生涯で百の神格を滅ぼす現代の異端。
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「…ん…」
カタカタと揺れるリモコンがテーブルから落ちて、リリヤテューリは眠りから薄っすらと覚めた。
聞いたことがある、人の世界では稀に地震という現象が起こると。妖精界ではありえないこと故、経験するのは初めてだが……。
「…、……っ?」
と思っていたが、すぐに気付く。これは地響きだ。伝って聞こえるのは倒壊音。そう遠くない場所で、何か大きな物が崩れ落ちたことによる振動。
何かが起きた。こちらに被害が迫る事態かどうか探らねばならない。眠気眼を擦って起き上がる。
「アル、今の聞い……アル?」
少し離れた位置に敷いてあった布団にある膨らみは小さく、ひょこりと見える頭は薄闇の中で白銀を示していた。
「……ぅ、ん。アルぅ……」
白だ。共にいたはずの男の温もりを探して夢見の中で手を伸ばしている。やはりアルの姿は部屋のどこにも見えない。用を足しに出たわけでもなさそうだ。
ひとまずはと、リリヤは部屋のベランダに通じる窓を開けて外を見る。夜更けでどこも明かりを点けてはおらず、街灯のみでは遠方まで見渡すことが出来ない。倒壊音らしき元はおおまかな方向しか掴めず、現状の把握が非常に困難だった。
(…アル)
この事態とアルの不在は関係しているのか。していないとは言い切れない。だとしたら自分はどう動くべきか。
同じ部屋にいたのというのに一言も無しに出たということはそれなりの理由があったに違いない。普段からあまり周囲に気を配ることをしないあの妖精がそんな行動をしたというのなら、きっとこの場にいる白を慮ってのことだ。
なら事情はともあれ状況はあまり芳しくない。自分はどうするべきかを黙考する。
(アルを探す?…白ちゃんを連れて?ありえない、外の状況がろくにわからない今の段階でそれは悪手…だと思う。最善は私達に黙って出て行ったアルの意思を汲んでこの場から動かないこと。でもそれだとアルは……)
寝起きとは思えない思考の回転で行動指針を汲み上げていくリリヤの背後から身じろぎと自分を呼ぶ声。どうやら白も起きてしまったらしい。アルがいないことにも気付いたようだ。
何においても白を安心させることが優先か。強張った表情を見せないように、振り返る数秒で違和感ない笑みを作ろうと表情筋に意識を傾けた。
―――コツ。
リリヤが顔を出したベランダは大通りに面しており、階下には横幅の広い道路がある。その奥から、靴音は聞こえた。
「…………え?」
こんな夜更けに誰が。自分と同じく音に目覚めて様子を見に来た者か。
そもそも起きたのは自分と白だけのはずがない。もっと周囲が騒がしくなっても不思議ではないのではないか。何故ここまで静かなのか。
しかしそうなると、不気味なほどの静けさで唯一外を出歩く靴音の主は一体何者なのか。
「……リぃヤ?」
まだ夢現なのか、呂律の回っていない白へ顔を振り向けられない。視点は固定され、夜の中から出でる新たな闇と視線を交錯させる。
彼の者の顔を記憶と繋げる間際、どうしてか先に過ぎったのは自分を庇ってくれた退魔師の青年の方だった。
次いで、男の姿形が数年前の脅威と共に呼び起こされる。
「…滅す。薄羽の魔物。ああ、今度こそな」
「―――!?白ちゃん逃げ…っ」
一体何をやったのか。
男が一つ腕を揺らす挙動を見せただけで、四階建ての旅館がリリヤのいる部屋を中心に半壊した。
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「はぁ、はあっ……いい加減に諦めたらどうだ、晶納っ!」
「る、っせえんだよ。ムカつくぜテメエ、それだけの力がありながらなんで人外なんぞを…ッ」
二振りの天秤刀が機敏に七つの陽玉を叩き落とし、使い手は二人拳と刃をぶつけ合いながら未だに互いの主張を曲げることをしない。
共に同年代で同期、同輩、今代の精鋭として実力を高め合ってきた者。手の内なんて知り尽くされている。その対処も、対応も。
泥仕合だった。たとえ両者が殺意をもって闘っていても決着は体力勝負。どちらがより自らの真名を維持しつつ相手を倒すか。ただそれだけの競い合いと化している。
頬を裂いた傷から血を拭い、息を整えながら旭が叫ぶ。反発するように晶納が唸る。
戦闘直前に旭が展開した結界によって周囲への人的被害は皆無だが、それでもこれ以上の継続は流石に不毛というものだろう。
「もう止めよう。…おとなしく帰って、里で酒でも飲もう。奢るから」
「テッメ…それでオレがほいほい釣られると思ってんのかざっけんなよクソが!……いや、それとは別に酒はちゃんと奢れよ!」
ちゃんと釣られてるけど、とは口が裂けても言えまいて。
実を言えば旭の目的はほぼ済んでいた。晶納の癇癪に付き合って発散させ、同時に人面犬の逃げ切る時間も稼いだ。旭としても闘う理由は果たされている。
結局この頑固者を説き伏せることが出来なかったのが、悔いと言えば悔いではあるが。
「気は済んだだろ。どうせ僕を倒して先に行ったってその頃には君だって満身創痍だ、あの人面犬にだって勝てやしないよ。分かったなら結界を解く…、うん?」
展開されていた隠形の結界を解除しようとようやく意識を外に向けて、やっと彼らもこの街の異変に気付くことが出来た。
「あ?なんだこの気色悪ぃ気配は」
「何かいる、これは……僕達以外の特異家系か!」
遠方からでも顔を背けたくなるほど濃密な邪気。あえてその一族を口にすることこそしなかったが、旭にも晶納にもこの気配の正体は理解できた。
「…行くぞ旭!オレはあっちのクソでけぇ邪気に向かう!テメエはそっちだ!」
「それがいいね、気を付けて。分かってると思うけど相手は只者じゃない、かなりのやり手だ!」
先程までの喧嘩など無かったかのように、すぐさま二人は向かうべき地点を手分けして走り出す。
この消耗した状態で勝てる相手かどうか疑わしいままに。