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第三十九話 前哨戦の幕は閉じて

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 手持ちの兵装でどこまで抗えるか。アルは残された十数秒を何十倍にも引き伸ばして脳内で考えを巡らせる。
 巨刀の墜落にも沈まず起き上がった琥庵を前にして晶納の困惑は隠し切れていなかった。どうやら先の一撃は退魔師としての切り札、奥の手にも似たものであったらしい。必殺の一手が必殺成し得なかった事実に、晶納の精神は大きく揺らいでいる。あれでは戦力として使い物になるかどうか。
 模倣しただけとはいえ神話を現界させる神格兵装は強大な威力を発揮する。それだけに負担も大きい、今の状態では撃ててあと一発。生み出せて一振り。
(敵前逃亡なんざしたくねぇが、ここには白もいる…特大の一撃をぶちかましてその隙に逃げ出すか…?)
 流石にアルの大技、晶納の奥義を受けて憑百琥庵にも〝憑依〟だけでは補い切れない損傷と疲労が窺える。倒すのは無理でも全力で逃げおおせるくらいならば…。
 すぐさま利き手の五指に力を込めた時、敵の背後から宵闇でもはっきりと浮かぶ紅白が見えた。
 二人が声を上げるより速く、背後を取られたはずの琥庵が反応した。突き出した貫手は正確に人影の中心を捉え、ずぶりと千早を羽織る白衣ごと貫通して小柄な体躯が浮き上がる。
 その光景に晶納が目を見開きアルが歯を剥く。巫女装束の童女が降魔の怪物に殺害されたことに大きな憤りを感じ、不利だの逃走だのと考えていた両者の闘志が再び燃え上がった。
 対して腕を突き通し心臓を抉り潰したはずの琥庵はあまりの手応えの無さに眉を顰めていた。何より貫いた腹部から一滴の血液すら滲み出ていないことが不気味でしかない。
 腹に沈んだ腕を小さな両手でしっかと掴み、童女は無垢な笑顔を向けて言う。
「つっかっまっえー」
「たっ♪」
 最後の一語をいつの間にか現れた、瓜二つの少女が引き継いで背に掌を当てる。
「飛んでけツクモ!」
「さらばっ」
「…そうか!貴様ら四も」
 何かに気付いた言葉は最後まで発せられず、憑百琥庵の姿はその場から一瞬で消え去ってしまった。
「あぁ!?」
「ん、だと…?」
 突然の状況に戸惑う二人へ、双子の巫女はぴっとそれぞれの人差し指で満身創痍の退魔師と妖魔を指し示し誇らし気な表情でにんまり笑む。
「お疲れ退魔師!」
「ご苦労人外!」
 そしてお互いにハイタッチを交わして仲良く手を繋ぐ。不思議なことに琥庵に貫かれた方の少女は衣服にすら貫手の痕跡を残さず無傷の状態であった。
「「じゃ、行こっかー」」
 手を繋いだ双子は息ぴったりの二人三脚で草履を前に出し二人の間を抜けて歩き出す。
「「…………、いやどこに!?」」
 双子に劣らぬ同一の動きで振り返り、一切合切わからぬままに晶納とアルの叫びが重なった。



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 現れた四門という男の言葉には未だ理解に至らない部分が数多くあったが、ひとまずは危機を脱したことでいくらか心の余裕は生まれた。であればまず順繰りに事を片していくことが先決すべきことだった。
 四門には一旦留まってもらい(かなり不服そうだったがどうにか了承してもらうことは叶った)、じきに彼が送った右腕とやらが晶納達を連れて来るというものだから真っ先に旭はリリヤを引き連れてある気配の痕跡を追った。
 大きく弱体化した人面犬、晶納に手酷くやられたものだからまだそう遠くへは行っていないはず。逃がすにしてもせめて傷の手当てだけでもしておきたかった。その為に人面犬と面識があるというリリヤにも同行してもらったのだ。

 隠形結界の外側、街の外でそれは起きていた。
 今にも消え入りそうな人外の気配を追って、旭はそれを見た。
 かつて受けた神剣の影響で既に人の面を維持することすら不可となった、見た目ただの血塗れの柴犬。
 それを抱きかかえた状態で道路に横たわる、一人の少女。
 道路を直線状に引かれた赤い血痕は倒れる少女の頭部と腹部まで繋がり、終点となるそこで血溜まりを広げていた。
「……君か、退魔師。それに…妖精のお節介焼きまでも一緒とは」
 呼吸も心臓も止まったその少女を、冷え逝く体から熱を取り戻さんとばかりに自身の身体で温め続けていた人面犬が力なく頭を上げた。
「その、子は」
「私の飼い主だよ。四年前に君達から敗走して先、死にかけだった私を拾い手当てをしてくれた優しい子だ。…夜中にいなくなった私を探してきたのだろう」
 道路上でこの惨状、遠目からも分かる打撲痕と骨折、十数メートルは引き摺られたであろう酷い擦過傷。街の外ということもあって人払いが利いていなかったのが悪い方へ働いた、これは交通事故だ。
 旭の思考を肯定するように、少女の頬を舐める人面犬が言葉を継ぐ。
「トラック如きにぶつけられたところで、私は死なぬというに。間が悪かった、としか言えないな、これは。この子のことばかり考えていた私は車両の接近に気付かず、そして私に気付いていたこの子は私を庇った。途切れ途切れの意識を繋いでいた私は、手遅れになってからようやく気付くことが出来た」
 ああまったく。自嘲気味に呟いた最後に、
「|糞《・》|が《・》。なんという体たらくだ」
 そう、これまでの紳士然とした立ち振る舞いからは決して想像もつかない悪態を吐いた。
 ここに来て旭は初めて人面犬の首に着けられた首輪の存在を認めた。彼は本当に人のもとでこの数年を過ごしていたのだと。
「人面犬、君は」
「カナだ」
 言葉途中で遮り、呼ばれた名に嫌悪すら表して否定と理由を同時に示した。
「私の名前はカナだよ。我が主、|奏《かなで》から貰った大切なものなんだ」
「……そうか」
「っ…」
 一つ頷き、それ以上は何も返さなかった。隣で口元を押さえていたリリヤの動きを片手で制し、予想できた行動を阻止する。
 リリヤテューリは奏の傷を癒そうとしたのだ。たとえそれで命が戻ることは無くとも、せめて外傷だけでもという心遣いは分かる。だがそれはやってはいけないことだ。死体に死因たるものが見当たらなければ事はより大きくなる。そうなれば日々を平穏に生きる人間達の生活に人外という常識の埒外にある存在をちらつかせることとなりかねない。
「…」
 ガリ、と。噛み締めた歯が削れる不快な音が咥内に響く。
 理屈で道理を押し込める。陽向旭という個人の意見は封殺し、特異家系陽向の一員としての情報秘匿を優先させる。
 間違いだと断ずる気は毛頭ない。人として人ならざるものと相対する退魔師の一人としては、人界にさざ波ほどの揺らぎも起こすわけにはいかないという使命感は当然のものだ。
 ただ、理屈も道理も人間の情を前にしては芥子粒ほどの大儀にすら成らない。
「いい。いいんだ退魔師よ。君の判断は正しく、また私もそれに同意する。無傷無病のままに死を迎える人の身などあるものか。人の世に在る者としてこの結果は正しくあるべきだ。私という異物を干渉させた奏の死を受け入れてはいけない。この子はただ運悪くして天寿を全うし切れなんだ。それだけの話としよう」
 まるで旭を慰めるように諌めるように、人面犬―――カナは名残惜し気に奏の体から身を離し歩み寄る。
「それを表の世界での顛末として、さて我ら異物異質を抱えた裏のここではそうもいくまい」
 全盛期だった頃の圧力はどこへやら、哀愁漂わせる柴犬は声帯を震わせて渋い老齢の声色で旭に懇願する。
「殺してくれるか。君達と対峙する以前に抱えていた存在理由はとうに捨てたが、今や奏との生活で新たに得た意義すら失った。元より私は人に害成すモノ…あの子と同じ場所へ逝けるとは思えないが、輪廻の果てでいつか出会えれば僥倖というものよな」
 活力というものが無くなっていた。カナには生きる糧が無い。尽くすべきだった主も喪い、いよいよカナには現世に留まる理由が見当たらないのだろう。死を渇望するに充分すぎると、旭には思えた。
「…旭さん!」
 だが。
「駄目だよ、カナ。君はまだ死ねないはずだ。その子の死を踏み台にして願うのが死とは、あまりにも主のことを蔑ろにしてはいないかい?」
 カナは視線を地に落としたまま何も答えない。
 彼が自身を『カナ』と名乗るその時点で、彼の忠義は察するに余りある。
 そも人外は自己に真名以上の呼び名を必要としない。名乗るにしても、それは自身で選んだものか、そうでなければより格上と認めた人外から賜る銘としてのそれ以外には基本的には有り得ない。
 人外は人間から名を受け取ることを善しとしない。屈辱以外の何物でもなく、脆弱な人間風情に仕える烙印としての意味を持つが故に、人間から与えられる名前などに応じはしないものだ。
 だから、もし、人外が人間に与えられた名を自ら進んで名乗り上げるようなことがあるならば。
 それは隷属の証。忠義の印。絶対の信頼を以て人に寄り添う誠の意志そのもの。
「君は生きろ。彼女が死を厭わず君を庇った意味を理解して、生き延びてほしい。…それでもまだ死を望むのなら、せめてそれに見合うだけの何かを残すべきだ。僕は君を殺さないし、死なせない。今言える確かなことはそれだけだよ」
 確固とした態度で告げると、頭と垂れていたカナはゆっくりと顔を上げ、そしてゆるゆると息を吐いた。何かを諦めるように、何かに見切りをつけるように。
「…まったく、ままならないな」
 見上げる柴犬の瞳には、頼りなく揺らめくだけだったがそれでも、確かに存命の灯火が戻っていた。



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「もういいですか?こちらも当主に命じられた通り事を進めたいのですが」
 カナの治癒をリリヤに任せ、旭はいきなり背後からふっと現れた四門に驚かせられながらもかろうじて首肯を返すことに成功した。
 四門は大きめの狩衣から左手を伸ばして旭の肩にぽんと触れる。
(あれ…?)
 肩に乗せられた手の体軸、重心移動からふと気付いたが、この男もしや。
「当主はあなたとの対話を求めています。事情は諸々、彼から聞いてくだされば」
 旭が疑問を口にする前に、さっさと用件を伝えて四門は何かの力を発現させた。
 瞬間、旭は背中から落ちていくような浮遊感に短い悲鳴を上げそうになった。立っていた地面が消え、開いた空間に呑まれる。
 此処ではない何処か。此方より彼方。
 距離を跳び越えて何処かへ。
 そうだ思い出した。四門とは、特異家系『四門』とは―――。



「よう」
 視界が戻る頃、旭は室内に足を着けていた。
 板張りの床、綺麗な木目の天井。陽向家の御屋敷にも似た古き良き和の木造建築。土足という無礼はこの際置いておいて、広い割に何も無い部屋の最奥を向く。
 四畳の畳が敷かれたそこで不貞寝するように肘掛けに頭を乗せ、真横に寝そべった男が軽く片手を挙げる。
 へらっとした表情、飄々とした態度、どちらも見覚えがある。彼こそは旭が手も足も出せなかった憑百珀理を圧倒した自他共に最強を認める男。
「神門、当主…」
「話は聞いたか?聞いたよな?憑百家とドンパチしなけりゃならなくなった、おめーらの力が必要なんだ。だからよ、陽向旭」
 四門といいこの男といい、旭の言い分をまるで聞いてくれないどころか喋らせてもくれない。いい加減に文句の一つでも強引に差し込んでやろうかと思い始めた心情に至った時だった。

「今すぐ選べ、ここが最後の分岐点だ。陽向を棄てるかその信念を捨てるか。お前は多くを掴めない。不憫なことだがな」

 全てを知る最強は、全てを知った上で何も知らない青年を前に不可避の選択を迫る。
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