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 それはさりげない瞬間に訪れた出来事で、同時にチャンスでもあった。
 彼女のコートについた小さな埃を見て、潮はそれを払い除けてやるべきだとポケットにしまい込んで固く結ばれていた右手を解く。彼が愛した長く、しなやかな黒髪が流れ、あざみの輪郭をふわりと膨らませる。
「あざみちゃん、肩にゴミついてるよ」
「え、あ、やだ潮くん取ってくれたの。ありがとう」
「気にしないでよ。大したことじゃないし」
 彼女に向けた笑みは完璧だった。こんなにうまく、柔和な笑みを作れた自分を褒めてやりたい気分だ。隈の取れない目と、寝不足で血色の悪い顔をほぐして、顎はつるりと剃られて清潔だ。服装も入念に彼女がこれまで付き合ってきた男性のタイプからパターンを割り出して組み合わせた。
 あざみの髪の為なら、自分自身を変えてもいい。
 それくらい、本気だった。

 そう、本気だったのだ。

 今までも沢山の美しい髪を見てきた。それらを潮は愛したし、裏切られ、そのあまりの仕打ちに嘆き、制裁を加えたこともあった。
 潮はこれまで恋人ができたことがない。だが、数多くの愛は学んでいる。
 愛は身を削ること。維持するために、差し出せるものは全て差し出すことで、彼女たちはより魅力的に、とても美しくなっていく。
 だからこそ、潮はその毛先を見た時、動揺を隠すことができなかった。
「どうしたの?」
 肩に手を置いたままの潮に、あざみは不思議そうな表情で振り向くと、覗き込むようにしてはにかんだ。
「いや、なんでもないよ」
 潮は穏やかに笑った。あざみは不思議そうに首を傾げたが、やがて目を細めて笑うと前を歩いて行く。潮は穏やかな笑みをすぐに引っ込めると、肩先の一本の黒髪に再び目を向けた。
 それは、あってはならないものだった。
 先端の割れた枝毛が、まるで潮の選択を待つように、ぴんと一本跳ねるようにして毛束から溢れ出ていた。
 ずっと、考えないようにしていたことだ。それが潮の周辺で起きたものでなかったら、恐らく彼は何も気が付かなかっただろう。それでも、潮はずっとその記憶だけを新聞の切り抜きみたいに綺麗に切り取って、大事にしまっていた。
 だが、あざみの中に枝毛を見つけた瞬間、大事に切り抜いてしまっておいたそれは、溢れ出すように脳裏に浮かんだ。先日見たSNSの呟きが、あまりにも潮の周辺と合致し過ぎていたということを。
 幾つもの道の中でも特に厄介なのは分かれ道だと潮は思っている。思考を巡らせるたび浮かび上がる不安を消化するのが難しいからだ。

 あざみは、何か隠しているかもしれない。

 払い除けた枝毛は、やがて彼女の揺れる黒髪の中に消えてなくなった。潮は下唇をきゅっと噛み締め、あざみの隣につく。すぐそばまでやってきた潮を見て、彼女は嬉しそうに笑った。それから、潮の腕に両手を回す。とても自然で、慣れた行為だった。ほんの少し彼女の柔らかな胸に触れている感触が、左肘にある。
「あざみちゃん、ちょっと、恥ずかしいな」
「あ、ごめんね!」
 あざみがパッと離れて、距離を置く。慌てて弁解する彼女に取り繕った言葉で誤魔化しを入れていく。
 恥ずかしかったとか、そういうことじゃないんだ。
 その黒髪が気になって仕方がないんだ。
 俺は本当に、彼女の全てを見ていたのか、不安なんだ。

   【◯◯】

 うまくキープできた気がする。前の男は互いに飽きがきてた。なんで自分のことばかりでこっちのことを考えてくれないんだろう。こんな綺麗なのに手放すとは意味不明なんだけど。この間のネコちゃんどーなったかな。しつけし過ぎていなくなっちゃった。後輩いい子だけどちょっと不気味。そう、今度デートなんだけどね、良い感じになったらいいなって思う。でも駄目だったら、それも仕方ないよね。
 彼は私を愛してくれるのかな。愛するに足るのかな。

   【◯◯】

 シアターに灯った照明が、余韻のように暗闇を照らしていく。観客たちのざわめきの中で、潮とあざみはしばらくその明かりの付き方のようなゆるやかな余韻に浸っていた。もう何も映していない真っ白いスクリーンには、それまで見ていた映像が焼き付いたフィルムみたいに映っているように見える。
「すごく、面白かったね」
 あざみが、深い吐息とともに呟く。潮は何も言わず、ただ頷いた。そのままじっと座り続けていると、隣でくすくすとあざみはおかしそうに笑い始める。
「もう、そんなに感動したの?」
「え、あ、うん。すごく良かった」
 潮は照れるように頭を掻きながらはにかんでみせる。既に予習は済ませていたが、改めて見ても良い出来の映画だ。彼女に合うよう原作を読んでいたが、原作をうまく監督が消化できている好例だった。
「俺は中盤のどんでん返しが好きだったな」
「あたしも、びっくりしたけど、でも一番好きだったかも」
 あのお人好しな彼が黒幕だなんて思わなかったなー。めまぐるしい展開とかも好きだけど、ゆったりとした不穏な中でああいう突然落とされるのとか、あたしたまらない。でもこれまでの監督の原作付き作品の中だと抑えめというか、メジャー寄りにしてるような気がしてちょっと味気なかったかも。原作のほうも続編が出るみたいだし、そっちも映画化してくれたら嬉しいな。あ、でも主演の人は少しイマイチだったかな。もっとダウナーな感じの人のほうが良かった。確かにイケメンだけど演技下手だったし。
 うん、うん、と頷きながら、潮はちらりと彼女の右肩に目をやって、複雑な気持ちになっていた。
 上映中は忘れられていたのに、我に返った途端すぐに思い出してしまうそれが、見間違えであってくれたら、どんなに良かったことか。
 枝毛は、あざみの肩に乗るようにして、存在を主張し続けていた。

   ●

 あざみと潮、二人のデートは滞りなく続いた。
 彼はデートの間中枝毛のことを考え、次第にあざみに対する返答を怠ることが増えてしまった。彼の取り繕った言葉の数々を感じ取って、浮かない表情をあざみは時折浮かべたが、普段なら気がついたその仕草の数々を察することもできないくらい、潮はペースを乱していた。
 劇場を出てから既に三時間ほど。潮は予め用意していたプランを順調に消化していたが、その間何をして、何を喋って、何を考えていたのか、全く思い出せない。
 あれだけ望んだ距離にいるというのに、どうして浮かない気持ちになるのだろう。
「潮くん、今日疲れてる?」
「そんな、元気だよ。今日はちゃんと寝てきたからね」
「いっつも眠そうにしてるもんね。でも、休憩したかったらそう言ってね。あたしには、なんだか調子悪そうに見えるから」
 潮はありがとう、と微笑むと、じゃあ少し休ませてもらおうかな、と答えた。あざみは街中を見回すと、あそこにしよっか、とカラオケの看板を指差した。
 潮が頷くと、けってーい、と彼女は笑った。

 通された部屋は三、四人用の小さな息苦しい小部屋だった。中途半端な防音扉のレバーを押し込むかたちで強引に閉めると、途端に音が薄まるのを感じた。まるでハサミでこの空間だけ現実から切り取られたみたいだ。
 古く薄汚れたL字ソファの固いシートと、拭い切れていないテーブル上の暇潰しのかけらたちを一瞥し、潮はどっかりとシートに腰掛ける。
 あざみはその隣に腰掛け、鞄を隅に置いた。
 二人の間には、何もなかった。膝がぶつかりあうくらいの距離の中で、彼女はおだやかに笑みを浮かべると、そっと身を乗り出す。
「潮くん、何歌う? あたしが先でもいい?」
 子機とマイクを手にしたあざみは潮にそう尋ねながら、一曲目を入れ、一人歌い始める。下手でもなければ、上手くもない。普通の歌だ。
 潮は窓の外に広がる街の様子に目を向ける。汚れた網入りの窓ガラス越しに、塵屑のように転がる人の群れ。スーツを決めた男から、だらしない緑髪まで様々な人間の姿をぼんやりと眺めていると、その中に綺麗な髪を見た気がした。
「なになに、外になにかあった?」
「え、いやちょっと知ってる顔がいた気がしてさ」
 一瞬、気を取られてしまった自分を諌めながら、あざみに明るい声でそう言った。彼女は少し不機嫌そうに潮のことを見ていたが、マイクと子機を受け取り、歌、上手いねと一声かけると嬉しそうに微笑んでいた。機嫌が直った、とまでは言い難いが。
 窓の外を見ると、群衆はすっかり入れ替わってしまっていた。もう、綺麗な髪は見当たらない。見間違えだったのかもしれない。なんとなく、愛美に似ている気がした。
 適当に彼女の好きな歌をセレクトしながら、あざみの反応にぴったりの返答や会話を返していく。彼女は満足そうにしていたし、あざみが嬉しそうな反応をする度に揺れる髪に潮も満足感を覚えていた。それでも、どこか損なわれてしまったような感覚が、胸に居座っているのを潮は感じていた。
 一体何が、足りないのだろう。
「森くん、連絡取れてるの?」
 顔を上げる。あざみは不安げな面持ちでこちらを見ていた。
 何か言わないと、と思うのだが、潮の脳裏であざみの呟いた言葉たちが、ぷかりと泡のように浮かんで、ぱちんと割れていく。割れる度に、心も揺らぐ。
 いなくなったネコ、気味の悪い後輩。今度のデート。連絡の途絶えた森とルナ。
「ごめん、今もちょっと信じられなくてさ。あんなに鬱陶しかったはずなのに、こうやっていなくなると……」
「そうだよね、ごめん。あたし、趣味が合うからってちょっと浮足立っちゃって。潮くんの気持ち、考えてなかった」
「いや、気にしないで。でも、ごめん。やっぱりまだアイツらのことが少し気になっててさ」
 丁度いい隠れ蓑だと思った。あの二人が消えたことは確かに気になっているが、何よりも問題なのはあざみについてだ。ただ、この不安定な感情を見透かされずに済むなら、迷わず使うべきだ。
 ぎし、と古いビニールソファが軋んだ。
「あたしには、癒やしてあげられないのかな」
 太腿に置かれた小さな手が、ゆるく孤を描く。煙草一本分もない距離にあるぷっくりとした唇から、吐息が微かに漏れ、潮の顔を生ぬるく撫でた。薄っすらと開いた瞳の先に、潮は自分の姿を見つけた。随分とつまらなそうな顔をしているな、と思った。
「あざみ、さん?」
「潮くんは、イヤ?」
 彼女は潮にぐっと体重を掛け、心地よさそうに笑う。覗き込むようなその視線を、潮は悪くないと思った。むしろ、願ってもない展開だった。だった筈なのに。
 バランスを崩して触れた髪の感触に、潮は気づけば唇を噛み締めていた。艷やかで、滑らかで、胸の奥がひっくり返るような心地いい感触で、自らが真っ直ぐな愛を注ぎ続けた最高の黒髪を、自分は今とうとう触っている。
 果てしない快楽を、陰部の緊張と共に感じながら、しかし満足感は得られなかった。
 どうしてだろう。

ーーきし。

 毛先まで余すこと無く触れようと、櫛のように長い黒髪の中を泳いでいた指が、鈍い感触と共に引っかかった。砂漠を彷徨った後のような乾きと、ビニールを噛んだような軋む音を聞いた瞬間、潮は全身の血がすうっと冷めていくのを感じた。
「きゃ!」
 その声を聞いて、自分は彼女を突き飛ばしてしまったことに気がついた。L字ソファに転がるあざみの目には、驚愕の色が注がれていた。
「ご、ごめん。その、俺……」
 プルルル、プルルル、ルルルル……。
 取り繕おうとした潮の言葉を切り落とすように鳴った電話。
 揺れている。
 あんなにも渇望した髪を前に、揺れている。
 果たして俺は、彼女の髪を愛せるのか。
 
 潮とあざみは、無言のまま鳴り響く電話の音を聞き続けていた。

   ●

 会話を交わさないまま、気がつけば駅前まで来ていた。予約をしていたレストランも、恐らくもう用無しだろう。このまま取り繕った食事をしても、絡まった糸は解れない。
 本当なら、あざみの髪を一晩中愛し続けられたのに。どうして、こんなことになってしまったんだろう。
「潮くん、あたしね、気にしてないよ」
「え?」
 カラオケからずっと無言だったあざみが口にした言葉に、耳を疑った。気にしていない、本当に気にしていないのだろうか。
「どう見ても、あたしのほうがおかしかったから」
 そう言って、あざみはにっこりと微笑んだ。風を受けてふわりと広がる髪を手で押さえる彼女は、まさに潮の求めていた理想の姿に見えた。
「前の彼氏に裏切られた時は、もう恋なんてしないでおこうって思ったの。裏切られるの、もうやだなって。でも、運命みたいに潮くんが現れたから。こんなに気の合う人と出会ったの、初めてだったから……。あたし、潮くんの優しさに甘えそうになっちゃったんだと思う」
「むしろ、謝るのは俺のほうだよ。突き飛ばして、ごめん」
 あざみは頭を振る。
「ねえ、潮くん、また一緒に遊びに行こうよ。映画、楽しかったし、潮くんといるの、あたし好きだよ」
「俺こそ、楽しかった」
 こういう愛し方も、あるのかもしれない。完璧でない髪だとしても、俺が愛でて、育てる。そうやって、あざみの髪を自分好みの、唯一な存在へと導いていく。初めから自分の理想に近いものなんてなくて……。
 目の前で嬉しそうに微笑むあざみの髪を見ながら、潮はぼんやりと自分の中にこれまでとは違う感情が芽生えていくのを感じていた。
 これは、なんていう感情なのだろう。初めて感じるものだ。
 行こう。あざみの差し出した手を取る。
 柔らかくて暖かな手だと思った。
「あーあ、明日も遊べたらいいのに」
「明日はバイトだったっけ」惜しむらくは、ここから彼女がしばらく連勤に入ってしまうことだろう。せっかく新しい気持ちを知れたというのに、本当に残念だ。
「バイト、明日は愛美ちゃんと一緒のシフトなの」
「愛美とか」
「うん、潮くん、最近結構仲良いよね」
「そんなんじゃないよ。勝手にアイツが付け回してるだけだし」
「そうなの? にしては仲が良さそうだけど」
 参ったな、と苦笑した潮は、でも、と付け足す。
「愛美は鬱陶しいけど、アイツの髪、すごく綺麗なんだよな。なんていうか、艶が違うっていうか。触ると柔らかくて、すべすべで、一度触ると忘れられないんだよ。ああ、別に好きとか嫌いとかではないよ。容姿は悪くないのかもしれないけど、どっか不気味だし、人付き合い下手そうだし、アプローチメチャクチャだし、好意の伝え方全然知らないし」
 本当に、良いところは髪だけ。潮は嬉しそうに笑う。
「愛美の髪だけは、あざみさん以上に綺麗なんだよな」
 握られた手の感触が消えた。
 消えて、潮はようやく我に返った。もう後戻りの出来ない言葉を吐いた後だということにもすぐ気がついたが、すでに後の祭りだ。
 振り返ると、あざみは冷たい目で潮を見ていた。これまでの潤んだ可愛らしい瞳は姿を消し、ただ目の前の人物に対する敵意だけを映していた。初めて見る視線に、潮は言葉を呑んだ。
「あざみさん?」
「また学校でね、潮くん」
 踵を返して去っていくあざみの髪の中で、一本の枝毛が揺れるのを潮が見つけた。あんなに美しく見えるのに、近くて見るとなんて悲しい髪なんだろう。潮は遠くなるあざみの黒髪を眺めながら、しばらくぼんやりとその場に立ち尽くしていた。
 潮がこの日初めて感じた気持ち。
 それが、【妥協】というカテゴリーに属されることに、彼はまだ気がついていない。
 無償の愛を髪にこそ注ぎたいと願う彼自身を裏切り兼ねない感情によって、自分がどうするべきかを見失い始めている。
 ただ、今思うことが一つだけ。

【愛美の髪に触れたい。】

 離れていくあざみを見送りながら潮が思ったことは、それだった。



   【本音】

「ほんとにムカつく」
 スマートフォンを片手にあざみは呟く。駅構内のざわめきの中で、その言葉は雲散霧消し、後には彼女の不機嫌そうな、しかしよく整った顔だけが残った。
「何、あたしの前で他の女褒めるとか……ありえなくない?」
 あたしだけを愛して欲しいのに、完璧なあたしに好意を寄せられたのに他の女を出すなんてあの男は何を考えているのだろうか。
「あーどうしよ、とりあえずキープかな」
 髪を後ろに払って、二、三度首を振るとSNSを開く。丁度いいのがもう一人。
 瀬賀の名前と、穏やかそうなプロフィール画像を見て、あざみは微笑む。
「ねえ、あなたは私を愛してくれる?」
 フリックを打つ音が、パチリ、と響く。それを掻き消すように、電車はホームに滑り込み、やがて、あざみごと呑み込んで消えていった。

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