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11年前のシド

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11年前、平成17年
 
 田原は呼吸に合わせて線を引く。
 息を止めると、身体の微細な震えも無くなり、望み通りの線が生まれるらしい。
「これが今日の分だ」
 田原は完成した絵を掲げる。
 私のリクエストに応え、彼が愛用している七色の色鉛筆を全て使って描いた虹の絵だ。
 彼の絵を見るたび、その暖かみに目を奪われる。
「やっぱり上手だね」
 田原は幼い頃、病院に通う中で、絵日記を課題として出されたそうだ。絵を描くことで、継続的に自分の精神状態を自己分析するため、そして客観的に評価をするためのものだが、今では彼の日課、一つの趣味になっている。
 本人の病状が無意識に絵へ反映されるようで、特に調子が悪い時は顕著に絵に現れるそうだ。しかし、今描かれた絵を見る限り、現在の田原の状態は良好なのだろう。
 とはいえ、私は田原の調子が悪い様子など一度も見たことはない。
 それにしても、色鉛筆は絵の具の様に色が重なりやすい訳でもなく、混ぜ合わせて別の色を生むことは出来ない。それなのにどうして、定められた七色に惹かれてしまうのか。
 配色のためか、それとも繊細な濃淡のためか。もしかすると、絵を披露する田原自身に惹かれているのかもしれない。
 そんな想いに至って妙に恥ずかしくなり、私は自前のギターケースをいじっている草野に声をかける。
「草野も何か言いなさいよ」
 彼はゆっくりと顔を上げ、絵をみつめる。
「まあ、いつも通り。かな」
 草野は気の抜けた声で言い、私は腹が立った。
「なによそれ」
「なにが」
「もっと何かあるでしょ」
 私は、つい言葉を強めてしまう。
「木偶」
「何でムキになってるんだよ」
「トウボク」
 次々に罵倒する言葉を浴びせてしまう。
 何故ムキになっているのか、それは田原の絵を馬鹿にされた気がするからだろうか。
「おい、椎名いい加減にしろよ」
 田原がすごい剣幕で迫る。何なのだ。いや、私が悪いのは分かる。それでも言わずには居れなかったのだ。
「言い過ぎだ。草野に謝れよ」
 田原の言う通りだ。
「いいよ別に。むしろ二人とも揉めないでくれよな」
 草野が割って入る。今は彼の事で揉めているのにヘラヘラと他人事の様だ。私はこの調子が気に食わないのに。
「それよりさ、トウボク、じゃなくてトウヘンボクだろ、唐変木。トウボクは倒れた木だ」
 彼は悪びれる様子もなく言った。
 頭に血が上る。
「なんなのよ」
 私は冷静さを失って、その勢いで店を飛び出した。私は、どうしようもない奴だ。
 どうして私は草野に腹を立ててしまうのか。
 以前、草野に私の字を馬鹿にされたことを今も引き摺っている訳ではない。いや、許してはいないが。
 しかし、さっきの発言だって、私をコケにするつもりでなく、場を和ませるために発したモノかもしれない。そう思って憂鬱になるが、引き返す勇気もない。


「アンケートにご協力ください」
 駅の入り口で汗を流して働くお姉さんから、アンケート用紙と鉛筆を渡された。内容は最近、駅の構内に張り出されている広告の認知度に関する調査だった。
 自筆の文字を記入する項目はなく、四者、若しくは五者択一でチェックをつける回答方法のみだった。
 字を書くのが苦手な人間にとって、やはり、この形式は良い。私が大学のセンター試験や本入試を終えるまでは、試験の形式はマーク式のままであってほしい。
 ただ、漢字を書くのは得意だった。構成が複雑であると厄介だが、直線を引く事は問題なくできるため、直線で構成される漢字は私にとって得意分野だった。
 しかし、一番付き合いが長い平仮名は未だに苦手である。
 特に『あ』、とか『め』などの曲線で作る文字は大嫌いだ。
 アンケートのチェックを終え、用紙の最下部の余白に『華』と付け加えた。
 この漢字はすばらしい、本来持つ意味自体もさながら、直線のみで作られるこのフォルムの美しさは筆舌に尽くしがたい。
 私が『華』を書くのは、相手に敬意を表するときだ。そして私自身、この字を書き、見るだけで心が洗われる。
「椎名、間に合ってよかった」
 私の空想を破ったのは、田原だった。
「草野は?」
 田原の横に彼の姿はない。
「少し用事があって、遅れてるみたいだ」
「そうなんだ。さっきは何となく、田原を馬鹿にされた気がして、ね」
「まあ、草野も悪気がないのは分かるだろ」
「分かってる。けど、できれば草野にも来てほしかったけど」
 私が言える立場ではないのだが、そう思った。
 田原は私の様子を見て、安心したのか「帰ろう」と言った。
 そして駅のホームへ降りた時、自然と口が開く。
「私さ、草野の煮え切らない態度を見てるとね。昔、虐められてた頃の自分を思い出して、カッとなっちゃうんだよね。それで見ていられなくなって、つい強い言葉を使っちゃうんだ」
 私は辿り着いた答えを田原に伝えると、彼は少しも批判することなく「そうか」と一言言った。
 成程。あの絵に暖かみを感じるのは、きっと、病気の状態によるものではなく、田原の優しさが、そこに反映されている為なのだろう。
 このとき、田原は私の事を気遣っていて周りに意識が向いていなかったのだと思うし、私も周囲の事など気に掛けられなくなっていた。
 だから、駅のホームで起きている出来事に気づかなかったのだろう。
22, 21

  


「ちょっと、あなたたち近寄らないで」
 そんな女性の声で、我に返った。
 しかし、それとほぼ同時に「邪魔するな」と声がする。そして私は右肩の辺りを押され、後方によろけた。
 目の前に立つ田原が「何するんだ」と声を上げる。
 田原の前には二人の男が睨み、掴みあっている。何らかの理由で喧嘩になったのだろう。私たちはその空間に入り込んでしまったようだ。喧嘩など駅のホームでは頻繁に見る光景だが、巻き込まれるのは初めてである。
 どちらかが私を突き飛ばしたのだろう。そう思った時、片方の男が田原へ向かって手を振るった。
 何か、擦れるような音がする。
 すると、田原が右の上腕を抑え、「うっ」と唸り腰を落とす。
 ワイシャツの右腕の部分が徐々に赤く染まっていく。
 事態をスムーズに理解できず、男の方へ目を向けると、一人の男がナイフを手にしている。田原が斬られたのだ。
 もう一人の男は、その様子を見て驚き、腰を抜かしたように逃げていく。
 ナイフの男は、逃げる男を無視して私達を睨む。
 原因不明の怒りに震える男の標的が私たちに切り替わったのだろう。何と理不尽な暴力なのか。
 叫び声が上がり、周りの人々が一斉に逃げ惑う。これでは駅員が来ても事態を収拾できない。
 どうすればいいのか。恐怖で思考力が鈍くなっている。
 私も腰が抜けて、動けない。すがる思いで目の前にうずくまる田原に手を伸ばす。
 じりじりと歩み寄る男が目の前まで迫った時、視界に大きな黒い塊が飛び込んでくる。
 鈍い音がして、黒い塊と、男が地面に崩れた。
「大丈夫かよ?」
 張りの無い声がして、横を見ると、草野が立っていた。
 彼は、地面に落ちた塊を拾い上げる。それはギターケースだった。
 地面に倒れた男は、ギターケースが顔面に命中した様で、顔を抑え、混乱した様子でキョロキョロしている。
 そして間もなくして、駅員達に取り押さえられた。
「草野、助けてくれたの?」
「そこの階段を下りてる時に二人の姿が見えて、怪しく思って駆けてきたんだよ。間に合うか微妙だったから、ギターを投げつけたんだ。無事に命中してよかった」
「もし、男が応戦してきたらどうするつもりだったの?」
「そのときは、どうしたかな?」
 何それ。私たちの為に、捨て身で突っ込んできたという事なのか。
 草野にこんな一面があるなんて思いもしなかった。
「まあ、助かったから良かったじゃないか。本当に感謝するよ」
 田原はいつの間にか、調子を取り戻して言った。しかし、右腕の鮮血が痛々しい。
 私も田原に続いて感謝を告げた。
「それにしても、ギターで人を痛めつけるなんて、シドヴィシャスみたいだな」
「シドが使うのはベースだけどね」
 よく分からない話で二人が盛り上がっていると、駅員が私達を救護室へ案内してくれた。
「草野が思いの外、早かったのは、怒った椎名の事が気になったからなのか?」
 救護室への道中、田原が言った。
 そんな事、わざわざ掘り下げる事でもないだろう。彼は意地悪でもするつもりで訊ねたのだろうけど。
 しかし、草野は理解できない様子で眉をひそめ、首を傾げる。
「そこは、嘘でも頷くところだよ」田原が言う。
 確かに、そうかもしれない。
 私は小さく溜息をついて、鞄から、お気に入りの便箋を一枚取り出し、字を綴る。
 それを草野に渡した。
 草野は「なんだこれ」と再び首を傾げて、便箋を開く。
「華?」
 そして、彼はもう一度首を傾げた。
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