4日目-2
早乙女薫は、渋谷の事務所に来ていた。
早速茶髪の女性に挨拶する。名前はなんだったっけ?思い出せない。
とにかくジャージのことしか覚えてない。
奥の部屋に入るように案内される。
そこには、顔のテカテカした、おっさんがいた。
「初めまして、早乙女くん。僕の事はご存知かな」
男はスーツに身を包んで、頭はワックスでカチカチ。顔は汗か何かでテカテカ。
笑い皺の刻まれた人の良さそうなおっさんであった。
「初めまして。すみません、存じ上げないです」
「そうかそうか。いや、この前タクシーでお会いしたんだけどね」
「えっと・・・あれ、運転手さんですか?」
「ああ、そうさ」
早乙女は記憶を辿る。「暗くて、帽子を被られていたもので…」
男は首を振る。「いいんだ、いいんだ。別に責めちゃいない」
「えっと、それで今日は何をすればよいのでしょうか」
「まあそう焦らずに。ここでの仕事は何をしているかわかったかね?」
「いえ、全く検討もつかないです」
「ま、そう気張らなくていい。肩の力を抜こう。別に何言おうが怒ったりしない」
男はニコニコとしている。この人ならたしかに怒られないかもしれない。
「そうですね、最初は女性を説得してたので、行方不明になった人を捜索してるのかなと。
次はおじさんだったので、もしかして何かいかがわしい仕事なのかなと思いました」
ハッハッハ、と男は大声で笑う。早乙女は少し身構える。
「いかがわしい、か。悪くない。まあそういう仕事だって別に悪いわけじゃない。本人達がそれでいいと思ってて、かつ自分からやりたいと思ってくれればそれでいいじゃないか。そう思うだろう?」
早乙女は少し考える。
「なんともいえないですね。ちょっと私からは判断できかねます」
「硬い硬い。タメ口でいいくらいの気持ちでいこう。でもこうして出勤してくれてるってことはそんなに嫌じゃないだろう?この仕事」
「正直に申しまして、嫌とかいいとか考える前に、まだどんな仕事なのか判断しかねてますね」
「うーん、そっか。もう少し何回か働いてもらってから聞いたほうがよかったか」
男は立ち上がり、カーテンを少し開けてスキマから外を覗いた。
何が見えるのだろう。どうせビル街しか見えやしないが。
男は続ける。「あ、そうだ。僕が誰か言っておかないと。僕はね、オオシマっていうんだ」
「オオシマさん。社長のオオシマさんですか?」
「ああそうさ。僕が社長のオオシマだ。何か聞いたことがあるようなそぶりだね。
あ、社名にもなってるか。でもそれだけじゃない?」
「えっと、そうですね、言おうか少し迷うのですが」
「いいよ。何でも言ってくれたまえ。足が臭うとか口が臭いとかそういうのもOKだよ」
「受付の方が心酔してるとかいう噂をお聞きしました」
「あー、あの子ね。神崎くん。彼女はたしかにアメリカからの付き合いだね。でも心酔ってほどかなあ?別に僕がいい条件を出したからついてきただけだと思うよ」
「なるほど、そうなんですね」
少しきわどい話を出したが何とかなったので、早乙女は少し緊張が解けた。
「えーっと。で何の話だったっけ?」
「たしか仕事が楽しいかという話だったかと」
「うんうん、そうだ。あ、ちなみに今この時間もちゃんと時給は発生してるからね、安心してね」
「はい」
「うん。どうも話が反れて仕方ないな。まあいい。別に天才っていうのは何も論理的な人間だけじゃないからな。色々なことを連想できるほうが頭がいいって話もあるし。けどまあそろそろ本題に入るか。えっとね、ここの仕事については、君が2回目、つまりおっさんを迎えに行ったのがメインだよ。なんと言うか、家に帰れなくなっちゃった人たちを迎えに行くんだ」
「帰れなくなっちゃった人たち」
「うん、そうだ。君は家出したことはあるかい?」
「あると思います。随分と小さい頃ですけど」
「そんな感じかなあ。主に私のようなおっさん共にもさ、家に帰りたくなくなることがあるんだよ。かと言って個室ビデオに泊まってもさ、浮気かと心配されるわけだしね。しかも家に帰ったほうが絶対次の日ラクだし。でも、帰りたくない。そんな気持ちになっちゃうんだ」
「どうしてですか?」
「どうしてって、そりゃあ人それぞれさ。でももし抽象的な言い方が許されるなら、日常生活に倦んできてしまったんだろうな。繰り返されるルーティン、逃れられないマンネリ。君は毎日同じ地下鉄に乗って40年同じ会社に通ったことはあるか?ないよね。なんていうか、それは恐ろしいことなんだ」
「はい」
「そのために子供がいるわけだけどね。我々は毎日毎日同じ会社で働くけど、子供は違う。言葉を話せるようになって。歩けるようになって。幼稚園に入る。小学校。中学校。どんどん成長していく。その成長を見て心を慰めるわけだ。世界はいたちごっこじゃない、前に進んでるって。
でも本当にそうなのか?世界全体は前に進んでるかもしれない。でも俺は、おれ自身は、同じところをぐるぐる回ってるだけじゃないか。そういう風に思ってしまう、あるいは、そういうことに気付いてしまう瞬間が、訪れることがある。そんなとき、帰路を辿る足が、止まってしまうんだ」
「そこで迎えにいくと」
「そうさ。喩えるなら保育園でさ、17時、お遊戯の時間が終わって、さあお母さん達が迎えに来ます。でも帰りたくない。このまま遊びたい。いや、このたとえは少し違ったかな。でもおっさんだぜ?おっさんはさ、誰も迎えに来てくれない。ある種の胎内回帰的なことなのかな。単なる甘えたさなのかな。わからない。そこで我々が、おっさんのママ代わりに迎えに行くわけさ」
「そんなことできるんですか?」
「できるさ。おっさん達だって、別に一生帰らないことができると思ってるわけじゃない。妥協点を探してるんだ。帰りたくない、この気持ちにウソはつけない。でも帰らないといけない。また日常生活に、朝起きて会社行って帰って寝てまた起きて会社行く、洗濯機に放り込まれたような生活に、戻らなきゃいけない。ほんの一瞬だけ、癒されれば。それでもう家に帰れるんだ。そこで妥協してさ、また会社生活に戻っていくわけだ。その手助けを我々がしてるわけ。
まあでも、たまには、というか、過去に一件だけ帰れなかった例があるんだよ」
「もしかして、亡くなられたとか…?」
早乙女は手に汗を握る。
「いいや、生きてるさ。ちゃんと君の目の前でね」
「オオシマさんが?」
「そうさ。俺はもうこの十年以上家に帰ってないんだ」
早乙女薫は、何となくモヤモヤとした気持ちで帰路についていた。
オオシマさんの話は何となくわかった。確かに、そういう状況があって、そういう仕事は成り立つかもしれない。
いまいち、すっと飲み込めないところがある。そして、最後のあのオオシマさんの告白だ。
早乙女は、改札を出て、駅から出て、ふと足が止まった。
まるで床に足がくっついたみたいに、足が前に進まない。
くるりと振り返り、歩き出すとウソみたいに身が軽くなる。
早乙女はとある電話番号に電話していた。
「もしもし」
「お電話ありがとうございます。オオシマ・エージェント・サービスです」
おしまい