第10話
秋晴れの東京競馬場に、馬のいななきが響き渡っていた。
今年の東京開催最終日。そしてメインレースはGⅠジャパンカップであるだけに、昼時だというのにパドックは黒山の人だかり。上の階から眺めるとまるで隙間がないように見えた。
例年、ジャパンカップ当日の東京の新馬戦には、デビュー前から騒がれていた期待の馬が多く使われる傾向があり、今年もまた例外ではなかった。
『駿馬』紙面上は、6名の予想陣のうち、実に3人がザラストホースに◎をつけていた。だが、実際の人気は、1番人気ではあるものの、他馬を圧倒的に引き離すほどのものではなかった。相手も揃っているのだった。
ザラストホースはキーンランドセールという海外での競走馬のセリにて買われた外国産馬だが、今回僅差の人気で追随している3頭は、いずれも現在日本を代表する種牡馬であるインディペンデンスの産駒たちだった。
近年、日本では海外出身馬が以前ほどの強さを見せることはなくなってきており、世界的良血と称されるザラストホースとはいえ、日本ナンバーワン種牡馬のインディペンデンスの子供達に果たして勝てるのか? というのがファンの見方なのだろう、と朝川は分析していた。
「アリスちゃんにはどれが良く見える?」
東京競馬場4階の喫煙スペースからパドックを見下ろしている朝川とアリス、そして戸田明美。戸田は設置された灰皿でタバコを押し消しながらそう言った。
「正直言って、暴れている馬以外はみんな良く見えます……」
「そうよね〜。私もパドックはあんま見ないからさァ。取材した馬の状態が、聞いた感触と見た目でどう違うかは確認するけどね。その点、朝川クンはプロだけど」
戸田から一瞥されて、朝川は苦笑いした。
「そうですねぇ。正直、ラジオやテレビでパドック解説している立場では言いづらいんですが……新馬は、あまり得意ではないんですよ。俺は、その馬の前走からの変化に着目して見るので」
馬にも旬の時期がある。朝川は、対象馬の前走時の様子はもちろんのこと、旬の時期も記憶するようにしている。そのために、資料の整理やレースVTRの確認をしているのだった。
「前置きを分かってもらった上で聞いてもらいたいんですが、俺にはインディペンデンスの3騎、特にマックスインターの気配が抜群に良く見えますね。新馬でここまで仕上げてくるのは珍しいと思います。次走へのお釣りを残してるのか心配になるくらいにね」
マックスの冠名。クラブ法人のマックスレーシングの所有馬である。
「マックスレーシングの馬、最近よく走ってるよね」
戸田は立ち上がって手すりに寄り掛かってマックスインターを見た。
「静内のグループに入ったって話ですね。あそこの大牧場から良い馬がたくさん入るようになって、質量ともに上がってきてるとか」
「そうか、そういや前のマックスレーシングにインディのイメージはなかったなァ。もっと安い種牡馬の仔が多くて、一口あたりの値段も安いクラブ法人ってイメージだったわ」
「今は普通にGⅠにも数頭出してきていますからね」
「あの〜……」
おずおずと手を挙げて、タバコの煙の間に小さな身体を割り込ませるアリス。
「『しずない』ってなんですか? あとクラブ法人って……」
「静内は、北海道の競走馬生産牧場の多い地域の一つね。日本の競走馬のほとんどは北海道で生産されてることは知ってると思うけど……」
「明美さん、この子はまだ競馬の知識が少なくて……あ、クラブ法人はな、馬主資格を満たさない一般人でも、比較的安いお金で馬主気分を選べるサービスを提供してる法人のこと」
「はあ、はあ」
言いながらスマホでメモをするアリス。
「あ、今はケータイいじってるわけじゃなくて」
朝川がフォローに入ったが、無用の心配のようだった。
「分かるよ、マジメな子だもん。でも今時の子だよね、紙に書くより携帯に打つ方が速いなんて」
感心したように、アリスを見つめる戸田。
実際、アリスはあっという間に駿馬編集部内で評判になった。競馬は知らないが、知ろうという姿勢が窺え、物怖じせずに大先輩にも質問することができる。娘が増えたようだ、とか、こんな娘なら良かったのに、という声を朝川に直接届けるトラックマンもあった。
『伊藤敏幸の姪』などという枕詞がなくとも、伊藤有栖で独り立ちできる、という確信を第一印象から持っていた朝川だが、周囲の評価もだんだんと伴ってくると、予想が的中した時と同じような満足を感じていたのだった。
「そういえば、アリスちゃんはどうしてこの世界に入ってきたの?」
戸田がそうアリスに訊いたのとほぼ同時に、パドック停止の合図が掛かり、レースに騎乗する騎手が騎乗馬に走り寄っていった。
アリスは、ザラストホースの方を見ていた。視線を全く動かさず、鞍の付いている背中の上を見続けていた。
「私は……」
「明美さんは?」
「就職の年に競馬ブームだったから!」
アリスの声は戸田のキッパリした発声にかき消され、消えた。
そして、パドックからも馬が消えた。
やばい。
安斎咲太は、ゲートが開いた直後に思い描いていたレースプランを貫徹できないことを確信させられた。
ゲートから思うように進んでいかなかった。やはり練習と本番のレースは別物だ。練習では遅れなかったのに。
新馬戦は概してスローペースになるものだ。それは、いきなりハイペースで飛ばして、単なる暴走馬になってしまうことを皆恐れているからだ。レースの進め方でその後の馬生が決まってくる。レースで勝つためには、直線まで脚を残すためのペースを身につけなければならない。
このレースも御多分に洩れず、1,000メートル通過が65秒4。超のつくスローペースとなった。
外回してたら間に合わん。
安斎は、馬がひしめく内側のコースを選択した。
レースプラン変更だ。こうだ。
ダービーまで、レースは多くて5戦。それだけしかない。必然的にひとレースも無駄にはできない。
だからこそ、毎レース課題を持たせる。デビュー戦の課題は、馬の間を抜けること。馬群を怖がらない馬にすること。
そういうことにしておこう。本当は、勝てればなんでもいいんだけど。
ここを落とすと、全ての予定が崩れる。それだけは避けなければならない。
こんなとこで負けちゃいけない。この馬に携わる人間なら、みんなそう思ってる。
何より僕が許さない。この馬が負けるなど。
「いけ! ラスト!!」
超スローペースで、1,800メートルのレースは、直線ヨーイドンの短距離戦に様変わりする。どの馬も脚が残っているから、問われるのは瞬発力とトップスピード。種牡馬インディペンデンスはこの展開になると非情な強さを誇る。だからこそ、スロー偏重の日本競馬においてトップたり得るのだった。
しかし今日は、内をかき分けて、重厚ヨーロッパ血統の一頭が突き抜ける。
血では説明できない鬼脚。
まれに起きる突然変異。血統派には永遠に理解できない異常な個性。なぜ、コテコテのヨーロッパ血統が、日本競馬の申し子、インディペンデンス産駒を凌駕する脚を使えるのか?
立派な血だが、日本競馬には果たしてどうか--そんな事前の予想をあざ笑うかのように、ザラストホースは日本の東京を満喫していた。
『俺を見ろ!!』
鞍上の安斎は、ザラストホースと気持ちを通わすことができた。いや、できる。そう信じていた。
穏やかな馬に見える。だが、レースでは密やかなエネルギーを爆発させる。
その源は怒りだ。理由は分からない。母国を離れたからか、あるいは縛り付けられるように走っているからか。分からない、そこまでは。
ただ、お前と僕は似てる。
安斎は、完全に勝ちを確信し、鞭を打つのをやめ、手綱を緩めた。振り返るまでもない。大差だ。蹄の音が、どこからも聴こえてこない。
『俺を見ろ!!!』
「みんながお前を見てるよ」
そう安斎が呟くように言った瞬間、ザラストホースはその蹄跡を新たに刻んだのだった。
ゴールを通過してすぐに、安斎はザラストホースの首すじをポンポンと叩き、よし! と叫んだ。
全体のタイムは遅いが、それでも、ラスト3ハロン33.2は速い。これはザラストホースが出したタイムである。
新馬戦は、将来のダービー馬と未勝利馬が一緒に走るレースだ。
レース後、検量室前では、竹淵調教師が紅潮した顔でザラストホースと安斎の帰還を待っていた。その顔を見て、安斎は心底馬を降りたくないと思った。レース以外でも疲れる。大変だ。
「咲太! ブサイクなレースしよって! もし詰まったらどうするつもりだった!」
「…外回したら間に合わないと思いまして……前が空くかは賭けでしたが、勝ったんだから良いでしょう」
「お前なーッ!」
火に油を注いだか、頭の血管が千切れそうな勢いで安斎に迫る竹淵。
「もっと安全に勝てたレースだったんだよ! ダービーまで負けちゃいけない馬なんだ、こいつは!」
「ダービーまで? ダービーでは負けてもいいんですか? それはラストへの侮辱ですよ、先生」
「そうは言ってねー!」
師弟大喧嘩の様子を、周囲の競馬関係者は野次馬のように見ていた。その中には、駿馬トラックマンの五島と、五島に連れられた朝川とアリスも混ざっていた。
「なあ、安斎騎手と竹淵調教師っていつもあんな感じなの?」
朝川が五島の耳元で囁く。五島は竹淵厩舎の担当トラックマンなのだった。
「言い争いはいつものことですよ。今日はちょっと激しいっすけどね〜。 そんだけ、あの馬が特別なんですね」
ベテランの大調教師相手に一歩も引かない23歳の若手騎手。その胆力は新人離れしていた。
「乗ってた僕には分かります。ラストは他馬を圧倒して勝ったことに満足している。その体験が彼をもっと強くしてくれます。僕らにできることは、ラストにさらなる満足感を与え続けること。そうすれば、ダービーを無敗で勝てるような馬になれますよ!」
そう言い切って、レース後の体重測定に向かう安斎。竹淵の言葉はもはや形を成していない。
五島は竹淵の隣に行ってなだめている。
朝川とアリスの前を、安斎が通り過ぎていく。
「咲太くん」
アリスが確かにそう言ったように、朝川には聞こえた。安斎にも聞こえていた。
「…アリス?」
安斎は立ち止まって、アリスの方を振り返った。
アリスの頬は、ほんのりと赤く染まっていた。
安斎は、そんなアリスを見て、微笑んでから、検量室に入っていった。
朝川には、訳がわからなかった。