第13話
東京都品川区勝島、大井競馬場。
年の瀬にもかかわらず人でごった返している競馬場。その様子を眼下に見下ろすスタンドの一角に、『駿馬』トラックマン有志が集まっていた。
大井競馬場スタンド四階『ダイアモンドターン』--大井競馬場でも人気の高い指定席であり、まるで高級ホテルのフロントのように美麗なスペースの中でゆったりと競馬を楽しめる上に、各種バイキングやソフトドリンクの飲み放題もセットされている。中央競馬にはないサービスである。
今日は、競馬界今年最後のビッグレース、東京大賞典競走が行われるということもあり、ダイヤモンドターンも空いている席などなかった。朝川は、他のトラックマンが各々バイキングを摘んだり、新聞やオッズと睨めっこしながらマークシートを染めている中で、手許のスマートフォンと格闘していた。
「ツイッターの登録って……これでいいの?」
「先輩、大丈夫です! 後はプロフィール画像と紹介文を設定して、最初のツイートをすればオッケーですっ」
アリスは一仕事終えた表情で、満足げにワイングラスの中身を飲み干した。
先日の編集会議で、アリスが提示したのは、駿馬デジタルコンテンツのさらなる推進について、であった。
『ネット新聞だけでは訴求力が弱いと思います。ブログやソーシャルメディアを用いて、等身大の情報を提供していくことで、駿馬本紙やネット新聞の認知度も高まっていくのではないでしょうか? それに、この方法ならお金もかかりませんし……』
デスクに決定的に響いたのは『お金がかからない』という点だったようだ。その瞬間、実行命令が下された。そして、白羽の矢が立てられたのは、朝川だった。
『ちっとでも知名度がある奴の方が宣伝になるだろ!』
デスクの鶴の一声で、朝川は決して得意ではないデジタルの世界に真正面から向き合う羽目に陥ったのだった。
「…画像はとりあえず馬のでいいよな?」
「いいと思います」
「…呟くって、なに?」
「短文を打って投稿することです」
「投稿すると、どうなるの……?」
「朝川先輩の言葉が世界に向けて公開されます」
マジで? 世界? スケールデカすぎない?
アリスの言葉に圧倒され、朝川は最初の一文を打つのを躊躇わざるをえなかった。
「だいじょうぶですよ、あんまり変なことさえ書かなければ、炎上なんてしませんから!」
朝川を安心させるように、にっこりと笑って励ましてきたアリスを見て、朝川は力関係が逆転したような気がして情けなくなった。
「…『競馬専門紙駿馬のトラックマン、朝川征士です。今日からツイッターを始めさせていただきます。トラックマンとして普段あまり知られていないことから、我々の日常的なことまで、様々投稿していきます。今後ともよろしくお願いいたします。』……こんな感じでどう?」
「うーん、ちょっと無難ですね……あ、そうだ!」
アリスは朝川の手からiPhoneを取り上げ、ダイアモンドターンの窓の外に広がる競馬場の光景を一枚撮影して、文字を少し追加した。
「『記念すべき初ツイートは大井競馬場の指定席から!』って入れました。写真も添付して。この方が親しみが持てますよね!」
なるほど、と朝川は直された画面を見て思う。この方が色々と伝わりやすいんだろうな、と納得したのだった。
「もしこれで良ければ、右下の『ツイート』を押してください」
青い縁に白抜き文字で『ツイート』と書かれているところを、朝川は押してみる。少しの間があって、画面が切り替わった。
「これで、朝川先輩のツイッターデビューが完了です! 後はこんな感じで、日々のあれこれを呟いて、駿馬をアピールしましょう!」
「…あー、緊張した」
何事も、初めては疲れる。一息つくと、朝川は急激にビールが飲みたくなってきてしまった。もう我慢できない。
東京大賞典の馬券はすでに買ってある。あとは三十分後のレースを待つのみだった。
ダイアモンドターンには、ダイアモンドガールという数名のPRガールがいて、そのうちの一人がビールの手売りをしている。朝川はそれを思い出し、ダイアモンドガールの元へと向かったのだった。
「一杯ください」
「ありがとうございまぁす! 楽しんでますかぁ?」
当たり前だがとても可愛い。そしていい匂いがする。一瞬、競馬場ではないどこかにいるんじゃないか、と錯覚してしまいそうになる朝川だった。
「今日はお客さんがたくさんいますね。売れてるんじゃないですか?」
「ハイ! 私、ダイアモンドガールになって二年目なんですけど、去年よりずっと活気があります! 若い方も増えている気がしますね〜」
この席だからかもしれないが、明らかに二十代前半から半ばくらいのグループが多い。競馬は、ある程度客の世代交代がうまくいっているのかも、と朝川は思う。それで苦しんでいる公営競技はたくさんあるのだが。
「六百円になりまぁす」
「あ、はいはい」
「東京大賞典も、頑張って当ててくださいね! もし儲かったら、もう一杯よろしくお願いします!」
商売上手め、と思いつつも、こう言われてしまうと、何としても東京大賞典を当てて、その金でもう一杯買いに来てしまいたくなってしまった。やっぱり競馬場じゃないみたいだ、と感じてしまった。
喫煙所で一服しながら、朝川はゴール前を見下ろす。沢山の人が、今年最後の大レースの始まりを、今か今かと待ち続けている。その光景を見て、今年一年を思い返す。
楽しいこともあったし、予想があまりに当たらず、落ち込む夜もあった。上手くいったことも、失敗したこともある。競馬は一筋縄ではいかないものだ。だからこそ魅力的である。あの人波の中の一人一人も、おそらく自分と同じような状況だろう。皆が、競馬に夢を見ている。救いを求めている。答えを探している。
今年最後にツイッターを始めた。
ならば、彼らに届く言葉を考えよう。競馬の、駿馬の、役に立つような言葉を考えよう。年の瀬だからか、厳かな気持ちになってしまう。ギャンブルを今まさにしているというのに、そんな気持ちで良いんだろうか、と思いながら、タバコの火を消し、ビールを飲み干す。
席に戻ると、アリスが笑顔で迎えてくれた。
「朝川先輩! すごいです、早速フォロワーが百人超えました! やっぱり、先輩は有名人なんですね!」
フォロワーが百人を超えることがどれほどすごいのか、朝川には分からなかった。ただ、アリスが喜んでいるのだから、きっと良いことなのだろう、とは思い、素直に嬉しくなった。
「…その良い流れで、レースも当たれば良いんだけどな!」
朝川は席に着き、視線をコース中央の大型モニターに移した。今年最後の大レースが幕を開けようとしていた。
来年も、良い年になりますようにーー。