第12話
冬のグランプリ、有馬記念が終わった。これで今年の中央競馬の全てのレースが終了したことになる。
そのため、本来なら、激務で休みも少ない『駿馬』編集部員達も、有馬記念の翌日からは数日の冬休みとなるはずだった。だが、月曜日、関東のトラックマンは池袋の駿馬発行元本社ビルに勢揃いしていた。それは、駿馬の編集長である遠藤豊の呼び掛けによるものだった。
「みんな、この一年お疲れ様でした。そして、本来なら少しの連休になるこの初日に、午前中だけ時間を取ってもらって本当に申し訳なく思ってます。そこで、話し合いたいことなんだけど……デスク、いいかな?」
「はいよ、編集長」
遠藤編集長の隣に座っていた補佐役のデスクが立ち上がり、ホワイトボードに今日の議題を書き上げた。
『駿馬の売り上げ部数を伸ばすにはどうしたらいい?』
朝川はそれを見て、難しい、と心の中で呟いた。
基本的に、自分達にできることは、少しでもより良い新聞を作っていくことだと考えていた。というかそれしかやりようがない。より良いとは、端的には予想が当たることだ。それは容易なことではないが、レースごとの戦力分析や血統の勉強などを積み重ねて、少しずつでも的中を増やしていくしか手はないと考えられた。当たり前のことではあるものの。
「有馬記念もきっちり的中させた、重鎮伊藤はどう考える?」
デスクは伊藤敏幸にまず話を振った。駿馬関東の馬柱の一番上に予想欄があるのが伊藤だ。駿馬内ではデスクの次に古株であり、時計班としても想定班としてもキャリアが豊富。そして、テレビの中央競馬専門チャンネルや関東ローカルの競馬中継のメイン解説者としても広く競馬ファンから知られている、まさしく駿馬の顔だった。
「そうだな……一応、七、八年前から東日本大震災翌年くらいまでと比較すると、今年は売れた方なんだろ?」
「まあ、な。今考えれば、あの時期はどん底だったからな。経済的にも……」
デスクは虚ろに斜め上を見ながら言った。朝川はデスクを眺めながら、当時喫煙所で毎日のように売れねぇ、売れねぇと愚痴っていたことを懐かしんだ。新聞の売り上げとデスクの精神状態は一致するのだった。
伊藤はデスクの言葉に頷いて、話を続ける。
「そう。ここ数年で日本の経済が少しずつ上向いてきたと言われていて、実際それに合わせて中央競馬の売上も改善傾向にあるんだ。有馬が終わってすぐに、今年の年間馬券売上は二兆六千七百億円と速報が出ていたけど、これは去年と比較して一千億円近く伸びている。もちろん、景気のおかげ、だけではないかもしれないが。だから、今のところはこのまま仕事を続けていけばいいんじゃないのかな。赤字ではないわけだから」
確かに、と朝川は頷く。感覚的なものではあるが、競馬場の活気も以前よりはあるし、場内で駿馬を持っている客の姿もだいぶ増えてきたような気がしていたのだった。ただ、それを先に言われてしまうと、もし自分に振られたら答えに窮するなぁ、と思った途端に振られた。
「伊藤門下の朝川はどうだ? 師匠と同じ考え方か?」
「え、いや、まあ、そうですねぇ……やはり、俺達の仕事は、ファンに有益な情報と当たる予想を提供し続けることだと思いますから……それを続けていくというか、より進歩させていくことだと思ってます。一目で分からなくても、駿馬を使い続けてくれている人達に伝わるように。そうすれば買い続けてくれると思うし、そこに新規のお客さんが加わってくれたら、部数も増えていくんじゃないですかね?」
「現状維持ってことだな。さらに仕事に精進してくと。それは当然そうあるべきなんだが、俺は中央競馬の回復基調がこのまま続いていくことにはきわめて懐疑的なんだよなあ」
難しい顔をして、デスクは言った。
「俺達がどんなに良い仕事をしようが、肝心の競馬がダメになっちまったら、つられて落ちてっちまう。それは何年か前までで痛いほど思い知ったろ? 詰まる所、競馬ってのは社会人が可処分所得の余りで遊ぶゲームなわけであってさ。本丸が落ちたらもう戦えねぇんだ。そういう不安定な状況から、少しでも抜け出せたらと思ってるんだが……」
朝川は唸った。中央競馬専門紙『駿馬』は、その名のとおり中央競馬の予想専門紙である。それはつまり、中央競馬を買う人の中にしか駿馬の客はいないということを意味している。
では、中央競馬を買う人が、今は増えてきているものの、もしまた減り出したら--
しかめっ面の朝川の隣に座るアリスは、対照的な微笑みを浮かべて、スッと手を挙げた。
「おっ! 自分から意見を述べようとは見どころあるな! えーと、朝川の弟子で、伊藤の孫の……」
「そんな歳じゃないよ」
笑いながら伊藤はデスクの軽口を受け流す。アリスもそれに続いて、
「姪です」
と、笑いながら言った。
「まだ素人に毛が生えたような若輩者が諸先輩方の前で意見するなんて畏れ多いのですが……」
「あぁ、気にすんな気にすんな。昔はコワイ先輩方も多かったけど、今はみんな優しいから……一部を除いて」
デスクはまた、伊藤を見ながら言った。
「昔の話だよ、昔の」
伊藤の言葉を聞いて、ここまで珍しくダンマリを決め込んでいた戸田明美が楽しそうに口を開いた。
「トシさん、ホント丸くなりましたよね〜。やっぱりお孫さんできると違いますか?」
「明美センパイ、姪です、姪! あ、それで、私の考えなんですが……先程の伊藤"さん"の意見とも絡む部分があるんですが、中央競馬の売上は確かに回復してきているようです。ただ、競馬場への入場人員は、前年より若干の減少、ほぼ変わりなしなんですよね。これはどういう意味なんでしょうか?」
アリスの問い掛けに、遠藤編集長が答える。
「まぁ、今はネットで馬券を買うのが主流だろう。個人的には、競馬は券売機に実弾ぶち込む感覚こそが真髄だろうって思ってるけど、若い人はまた違うんだろうね。バーチャル的というか」
「とすると、そこに一つの答えが隠れている気もします」
アリスは周囲を見渡し、肩をすくめた。これから言うことを躊躇っているのか。
「言いたいこと言ってみろよ」
すくんだ肩を押すように、朝川はアリスの耳元で小さく語りかけた。言いづらいことにこそ、その問題の根っこの部分があるように思えてならないのだった。そして、それを言ってくれる人間が、どれだけ貴重か。
それを潰すような人間はウチにはいないよ、大丈夫。
アリスは朝川の瞳を見て、破顔した。そして、自信を込めた声で、全員に聞こえるように声を張った。
「駿馬に決定的に足りないのは、ネット対応だと思います!」