第十五話 装甲三柱会合 (鹽竈)
街の外れの外れ、立ち寄る人が日に数人いれば多い方である寂れた一帯。そこに今や持ち主も管理者もあやふやな忘れ去られた廃工場がある。
時の経過によって老朽化、蝶番が半端に壊れ傾いだドアを潜って一人の悪魔が工場内に足を踏み入れる。
その身を覆うは銀の鎧、その顔を覆うは鬼の面。
「すまない。少し遅れたか」
悪魔の中でもトップクラスの実力を持つカイザーが、工場内で待ち構えていた同胞に謝罪を告げる。
直後、カイザーの身を巨大な水球が襲った。
横殴りに大質量の水球が直撃し、しかしカイザーの身体は吹き飛ぶどころか一歩たりとも下がらなかった。キンッ、と鍔鳴りの音が聞こえ、遅れて水球が真っ二つに裂ける。
まさしく閃光が如き神速の抜刀術。装甲悪鬼の本領が垣間見えた瞬間であった。
「遅い」
舌打ちと共に吐いた苛立ち混じりの声の方へ、カイザーは顔を向ける。
「謝罪は今しがた、済ませたはずだが」
両断された水球がとぷんと波打ち、主を追い掛けるように声を放った悪魔へと集う。
圧縮された水が彼の背後で椅子の形を作り、そこへゆっくりと腰掛ける。
その表情は読めない。そもそものところ、顔は猛々しい海竜を模した面によって覆われていた。
ガシャリ。水の椅子に座り足を組んだ蒼の甲冑が威圧的な金属の擦り合わせる音を発す。
「呼び寄せたのは貴様だ。その貴様がこの場で真っ先に待ち受けていねばならぬのが道理。何故に、俺がこんな埃にまみれた息苦しい空間で待ちぼうけを喰らうことがあろうよ」
低く、濁り、それでいて不思議なほどよく通る声がカイザーを糾弾する。
「おぉーい、僕僕。僕もいるんだけど?」
カイザーが何か弁明を始めるより早く、横合いからもう一人の声が自身を主張するようにガッチャガッチャとやかましく飛び跳ねている。
機能性を重視した、薄い金属板を重ね合わせた|板金鎧《プレートアーマー》は統一された悪目立ちする赤銅色。その上からゆったりとした純白のフードマントを羽織っている。
兜は無く、代わりに彫りの深い威厳に溢れた老齢の賢者のような仮面で顔面を口元以外全て隠している。
「ああ。これで揃ったということだ」
小さく頷き、カイザーは蒼甲冑と板金鎧の悪魔が互いにそうしているように、自らも両名からある程度の距離を保った位置で歩みを止める。三名の悪魔が、それぞれちょうど三角形の頂点に立つ形で相対する。
一角は悪魔の勢力において過激派と呼ばれる、蒼海の覇王。装甲竜鬼バハムート。
対する板金鎧は、穏健派とされる勢力のリーダー格にして高名な賢人。装甲魔鬼マーリン。
そして無所属にして単身、されど悪魔達の勢力図を形作る上では絶対に無視出来ない影響力を持つ武人。装甲悪鬼カイザー。
悪魔勢力の中でも飛び抜けた実力とカリスマ性を持つ彼らを、畏怖と畏敬をもって従う悪魔らは総じて装甲三柱と呼んでいた。
今回この三柱による話し合いを提案したのはカイザーだ。今後のことも踏まえ、一度顔を合わせた上での合議が必須だと感じていたが故の招集である。
「では始めるとしよう。題目は今更言うまでもないとは思うが」
「カイザー」
会議の出鼻を挫かれ、何事かと顔を向けるカイザー。水の椅子に深く腰掛けたバハムートだ。
海竜の面の下で、地を揺るがす物々しい重低音が告げる。
端的に、そして明確に。
「|不《・》|要《・》|だ《・》」
他の二柱に対する、怖気付くほどに濃密な拒絶と殺意の気配が放たれる。
空気中の水分が寄り集まり三日月型の刃が展開される。その数、見渡すだけでも数百は下らない。
「おいおいバハムート!」
「…不要とは、何のことだ?」
わかりやすく狼狽するマーリンと、純粋な疑問を示すカイザーとを包囲する水の刃。バハムートは足を組み直して、
「この合議は元より、貴様等の存在がだ。…結託したそうだな?賢人に武人よ」
塵を払うような挙動でバハムートが片手を振るう。すると滞空しながら回転していた水刃が一斉に獲物へ向かい殺到した。斬り刻む対象は二。
「マーリン」
「ああもう!まーたこういう流れか!」
壁の一面が粉砕し、工場全体が傾く。ただ倒壊までには至らず、内部で溜まりに溜まっていた埃が、外気に晒され砂塵と舞い散る。
「げほごほっ!目が!目が痛い!」
「仮面をしているだろう仮面を」
フードを目深に被って目元をぐしぐしと擦るマーリンの悲鳴を聞きながら、カイザーは静かに腰に下げた刀の柄に手を伸ばす。
「話を聞け、バハムート。過激派の悪い癖だ」
「聞く価値があるかどうかは俺が決める。その間の|手遊《てすさ》びは許せ」
「なぁにが手遊びだか…ちゃっかり手下も呼んでるし」
未だ工場内で足を組んだまま座すバハムートの両側に、いつの間にやら二つの影が在った。
こちら側から見て右、ごぽごぽと光を吸収する影がそのまま盛り上がり形を成さずに不気味な流動を繰り返す黒影。
左側にはきちんとした人型。その貌は装甲三柱と同様に面で覆われている。青白い、頭蓋骨を思わせる角ばった仮面。ばさりと、細い体に黄色の古ぼけた布を纏い佇む姿は幽鬼の類に近いものがある。
「毎回アイツとはこうなるから会いたくなかったんだ、僕は」
それらの出現を確認して、マーリンはフードを被ったまま愚痴を溢す。そしてスッと仮面の下の両眼を鋭く細める。
「…クトゥルフ、クトゥグア。おいで」
「はぁーい!マーリン様ぁ!!」
「ここに」
呼び掛けに応じ、マーリンの左右で火球と水球が発生。火球は大きく広がり燃え盛る燕尾服の紳士に。水球は内側から食い破るように毒々しい緑色の触手が幾本も飛び出して本体たるタコの外見をした悪魔に。
穏健派マーリンの側近、クトゥルフとクトゥグアの登場にカイザーが呆れた声音で、
「なんだ、お前もしっかり部下を控えさせていたんじゃないか」
「だから言ったでしょ、こうなるのは分かってたんだ。そりゃ対策も用意するさ」
唯一部下も仲間も持たないカイザーは、変わらず柄に手を掛けたままいつでも抜刀出来る構えで過激派勢力と向かい合う。
今ここに、三勢力による物騒極まりない『話し合い』が始まろうとしていた。
「ていうかおい!『混沌』!」
白いフードマントをばさりと翻して、マーリンが人差し指を立てて黒い不定形の汚泥のようなそれを指し叫ぶ。
「…何か?」
とある神話体系からの名を冠するバハムートの側近、這い寄る混沌ことニャルラトホテプがくぐもった声色で応じる。
「何かじゃないだろ!バハムートとハスターの説得はどうしたんだ!君が説得を担当するってカイザーから聞いてたんだけど!」
こぽりごぼりと音を立てながら黒色の人型になったニャルラトホテプの、その口元にあたる部分が横一文字に開き、
「駄目だった」
「この役立たずぅ!」
バハムート含む過激派三名による一斉掃射を器用な体捌きで回避しつつ、マーリンは配下の二人に指示を飛ばす。
「クトゥルフ、クトゥグア!『混沌』と『|黄衣《おうい》』の遊び相手になってあげなさい!僕とカイザーはあの脳筋覇王とお話があるから!」
「あはははっ、わっかりましたぁ!!行こうセバス!?」
「御意に」
水と火の悪魔が同時に動き、過激派を両側から挟撃する。生物のようにうねる水流と火炎が左右に迫る中、黒い塊と黄の衣の悪魔は確認を取るように水の椅子に座す主へそれぞれ視線を寄越す。
「…許す。邪魔なアレらを引き離せ」
装甲竜鬼の許可の直後、今度こそ半壊した工場を粉々に吹き飛ばす衝撃が吹き荒れる。水が泡立ち蒸発、火炎が呑み込まれ蒸気が渦と化す。
ぶわりと湿度の高い温風が白煙と共に巻き上がり、その内側から数度の打ち合いと狂気と悦楽に満ちた奇声が響き渡るのも僅かの間。白煙が晴れる頃にはその場には四体の悪魔が姿を消していた。主達の邪魔をさせぬ為に場所を移したのだろう。
「マーリン、少し下がっていろ。私が話しを通す」
そうして戻った静寂を善しとして、カイザーが鞘に指を這わせたまま一歩前に出る。マーリンは唯一仮面に覆われていない露出した口元を指先で掻きながら警戒を維持しつつ訊ねる。
「大丈夫かい?あれ、毎度の如く話し合いする気皆無だけど」
「説得が通じなかった以上、止む無しだ」
鬼面の下で自嘲気味に笑み、カイザーは同種の装甲を宿す相手に足るだけの殺意を身に纏う。
立ちぼうけでの会話など、端から成立するとは思っていない。装甲三柱、揃う時はいつもそうだった。
歩み出るカイザー。二歩、三歩で声を発す。
「バハムートよ」
先に射程圏内に手が伸びるのは蒼海の覇王。集う水流が四周を囲う。
この三名、特にカイザーとバハムートが対峙する時、『話し合い』が始まる時、
その近傍の地図は書き換える必要が出て来る。
「私の計画に耳を貸せ」
直上から巨大な水の槍、貫くというよりは押し潰すに近いその質量を神速の居合で両断し距離を詰めるべくしてさらなる一歩を踏み込んだ。
「賢人の勢力を取り込み尚、俺を取り込む必要がある計画。成程確かに興味はある」
地面を抉る水刃を跳躍で躱し、空中のカイザーを全周に配置された水の直刀が襲う。
「『神殺し』の次に、貴様が何を企んでいるのかも、知りたくないと言えば虚偽となろう」
抜き身の刀を振るい、空中で身を捻り繰り出される剣戟の余波で工場の残骸や朽ちた建物を粉微塵に打ち砕いていく。
「殺してはいない。厳密には封じただけだ。天界に引き籠っている分には神とやらはほぼ何も出来ないし、精々が己が力を眷属に分け与える程度のこと。だからこそ天界側は非正規英雄などという面倒なシステムで我々の阻害に身を粉にしているわけだ」
一滴すら残さず消失させる太刀の斬撃に、大気から掻き集めた水分がついに底を尽く。腰を上げ、掛けていた椅子から自前の水を使わざるを得なくなったことにバハムートは若干の苛立ちを覚える。
着地したカイザーの肉迫に怯む様子を見せず、高圧縮されていた水は椅子からその無骨な手の内で巨大な大剣の形を成す。
瞬間の空隙を埋める刃の切っ先。片手持ちのカイザーに対抗するように右手のみで握る大剣の峰で受け切ったバハムートの竜面が不吉に歪んだ。ように見えた。
「貴様の功績は大したものだ、武人カイザー。かつて最強の英雄と謳われたあの男とその一派に同盟を持ち掛けた|神討《じんとう》大戦。結果として神は地上への干渉を極度に抑え込まれ、我々に大きく優勢な状況を生み出した」
「犠牲も大きかったがな。お前達がもっと協力的であれば事はより容易に済んだはずだったが」
会話の合間に差し込まれる斬撃の応酬を眺めながら、「耳が痛いなぁ」とすっ呆けて明後日の方を向くマーリンに両者は視線すら向けない。
「気に喰わんのはそこよカイザー。それだけの武功がありながらにして唯の一人も配下を持たぬ貴様は奇怪を越して薄気味悪さすら覚える。…ああ気が変わった、戯言に耳を傾けてみるのもまた一興よな」
「それは重畳。であるならばよく聞けバハムート。私の目的は悪魔と英雄達との戦いの終結。ひいては神と邪神にこの世界から手を引かせることにある」
気を抜けば瞬きの間に四肢が捥がれそうな衝撃を互いに感じ取りながら、それでも他愛ない世間話をするように本題は進む。
「そも、私は悪魔側に与しているが故に神を打ち倒す戦いを仕掛けた…|わ《・》|け《・》|で《・》|は《・》|な《・》|い《・》」
「だろうな。貴様は前から妄言の類を吐くのが得意な男だった。曰く、『人間による人間が導く人間の統べる世界』だったか。天も魔も、介在する余地の無い世界」
大振りの大剣を上半身を落として避け、胴体を狙う横一閃の斬撃を甲冑の右脚が蹴り弾く。
一撃一発が致命の攻防。彼らの生み出す暴風は最早鎌鼬のそれに近い切断性すら獲得していた。
近付くことすら不可能な、装甲の悪魔達が視線で射殺すように互いを睨め付ける。
「双方の状況を理解した時、先手を打てる立場にあるのは天界側だった。必然、潰すべきは人の世に干渉を及ぼそうとする危険の高い方。だから天の神を討った」
「もし、先に力を蓄えていたのが|悪魔側《こちら》だったとしたら発生したのは『邪神殺し』であったというわけか」
「名答」
速度と手数に勝る細身銀刀のカイザーに対し、バハムートは威力に勝る大剣重撃を支援する水の砲撃を兼ね合わせて拮抗していた。刀と剣が刃を叩きつけ鎬を削る。
目と鼻の先で自らの獲物を押し付け合う鬼面と竜面の眼光が交差する。
「そして時は来た。次は我らが悪魔を支配する邪神を屠る。人の世に現出するにはまだ力が足りない。人間の命を魔の贄に足らすには未だ数も質も及ばないからな」
「非正規英雄を百や二百殺して捧げたところで足りぬというのだから、その言は正しい。邪神の現界は到底先の話よ」
邪神の配下である悪魔達は人間の生命力を人外の力に変換する為に殺戮を繰り返している。だが、膨大な力を持つ神を人の世に降ろすにはあまりにも得られる力が少なすぎる。
それは通常の人間の約五十倍の魔力を秘めているとされる非正規英雄を贄としたところで微々たる差異しか生まれぬほどに。
だから、言ってしまえばカイザーの計画にはまだ余裕がある。さほど切羽詰まった状況であるとは言えない。それを理解しているから、バハムートは怪訝に面の下で眉を顰める。
此度の装甲三柱会合は何か妙がある。
「何を急いている、カイザー。貴様は何に駆られている。俺には貴様の狙いが見えん」
「急いてはいない。ただ、言ったろうバハムート。時は来たのだ」
カイザーの背後を狙う水の飛刃を、鍔迫り合いを放棄して横っ飛びに回避して再び距離を取る。
トスッと銀刀を地面に突き立て、柄に手を乗せたカイザーの声色は穏やかだ。まるで、長年待ち侘びた何かを受け入れるように、その雰囲気には安堵すら見て取れた。
「我ら悪魔が殺した人間の生命は、纏う|邪悪武装《オーパーツ》を伝い大元たる邪神の核へ集う。大樹が根から水分や栄養を吸い上げ成長するようにな。このシステム自体は天神も利用しているものだ。ただしこちらは大樹から根たる英雄達へと|栄養《ちから》を与える真逆のそれだが」
今更何を語るかと、構えを解いたカイザーへ渾身の一撃を見舞うべく大剣を強く握り締めるバハムート。
その巨躯を、突如として隆起した地面が触手のように絡め取った。
多少の疑問はあったが、驚愕に至るほどのものではない。この戦法に覚えがあったからだ。魔術じみた奇妙な力を振るう悪魔。装甲三柱の一角にして賢人、装甲魔鬼マーリンの放った術がバハムートの自由を縛る。
(いつの間に…)
バハムート自身に気付かれず遠隔から操作した術式で束縛されるなど、よほどの油断や隙を突かれなければありえない。あらかじめ設置していたと考えるのが妥当だが、だとしたらそれこそいつの間にやら。
思考して、思い当る。
『駄目だった』
『この役立たずぅ!』
バハムート含む過激派三名による一斉掃射を器用な体捌きで回避しつつ―――、
(あれか。避けつつ束縛の術式を設置…相変わらず苛立たしい小細工をしてくれる)
怒りに歪む表情は仮面に覆われ見えないが、向けられた怒気は感じたらしい。工場の瓦礫に腰掛けていたマーリンが白々しい笑顔でひらりと片手を振った。
「人の世に現界するのを待つ必要はない、強大な力を持つ邪神をわざわざ大戦力で迎え撃つ必要も無い。現界に必要なエネルギーを根元から断てば済む話だ。それで邪神は幻想のままで魔界に引っ込まざるを得なくなる。今現在の天神と同様にな」
初めから示し合わせていたのか、マーリンの援護に満足そうに頷いたカイザーが語りを続ける。
「天神は天使という存在を介して人間に干渉を及ぼし非正規英雄とする。いわば神は鎖で繋いだ下位天使を使ってさらに人間との|回路《パス》を繋ぐのさ。邪神はそんな手間暇掛けずとも直接人間との間に契約を繋げられるが…無数に伸ばされた根は邪神の核に直結されている。これを狙い、断ち切る」
引き抜いた刀を縦に振り、何かを斬り捨てる真似事をして見せる。それにバハムートは呵々と小馬鹿にするような笑い声を上げた。
「何を言うかと思えば!悪魔と邪神の間にある回路を、契約を断つだと?焼きが回ったかカイザー!俺の大剣を以てしても、貴様の刀と技量で挑んだとしても!そんな目に見えぬ概念を斬り捨てられるわけがなかろうがッ!!」
「出来る」
身を締め付ける土の束縛に亀裂が走り、マーリンが慌てた様子でカイザーのもとまで駆け寄る中で、確固たる語調で鬼面の彼は断ずる。
自信ではない。その断言の根元にあるのは前例を見たことがあるからこその確信。
それはかつて天使の首輪を断ち切った聖剣。
それはかつての戦友のように天界を見限った英雄。
それはかつて肩を並べ戦った者と同じ本質。
「彼なら出来る。石動堅悟なら、彼の聖剣なら、彼の意志ならば。それを成せる」
破格の性能。あらゆる物質・物体、果ては現象から概念まで。あらゆる全てを斬り伏せる『絶対切断』の|神聖武具《アーティファクト》。
これを以て、天と魔の干渉を完全に人世から排除する。
「だから今しかないのだ、今がその時なのだバハムート。力を貸せ。二度目の神討大戦だ」
「うーん、うーん……」
事務所内には佐奈の唸り声、他には重苦しい沈黙が三人分。
「うーん。何か無いかなぁ、面白いオカルト。ねー堅悟くん」
「…あぁ」
「阿武さぁん。もちょっとハードル下げてもよくないですか?このままじゃ掲載できるネタひとっつも無いまま締め切り来ちゃいますよ」
「…そうだねぇ」
「うだぁーぜんぜん出てこないっ。あ、翼ちゃん。お茶ちょーだい」
「…はい。ただいま」
一人喧しく声を張り上げる佐奈に応じるそれぞれの声色も何やら薄暗い。
その理由は皆共通していた。唯一、佐奈にだけはわかり得ないそれ。
目には見えない、耳にも届かない。しかし感じるのは悪魔の鳴動。しかも相当強大な力の衝突。
現役英雄の堅悟、それに魔力のみを今尚保有し続けている元英雄の阿武熊。そして元天使の翼。三名はその肌に突き刺さるような殺意と敵意の応酬を確認していた。かなり遠方だが、この力の持ち主には微かな覚えがあった。
|装甲悪鬼《カ イ ザ ー》。
あの猛者に匹敵する存在が、彼と交戦している。それにその周囲にもいくつかの悪魔の気配。これらもどうやら戦いの最中であるらしい。
(悪魔同士で仲間割れ?俺が言うのもなんだが、あんた何やってんだカイザー)
ギシリと古錆びた椅子の背もたれを軋ませて天井を仰ぐ。
横目で佐奈に茶を手渡す翼をちらと見れば、そのいつも通りのように映る無表情にも僅かな緊張が滲んでいた。阿武に関しては開いた新聞を握る両手が震えている。あの様子では落とした視線の先にある新聞の内容もまともに頭に入ってはいなかろう。
このままでは空気が重い以上に気持ちが悪い。あまり厄介事と分かり切っている事に首を突っ込むような真似はしたくないが、様子を見るくらいなら問題ない。
「ちょっと、外でネタ探しして来まっす」
「あっ、ならなら私も」
「お前はそこで唸ってろ。邪魔だ」
言葉半ばで遮り、視線で佐奈を椅子に射止める。いつもであればこんな程度で引っ込む彼女ではなかったが、今回ばかりは堅悟の身が竦むような低く冷えた声に無理矢理体を押さえ込まれてしまう。
「…阿武さん、ここは頼んだ」
「堅悟君。出過ぎた真似は…」
「わかってますよ。何もしません」
相手が関わって来ない分には。
そう心中でのみ続けて、事務所の出入り口へ向かう。その途中、茶を乗せていた盆を胸元に抱えて堅悟の顔を見上げる翼の肩をポンと叩き、耳元に口を寄せ、
「何かあれば二人を連れてすぐ逃げろ翼ちゃん。天界の制約を断ち切った今のあんたなら、それくらいの力はあるよな?」
「あります。…ありますが、ですが。私は貴方を…、貴方、と…」
堅悟の横顔を間近に捉えながら戸惑い淀む言葉を聞く。
その内に含まれるのは怯えと恐れ。石動堅悟という精神的支柱の無事を願う心。願うからこそ引き留めねばという思考が駄々漏れとなって伝わって来る。
随分と人間らしく感情を見せるようになったものだ。これが弱みの露見であると同時に、堕天者となった彼女にとっての新たな開拓の兆しだと信じることにした。
「心配すんな。阿武さんに言った通り、何かするわけじゃない。様子を見て来るだけだ」
ゆっくり安心させるように言葉を紡ぎ、曇りの無い笑みを見せる。まだ何か言いたげだった翼の横を通り過ぎ、事務所から外へ出る。
寂れた三文オカルト雑誌の事務所は、やはり人気の無い灰色の建物の中に埋もれるようにして建っている。周辺の建物にも人の気配はほとんどありはしない。のんびりと、両手をポケットに突っ込んだまま歩き始める。
強大な気配のぶつかり合いが発生している、その場所の真逆へと当ても無く。
大口開けて欠伸をしながらしばらく歩くと、雑木林に出くわした。アスファルトとコンクリートで埋め尽くされた街の中で、拓かれ忘れた隙間のようにぽつねんと存在する林の中へ潜り込む。
日の光をまばらにする林の中心まで来て、立ち止まる。
「仲間割れ連中のこともそうだけど、こっちもこっちで気になってたんだよなあ」
阿武熊は大きすぎる気配の側に気圧されて、翼はおそらく堕天者となったことで天使だった頃の鋭敏な感覚が鈍ったか。
結局、『ヤツら』の方にも気付いていたのは堅悟一人だった。
「わざわざ場所を移させてしまいまして。申し訳ありません」
堅悟の睨む先の木陰から、一人の青年が現れる。その顔、いつかのバーで見たそれに相違ない。
「クロちゃん、とか呼ばれてたよな?」
「ええ。黒崎と申します。石動堅悟さん」
悪魔に勧誘された日のことが、思い返せば遠い昔のことのように思えた。
その男はバーの店長をやっていた悪魔。勢力としては『|反逆軍《リべルス》』とかいう名で活動していたはず。
「しばらくお探ししておりました。返答を、頂きたく」
何の、とは訊き返さなかった。勧誘の件以外でこの悪魔との接点などないのだから、その話をおいて他にありはしない。
だから端的に返す。
「お断りだ。非正規英雄はロクでもねぇ連中揃いだが、それに関しちゃお前ら悪魔も引けを取らないしな。俺はもうしばらく面白味の無い三文記事でも書き殴っていることにした」
「そうですか。そうでしょうね、カイザー様のお気に入りであれば、そうでなくては」
嘲笑うように口元を横に引き延ばす黒崎の言葉にぴく、と眉が跳ね上がる。
「俺を誘った本当の理由は、それか」
「最初は違いましたよ、ただの戦力増強のつもりでした。ですが調べてみれば、あなたはかの『神殺し』、装甲悪鬼の切り札というではないですか。これほど貴重な存在、手に入れずしてなんとしましょうか」
「なんの話か知らんけど、期待外れだからやめとけやめとけ。俺一人の為に何人の悪魔を連れてきやがったテメェ。どんだけご執心だよ」
正面の黒崎の隣には、地面から這い上がる不気味な流動体。それはやがて人型になり、衣服を生み出し、手足と顔が浮かび上がってくる。
これもバーで見覚えがある。黒髪ソバージュの女、顔面に酒を浴びせてくれた『姉さん』と呼ばれる悪魔。
背後にも気配が二つ。男と女だがこちらは知らない。反逆軍の新手か。
「念には念を、というやつでして。勧誘に応じないのであればせめて殺しておかないと、あの装甲悪鬼が次にあなたと何を仕出かすか分かったものではないですから、ね!」
跳ねる語尾と共に変貌する黒崎。メキメキとこめかみから二本の角が生え、肌が真っ青に変色していく。
「!」
悠長に変身シーンをお披露目してくれている黒崎を無視し、手元に召喚したエクスカリバーを片手で思い切り投げ飛ばす。狙いは黒崎、の隣。
「チィッ!」
真っ先に狙われるとは思っていなかったのか、額目掛けて飛来する聖剣の刃に咄嗟に上半身を前に倒した女の判断は正しかった。既に『絶対切断』は発動している。もし防御を選んでいれば即死は免れなかっただろう。
しかし、それでも。
(避け方は悪手だったな)
活歩で潜り込む懐、限りなく低く入った頭の上に流動体から人型へ変化した悪魔の顔面があった。
震脚が土を抉り衝撃を体内へ伝えて行く。足先から巡り巡った力は腰の捻転を通し倍増、さらに持ち上げた右拳へと集約される。
一点集中、一打必倒。
ロケットのように打ち上げられた右腕が不恰好な絶技を繰り出す。
スパァン!!
小気味良い音と共に黒髪の女の頭部が粉々の肉片と散った。
鮮やかに叩き込まれるは八大招・立地通天炮。悪魔だろうが関係ない。これは確約された死を告げる砲声。
…の、はずだったが。
(手応えが軽過ぎる。悪手だったのはこっちの方か…!)
飛び散った肉片は中空で留まり、グロテスクな断面を晒す千切れた首へと再度集まり始める。どうやら最初に見た姿通り、流動体の悪魔に打撃は通用しないようだ。
復活する前におまけで胴体に|鉄山靠《てっざんこう》をお見舞いするがどうにも粘土を叩いたような鈍い感覚が返って来る。舌打ち一つ、吹き飛んだ女の真横を走り抜けて落ちていた聖剣を回収する。とりあえず、包囲されていた状況からは脱却した。
「非正規英雄」
「その肉、さぞ、」
「美味かろうなァ…!?」
「あん?」
顔を上げて応じると、名も知らぬ男の悪魔は一つの口から三つの声を同時に放っていた。二つの眼球もギョロギョロとそれぞれ主導権を争うようにあっちこっちへ行ったり来たり。
いかにも異常者じみた行動だったが、次の瞬間にはそんなことすらどうでもよくなる。
バガリと頭が三つに割れ、ドス黒い毛が生え始める。分かれた三つの頭部はそれぞれ獣の顔を形作り、四肢は鋭利な爪と黒毛に包まれる。
「食わせろ、喰わせろ、クワセロ!!」
「その肉、その臓腑、そノ脳漿!!」
「千切って砕いて裂いて舐メて啜ッて喰らう喰ラぅクらう喰ゥァわセろォぉおおおあああ!!」
異形たるやその姿、三つ首の走狗。
「「「グゥアアアアアアアアアア!!!」」」
「…ケルベロスか!ってことはあっちの方は」
黒狗の咆哮にぞっとしつつも、堅悟は残る最後の悪魔を見やる。既に変身は終えていた。
巨大な一対の白翼と対照的な黒の表皮。翼の大蛇が雑木林の狭い空に浮かんでいる。
ツィルニトラ。
「大歓迎ってか。嬉しすぎて涙も引っ込むなコイツぁよ!!」
聖剣を振り被り、左手の指に嵌まる指輪に意識を向ける。老師に教えられた心得を、武術を体現する。
青い肌の羊角。
首の繋がった流動体。
空を舞う大蛇。
地を裂く黒狗。
久しい戦闘と、もはや慣れた窮地。石動堅悟の戦いはいつだってこの死線にあった。
そのことをふと思い出し、堅悟は何故だか無性に抑えられない感情に素直に笑んだ。
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「リべルスが動いてるなぁ」
空を見上げ、ぼそりと呟く賢人に、武人は命じる。
「行けマーリン。お前の部下はまだお遊びの最中。手空きはお前だけだ」
カイザーの全身には幾筋もの裂傷が赤く装甲を染めている。それは対峙する蒼甲冑の巨漢も同様であった。
こちらも二人ほどではなくとも軽傷の中で純白のフードマントの所々が鮮血の跡を滲ませているマーリンが露骨に嫌そうな声を上げる。
「ええ、僕ぅ?」
「それとも代わるか?私が行くから、バハムートはお前が押さえろ」
「よっしゃ石動くん助けるぞぉ!今の僕はやる気マックスだからねぇ!!」
「待てマーリン」
両腕を高く上げて背を向けたマーリンを呼び止める厳つい声に、びくりと肩を弾ませてギギと首だけ振り返る。
「な、何か?バハムート」
「…貴様がカイザーに与する理由、まだ訊いていなかったな」
水の大剣を携えて、竜面の悪魔が賢者の仮面を見据える。三柱の中で一番の曲者と認めるその賢人は、問いに対しにへらと笑って、
「言わなきゃわからないかい?長い付き合いなのに。…カイザーのやることの方が面白そうだからに決まってるさ。『神殺し』に加え『邪神封じ』の二冠達成とか見たくない?」
「興味無い」
一蹴にしたバハムートに「あっそ」とだけ返して、マーリンはやれやれと首を左右に振るった。
「でも僕はいつだって面白い方に加担するよ。『邪神の復活を待って自らの力でその怪物を斬り伏せたい』、だなんて脳筋野郎の意見には賛同できないしね!」
言うだけ言って、マーリンは子供のように仮面の口元から舌を出して離脱していく。バハムートは止めなかった。止める余裕が無かった、とも言えるが。
「おとなしく邪神復活から世界滅亡を待ち侘びるような奴だとは思っていなかったが、まさかそんな野心を抱えているとは思わなかった」
自分と相手の血が混じり滴る銀刀を構え、カイザーがふっと笑う。対照的にバハムートは苛立ちに歯軋りをして、
「これだけの力があって、何故貧弱な人間をわざわざ手ずから殺していかねばならぬ。そんな下らない話があるものか。この剣を向けるに足る相手にこそ、俺は力を振るう。貴様はその前哨戦に過ぎぬぞカイザー」
声高に実力の差を明言したバハムートに、カイザーの笑みは崩れるどころかさらに深まる。くっくっと喉の奥から漏れ聞こえる笑声に、竜鬼の殺意が膨れ上がる。
「何が可笑しい」
「いや、なに。……お前達過激派が五割、マーリン率いる穏健派が三割、そして|反逆軍《リべルス》が一割…だったか」
唐突に口にしたそれは、悪魔の勢力図に置ける割合。かつてこの説明を受けた時、石動堅悟はこう言った。
『一割足りないぞ?』
これで勢力の全体図九割。真っ当な疑問に、カイザーはこう答えていた。
「残りの一割は私。配下を持たずして、何故一介の悪魔一人が一割を担うと思う」
「……」
ぞわりと、今度はバハムートの方が悪寒を覚える。銀の刃が、途端に距離を飛んで首筋を掻っ斬っていく錯覚に襲われる。
「ニャルラトホテプも、ハスターも、他の側近達も。全てを合わせて向かって来たところで全てを討ち滅ぼせる力があると、そう考え恐れられているからこその|一割《わたし》だ。…私もお前に対し言った方が良いのかな、この台詞」
やたらと近く見える銀の切っ先に、装甲竜鬼は大剣を構え直す。来たる一撃は下手を打てば剣を握る両腕諸共千切られて行きかねない。
鬼面の下で、悪魔が嗤う。しょうがないヤツだと、叱咤するように優しく静かな声がして、
「焼きが回ったか?バハムート」
神速の太刀が四方八方から襲い掛かる。