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太陽が黒っぽくなる。そして、大きくなる。
ぼくたちは異常に気がつく。ぼくは理学部の天文学部に所属している。
教授たちは、ぼくたちにしばらくの休講を告げる。
彼らは研究室にこもって、出てこなくなる。時折サブウェイのサンドイッチだけが運ばれる。
ハム、トマト、レタス。
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一:一般に、合金の融点は、その原料となる金属より低い。
二:この地球で、最も融点の高い金属は、タングステンであるとされている。
三:タングステンの融点は、摂氏三三八〇度である。
四:太陽の黒点の温度は、約摂氏四〇〇〇度である。
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世界中の研究所から、一斉に発表がなされる。
太陽が膨らんでいる。ヘリウムが中央に沈降して、核になって。水素が表面に浮かんで、そこで核融合が行われる。
低い温度で。
黒っぽい光で。
太陽は大きくなっている。世界は暗くなってきている。寒くなってきている。子どもが拳をぎゅっと握って、太陽との大きさを比べる。
学者は語る。計算を間違えていた。数値は十、いや、十二、過大に推定されていました。
ぼくたちは知っている。それは|対数《ロガリズム》を取ったものだということを。
十桁の過大推定。
十億年の過大推定。
それはもはや推定でさえ無い。
ぼくたちは語る。これから起こることについて。
ニュースは語る。ぼくたちを守るものについて。
富豪たちは語る。分厚いシェルターについて。
宗教家は語る。腫れ物でヨブを打つサタンについて。
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「寒いよな」
とぼくは言う。友人は頷く。
「そのうち熱いって言うぜ」
ぼくは頷く。
ぼくたちは太陽のことを、あれ、というようになる。あれが昇った。あれが沈んだ。月は濁った緑色に光る。夕暮れは汚い血の色になる。
ぼくたちは何が起こるか知っている。
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太陽は、内部の水素を使い果たすと、表面付近の水素を用いて核融合をする。膨張する力は、重力より強く、太陽は激しく膨張を始める。そして、太陽は赤色巨星の段階に入る。
やがて、表面付近の酸素、中心のヘリウムが使い果たされると、太陽はさらに巨大になる。この時、太陽の直径は、以前の八〇〇倍にまで膨張する。
その時、太陽の表面は地球に届くと推定される。
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ぼくたちはデパートから物を盗むようになる。誰かが子どもを犯す。処女の性器を百個捧げれば、火から守られると囁かれる。金泊で部屋を張れば、電磁波は入り込めない。地球の自転と逆に動き続ければ、火に焼かれることはなくなる。
どんな嘘も、真実と見分けがつかない。
宗教を理由にした、いかなる犯罪もなくなる。神の名のもとに、人を殺す人間はいなくなる。
みんな、神に許してもらう必要を感じなくなっているからだ。
そして、それは|自分を増幅させる《ポジティブフィードバック》考えだ。
神がいなければ、全て許される。
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研究者たちは発表する。いつあれが地表に接触するかについて。地表面が何度になるかについて。
ぼくと数人の学生以外、誰も聞いていない。学者たちは、なんの表情も浮かべていない。浮かべないようにしている。紙とインクとコンピューターだけを見ようとしている。
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悪い冗談が広まる。
カムチャッカの若者がきりんの夢を見ている時、
ニューヨークの少女は、黒焦げのマッチになっている。
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赤道の鉄が溶け始める。そのニュースを誰も報道しない。もう新しいことなど起きなくなるだろう。それを見る者がいなくなるからだ。
人間が認識することで世界で存在するなら、と、ある哲学者が言っていた。
人間がいなくなった時、世界はなくなるのだろうか?
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ぼくはあれを見る。電力は全て、ぼくの立っている場所より東側から供給されている。だから、街灯は、最後まで輝く。
あれは全てを溶かしている。光も。煙も。
気温の変化で、蜃気楼が作られる。そのせいで、あれは四角く、黒い壁に見える。
すべての人が、すべての恨みを晴らしている。すべての欲望を満たしている。殺して殺して泣いて叫んで、そして死んでいる。血の色とあれの色は似ている。
ぼくは自動車の中にいる。熱がこもる。ぼくはあれから逃れようとする。助手席に、一つ、小さなクーラーボックスを置いて。
東に。
空には飛行船が浮いている。東に回り続ける。いつか堕ちるというのに。少しばかりの延命。生命の残り火。
ノアの方舟が到着する山はない。
莫大な海水が蒸発し、それと共に塵が吹き上げられ、空は不思議な色に染まる。邪悪なオーロラのように光る。
ぼくたちは逃げることができない。
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車のウィンドウが熱でゆがむ。ゴムが経年劣化でやられる。発火点の低いエタノールが燃える。誰かがそれを飲み込んで死ぬ。
誰かが発狂して、どこかに駆けて行く。
ぼくは車から出て、歩き出す。体は重く、頭はだるい。手にひとつだけ荷物を持って。
ぼくは振り返る。黒いビルが黒いあれに飲み込まれ、街灯だけが、けなげに光っている。
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ぼくは誰かが倒れているのを見つける。
ぼくはその人に手を貸して、起こす。それは禿げかかった中年の男だ。顔は煤けている。まぶたは、まるで驚きから抜け出せないみたいに、大きく開いている。彼はぼくを見つめる。ぼくは頷く。
クーラーボックスを開ける。
中には二本、アイスキャンディーが入っている。青いアイスだ。ソーダ味の。ぼくは一本を彼に手渡す。
「食べませんか?」
「悪いよ……」
「ふたりで食べたほうがおいしいですよ」
ぼくたちはそれをゆっくり食べる。地球上に残った最後の氷を。
彼は言う。
「おれはさ、あそこで生まれたんだ、見えるか? 幹線道路、ずっと行って――今、十字架みたいなのが……チカっと光った場所……」
ぼくは頷く。
彼は語る。
彼の生まれた場所。緑の茂った土手。母親の笑顔。父親が泣いたこと。妹の結婚。就職。怒鳴られたこと。転職。怒鳴られたこと。割引の刺し身について。四十二になって、わさび食って、涙が出てさ、それ、止まんなくてさ。涙が止まんなくてさ。
やがて、彼は黙る。ぼくは黙っている。
ぼくたちはあれを見ている。
やがて、ぼくたちの場所にもあれが届く。
その頃には、ぼくたちはもう眠っている。