いつもの待ち合わせ場所の交差点で、大口を開けてあくびするハルを見るたびに思う。
ハルの中で、きっとあたしは恋愛対象になることは絶対にないのだ、と。
昨日家に押しかけて、あれだけ勇気を出して二人きりでアレな話までしたというのに……。結局マジメな相談だけで終わっちゃって、ハルはあたしに指一本触れることはなかった。
あたしたちは所詮『幼なじみ』なんだって、確かめただけ。まぁ、そんなのは最初から知ってたことなんだけど。
「ふぁ……おはよ」
「おはよー。今日ちょっと遅いよー?」
「ん、悪い。ちょっと夜更かしした」
「なに、また遅くまでゲームでもしてたの?」
ハルは見た目はそこそこ活発そうなのに、ゲームや漫画なんかのインドアな遊びの方が好きなのだ。
今幽霊部員になっているコンピューター研究会だって、入るきっかけはゲーム繋がりでできた友達からの紹介だって聞いたことがある。
ところが、ハルはあたしを呆れたような怒ったような、なんだか分からない微妙な表情で見つめて、
「おっまえな、そっちが……いや、いい。なんでもない」
と、歯切れの悪い口調と態度で言葉をこぼした。こういう時は大体失礼なことを考えて、だけど口に出せないから引っ込めているのだ。
「えっ、なに? そんな中途半端なトコで止められるのが一番気になるじゃん!」
不自然にならない程度に詰め寄ると、ハルがすっと一歩引いたのに気が付いた。多分、無意識に。あたしに彼氏ができるまではずけずけ踏み入っていたはずの一線を、必死で越えないようにしているみたいだ。
『幼なじみ』であり、『友人』という一線。
昨日、あたしが破ろうとしたもの。
「なんでもないっつってんだろ。ってか、急がないと遅刻しちまうぞ」
「遅れたのは誰だと思ってんのよ!」
本当はハルが言おうとしたことなんて分かっていた。気付いていながら知らないフリをしていた。むしろ、どちらかといったら嬉しかったくらいだ。
ハルはきっと、昨日のあたしのことで悩んでいてくれたのだろうから。
昨日あれだけのことを言っておいて、それでもハルに欠片も意識させられなかったとしたら、いくらあたしだって女としての自信をなくしてしまいそうになる。
ハルは『幼なじみ』としての一線を守った。でも、あたしを少しは女として見てくれたらしい。それが分かっただけで十分だと、あたしは納得しなきゃいけない。
だって、今のこの状況は、あたしが望んでたものだったはずなんだから。
●
ハルは、あたしの『特別』だった。
いつからだったかなんて覚えてない。気付いたらそうだったし、それが当たり前だった。もしかしたら生まれた時からなのかもしれない。少なくとも、それと気付くきっかけはなかったし、物心が付いた時にはそうだったから。
一緒にいると安心して、声を聞くと楽になった。誰よりも気兼ねなく話せて、隠し事なんて考えられなかった。
ずっとずっと、常に一緒の時間の流れの中で生きていくんだと、昔のあたしは無邪気に無意識に無責任に信じ込んでいた。
中学校に上がってクラスが離れることがあっても、それぞれのコミュニティーの中で生活するようになっても、あたしが考えを改めることなどなかった。登下校は毎日一緒だったし、二人だけで出かけることだってあったのだ。変化はごくごく僅かで、気に留めるほどのものじゃなかった。
友達と話すのも楽しいけれど、やっぱり気を使わずにはいられないときもある。ハルといる時のようにはいかない。ハルといる時だけはそんな気を回す必要なんて無い。依然ハルはあたしの『特別』で、ハルにとってのあたしも絶対にそうだという確信があった。
だから、学年を重ねるたびに少しずつ距離が離れても、それは受験に向かっているのだから仕方ないことだと考えた。互いの家に遊びに行かなくなったのもそうだ。来年には高校生になるのだから当たり前。今思えば自分の中で理由を探して、問題に見ないフリをしてきたものがたくさんある。
でも、そんなのは小さな問題。高校生になってしまえばいい。もしその『見ないフリ』に気付いていたとしても、当時のあたしはそう言い返しただろう。
今は中学生で、付き合ったりなんかしたら友達の中で浮いてしまうけど、高校生になったら話は別だ。お互いに何も言わなくても、きっかけさえあればあたしたちはすぐに恋人というポジションに落ち着くはず。そして、ずっとそのまま一緒にいるのだ。
バカバカしい。
そんなバカバカしいことを本気で思っていたくらい、中学生のあたしは子供だった。
高校に入って、あたしは浮かれた。新しくできた友達も男子と付き合ったりすることには興味深々で、中には早々と彼氏を作ってしまう子もいた。あんまり出会ってすぐ付き合う子もどうかと思うけど、ともあれこれでやっとハルとあたしも一歩前進できる。クラスは別になっちゃったけど、きっかけなんていくらでもあるだろう。
今まで疑いもしなかった、その流れ、その考え。順風満帆だと疑いもしなかったあたしを止めたのは、他でもない。今まで全く興味を示すことさえしてこなかった、『恋愛』というモノだった。
彼氏ができたと喜んでいた友達が、一ヶ月もしないうちに別れたと言い出した。
しかも大して悲しんだ風でもなく、まるで悪かった成績に対する愚痴でもこぼすかのように、そのことをあたしたちに話す。昼休みの雑談の一つみたいにあっさりと、その話もその子の『恋愛』も終わってしまったのだ。
信じられなかった。そんな、『恋愛』を簡単に切り捨てられるなんて、フィクションの中の軽い人間だけの話だとあたしは思っていた。それが実在――しかもこんなに身近にいるなんて。
でも、そんなことで驚くこと自体がお門違い。そんなのは当たり前にありふれた事なんだと、あたしはすぐに気が付くことになる。
誰と誰が付き合い始めた、付き合っている、別れそうだ、別れたらしい、また別の誰かと付き合いだした。
そんな話は、高校生活が半年も過ぎれば腐るほどあたしの耳に届いてきた。
考えてみれば、あたしは恋人という肩書きだけを見ていたような気がする。恋愛が何かなんて全然理解していなかったし、理解する必要もないと思ってた。ただハルとずっと一緒にいるために、今の『幼なじみ』から一歩進んだ関係が、『恋人』なんだと勝手に勘違いしていただけの話。
違う。こんなのは違う。
『恋愛』は、『特別』なんかじゃ全然ない。
あたしが求めていたのは、ずっと変わらない、ずっと揺れない、不偏的なもののはずなのだ。
それは『恋愛』なんかじゃない。絶対に有り得ない。
なら、その『恋愛』に固執する必要なんてないじゃないか。
そう簡単に考えを切り替えたあたしも、やっぱりまだ子供だったんだ。
●
「おーい!」
学校へと真っ直ぐに伸びる大通りの手前、駅前のロータリーを越えた先のバス停が、あたしたちのもう一つの待ち合わせ場所だ。
恥ずかしげも無く手を振っている人物から飛んでくる大声に、小さく手を振って返す。それと同時にハルが、もう一歩あたしから離れる気配がした。
そしてあたしは自分の彼氏――シュウくんの隣へ、ハルは自分の彼女であるユキの隣に納まる。あたしたちが前で、ハルたちが後ろ。この形で学校まで向かうのが、毎朝の恒例行事、暗黙の了解、通過儀礼だった。
あたしが望んだのは、ハルとあたしが『幼なじみ』という一番いい関係で留まるための形。お互いに『恋愛』の相手がいるけど、それでもあたしたちはそれなりに一緒にいる。
『恋愛』にわざわざ踏み込んでも、別れる可能性に怯えて過ごすなんて本末転倒だ。今ケンカをするのとはわけが違う、決定的な別れになってしまう可能性だってある。だったら、あたしはずっと『幼なじみ』のままでいい。たとえお互いに『恋愛』の相手が出来たとしたって、あたしにとってハルはずっと『特別』なんだから。
「どうかした?」
「ふえっ?」
突然上から話しかけられて、あたしは素っ頓狂な声を上げてしまった。
あたしとは頭半分以上背丈が違うシュウくんの声は、時々前触れも無く頭上から振ってくる天気雨みたいで、三ヶ月付き合っている今でもびっくりしてしまうことがある。
「なんか、難しい顔してるから」
「そんなことないよ」
「あるって。ここに皺寄ってんぞ」
そう言って、シュウくんはあたしの眉間を人差し指で小突いた。
「いったーっ」
「ウソつけ。全然力なんて入れてねぇよ」
朗らかに笑うその顔の裏で、シュウくんはきっとあたしを心配してくれているんだと思う。
シュウくんはいつも、その大きな体からのイメージとは裏腹に慎重だ。発言も、行動も、全部あたしを気遣ってくれてのものだというのが分かる。
対等ではない優しさ。へりくだるような気遣い。それはとても嬉しいけれど、だからこそシュウくんは『特別』ではない。
「ちょっと、考え事してただけだよ」
「それって……俺に関係あること?」
何が恥ずかしいのか、フレームの厚いメガネを押し上げる手で顔を隠すようにして、シュウくんは言う。
「違うって、ホントになんでもないこと! ほら、また今度、みんなで出かけたいなーとか」
体の前で手を振りながら取り繕うと、シュウくんは少し残念そうな顔をして「そっか」と苦笑した。
あたしはそれに気付かなかったフリをして、後ろを歩く二人に振り返る。
「ねぇ、二人も!」
「ん? なんだよいきなり」
「どうしたの?」
不思議そうな顔をした二人は、特に今まで会話していたわけでもないようだった。この二人と一緒に歩いているとき、会話が弾んでいるのを見たことがないような気がする。毎日屋上でご飯食べてるのも知ってるけれど、この二人がいつも何を話しているのか、あたしにも全然想像がつかない。
さらに言うなら、初対面であんなにぶっきらぼうにしていたハルが、ユキと付き合うことにした理由も。そもそも、ユキがどうしてハルに告白したのかだって、あたしは知らない。
ハルとユキの間には、あたしに違和感を感じさせるには十分なほどの距離が開いていた。手を繋ぐ気配すらないくらいに開いた、まるで知り合いみたいな距離。
「だから、またみんなでどっか行こうって話し!」
でもそれは勘違いに違いないのだと、あたしは無理に大きな声を上げた。
ハルもユキも、そんなに表立ってベタベタしたがるタイプじゃない。いつも二人でいる昼休みには、それなりにイチャイチャしているのかもしれない。あたしたちと同じくハルたちも付き合い始めて三ヶ月。ケンカした様子さえ見たことがないのに、あたしは何を期待しているんだろう。
胸の中に冷たい泥のようなものが溜まっていく感覚がした。
気分が悪い。自分のエゴで、自分が一番いいと思うカタチを選んで、自分の思い通りの結果になったはずなのに、どうしてこんなにも気持ちがスッキリしないのか。
(そういえば……)
今度の休日のことをにこやかに語りながら、あたしは心の中でひっそりと思い出す。
(こんなに無理して笑うことなんて、高校に入るまではめったに無かったはずなのにな……)