ススだらけの月明かり
狭い路地をいくつも曲がった先の住宅地。
その一角に、黒ずんだ廃屋が一軒あった。屋根が剥がれ、壁も黒く焦げて破れかぶれだ。床は所々抜けている所があり、地面は降り積もった炭の恩恵を受けてか、雑草が子供の背丈ほどの高さまで育ち、多種にわたって生い茂っている。石で出来た門柱だけが、誇らしげに無傷で立ったままで、未だ持ち主の帰りを待っているかのようである。いつの頃か火事になり、住民が住めなくなって手放されたままになっているのだろう。
その廃屋の縁側あたりの床の上で、一匹のグレーの雌猫がきちんと前足を揃えて座っていた。月明かりに照らされて、その眼球が時々黄緑色に光る。風が吹き、ひげが揺れる。
そこへ、
ガサガサッ
突如一匹の黒猫が草を掻き分け、コンビニ弁当を咥えながら近づいてきた。
「やあシエ、ただいま~!」
「!! トコ!遅かったじゃないのー!」
そう言って、シエと呼ばれたグレーの猫は縁側を飛び降りて黒猫のトコへ走り寄っていった。目が少しうるんでいる。余程トコの帰りを心配していたのだろうか。
「はは…ちょっと手こずっちゃって」
咥えていた弁当を地面の草の上に落としてから、トコは気まずそうに答えた。
「!!えっ‥‥トコ!?てゆーか、 ト コ !!何なのよそれはっ?!」
「え?見てのとおり今夜の戦利品だよ!まだ賞味期限も数時間ある、新鮮な焼き魚弁当だよ」
安堵の表情が一変し驚愕に満ちた目をしたシエを見て、トコが少し動揺しながらも、誇らしげに弁当を指した。
(あれ、シエって焼き魚嫌いだったっけ?)
「弁当じゃないわよ!アンタのその背中の色っ!!何があったらそんな変色するのよ?!」
‥‥‥‥‥‥へ?
トコは恐るおそる、言われた背中を見てみた。
すると、背中の下半分から尾にかけて、べったりと緑の蛍光色をした液体が張り付いていた。
「!?えええええええっ!なにこれェッ?!」
「ちょっ‥‥トコ、今まで気づかなかったの?!こんな派手なエメラルドグリーンをしょってたのに」
「しょってるって‥‥何でいきなり古い言い方を?
んぁあ!それよりもいつの間に??やばいよコレ‥毒とかないよね?!ん?いやコレって‥‥
はっ!もしかして、さっき逃げる時に衝撃があったやつ…?あのコンビニのマヌケ店員に多分ぶつけられた、ええと、なんて言うんだっけ?‥‥あの!防犯用の色の球弾!あれか!‥‥なんだっけ!?」
「カラーボールの事?」
「そう、それ!防犯用蛍光色球弾だ!」
「え、なんで中国語名を‥‥?」
「いや、日本語だよっ?!!」
「普通にカラーボールでいいじゃないの!」
「ふっ‥それもそうだね。」
「もう!ふざけないでよ、トコー!」
「えへへ‥‥ゴメンごめん」
にゃはははは‥と二匹は笑い合った。昔から、お互い口論はよくするが最後にはいつも笑って終わることが多い。ということで、今回も言い争いにピリオドを打って、トコの背中のエメラルドをいかにして洗い落とすかを考えることにした。
「もうとっくに乾いちゃってるみたいだ。ペンキみたいにつるつるしてる‥‥水に溶けるかなあ?まったく猫に向かってひどいことする奴も居たもんだ!」
と、トコ。
「ある程度は川に入って、こすり落とした方が良いんじゃない?」
と、シエ。
「そうだね。それで残った所は…こういう水に溶けにくい感じの塗料?は、天ぷら屋さんの裏に時々置いてある油とか使ったらいいかな?」
と、トコ。
「それなら、工業用油の方がより強力かもよ?重油とか?」
と、シエ。
「‥‥それはー、ちょっと手に入るかどうか」
第一、工業用油だと臭いが強い。できれば使いたくないな、とトコは思うのだった。
「‥‥でもトコ。今日はカラーボールまでぶつけられて‥相当に危ない狩りだったんじゃないの?よかった‥生きて帰ってくれて‥‥!」
シエの目が再びうるんできて、伏し目がちに言う。
「!‥‥ いや、大丈夫だったよ!ほら、前にも話した常連さんとかも居たしね。気を紛らわしてくれる客も結構来たから、いつも通りだったよ!カラーボールも、今回は当たっちゃったけど、今までもあの店員は実は投げつけてたのかも知れないしさ!ほら、怪我もないし心配ないって!」
トコはシエの悲しそうな顔を見るのが苦手だ。だから心配させまいと、必死でテンション高く話した。その気持ちを直ぐに察知したシエは、更に複雑な気持ちになった。
突然の、猫としての生き方に付いていけず、草むらを這うトカゲやコオロギを捕食する気になれなくて、シエは「初めの頃」には何も口にしないで過ごした。
一方トコは、自分で追いかけ捕まえた虫や小動物を食べて体力を付けていた。それを見て、たくましく思うやら、うらやましいやら、そして自分の適応力の無さにふがいなさを感じたが、それでもシエは、かつて食べていたもの以外を口にする気にはどうしてもなれなかった。
次第にトコは、何も異論を言わずシエの為に一人で夜の街へ出歩き、コンビニなどの店から消費期限内の、「人間用」の食べ物を盗って帰ってきてくれるようになった。盗むことなど抵抗があった筈だろうに、トコは危険を承知で毎回何かしらを持って帰った。数日ぶりに食べるやわらかい米の甘さは、今でも鮮明に覚えている。
シエも一緒に行くと伝えたことがあったが、「戻る所に誰も居ないのは不安だから、シエはここの警備兵になってて!」と、さもそれらしい理由を挙げて、トコは絶対にシエを同行させなかった。余程の危険な目に遭っているのだと、シエは多くの悪い想像を巡らして非常に心配した。
トコの帰りを待つ時間が、いつも心細い。そんな中でトコに、怪我は負わなかったにしても、カラーボールをぶつけられるという事件が起きた。おそらく今後は同じ手ではコンビニ弁当を手に入れることは難しいだろう。
―――いったい、いつまでこんな生活が続くの‥‥‥。
シエの心には不安が不安を呼んで、ますます目の前が真っ暗闇に見えてきそうになった。
―――暗い気持ちになっても意味がないぞシエ!二匹で目的を達成するまでは、絶対に生きていかねばならないのだから。二匹で居れば、きっと大丈夫!
そう奮い立たせて、シエは気持ちを無理やり前向きに切り替えることにした。
改めてシエはカラーボールを、猫特有の舐めあう仕草で取れないものかと、トコの背中へ回って眺めてみた。トコのビロードの様な柔らかくて真っ黒な毛に、背中の下部分から尾の先まで色が絡みこんでいる。
「‥‥改めて見たら、本当に鮮やかに出来てるわねぇ、このカラーボールは。一度付けたら、捕まるまでどこまでも追いかけ続け末代まで呪ってやるっていう、被害者の憎悪を感じるわ」
まじまじと見つめていて、自分の舌にエメラルドが付く想像をして気分が悪くなってしまったシエは、先の案を即却下とした。ついその感情が、穏やかでない表現として言葉に出てしまったようだ。
びくっとトコが目を大きくする。
「や、やめてよ憎悪だなんて怖い言葉つかうなあ。あー、でも本当コレって目立つよなあ!今後の狩りのやり方、考え直さないと‥‥緑の猫とか非現実的すぎるし」
「そうね。私も最初見た時は、またあの魔女に魔法をかけられちゃったのかと思ったわ!」
「うん‥そう思うのも、無理はないね。まだあれからそんなに日が経ってないし。」
「‥‥‥早く、人間に戻りたい‥‥戻って、家に帰りたい‥‥‥!!」
「‥‥うん。そうだね」
二匹は、そろってため息を吐いた。
――――――そう、この二匹の猫は、実は元々は人間だった。
――――――魔女に、姿を変えられるまでは。