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6.「月がきれい」20/05/06

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月がきれい
 むわっとしてそれで心地の悪くない空気が定刻通りドアによって遮断され、長く手と手を取り合った二人の関係が引き離されていく。
 20時08分、君津行き。
 ふわ、と一つ欠伸をして、つり革にもたれながら扉の窓に映る車窓に彼女の残像を重ねていた。
 本千葉、蘇我。ものの数分で乗り換えだ。君津へ行ってしまったら帰れなくなる。蘇我駅のホームへと電車が流れ込み、大勢の人が様々な場所で各々が楽しんできたという顔で電車を降りていった。東京の慣れない電車のホームはどれも同じに見えて、数分前までそこにあった彼女の姿を頭は分かっていても目が追ってしまう。規則的に対岸にある京葉線ホームへと足は向かっていた。
 スムーズに次の電車がやってくる。20分発、東京。休日のため乗客は疎ら。
 朝6時に西船橋を通ってきたのが、21時近くには南船橋を通過していく。
 彼女――、茜ちゃんは8時に千葉駅へやってきた。遠くまで大変だったでしょ、とか、今度は私がそっちに行くからね、とか、気遣うことしか知らないように言葉を並べる彼女の優しさがどことなく胸に痛かった。一年の期末考査を終えて、全く入ることの出来なかったアルバイトのシフトから計算して手元に残るお金は全くといって無かったが、それでも転勤で川越から千葉へと離れてしまった彼女に会いたいという拙い感情だけは残り続けていて、「バイクの免許を取ってそっちまで行く」「毎週会いに行く」と彼女に誓った、自分だけが果たさなければならない決意というよりは、すでに呪いのようなものはもはや達成できそうに無かった。
 駄目だな、俺。
 シートに深々と座り目を瞑る。
 停車時間が長いことに不思議がると、ネズミの耳の形をしたカチューシャをつけた女性、カップルや子供連れが気持ち空いている車内に乗り込み、ここがディズニーランドにほど近い舞浜駅だと気づいた。彼女がそれを耳につけたらどんなに可愛らしいことかと思ったが、それをさせてあげられない自分に落ち込んでしまう。
 東京駅の奥深く地下四階の京葉線ホームには21時09分に着いた。中央線のある1番線まで相当な距離を歩かなくてはならない。
 時間と場所を共有した千葉駅のホームという切り取られた空間にただ二人、半日の時間を費やしたことに意味があったのだろうか。それは僕には分からない。彼女は頭角を表していた中学時代から一層力を伸ばして、一年生ですでに陸上のインターハイに手が届くのではないかと将来を嘱望されている。勉強だって出来る。きっといい大学に進むのだろう。自然の摂理を捻じ曲げるような極々超局地的で小規模な闘争は失敗に終わり、僕は川越に留まり、未だ世に出せるような小説の一つも書けてはいない、学業も疎かだ。……いつかのように、きっかけさえあれば彼女のほうが一人先へ進んでしまうのではないだろうかという不安がある。
 京葉線のホームから中央線まで10分程度だと前調べをしていたのに日頃の運動不足からか倍の時間かかってしまった。その上、すでに32分発の八王子行き中央特快が発車を待っている。慌てて飛び乗って、一つ息をついた。
 行きは武蔵野線、帰りは中央線。半円を描くように東京を離れていく。停車駅が少ないため、駅に止まるたびにスーツを着て疲れた顔をした大人や遊び疲れた若者など雑多な人間を大量に掻き出し、そして溜め込んで出発していく。座れそうにもなく、長い時間押しつ押されつつしていると、急にお腹が空いてきた。彼女は今日のためにお弁当を作ってくれていて、完全無欠な優等生風を装いながら料理は、塩辛かったり、甘酢っぱかったり、苦労のほどが伺える分、ああやっぱり努力の人なんだなということに「おいしくなかった?」「ううん、おいしい」と返すしか他なかった。
 立川を過ぎてからシートに座ることができたものの、すぐに八王子に着いてしまった。千葉で今日一日嗅いでいた海は見えなくても感じる、爆発的な水蒸気量から裏打ちされたあの、汗さえ塩水になってしまったようなじとっとした感覚とは違う、盆地によって陽が落ちる限界まで蒸されたあの重く張り付く空気が、電車の冷房に慣れた体に包まれた時、ああ帰ってきたんだなという感覚を確認することができた。
 22時38分、終電・川越行き。
 夜も明けぬ明朝4時に物音を立てずにこそこそと家を出て川越駅へと向かって歩いて、4時54分の始発に乗ってから、もうすぐ日付が変わろうとしていた。多くの人が交錯する千葉駅のホームで隣同士に座って手と手を握り合い、学校、勉強、アルバイト、将来の夢……浮かんでは消えていく色々なことを話し合った。今の時代、遠く離れていても、それどころか対蹠地に居ても無料で齟齬なく通じ合う方法はいくらでもある。会わなければ人の心は通じ合えないだろうか?結局、心は体に引っ張られるだけの風船のようなものなのだろうか。
 23時50分。
 川越駅の一駅前、西川越駅に降り立った時、自分の他に降りる人間はいなかった。虫の音だけが響き渡る小さな駅舎に駅員はすでに居らず、手にした切符を掌の中に包んで改札をくぐった。
 入れ違いにズボンのポケットから携帯電話を取り出す。茜ちゃんから「小太郎くん、川越に着いた?」というメッセージが届いていた。 
 都内とは違う長い一駅分の距離を歩いて帰路に着く。携帯でやり取りをするし、直接会いに行く。それでいいと思う、自分は間抜けな欲張りだから。
 家に近づくと、いつもなら暗く静まり返っているはずの玄関の明かりが灯されていた。
15, 14

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