「うわあっ……ちっさ……」
名古屋競馬場に一歩足を踏み入れたわたしは思わずそう漏らしてしまった。
ボロボロの屋根。『第1スタンド』と古い自体で貼り付けられている。『第』が旧字体……
スタンドを抜けて、コースの前に出る。えっ、コース、こんなに小さいの!?
「名古屋競馬場へようこそ!」
背後から聞き慣れた声。ユリ子さんだ。
「ユリ子さん、早いですね……わたしもだいぶ早く着いたつもりだったんですけど」
「私の実家、この辺りだから。前乗りしちゃった」
そうなんだ。ユリ子さん、名古屋の人だったのか。
わたしはユリ子に連れられて、名古屋競馬場の事務所内に入った。
「今日は人があまりいないですね……」
「競馬の開催日じゃないからね。競馬がやってれば、さすがにもう少しはお客さんがいるわよ」
「名古屋競馬場って、本当に小さいですね」
「そうね、一周約千百メートルだから。直線は、二百メートルもないし……」
一周千百メートル!? それって……千二百メートルの短距離レースでも、コースを一周するってこと?
「…それって、競馬が難しくないですか? コーナーばっかり回ってるイメージが……」
「そのとおり。名古屋競馬場は超短距離戦の八百メートル戦を除いて、コーナーを最低四回は回らなければならないの! すなわち、重要なのはコーナーリング技術、そして第一コーナーまでに前の位置を取っておくこと! 騎手の腕と積極性が試される競馬場と言って過言じゃないわ!」
大変そうだぁ……でも、乗ってみたい。色んな場所で結果を残せる騎手になれたら、カッコいいし。「鞭一つで日本中、世界中を飛び回れるような騎手になりたい!」そう思っていた頃もあったな……まだ、候補生の頃だけど。
実際は、そんなに甘い世界じゃなかった。
「そんな名古屋競馬場で、今大活躍している山乃木騎手が、ここにいるわ」
ユリ子さんが扉の前で立ち止まった。この部屋の中に、山乃木さんが……
地方競馬と中央競馬。舞台は違っても、山乃木さんの活躍ぶりは耳に入ってきた。デビュー年で五十勝以上を挙げて、地方競馬最優秀新人騎手賞を受賞したのは衝撃だった。男の新人ジョッキーもたくさんいる中で、全国で一番勝つなんてことは、一年目に六勝で終わったわたしからしたら、雲の上の話に思えた。
引退までに五十も勝てるか怪しいと思っている騎手が、一年でそれだけ勝ってしまうような騎手と対等に話していいんだろうか?
会えることになって、浮ついてた自分が、もう遥か遠くのようだ。いざここまで来ると、尻込みしてしまう。
私の思いなど知らず、ユリ子さんは応接室の扉を開けてしまった。
ドキドキするな……
「お待たせしました、山乃木騎手!」
ユリ子さんがよく響く声が、奥に座っている女性に対して向かっていった。
「いえ、それほど待っていません」
立ち上がった女性は、わたしより頭ひとつ小さく見えた。騎手は職業柄小柄な人が多く、男性騎手でも見下ろせることが多かった。それが気に食わないと思われているかもしれない……
それにしても、本当に小さい。これが、山乃木志乃さん。山乃木さんは、わたしの顔を見上げて、それから目線を落とした。
「…大きいですね、でも、減量には苦労していなさそう。細いし」
「えっ? あっ、ああ、そうですね、食べても身にならないタイプっていうか……太らないので、それこそ四十八キロとかじゃなければ……」
初対面で、まずそこ!? 驚いたけど、確か他の騎手の体重は気になるものかもしれない。話の合うところだし。
「…もっと鍛えれば、恵まれた体格を活かせるのに」
篭った声だ。呟くような。それで、ダメ出しをされた。
「…一応、体幹トレーニングをしたり、ランニングはしてるんですけど」
「私だったら、もっと筋肉を付けます。体重の調整がきく範囲でですけど」
山乃木さんの上半身を見ると、小柄ではあるけれど、腕や肩周りは張っていた。太もももパンパンで、相当鍛えているのが分かる。
これは、馬を動かせる筋肉だ。身長のない山乃木さんは、それを補うために筋肉を補強しているんだ、と気付いた。
やっぱり、勝てる人は、どこかが違うな。
「羨ましいですね」
山乃木さんは、そうこぼした。