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第9章 ノエル峡谷に吹く風

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 ジテンはある魔物に思い当たり、言った。
「古代ミシュガルド時代に生息していた魔物にリビングウッドという紫色の木のような魔物がいます。この魔物は赤い胞子を飛ばして、胞子を摂取した生物にゾンビに襲われているという幻覚を見せます。さっきの赤い実が胞子で、胞子を潰してしまったときに手に付着して、その手で甲皇国パンのビスケットを食べたから胞子を摂取してしまったかもしれません」
 ウォルトは感嘆する。
「ゾンビに気付いてるのは俺たちだけだし、それならスジは通るか。すごいな、まるで生き字引だ」
「ウィキジビキ?」
「なんだ、生き字引きは知らないのか? 辞書が歩いてるみたいだって褒めたんだよ」
 褒められて悪い気はしない。得意になってネタばれした。
「全部この本に書いてあったんですよ」
 そう言って木の葉で編んだリュックから古代ミシュガルド文字で書かれた本を取り出した。ヒャッカを実験槽から助け出す時に使った、半分千切れている錠前付きの本。地下室から出る時につい持ち出してしまったのだ。
 ヒャッカに教えてもらった古代ミシュガルド語のおかげでひと通り読んでいる。本には挿絵入りで、魔物についても書かれていた。ヒャッカの探究心に追いつきたくて、自分はすでに魔物すべてに精通していると胸を張る。
「それならこの幻覚を破る方法も知ってるんだな?」
 ウォルトの一言ですぐに天狗の鼻は折られた。
「それは書いてないみたい……」
 ゾンビが尽きることなく湧き出している。何も解決していない。
 ゾンビは死んだ戦友の姿をとって現れる。自分たちのことを忘れないで欲しいと。
「俺たちは死んだのにお前は何故まだ生きてる」
「こっち来いよ。楽しいぞ」
「みんな待ってる。ウォルトも来い!」
 このままでは本当に狂ってしまう。
 戦争のせいで生きた知り合いよりも死んだ友人の数のほうが多い。ウォルトは引っ張られるようにゾンビたちのほうに歩みよる。
「ウォルトさんそっちにいっちゃダメだ! 気をしっかりもって」
 ウォルトはジテンに手を引っ張られ引き戻された。
「そうか、ガロンを。戦友たちをゾンビにしてしまったのは俺の心だ。あいつらがこんなこと言うはずないのに」
 あいかわらずゾンビは増え続けているが、ウォルトはもう振り返らなかった。
 ゾンビたちはおどかしたり恨み言を言うばかりで直接危害を加えることはない。タネが分ってしまえばどうということはなかった。
 もしゾンビに恐怖して知らずに武器でも振り回していたら、同士討ちになっていただろう。
「まてよ。他にも胞子の付いた手でビスケットを食べた子供がいたよな!?」
 ウォルトとジテンは大急ぎでもと来た道を戻った。
 どんどん増えるゾンビが行く手を遮る。構わずゾンビをかき分けかき分け、ウォルトはずんずん進んでいった。
 南北から山が迫り、森にゾンビにさらに圧迫感のある景色となる。ここは切り立ったV字谷だ。遠くに見える稜線がちょうど分水嶺になり、谷に南北から水が集まって川となり、川がV字型に谷を侵食してできた地形だ。だが川はあれども水はない。枯れ川だ。水は飲めないが道の代わりにはなる。自然が作り上げた蛇行する道を二人はひたすら走った。
 途中、急峻な山肌に張り付くように傾いて建てられた家々がぽつぽつと見えてきたが、当然生きている人間はいない。
 ゾンビ意外に見えるものといったら、紫色のリビングウッドと野ざらしにされたしゃれこうべくらいのもの。なんと陰鬱な場所だろう。誰が名付けたか髑髏峡谷とはよく言ったものである。
 もともとノエル峡谷という名前だった。戦中この地でアルフヘイム人の髑髏英雄と呼ばれた男が甲皇国に寝返り、仲間の首を手土産した事件。その事件の衝撃がノエル峡谷の名前を一夜にして塗り替えてしまったらしい。
 かつて湖だった沼のほとりにウォルトはようやく子供たちを見つけた。
「くそーゾンビめ。アンネリエから離れろー」
 ケーゴが折れた剣を振り回してベルウッドを追い払う。
「ゾンビはあっち! 何ゾンビ守ろうとしてんの」
 ベルウッドがアンネリエを指差す。
 アンネリエは「逃げて」と書かれた黒板をベルウッドに見せて、ケーゴから庇っている。
 子供たちがケンカをしだしたと思い、金髪ショートヘアのお姉さんが止めている。ジテンはマントに署名してもらったので、そのお姉さんのことを知っていた。確か東方大陸の商業大国と言われているSHW国出身で、アルフヘイムに動くカカシを売りに来ていて、レンヌ一揆に巻き込まれたらしい。
 ジテンはマントに書かれた名前を読んで思い出した。イワニカ。そうだイワニカという名前だった。
「イワニカさん。今どういう状況ですか?」
 イワニカから話を聞くとどうやら、ケーゴはベルウッドがゾンビに見え、ベルウッドはアンネリエのことがゾンビに見え、アンネリエはケーゴのことがゾンビに見えているそうだ。
 ウォルトが折れた剣を振り回すケーゴを取り押さえ、ジテンがゾンビが幻覚であることを説明する。
 子供たちは少し落ち着いたが、まだ飲み込めないようだった。
 イワニカさんは農場経営者を相手に、働くカカシを売っている人なので、植物に関しても造詣が深い。いち早く理解して、解決策を考えてくれた。
「リビングウッドという魔物は食虫植物といっしょ。虫を閉じ込めて溶解液で溶かしたり、ギザギザの葉っぱで挟んだりするために罠を張るのとおんなじ。リビングウッドはゾンビの幻覚を見せる胞子の罠を張っていた。ゾンビにおびえて同志討ちした遺体を養分にするつもりだったんだよ。だから自分たちの根っこが届かないなわばりの外で、同士討ちして死なれでもしたら困るから、なわばりの外では幻覚の効果は消えると思う」
「試してみよう。簡単なことだ。ゾンビが見えなくなるまで先に進めばいい」
 ウォルトの提案にジテンは反対だった。
 今日一日でノエル峡谷とメメントの森を行ったり来たりしている。くたびれていた。
 ニヤリと笑ってウォルトが煽る。
「えー。強くなりたいってのはウソだったのか? 走りこみは体力づくりの基本だぜ」
「走りますよ。走ったら剣の稽古をつけてくださいよ」
「俺も俺も!」
 ジテン、ケーゴだけでなくフンスッと息を吐いてアンネリエまでやる気になっている。
「まさかアタシも?」
 やる気のなかったベルウッドもウォルトの「よーいドン」の一言で反射的に走ってしまった。
 よどんだ空気を押し流すように、峡谷を涼しい風が吹き抜けていく。
 まるで髑髏峡谷が一時ノエル峡谷に戻ったかのようだ。
「見て見て僕のロケットスタート!」
「アハハ! 最初からそんなに飛ばしちゃバテちゃうぜ」
「アンネリエ、いっしょにゆっくり走ろ」
「……(無言の全力疾走)」
 四人の子供たちのにぎやかな声で陰鬱なゾンビの幻覚はかき消されていった。
 あっという間にメメントの森の先頭集団に追いついたが、最初から飛ばしすぎたジテンはおぼつかない足取りでアンネリエやベルウッドにも抜かされる有様。
 ウォルトがいっしょについて励ましながら走っていたが限界そうなので、一番前のレビのいるところをゴールにすることにした。
 ゴール付近を歩いていたレンヌ市民たちが拍手で迎えてくれる。
「くっ、屈辱だ。なんたる無様」
 ビリっけつでゴールしたジテンは自分の体力の無さを実感した。
 まだ体力がありあまってて、一人で進もうとするケーゴをウォルトが止める。
「一人で先に行くのは危ねえからやめろって。そんなに走りたいなら俺たちの目の届く場所にしろよ」
「えー。走れっつったのはそっちじゃんかー。もーいい。ここを折り返し地点にするから」
 そう言うなりケーゴは来た道を戻って、走っていった。
「アタシはもう走れないからね。まったく限度ってものを知らないんだから。……ってアンネリエ、あんたまさか!」
 呆れ返っているベルウッドを横目にアンネリエはケーゴを追いかけていった。
 ジテンはもう走る気にはなれなかったが、ケーゴに対する対抗心でウォルトに言う。
「ちゃんと走りましたよ。約束です。さあ剣の稽古をつけてください」
 虚勢を張っている。くたくたのくせに。
「うん。ちょっとレビたちと今後のことを決める話をするから、あとでな」
「変な気の使い方しないでください。僕はぜんぜん元気です」
「本当に話し合いの場があるんだって。それに休息も修行のうちだぞ」
 修行と言われてしまえば休むほかない。ジテンはぺたりと座り込んで、肩をなでおろした。
 ウォルトの話は本当でレビ、フォーゲン、ショーコ、メン・ボゥ、六人の剣闘士ら初期メンバーが一同に会し、話し合いを始めている。
 議題はこれからどうするかだ。
「ここは危険すぎるし、手持ちの食料ももう尽きる。禁呪汚染地帯を出よう」
「ウォルト、俺はな。甲皇国人のお前がレンツの一揆を助けに行こうと言ったとき、嬉しかったんだぞ。お前ならアルフヘイム人の気持ちを分ってくれる、そう思った。分ってねえじゃねえか。ホタル谷こそ約束の地だ。ホタル谷へ行こう」
 レビの言うホタル谷とは、アルフヘイムの英雄クラウスの名を世界に知らしめた古戦場のことである。アルフヘイム人にとってホタル谷は聖地だ。
 かつてホタル谷で初陣を果たしたシメオンは感涙にむせぶ。
「よくぞ言ってくれた。クラウスはホタル谷で4ヶ月も難民を養ったんだ。ホタル谷こそ難攻不落の地よ」
「逆だ。英雄ですら4ヶ月しか持ちこたえられなかったんだ。ホタル谷だって禁呪汚染地帯の中だ。難攻不落の地形も変わってしまっているし、食料の当ても無い。それよりもここを出てフローリアへ行こう。フローリアは戦中、兎人の難民を受け入れている。俺たちも受け入れてくれるはずだ」
 ウォルトは対案を出したが、ホタル谷派のレビとシメオンは譲らない。
 話し合いがなかなか終わらないので、ジテンはだんだんじれてきた。
「剣の稽古まだー。もう日が暮れますよ」
 比喩ではなく日が傾き始めている。
「あのバカップル遅くない?」
 ベルウッドの言うバカップルが誰かはウォルトにも分った。
「おっと、もうそんな時間か。ケーゴとアンネリエの奴、いつまで遊んでんだ? 悪いがメン・ボゥ、連れ戻してきてくれないか」
 いつもなら面倒なことは引き受けないメン・ボゥだったが、話し合いに飽きていたのでウォルトの頼みを聞くことにした。
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