川のせせらぎが聞こえる。
木々ざわめき、鳥のさえずりも。
帝都マンシュタインではないようだ。
土の匂いがする。
青草の匂いや、潮の匂いも。
港町クライストだろうか。
暖かい光が降り注いでいるのが、目をつぶっていても分かる。
懐かしい。
もしかして私は故郷アルフヘイムに帰ってきたのかな。
目を開けると、そこは夢でも幻でもましてやあの世でもない。
私は見知らぬ土地にいた。
木造のベッド、振り子のついた柱時計、れんが造りの暖炉。ネクルの家でもアリエルさんの屋敷でもない。
窓を開けると近くには川が流れていて、水面に太陽を映し光の階段を作っている。
朝日だろうか、夕日だろうか。私はいったいどれくらい眠っていたのだろう。
ノックもなしにドアが開く音がしたので、私は安心して振り返った。
「お目覚めになったのですね、よかった。ご、ごめんなさい。てっきり眠っていると思ったから、ハシタってばノックもしないで……」
我が家のメイドが私が目覚めたことを我がことのように喜び、朝食を用意してくれた。 メニューは薬草のパイ包み焼き、豆のスープ、デザートに果物まで付いている。見たことのない果物だったけど、宝果と呼ばれるくらい甲皇国では貴重な果物らしい。私は病み上がりなのに三つも平らげてしまった。
私はひとごこちついて、今更ながらここがどこであるのか聞く。
「ここはトレーネ川西岸地区、ネクル様のご領地です。近いマンシュタインのお屋敷ではなく、遠くの本領にヒャッカ様を運ぶと言って聞かなくて」
ネクルはきっと私の体調が郊外に出ると回復したことをよく見ていたのだわ。現に私の体調はだいぶましになっている。
ハシタちゃんの話によると、私と政略結婚するまではネクルはこの地でひっそりと隠遁していたそうだ。この素朴な土地、質素な家が本来のネクルの姿なのだろう。
トレーネ川西岸地区は北をオロイ内海、西を第二トレーネ川、東を第三トレーネ川に囲まれ、南北に長く伸びた中洲のような土地である。妾腹の子として生まれ、狂人として廃嫡されたネクルはこの地を所領としてあてがわれた。まるで流刑のように。
オロイ内海は骨大陸中東部に位置する。広大な塩湖というよりも、名前通り閉じ込められた海といった様相だ。トレーネ川はオロイ内海から南の海に向かって幾筋も流れる複数の川である。過去には国境だったので、どの川が本来のトレーネ川かで係争することもあった。現在では西から順に第一第二と番号をつけて呼んでいる。
塩湖と塩水の流れる二本の川と海に囲まれた、作物の育たぬ塩漬けの土地。
きっとネクルはこの死んだ土地が好きなのだろう。
私も好き。
この土地の精霊は死んでいない。むしろマンシュタインより生き生きしている。
「それでネクルは?」
私は急に不安になった。妙な胸騒ぎがずっとしている。
「墓地にいらっしゃいます」
私の顔から血の気の引くのを見て、ハシタちゃんは慌てて言葉を継いで説明した。
「ごめんなさい。言葉足らずでした。ネクル様は墓地でオフィーリア様の遺骨を埋葬しています。侍女のシーナ様が付いてあげてますので、何も心配ありません」
胸をなでおろしたけども、まだ胸騒ぎは続いている。私は一刻も早くネクルの顔を見て安心したかったので、墓地に行くことにした。
ハシタちゃんは病み上がりの私を心配するが、自分の体のことは自分がよく分かっている。外を歩いているほうが気分がいい。
私の右に立って、ハシタちゃんがかばいながら案内する。
右手に第三トレーネ川を見ながら、暖かい日差しを背に受けながら。
「さっきは聞き流してしまったけど、ネクルの持っていた頭蓋骨を返してもらえたってことよね。よかった」
「はい。歯科医からのお墨付きで頭蓋骨がオフィーリア様のものだという鑑定結果が出たんです。それを知ってアリエル様は今までの非礼を詫びながら、オフィーリア様の遺骨をネクル様に返しました。軟禁をすぐに解いて、ヒャッカ様の入院の手続きもしました。それでもクライストの病院でも、帝都の病院でも、病名すら分からない。ヒャッカ様一週間も眠っていたんですよ。アリエル様はご自分が軟禁したせいで、ヒャッカ様が昏睡状態に陥ったことを悔やんだようで、官憲に自ら出頭しました」
一週間も眠っていたのか。どうりでお腹が空いていたわけだ。
上流の方に橋が架かっているのが見える。大きくて古い橋。その橋から西へ西へと石畳の街道が続いていた。橋も街道も小国分立時代のころに造られて以来、今でも使い続けているという。
街道はあれど街はなく、徹底的に破壊され尽くした川港の礎石だけが置き去りにされている。その廃墟の中に共用墓地はあった。
百か二百はある墓標の木杭はみなのっぺらぼうで墓碑銘どころか故人の名すら書かれていない。
墓地に入るとひとつだけオルガン型の墓石があったので、すぐそれがオフィーリアのお墓であることが分った。
お墓の前でネクルはポロポロと涙をこぼしながら花を手向けている。私もシーナちゃんから花をもらって、手向けてからネクルに声をかけた。
「これで、よかったの?」
「うん。死んだ人とは、住む世界、違うから、バイバイする」
「そう。辛かったね。えらいね」
ネクルのそばにずっといたい。
せめてこの人の涙が乾くその日までは。
しばらくしてから四人供だって墓地を出ると、使われていないはずの港に川舟が係留されている。
来たときにはこんなものはなかったはずだ。
胸騒ぎがよみがえる。
「こんなところにいた。探したよ」
ネクルでも、シーナちゃんでも、ハシタちゃんでも、もちろん私の声でもない。おそらくはあの川船の主。
声をかけてきた男は軍服のホルスターから拳銃を引き抜いて、ネクルの頭に突きつけた。
私はネクルをかばって拳銃の前に立つ。体がそういうふうに動いた。
「無礼者! この方が高貴なご落胤と知っての狼藉か」
私は自分の声の大きさに驚く。男はひるみ、銃を下ろして言い訳した。
「よーく知ってるよ。俺はデスデッド・ダイ中尉。ネクル子爵に栄転のお知らせに来ただけだ。ただ狂人をしつけて、戦地に連れて行くのに銃を使ったまでのこと。反乱軍掃討の総司令官だそうだ。良かったじゃないか」
「ネクルは狂人なんかじゃない! むやみに銃を突きつけるお前こそ狂人だ。総司令官なんてお断りします」
「コトワル、コトワル」
ネクルもちゃんと断ると意思表示している。それなのにダイ中尉とかいう軍人は、悪びれもせず言い放った。
「狂人に拒否権なんてない。なあに、お飾りの司令官さ。俺が全部仕切るのにまかせておけばいい」
ダイ中尉は拳銃を空に向かって二発撃った。威嚇射撃かと思ったが、そうではない。
捜索のために散開していたダイ中尉の部下たちが銃撃を合図に呼び戻され、ネクルをはがいじめにして連れて行く。
私は最期まで抵抗した。
これではあの時と同じ。私がマンジにさらわれて、政略結婚の道具にされたあの時と。
ネクルが無理やり川船に押し込められる姿に、私は自分を重ねた。
ネクルを道具にされるの止めなくては。これ以上あの人を傷つけさせやしない。
私は川船に乗り込んでネクルを取り戻そうとするが、屈強な軍人たちに押し戻される。
私はなんて非力なのだろう。
侍女のシーナちゃんもメイドのハシタちゃんも抵抗してくれたけど、女の細腕では三人束になったところで敵わない。
意を決したハシタちゃんは自らの本性をさらけ出す決断をした。
「ごめんなさい、ハシタは迷っていました。だけど必死なヒャッカ様を見て決心しました。この姿はあまりお見せしたくはなかったのですが……」
ハシタの声はだんだんと低くなっていき、しまいにはうなり声になる。束ねていた黒髪はほどけていき、四つんばいになった全身を覆うほど伸びていった。白い細腕は獣の前足に、虹彩が広がり黒目がちな獣の目となる。馬ほどの大きさの黒い獣が川船になだれ込み、ダイ中尉に迫った。
「そこまでだ。船から降りろ。でなければ撃つ」
ダイ中尉は再び拳銃をネクルの頭に向ける。
「皇族になんてことを」
シーナちゃんの言う通りだ。この軍人は本当に狂人ではなかろうか。勝手に追いこまれて引き金を引かないように、私は切々と説き伏せる。
「おやめなさい。この国では皇族殺しは極刑。三親等まで死罪を免れない」
ダイ中尉は不遜にもけらけらと笑って、侮辱を続けた。
「これはお笑いだ。自分たちを皇族だとでも思っているのか? 気の狂った皇族など身内の恥。甲家はネクルに死んで欲しいと思っている。国民は敵国からと嫁いで来たお前に消えて欲しいと思っている。ここで殺されようが、司令官として戦死しようが、順番が前後するだけのこと。誰も気に留めはすまい。船から降りないというなら、一分ごとにネクルの足を撃つ。さあ急げよ。足は二本しかないんだからな」
ハシタは獣の姿でも理性があるのだろう。言葉に従い船を降りた。
川船が離岸していく。
私はまた何もできなかった。いや、泣き寝入りなんてするもんか。ネクルを追いかけよう。
「ごめんなさい! ごめんなさい!! 力になれず。こんな化け物メイドはクビですよね」
ハシタは元の姿に戻り、自分のふがいなさを嘆いた。
「何言ってるの。クビなわけないでしょ。これからいっぱい働いてもらうんだから。まずは終戦工作の会に連絡なさい。巻き返しの策を練らなきゃ」
「はい!」