四話 共に居たもの
真っ暗だった。一面何も無く、いつものあの夢の中に来たのだと思った。
だが、どの方面を向いても、獏が居ない。それ以前に、何の悪夢も見ていない。
父を呼び、母を呼び、メイド達の名を呼ぶが、誰一人返事をする事も、姿を現わす事も無い。
酷い恐怖と焦燥感に襲われた。此処は一体、何処なのだろう。
走っても、叫んでも、誰も居ない。何も無い。
その内自分の事すら、本当に存在しているものなのか、分からなくなってしまっていた。
座り込み、目を瞑る。どちらにせよ何も無いなら、この方が寂しくないからだ。
これが夢なら、早く醒めてくれるよう、それだけを考えていたその時、小さな咀嚼音が耳を掠めた。
「坊ちゃん、大丈夫でやすかい?」
その音を呑み込んだ後で、聞き慣れた声がそう言った。
見上げると、すぐ目の前にあの獏が、座り込んでこちらの顔を覗き込んでいた。
いつもの気怠げな声で、顔が青いと頰を摩ってきたので、思わず飛びつき、何故現れなかったか問い質した。
すると、こんな時はいつも声を吃らせる獏が、どおどおといつもの飄々とした話し方で、こちらを説き伏せた。
「勘違いされちゃ困りやすよぉ。坊ちゃんはさっきまで、悪夢の中に居たんでやす。暗い孤独の悪夢をね。それを今しがたあっしが食らった。そんだけの話でやす」
獏の言葉には納得出来たが、未だに理解出来ない部分もあった。
辺りを見渡す。先程と同じ暗闇だ。何も恐ろしい事など無い。それは獏という、自分とは別の誰かが居る所為なのか。
そう考えていると、こちらの心中を察したらしい獏が、苦笑してこう言った。
「坊ちゃん、何も"無ぇ"から真っ暗なのと、何も"見えねぇ"から真っ暗なのとじゃあ、訳が違いやす。此処にゃあ何も"無ぇ"。だから、怖かねぇ。あぁ、それじゃあさっき、あっしが言った"孤独の夢"と辻褄が合わねぇ、って言いたげでやすねぇ。ところがどっこい、合うんでやすよ。何も独りぼっちで居る事だけが、孤独ってぇんじゃねぇでやすから」
延々と語る獏の言葉には、思い当たる節が在った。だが、それを獏に対して言うのには、些か抵抗があった。
"彼等"が見える自分と、見えない両親。その差は大きく隔たって、何処か寂しさを感じる事は確かにあったのだ。
だが、それを言えばまた笑われるだろうと、何も返さずに黙り込んでいると、獏はまたこちらの顔を覗き込んで、にこりと笑った。
「何か悩みがおありなんでやしょう? どうせ夢ん中だ。言っちまいやしょう。家ん中だからこそ、言えねぇ事だってありやしょう? 悩みなんざ、言っちまうだけですっきりするもんでさぁ」
久々に会えた事が余程嬉しいのか、いつもはこちらの事については言及などしない獏が、今日はやけに踏み込んで来た。
言ったところで解決するものでも無いが、もし言ってしまった事で悪夢を見る事が無くなれば、困るのはそれを主食としている獏の方だろう。
そう問うと、獏は笑んだまま首を横に振った。
「生憎、あっしの飯はまだ鱈腹ありやす。たかが一人悪夢を見なくなったところで、何も困りゃあしやせんよ。まぁ、坊ちゃんに会えねぇってぇ意味なら、ちぃと寂しさもありやすが、友達の悩みってぇのぁ、聞いてあげたくなるもんでやしょう?」
耳を疑った。獏は自分の事を、すっかり気に入っているようだった。
不快に思うことも、友という言葉を否定しようという思いも無かったが、何とも心外だった。
と同時に、蓋をしていたものが、溢れ返って来そうになり、上からまたそれを押さえつけようと、獏の両肩を引っ掴んだ。
そして、次に獏に会う事があれば、必ず訊こうと決めていた事を、ゆっくりと、息を吐くが如く問うた。
「……トクサは、お前の同族か?」
途端に、獏の笑顔が固まった。
夜中突然現れたあの男は、覚という、獏と同様の御伽噺の生き物を名乗った。書物によれば自分にしか見えない"彼等"も、獏も、あの男も、姿形は違えど皆同じ種族であるらしい。
だとしたら、あの男が"彼等"の姿が捉えられない筈が無く、彼が発した言葉の中に、嘘が紛れている事は明らかな筈なのだ。
今まで一度でも獏の言葉を信じる事はなかったが、母の命が懸かっている。今こそ獏の言葉の真偽を、確かめる時だと思った。
しかし、獏の口から出た言葉は、肯定でも否定でも無かった。
「坊ちゃん、こんな時だけあっしの言葉に頼るんでやすかい?」
先程とは打って変わって、暗く沈んだ声だった。
見上げると、相変わらず獏の目は前髪で見えないが、固く閉じた口の端を、無理矢理に吊り上げていた。
「だって、狡いじゃぁねぇでやすか。坊ちゃんは一度だって、あっしの話を信じちゃぁくれなかったのに、こんな時だけ、あっしの言葉に縋ろうなんざぁ」
震えた声で言う獏の言葉が、胸に突き刺さった。今まで悟られないよう獏の話を聞いていたつもりだったが、勘付かれてしまっていたようだった。
そう言われて強く反発する事は出来ず、どう問えば獏が答えるか、そんな事に頭を巡らせていた。思えば、イエスかノーかでしか答えの出ない問いには、確かにまともな答えが返って来なかった。
「何故、トクサは人の心が見えるのか。覚とは一体何だ」
「問い方を変えりゃぁ良いってぇもんじゃぁねぇやぁ。その答え、坊ちゃんなら既に持っていやしょう?」
しかし、その問いにも獏は答えず、獏は言葉で刺した胸を更に抉った。
そう言えば、最初に会った頃、獏は夢の中にいるの者の思考ならば、覚と同様に読む事が出来ると言っていた。
獏は知っているのだ。こちらが"彼等"について調べた事、その文献の中に覚も在った事。しかしそれでも、確証を得られずに気ばかりが急いてしまっている事。
彼は覚を騙っているのか? それならばどうやって、父の心を実際に読んでみせた? 人間以外を排するこの国で、何故態々己を人では無いと言ったのか?
あの男は、母を死なせない為に、父に暗殺の計画を密告してくれたと言うとに、この家を守ろうとしてくれていたのに、何故父は私に、彼に近付かないようにと言った?
何故あの男は、"彼等"と同類でありながら、"彼等"に対して知らないフリをした?
あの男は、味方ではないのか? 母を、助けようとしてくれているのではないのか?
「悩みを話せと言ったのは、お前じゃないか。教えてくれキキョウ。私は一体……、何を信用すれば良い?」
色々な事が頭を掻き乱し、出た言葉は今にもこの暗闇に消え入りそうだった。
膝に力が入らず、そのままへたり込むと、獏もこちらの顔の高さに合わせ、真っ直ぐにこちらを見つめた。
「坊ちゃん、真実なんてぇもんは、必ずしも一つたぁ限りやせん。そんなもんは個々の視点で、いくつも顔を変えちまうもんなんでやすよ」
「個々の、視点…?」
「街の往来で、小さい仔猫に吠えた大きな番犬が居て、それを坊ちゃんが止めたとしやしょう。周りはどう思いやすか? 坊ちゃんは仔猫を守ったつもりだ。慈悲深い通りすがりも、感動してそう言うでやしょう。でも番犬は、侵入者を追い出すのが仕事でやす。それを坊ちゃんが邪魔したと、石頭の目撃者と飼い主は怒るでやしょう。そしてその番犬の居る屋敷の隣家で、読書に耽ってた若者はこう思うんでやす。『煩い犬を誰かが黙らせた』ってぇ、ね。違いやすかい? そうでやしょう? どれも"真実"だ。坊ちゃんが仔猫を救った"事実"は、他の奴等によってそんな"真実"に塗り替えられちまう。そんなもんなんでやすよぉ」
いつもは理解の及ばない、めちゃくちゃな論法で説く獏の言葉が、この時だけはスッと頭の中に入り込んだ。
詰まる所、人によって視点が違う為、何を信用すべきかなどは、他人に教えてもらうべきではないと、そういう事らしい。
「だから、あっしがあいつは大丈夫、こいつはダメだなんざぁ、坊ちゃんにゃぁ言えやせんやぁ。お力になれず、申し訳ねぇ」
力無く笑った獏は、膝を地面につけて、深々と頭を垂れた。獏のそんな姿を見たのは、その時が最初で最後だった。
本当なら獏は、もっと怒るべき筈なのだ。怒鳴られ突き放されても、仕方が無い事をした自覚はある。獏の話を一切信じなかった挙句、こんな時だけ友という言葉に甘んじようとしていたのだから。
しかし獏はそうするどころか、協力出来ない事を謝罪しているのだ。何故こうまでして、自分を気にかけてくれるのか。頭を過ぎるのは罪悪感ばかりで、答えは一向に現れなかった。
「言ったでやしょう、坊ちゃんだけなんでやすよぉ。こうして夢の中で、あっしとお話してくれるなぁ」
穏やかな声で、獏はこちらの疑問に答えた。
しかし一瞬だけ、何かを堪えるようにキュッと口の両端を固く歪ませると、それを無理矢理釣り上げて、こちらの額に自分のひたいをくっつけた。
「あっしゃぁ、坊ちゃんが思ってるよりも、ずっとずぅっと坊ちゃんを大事に思ってやす。だから、どうか自分を見失わねぇで下せぇ。あっしにゃぁ坊ちゃんの行く先を、指し示すなんざぁ出来やせんが、せめて、坊ちゃんをお守りするぐらいは、してやりてぇんでやす。それだきゃぁどうか、忘れねぇで下せぇや」
諭すように言う獏の言葉を聞いて、何やら途轍もない不安に襲われた。
徐々に暗闇が白んでいく。朝が来たのだ。その光に溶けていくかのように、獏の体が消えていく。
何故だか獏と会えるのが、これが最後であるかのような、そんな気がしてしまったのだ。
「それも、出鱈目なのか!?」
思わず、心にも無い事を叫んでしまった。そう問えば、またいつもの気怠げな声で笑い飛ばしてくれそうな、そんな気がしたからだ。
獏は確かに笑った。だがそれは、自分が望んでいるような笑みではなかった。
紫の髪の隙間から、初めて見えた獏の目は、涙で潤んで煌めいていた。
「そいつを決めるなぁ、あんたでさぁ」
そう言った獏の声は、震えていた。
手の伸ばし、その手を取ろうと、キキョウの名を叫ぼうとしたその時、獣の雄叫びのような声が聞こえて、目が覚めた。
起き上がると、どうやらそれは誰かの号哭らしい。何事かとベッドから降りて、寝間着のまま声のする方へ向かった。
そこに居たのは、暗い表情で俯いているトクサ卿と、泣き崩れている父の姿があった。耳を劈くような号哭は、父のものだったのだ。
頭の整理が追いつかず、呆然と立っていると、こちらに気付いたトクサ卿が声をかけようとしてきた。
しかし、それを止めたのは父だった。嗚咽混じりに、二人だけにして欲しいと彼に頼み込み、彼は何も言わずに退室した。
彼がこの家に居て、普段は物静かな父が信じられない声量で泣き叫んでいる。この状況を見れば、何が起こったのかぐらいは、子供の頭でも理解出来た。
それでも、今の父の顔を見ながら、それを確認出来る程、冷徹ではいられなかった。
「カール、母上は……身罷られてしまった」