八話 見たくないもの
暗闇の中、遠く叫ぶような呼びかけるな声が聞こえた。
何が起こっているのか確かめたいが、何故だか体が動かない。頭もぼんやりしている。
呼びかける声は段々と大きくなり、やがてそれは遠い場所からではなく、自分の目の前から聞こえていると分かった途端、はっと目が覚めた。
するとそこには、最近昼飯時に通い始めた先の工場で勤務している整備士アルベルトが、切羽詰まったような顔で自分の体を抱えていた。
「だから言ったろ、此処はお前みたいなお坊っちゃまがウロついて良い所じゃねぇんだ。今まで何も無かったのが奇跡なぐらいだ!」
よく見ると、彼の服には所々血が付いていた。
それを見て漸く、ならず者に襲われて気絶していたのを思い出した。殴られた頭も、今は止まっているが出血していたらしく、鈍い痛みが響いている。
顔が余程青くなっていたのか、アルベルトは視線の先にある自分の服に付いた血痕に気付き、いつもの不機嫌な顔で溜め息を吐いた。
「これは俺のじゃねぇよ。お前を襲った奴等のだ」
そう言って汚れが落ちない事に眉を潜めているのを見ていて、何とか心を落ち着ける事が出来た。
立ち上がり辺りを見回すと、そこが襲われた場所では無い事に気付いた。
気絶してから何かをされる前に、彼がここまで抱えて逃げてくれていたようだ。その返り血からして、ならず者と交戦でもしたのだろう。
改めてアルベルトに向き合い、誠意を込めて礼を言った。すると彼は少し気まずそうに目を逸らし、頬をポリポリと掻いた。
「お前を連れて逃げた事についてなら、有り難く受け取っとくが、お前を助けたって事なら言う相手が違う。……まぁ、言葉が通じるかも分からねぇが」
思わず聞き返した。アルベルトはその先を言うのを渋っていたが、もう少し注意して欲しいという思いがあったのか、脅しじゃねぇぞと前置きした。
「化け物だよ。それも馬鹿みてぇにデカいやつだった。猿みてぇな顔に虎みてぇな足して、尻尾が蛇になってやがった。そいつが追い剥ぎ共を食っちまったんだよ。狭ぇ路地だったから逃げ場も無ぇし、俺ももう駄目かと思ったがな」
聞けば聞く程、信じられないような話だった。
順を辿ると、二人の追い剥ぎに襲われたのを目撃したアルベルトは、自分を守ろうと即座に庇って、追い剥ぎ達と対峙しようとした途端にその化け物が現れたらしい。
子供相手にする話では無いと思ったらしく詳細は話さなかったが、ともかくその化け物が追い剥ぎ達を喰らい、不思議と自分とアルベルトだけは暫く見つめるだけで何もして来なかったのだそうだ。
ただ、アルベルトの言っていた化け物の姿には心当たりがあった。"彼等"を調べていた際に、その特徴に当てはまる化け物の絵が描かれた書籍を見た事があった。
しかしそれを思い出そうとしても、殴られた痛みでどうにも頭が回らない。この調子では、明日には熱が出ているかも知れない。
そうなれば、父はどのような顔をするのだろう――。
「坊っちゃま!」
突然、視界の端からそう呼ぶ声が聞こえたと思えば、何者かにバッと抱き締められた。
咄嗟の事だったのと、血が回っていない為に状況が理解出来なかったが、抱き締められている間に頭の痛みがみるみると消えていった。回復魔術だ。
「あんた、こいつんとこのメイドか?」
アルベルトがそう訊くと、メイドらしいその女性は体を離し、彼の方へ向き直った。
父の実家に居た、ミゲルがハシタと呼んでいたメイドだった。
あれ程また会ってみたいと思っていた女性が、そうだと認識した途端に酷い恐怖心に駆られてしまった。
深々と頭を下げてアルベルトに礼を言う彼女に対して、彼はまた自分が助けたのではないと言いかけたようだったが、事の詳細を話さない方が良いと判断したらしく、また気まずそうに頬を掻いた。
それから彼女は屋敷へ帰ろうとこちらの手を取ったが、思わずそれを払った。彼女もアルベルトも、目を丸くしていた。
「どうか落ち着いて下さいまし。お屋敷に戻るまで、坊っちゃまの事はハシタが必ずお守り致します故」
彼女の先程までの優しい笑みが真剣な眼差しに変わると、両肩に手を置いて、凛とした声でそう言った。
その言葉が偽りとは思えず仕方無く手を取ると、彼女はまた柔らかく笑んでアルベルトに会釈をし、共にその場を去った。
屋敷の前に着いた所で、彼女はずっと小脇に抱えていた小包を差し出した。
追い剥ぎに襲われた際に服を汚した為、新しいものを用意してくれていた。今着ている服と、全く同じものだった。
屋敷に戻ったら即座にそれに着替えて、今の服は知られぬ内に捨てるよう、彼女は笑って言った。
本当ならアルベルトに言ったように、彼女にも礼を言うべきなのだろうが、自分の口から出たのはそんな殊勝な言葉ではなかった。
「もう選ばれた者ではないのに、何故人を殺してまで助ける?」
彼女は驚いたように、目を見開いた。
このメイドの姿を捉えた時に、ミゲルの話を思い出したのだ。彼女は鵺と呼ばれる、アルベルトが言っていたような正体の亜人なのだ。
つまり彼女こそが、二人の追い剥ぎを食い殺した化け物なのである。その後人の姿になり戻って来たようだったが、それに気付いて咄嗟に手を振り払ってしまった。
だが彼女は瞬きを繰り返したまま、小首を傾げると信じられない事を言った。
「己の保身の為に無抵抗な弱者を襲う卑怯者を、何故生かしておく必要があるのです?」
背筋が凍り、同時に理解した。やはり彼女も、人間ではないのだ。
つまる所彼女は、大の大人が二人掛かりで幼い子供一人を襲った事が、酷く許せなかったのだ。それ故に、二人もの命を容易く奪ったのだ。
卑怯者に貧乏も裕福も無く、如何なる立場であれ弱者を虐げるのだと、この世に害しか齎さないと、彼女はそう言うのだった。
自分は一体、何を期待していたのだろう。勝手な想像が、彼女を献身的な心優しい従者に作り上げてしまっていた。
選ばれた者と言ってくれたただそれだけの事で、自分を他人とは違う特別な扱いをしてくれると思い込んでしまっていた。
自分ならこの国を救えると、暗にそう言ってくれたから。以前は名前で呼んでいたのにさっきは「坊っちゃま」と、皇孫である事をアルベルトに知られないよう気を遣ってくれたから。
渡された服を握り締め、自分の愚かさに歯を軋ませた。彼女はまた真剣な表情で、更に言葉を連ねた。
「この国が民をそうさせている事は、ハシタも承知しております。故に戦うのです。強者の悦に浸る、自惚れ共を制裁する為に」
背を向けた。それ以上は、聞きたくなかった。
何も言い返せなかった。過激な言動とは言え、彼女の言う事に間違いは無かった。
そしてそんな卑怯者を淘汰出来るのも、彼女のような強者でしか成し得ないのだと悟った。
母を殺した奴がこちらには一切手を出さないのも、子供という名の弱者故に泳がせているのだろう。
全ては奴の、この者達の掌の上なのだ。そう思うと怒りと悔しさが込み上げた。
「……俺は、お前達の思い通りにはならない」
そんな捨て台詞を吐いて、屋敷へと駆け出した。
その時彼女がどんな表情をしていたかなど、知る由も無い。