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第四話『神童VS神童:中盤』

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 足踏み。

 藤井聡太は天才である。
 その事実を否定する日本国民は、今やひとりもいないだろう。
 では、その棋士人生は常に順風満帆、傷ひとつない完全無欠の連勝街道だっただろうか。

 答えは否。

 どんな人間にも挫折はある。逆境に心折れそうになる時はある。史上最年少棋聖・藤井聡太とてその例外ではない。振り返れば、その若き道のりの中に『敗北』という名のついた足跡を見つけることは容易だ。
 もっとも『負けたこと』それ自体はけっして彼の天才性を毀損するものではない。
 この世には、生まれながらの天才と呼ばれる者たちが確かに存在する。しかし、歴史に残るような真の偉業を成し遂げる者は、例外なく過去に深い挫折を味わっているものだ。
 負けることは弱さではない。
 負けて、二度と立ち上がれぬことが弱さなのだ。
 強者とは、泥の中で己の強さに気づけた者のことを言う。
 
 2016年4月末、名古屋大学教育学部附属中学校。

 午前中のひとコマ、同校のグラウンドではあるクラスの50メートル走のタイム計測が行われていた。例年、新学期が始まったばかりのこの時期の体育の授業は、文部科学省主導で実施されるスポーツテストの記録計測に充てられている。
 なんの変哲もない日常。
 ――そのクラスの生徒のひとりが新進棋士奨励に所属しており、前年10月に三段昇段の史上最年少記録を更新したばかりだという事実を知らなければ、誰もがそう感じるだろう。

 藤井聡太13歳9ヵ月、中学2年生。

 当時、彼が深い泥の底でもがいていたことを察する者は、クラスメイトの中にはひとりもいなかった。学校では奨励会に所属していることを周囲に黙っていたのが一番の理由だが、仮に話していたところで一、二、三段と連続で最年少記録を更新してきた当時の彼の中に『挫折』の二文字を見いだせる者がいただろうか。
 数日前の4月23日、第59回奨励会三段リーグ戦初日、藤井は一勝一敗という戦績を残している。
 三段リーグとは四段への昇段枠、つまりプロ棋士デビューをかけて行われる総当たり戦である。半年間にわたる熾烈な戦いを勝ち抜きプロ棋士になれるのはわずか2名(年間4名)。その過酷さをして『鬼の住処』と形容される、全プロ棋士にとっての登竜門であり鬼門だ。
 今回が初参加ということを考えれば、まずは一つ白星を稼いだという点で藤井の戦績はそれほど悪いものとは言えない――というのは三段リーグを生き残ることのできなかった元奨励会員の感覚だろう。
 第一線で活躍する多くのプロ棋士の三段リーグ時代を紐解けば、実際達成できたかどうかを別として、初参加での『一期抜け』を目指していた者はけっして珍しくはない。もちろん、藤井聡太もそのひとり――いや、仮に『一期抜け』に対する拘りが測定できるものだったなら、彼の記録はもう一つ増えていたに違いない。気概という点で、天才児はすでにプロ顔負けの『強さ』を持っていた。
 同時に、だからこそその気持ちについてこれない己の実力に対して、強い苛立ちを感じずにはいられなかった。
 挫折が始りは三段昇段直後に遡る。前年10月の昇段は、一つ前の第58回三段リーグ開始にはギリギリで間に合わないタイミングだ。あと一月、いや半月早く昇段を決めていれば。しかし、どれだけ後悔したところで不参加の前期リーグが終わるのを指を咥えて待つしかない。
 そして今期、足踏みの悔しさをぶつけた初日の結果が一勝一敗。
 出だしからの躓き。負けないと思った。いや、必ず勝つと心に誓った。それなのに。
 早く前に進まなければ。
 だが、思いが強くなればなるほどに脚が泥沼に取られるようなーー。
「――藤井君、次だよ」
 はっ、と我に返ると周囲にいるクラスメイトたちの視線が自分に集まっていることに気づいた。物思いに耽っていたせいで、自分のタイムを計測する順番が回ってきたことに気づかなかったのだ。
 不思議そうな顔でスタート係の体育委員が声をかける。
「大丈夫? 最近よくぼーっとしてるけど、もし体調が悪いなら――」
「いや、大丈夫です」
 思わず、年上ばかりの奨励会にいるときの感覚で敬語が出てしまった。普段は同級生相手には年相応のタメ口で話ているのに。自分はそんなにも焦っているのだろうか。幸い、藤井の敬語を気に留めるクラスメイトはいない。
 タイムは出席番号順で組分けられた二人が並走して同時に測る形式だった。スタートラインにはすでに並走者のN君(仮名)が着いている。
 N君は陸上部の短距離選手で、一年時の新人戦では好成績を残していた。今年は全国大会出場を期待する声もある次期エース候補。
「N、油断するなよ。藤井君、見かけによらず速いからな」
「分かってるって」
 そう答えながら、N君は一瞬藤井に目配せをした。その態度が気に食わなかったというわけではない。ただ、勝負になれば、それが将棋以外の分野だとしても、負けるわけにはいかないというのが藤井聡太という人間の『習性』。
(もしN君に勝てたなら、今期の四段昇段は達成できる――)
 自然とそう考えていた。占いでも願掛けでもない、昇段にかける己の気持ちの強さを確かめるための行為だった。
「いちについてー、よーい」
 スタート係が声をあげ、スターターピストルを天に向ける。

 パンッ。

 軽い破裂音。
 同時に、藤井は己がN君に対してわずかに出遅れたことに気づく。
 相手を意識しすぎた。
 懸命に手足を振るが、並走者との差は開く一方。
 そしてゴール。
 一瞬のことだった。
「おー、Nは6秒9台か。藤井もおしかったがかなりいい線は行ってるぞ」
 ゴールライン横でストップウォッチを持つ体育教師が言った。
「先生」
 直後、声を発したのは藤井だった。全力疾走の直後、まだ呼吸が整わぬ状態で彼は次のように言葉を続ける。
「あの……二回目は……ひとりで走りたいのですが、お願いできないでしょうか」
 藤井聡太は天才である。
 では、彼の天才性の核とは一体なんだろうか。
 読みの鋭さ? 発想力? 棋譜を暗記する記憶力? AI将棋との相性?
 確かに彼はそれら全ての要素において他者を優越する力を持つ。だが、その才能の中心にあるのはどれでもない。
「――そしたら、N君よりも、いい記録が出せると思うので」
 そう言い放った藤井の両目には、炎が宿っていた。
 負けの瞬間、立ち上がる。
 それができるのは彼が常軌を逸した負けず嫌いだから。
 『天才的な負けず嫌い』だから。
 藤井の二回目のタイム計測は、それ以外のクラス全員の記録を測り終わった最後に行われた。
「藤井君って、あんなキャラだっけ?」
 そこまで来ると、クラスメイトたちもいつもと違う『棋士』としての闘志を剥き出しにした藤井の様子に気が付いていた。固唾をのんで、全員がその走りを見守っている。
「――よろしくお願いします」
「あっ……はい、お願いします」
 スタート地点、まるで対局開始時のような挨拶と態度に、スタート係の体育委員も思わず敬語で返してしまう。気にも止めず、藤井は50メートル先のゴールラインを見つめ己の四肢に意識を向けた。
(そうだ、N君の走り方を真似してN君を追いかけるのでは、追いつけるわけがない。もっと、速い人の走り方を参考にしないと――)
 次の瞬間、藤井の頭からは競い合う相手のことや、奨励会での足踏みのこと、全ての雑念は消えていた。考えるのは、どのようにすれば己『次の一歩』を最速で踏み出せるのかという一点のみ。
 スタート係がピストルを天に構える。
 その空は、たった今迷いを断ち切る術を知った天才の心と同じく、雲一つない晴天だった。
「いちについてー、よーい」
 
 パンッ。

 6秒8。
 この日、藤井が残した50メートル走のタイムは、陸上部を含めた全中学生の上位15パーセントに入るものだった。
 宣言通りN君のタイムを上回った彼は、同年9月に三段リーグ戦を13勝5敗というトップの成績で勝ち抜き、翌月に史上最年少の四段昇段記録を残す。
『ライバルとの昇段争いは意識せず、対局中はそのときの最善手を指すことに集中するようにしたおかげで成績を伸ばすことができた』
 後のインタビューで、藤井は当時のことをそう述懐している。
 挫折を乗り越えた者は強くなる。天才であろうと、凡人であろうとそれは共通だろう。ただし、我々凡人には理解できないことはある。
 『何』を挫折と認識し、『どのように』それを乗り越えるのか。 
 異次元の天才の発想は、常人の思考が及ばぬ領域にある。
 余談だが、例の50メートル走タイムの計測時、藤井の走りのフォームが一回目とは明らかに『別人』になっていたという事実に気が付いたのは、陸上部であるN君だけだった。
 授業後、彼はクラスメイトに次のように語っている。

「だから、絶対見たんだって――藤井君の隣をウサイン・ボルトが並走してるのをーー」


 
 現在、キックボクシングジム『TARGET』。


 足踏み。 
 そう呼ぶにはそれはあまりに高速すぎた。
 
 唯一無二の超変則スタイルを持つ異能のボクサー、ナジーム・ハメド。
 その特徴の一つに、常にスイッチを繰り返すという点が挙げられる。 
 スイッチとは、オーソドックス・スタイル(相手に近い前手に左、奥手に右を置く構え)とサウスポー・スタイル(相手に近い前手に右、奥手に左を置く構え)を試合中に切り替えることだ。オーソドックスとサウスポーでは、強力な奥手の打撃が届く位置が左右逆になることを始め、攻守両面の距離設定に様々な違いが発生する。
 つまり、ボクシングにおけるスイッチ・ヒッターの脅威とは、彼我の間合いを自由かつ一方的に変更できる点にある。
 ハメドの活躍時期は90年代始めから、アメリカ同時多発テロでアラブ系への風当りが強くなり試合ができなくなった2001年まで。その特異なスタイルを模倣しようと試みたボクサーは数多存在したが、彼のようにチャンピオンベルトまで登り詰めた者はいない。なぜなら、その常識外のスタイルは、世界中から才能が集まるプロボクシング界においてすら、他の追随を許さない卓越したセンスに支えられたものだからだ。
 リングの内外で傍若無人、自由奔放に振る舞う姿から彼は『プリンス』と渾名された。  
 しかし2020年日本、突如として現れた超新星(スーパールーキー)が、在りし日のナジーム・ハメドを再現する。

 その超新星とはもちろんこの男――今や押しも押されぬ棋界の『プリンス』藤井聡太だ。
 異様な光景だった。
『これからいっそうの精進が必要』
 つい先日、史上最年少でタイトルを獲得し、上記のいつも通りの謙虚なコメントを残した藤井新棋聖。
 その彼が初めて上がるリング上で、対戦者の天心を嘲笑うかのような激しい足踏みーー否、超高速のステップを繰り返している。
 まるでタップダンス。
 次の瞬間、その身体は相手の右サイドに回り込み、フェンシングのような連続ジャブを放っていた。
 打撃を嫌がり、バックステップで距離を取ろうとする天心。
 すかさず飛び込むような藤井のジャンプパンチがそれを追撃。
 神童はさらにカウンターの左フックで迎え撃つが、棋聖は深いダッキングで拳の下をくぐり抜け再び距離を取る。
 超ハイテンポ、わずか2秒足らずの短い攻防。
 その間に藤井が行ったスイッチは計3回ーー右サイドへの回り込み、ジャンプパンチ、そしてカウンター回避からのエスケープの直後である。
 呼吸をするかのようなスムーズな連続スイッチだった。
 その動きを目で捉えたのは、天心とレフェリーである父・弘幸のみ。
 藤井は再びタップダンスのようなステップを踏み、フラメンコのように手を叩いてさらなる挑発を試みる。だが、那須川親子はそのステップが踏まれる度に、数ミリずつではあるが彼我の距離が縮められていることに気づいていた。
 全ての動きは次なる攻撃への布石。
 すでに天才同士の戦いは、ほとんどの観客をあらゆる意味で置き去りにしつつあった。
「馬鹿な!? スタンド能力はひとり一体のはず……」
 そんな意味不明なひとりごとを呟いたのは、数秒前に見た佐藤紳哉、ナジーム・ハメド、藤井聡太によるチューチュートレイン・ウィービングの幻覚に翻弄されれっぱなしの式会社ドリームファクトリーワールドワイド代表取締役社長、榊原信行。
 彼の周りにいる報道陣もしきりに目をこすり、リング上の出来事が先ほどの集団幻覚の続きであることを疑い続けている。いや、たとえ冷静だったとしても、ほとんど人間は『藤井棋聖の変則ムーブが那須川天心を圧倒している』としか思わなかっただろう。
 だが実際のところ、戦況はそこまで棋聖有利には傾いていない。
 むしろ逆。
 公式試合40戦無敗、神童・那須川天心の拳は依然として十二分な脅威を持つ。
 藤井はスイッチという距離設定のマジックによって、かろうじてその攻勢を凌いでいるにすぎなかった。
(まさかナジーム・ハメドが飛び出してくるとは予想外だったが……)
 内心でそう呟いたのは弘幸だ。
 メイウェザー戦の敗戦以降、ボクシング・テクニックにいっそう力を入れるようになった天心を間近で見てきたのは、父親とトレーナーを同時に務める彼だった。那須川親子にとってナジーム・ハメドのスタイルはフェイントテクの参考という点で、大いに注目すべき研究対象でもあった。
(ーーそこだ)
 ステップに紛れながらジリジリと距離を詰める藤井が、ある距離に達した瞬間。
 弘幸、そしてその息子である天心はそのタイミングを見逃さなかった。
 直後、上体を右に傾けるフェイントと同時に、藤井の飛び込みパンチが襲い掛かる。
 フックともアッパーとも取れぬ独特の軌道。
 だが、これが『見せる』打撃ということは分かっていた。天心はまたもバックステップで距離を取るが、もし上体を逸らすスウェーバックで回避していれば、続くストレートのコンビネーションを顔面に被弾していただろう。すでに神童は相手の攻撃を見切っていた。
 再び、両者の距離が開く。
 今度の藤井はステップを止めていた。
 とはいえ、挑発は相変わらずだ。対局時のような鋭い眼光でこちらを睨みながら、前傾姿勢でだらりと両腕を垂らすノーガードスタイル。グローブで自分の顎を小突き「殴ってみろ」とサインを送る。
 天才棋士は状況が危うい綱渡りであることを自覚していた。
 その上でのこの挑発。あまりに大胆不敵。もはや彼は皆が知っているいつでもどこでもキミを導く優しい本格派、棋士・藤井聡太ではない。
 彼の名は異能のボクサー、フジーム・ハメド。
 2020年大晦日、無敗のボクサー、フロイド・メイウェザー・ジュニアに挑戦する無謀なチャレンジャーである。
 だが依然として、その熱きファイティング・スピリットの前に現実《リアル》という名の巨大な壁が立ちふさがっていた。
 神童・那須川天心――プロ40戦無敗という名の現実《リアル》。
 あるいは、どんな強力な戦術にも、必ず弱点は存在するという現実《リアル》である。
 ハメド・スタイルの肝は、挑発・スイッチによる距離変更・あらゆる角度からの変則パンチの圧力によって、相手を翻弄するという点だ。相性が悪いのは相手を観察する冷静さを兼ね備えつつ、距離の管理が上手いタイプだ。天心はその条件を満たしていた。
 加えて、ナジームにあってフジームに欠けている点が一つ。
(軽量級でも相手をノックダウンできるほどのハードパンチャーだったからこそ、手数の多いハメドの変則スタイルは強かった――藤井君、いい打撃なのは認めるが、天心にとってあんたのパンチはそこまで脅威というわけじゃない)
 弘幸がそう分析する。
 直後、天心のパンチがフジームの顔面を打った。
 超高速のジャブ。
 片足のみの踏み込みですぐに距離を戻すので、カウンターを取る隙がない。
 ノックアウトする威力はないとはいえ、もろに打撃を喰らったフジームは思わずバックステップで距離を取る。
 しかし、今度は天心がその距離を詰めていた。
 二発目のジャブの狙いはボディ。
 フジームの反射神経はその打撃にも反応するが、それこそが神童の仕掛けた罠だった。
 前傾し、エビのように身体を曲げてボディージャブを避けた瞬間、三発目のジャブが再びフジームの顔面を捉える。
 先ほどよりも半歩踏み込みが深い、体重を乗せたパワージャブ。
 直後、天才棋士の上体は大きくグラつく。
 辛うじてバランスを保ちダウンは防いだが、今の一発が『効いた』のは明らかに分かった。ダンスのようなステップは止まり、ガードも高く上がっている。今のフジーム、いや藤井聡太を見て、ナジーム・ハメドを連想する者はもういないだろう。
(――ようやくメッキが剥がれたな)
 藤井を観察しながら弘幸が思う。
 那須川親子は藤井の構えが攻撃直前のサウスポーから、オーソドックスに戻っていることを見逃さなかった。
 同じ向きの構えは距離が近く接近戦になりやすい。天心はサウスポーなので、逆のオーソドックスに構えを戻すほうが藤井としては安全距離だが、今このタイミングで行うのはスピードに着いてこれないということを自ら白状したのと同じ。戦況は急速に天心有利に傾きつつあった。。
 間髪入れず、三度天心のジャブが藤井を襲った。
 ステップに合わせ上下する前手の右が下がった瞬間、斜め下からフリッカー気味に伸びる鞭のような一撃。
 そのガードの隙間を抜ける一発目で藤井は怯み、続くボディへのパワージャブをもろに受ける。
 片腕によるコンビネーション・ブロー。
 天心があえて左を打たないのは、KOパンチ力を持たない藤井の狙いが相手の力を利用したカウンターであると理解していたからだ。石橋を叩いて確かめるのは、杖ではなく強者の拳。
 また、『ジャブを制する者は世界を制する』という格言もあるように、この打撃はボクシングの基本であり奥義である。
 もっとも数が多く、試合展開の起点となるという点において、その役割は将棋における『歩』と同じ。特に3~5ラウンドと短いキックや総合に比べ、最長15ラウンドに及ぶボクシングではジャブは敵陣深くに切り込み蓄積ダメージ与える『と金』に成り得る重要度の高い駒《パンチ》だ。
 この試合、天心は己のジャブの性能を試している。
 強者ゆえの余裕。ただしそれは相手のカウンターを完封した隙のない余裕だった。
 その後も天心のジャブの連打が続き、藤井はほぼ何もできないままガードを固めるのみ。
 そうこうしている内に3分が経過。

 第1ラウンド終了。

 一時は藤井優勢に見えた盤面だが、終わってみればその差は歴然だった。
 ニュートラルコーナーに戻った両者。 
 天心が自らリングサイドに降りてドリングを飲んでいるのに対して、藤井は息絶え絶えの状態で椅子に座り、なんとかセコンドの榊原が差し出すペットボトルに口を伸ばしている。
「藤井君、もう十分だ。君はよくやった」
 やっと正気に戻った榊原がそう言った。
 少なくとも天心に完封され、ファンが『藤井聡太VSメイウェザー』の対決に興味を失うという最悪のシナリオは回避できた。また、ハメドの高速ステップを再現する藤井の映像は、RIZINの宣伝素材としてこれ以上ないインパクトを持っている。
 いけると、榊原は思った。
 だからこそ今は引くべきだ、とも。
 彼に誤算があるとすれば、それは最年少棋聖を支える本質が『天才的な負けず嫌い』であることをを理解していなかったという点だ。
(もし、このスパーリングに勝てたなら、年末のメイウェザー戦にも勝利できる――)
 いつかと同じ、己の決意を試すための誓いを立てる『新人ボクサー』藤井聡太。
 その両目には炎が宿っていた。
 否、絶えることのないその炎はより勢いを増していた。
「藤井君、すまない。私にはもう黙って見ていることはでき――うがぁ!?」
 先走ってタオルを投げようとした榊原の意識が再び時空を超越するが、今回彼が何を体験したかはまた別の話でである。
 かくして第2ラウンドが始まった。 

 
「ファイッ!!」

 
 開始の合図と共に一気に距離を詰めたのは藤井だった。
 打ち込まれたのは小気味よいワンツー。
 ただし天心はその動きを見切っており、難なく左右のグラブでパンチをブロックする。
 第1ラウンドのハメド・スタイルとはうって変わって、基本に忠実なボクシング。
 というよりはーー 
(ミット打ちのつもりか?)
 弘幸が困惑するのも無理はなかった。藤井のパンチは狙い・距離感共に完全に天心のグラブを狙った打撃にしか思えなかったのだ。あまりに教科書通り過ぎる動きは、まるでデビュー戦直後の新人ボクサー。いや、実際にその通りなのだがーー。
 すかさず、天心がジャブのみのコンビネーションを藤井に当てる。
 ボディ→頭部への連続ジャブは、藤井の顔を横方向に弾いた。
 いったん距離を取った藤井はまたもワンツーで反撃を試みるが、やはりその連撃は天心のグラブに吸い込まれる。
 有効打にならない箇所を、あえて狙ったかのような単調なワンツー。
 この攻撃に、何の意味がある? 二度目の時間旅行から帰還し、何があったのか滝のような涙を流す榊原や、その他の観戦する記者たちの間にも困惑が広がる。
 
 異常事態を理解していたのは、対峙する天心だけだった。

 ――ありえない。
 そう思いながらジャブを連打するが、直後に返された三度目のワンツーがグラブの芯を捉える感触があった。
 神童の身体に戦慄が走る。
 試合前、藤井が榊原からバンテージの巻き方を教えてもらっていたのを天心は見ていた。こちらを油断させるための作戦だ。ハメド・スタイルを見せた時点で疑いは確信に変わっていた。バンテージを巻くのは初めてだとしても、陰でボクシングを練習したということは動きを見れば明らか。
 だが、それは間違いだった。
 藤井聡太にとって、正真正銘、今日、このスパーリングは人生初めてのボクシング。
 では、彼のような初心者にとっての最初の関門はなんだろうか。
 一つは、天心が突いた『殴られる恐怖』に順応しているかという点。
 そしてもう一つは、動き回る相手との距離感を掴むことだ。
 腕の長さ、歩幅、自分と相手の移動速度。それらの情報を統合して相手に拳を届かせる、あるいは相手の拳の射程外に逃げるには、実際に練習して身体で感覚を覚えることが必要不可欠。
 見ているだけでは分からない、やって初めて分かること。
 天才・藤井聡太はボクシングを始めたわずか2ラウンド目にして、その間合いを習得した。
 逆に言えば、第1ラウンドの時点で、どれくらいの距離を離せば安全で、どれくらいの距離を詰めれば危険なのか、ということが藤井にはまったく分からなかったことになる。 
 天心が『殴られる恐怖』ではなく『距離感』のほうを攻める作戦を取っていれば、難なく藤井をノックダウンしていただろう。
『的確に相手の嫌がる攻撃をする』
 それが相手の強さだということを藤井は理解していた。
 ゆえに天才は序盤の戦型としてハメド・スタイルを選んだのだ。自らスイッチをすることで相手の距離感を攪乱し、ノコノコ相手の射程内に入るという危険状態を『挑発行為の一部だと思い込ませる』ために。
 ノーガードの藤井がグローブで自分の顎を小突き「殴ってみろ」とサインを送ったことが天心の脳裏をよぎる。
 あれが完全に無防備な状態だっただと? ジャブではなく左ストレートを打ち込んでいれば確実に顎を砕けていたはずだ。
 悔しさはなかった。
 ただただ、距離感を掴むまでの時間稼ぎのために、その無謀な挑発を『実行した』という事実が信じがたかった。
 棋士は命をかけて将棋を打つかもしれないが、対局には肉体的な苦痛や現実的な生命の危機は存在しない。そう思っていた。
 だが、この最年少棋聖は――
(――イカれてんのか……!!)  
 毒づきながら、コンビネーション・ジャブを放つ天心。
 その拳は再び藤井の頭部を捉える。
 
 一見すれば、そう見えた。
 
 スリッピング・アウェー。
 相手のパンチに合わせ、頭を高速で回転させることでダメージを受け流すその高等技術は、平成を代表する名チャンピオンのひとり『アンタッチャブル』こと川島郭志の代名詞として知られている。
 実を言えば、第2ラウンド、頭部へのジャブに関しては一発たりとも命中してはいない。
 藤井聡太のディフェンスはパーフェクトだった。
(……マジかよ!)
 思わず心の中で叫ぶ天心。
 直後、藤井が放ったワンツーはグラブ越し、腕が痺れるほどの威力を秘めている。
 パワーではなく、しっかり目標にミートさせることで実現した重さ。
 天心はパンチの出所を分かりにくくするため、攻撃の際は腕、特にボクシングの場合はリードパンチを打つ右腕を小刻みに上下に揺らしていた。対する藤井は、その動き続けるグラブに対して、一度目で上がった瞬間、二度目は下がった瞬間、三度目でははまた上がった瞬間と、一回ごとに交互に打撃位置を変えている。
 つまり、しっかり上下の打ち分けができているということを意味していた。
 愚直とも言えるほど基本に忠実なワンツースタイルと、日本人離れしたパワーでミドル級世界チャンプにまで登り詰めたのは、現役でWBAのベルトを保持する村田諒太のスタイル。
 天心が藤井の打撃にその面影を感じ取った瞬間、次なるワンツーには左ボディのスリーが追加される。
 村田のフィニッシュ・ブローとして有名なコンビネーション。
 辛うじて天心の肘がガードするが、追撃は止まっていない。
 何度目かの、執拗なワンツー。
 ただし、その連撃は今までよりも半歩早かった。
 2拍子ではなく1.5拍子。ジャブを引ききる前にストレートを打ち込む『幻の右』。昭和の大スター、ガッツ石松の技。
 神童のたぐいまれなる反応速度は、辛うじてその一撃をガードする。
 反動で上体が大きくのけぞるが、逆にその勢いを利用してバックステップ。距離を取ったところで器用に体勢を立て直した。
 だが、同時に天心は己が追い詰められたことに気づいた。
 コーナーポストを背負ったリングの隅。第1ラウンドとは攻守が逆転したシュチュエーション。藤井のあのワンツーのプレッシャーから逃れるスペースは存在しない。
 瞬間、天心は覚悟を決めていた。 
 真っ向勝負でカウンターを取る。反射神経とタイミングのシンプルな勝負。 
 しつこいようだがプロ40戦無敗の神童は伊達ではない。このような窮地からでも即座に立ち直れる図太いメンタルこそが王者たる所以。
(……来い!!)
 この局面にいたり、天心の心からは一切の気後れはなくなっていた。

 ただし、藤井の拳がその顔面を打ち抜いたのはそれと同時。

 ジャブを伴わない単発の右ストレート。
 『幻の右』を超える0.5拍子の打撃。
 それは本来大晦日にメイウェザーと対戦する予定だった朝倉未来の得意技、拳を先頭に身体が追従することで生まれる、ノーモーションストレートだった。
 ハメド・スタイルから始まり、神童の反応速度を追い越すため、村田のワンツー、『幻の右』、ノーモーション打撃を組み合わせた三重の策。
 天才・藤井聡太はその針に糸を通すかのような怒涛の攻め筋で、このスパーリングで初のダウンを奪うことに成功した。
「……っつ……ワン! ツー! スリー!……」
 あっけに取られていたレフェリー弘幸が、慌ててカウントを始める。
 天心はずぐさま上体を起こしたが、しばらく藤井のほうを見て呆然としていた。
「……シックス! セブン!……おいっ、天心!!」
 公式試合ならば明らかなルール違反だが、弘幸は息子に声をかけずにはいられなかった。棋士・藤井聡太、まさかこれほどとは。そのショックは痛いほどに理解できる。
 促される形で立ち上がった天心はファイティングポーズを取った。ダメージはあるが、戦闘不能にはまだ早い。ひとまず胸を撫でおろす弘幸。幸いというべきか、息子に助け舟を出したレフェリーの行為を咎める者はいなかった。観戦者たちも目の前で起きていることをが信じられない様子だ。
 第2ラウンドは、残り1分残っている。
 弘幸としては気は進まなかったが、再開を遅らせるのはさすがにアンフェアだ。合図を出すため腕を上げた。
 それを止めたのは天心だった。
「親父、ちょっと待ってくれ」
 まさか降参か、と心配する父親を神童は手でなだめる。深呼吸をしながら言葉を続けた。
「続きをやる前に……藤井くん、いや、藤井さん、あんたさっきからパンチを打つごとにまるで別人だ」
 自分でも馬鹿な質問だとは分かっていた。そんな人間がいるなんて。
 だが、さきほど喰らったノーモーションの生々しい感触がその常識を否定している。
「一体、中に何人連れてきた――?」
 恐る恐るのその質問に対し、藤井は何でもないことのようにこう答える。 

「12人ですかね――でも、それぞれスタイルの変化があるので20人くらい?」

 12人。 
 ナジーム・ハメド、川島郭志、村田諒太、ガッツ石松、朝倉未来。これまで見せた分を差し引いても残り7人もいることになる。そのメンバーには誰が含まれているだろう。歴代日本チャンプ? パウンド・フォー・パウンド?
「……ははっ」
 思わず、乾いた笑いが天心の口から漏れた。
 それが否定しようのない事実と分かっているからだ。
 棋士としての藤井聡太の異端性を示すエピソードに『頭の中の将棋盤』についての逸話がある。通常、プロ棋士は脳内に将棋盤を浮かべ、その上で己の『読み』を検証するのが普通とされている。だが、藤井聡太にそれはない。
『まぁ、盤は目の前にあるわけですがから……』
 ある記者から『頭の中の将棋盤』なしでどうしてそこまで深い『読み』ができるのかを問われたとき、少し困った顔をしながら彼はそう答えている。
 同じプロ棋士からも異質と言われる藤井の将棋思考メカニズム。
 その秘密はその類まれなる観察力とボディ・イメージの一致にあった。
 ボディ・イメージとは『自分の身体が今この状態にある』ということを自覚する能力のことだ。関節がどのくらい曲がっているか、歩幅はどれくらい開いているのか、身体の左右で姿勢は何度傾いているのか。
 幼少期の藤井は、それらの情報をミリ単位以下の誤差で把握し、自在に己の身体を操ることができた。
 将棋に出逢って以降は、その能力を盤上に当てはめることに注力したため、身体操作に関しては一時的な封印状態にあったが、前述の三段リーグでの足踏みをしたことをきっかけに、己の能力に対する自覚は再び芽生える。
 つまり、この少年は将棋においては『頭の中の将棋盤』を介さずに、ひと目見ただけで瞬時に『駒の稼働域』を理解する『盤上のボディ・イメージ』を持ち、一方の身体操作に関しては目で覚えた他人の動きをほぼ99パーセントの再現率で模倣できるという『肉体のボディ・イメージ』を行使できるのだ。
 藤井聡太は天才である。
 その事実を否定する日本国民は、今やひとりもいないだろう。
 だがその天才性の本質を『理解』できる者は、果たしてこの世に何人いるだろうか。 

 だが、まぁ、少なくとも、ひとり存在しているのは確かだ。

 彼の名は那須川天心。
 突如として目の前に現れた人知を越えた怪物を前に、天心はある漫画の主人公を思い浮かべた。
 格闘漫画『グ〇ップラー〇牙』
 キックボクサーを志すきっかけとなったK-1に並び、この名作漫画は天心の持つ理想の格闘家像の形成に大きな影響を与えている。
 自分よりも強く、大きな相手に果敢に挑む小さなチャンピオン。
 いつか自分もこんな風に。そう思って続けてきたキックボクシング、ついに彼はその夢を現実のものにした。
 だが、頂点に立ったときに見たその景色は、思っていたものとは違っていた。 
 歯止めのかからない日本人の格闘技離れ、ライバルの不在、一団体を代表するスター選手ゆえの責任としがらみ。特にキック界で天心に比肩すると言われて久しいK-1王者・武尊との試合が金銭的な問題でいまだ実現できないでいるという現状は、神童の心に暗い影を落とす。
 『グ〇ップラー〇牙』の主人公は、シリーズを重ねるごとに傲岸不遜な面が顕著になり、初期の少年漫画らしい好青年キャラからの変化を非難するファンも多い。だが、強敵のいなくなった地下闘技場、欠伸を噛み殺しながらモブキャラと戦う漫画の中のチャンピオンの気持ちが、天心には理解できるような気がした。
 その感情は『退屈』ではなく『虚しさ』ーー。

 しかし、2020年夏、そんな天心の前に本物の範馬〇牙が現れた。
 
(……ッッッッ熱くならねぇわけがねぇッッ!!)

 打ち付けられた天心の両足が、大きくリングを揺らしていた。
 脚を前後に大きく開き、両腕を前方に突き立てたその構えは、『〇牙』シリーズの主人公が使うトリケラトプス拳と呼ばれるポーズ。ファンを沸かせるためのステージパフォーマンスとして採用したこのポーズは天心のトレード・マークになっていたが、今は今日のために用意されたものだとすら思えた。
 対する藤井は、左腕を胴前、右グラブを顎横に構え、両の前腕でL字を描くような構えを取った。
 そのコンパクトな防御的スタイルの名は、フェリー・シェル。
 50戦無敗のボクサー、フロイド・メイウェザー・ジュニアの代名詞。
 天心はその姿に、かつて己を打ち負かした宿敵のイメージをはっきりと見て取る。同時に、それは2018年大晦日のエキシビションでは実力不足で引き出すことのできなかった構えでもあった。
(ーー上等だ)
 天心は理解する。藤井はこう言っているのだ。
 あなたのメイウェザー対策を見せてくれ。あの試合の続きを見せてくれ、と。 
 思わず拳に力がこもった。2年前のあの試合、一度ダウンで崩れてからはほとんど何もできなかった。だが今は違う。それを証明して見せる。
 ニヤリと笑いながら、天心はいつものサウスポースタイルに構えを戻す。その様子を見た藤井もまた、同じ表情を顔に浮かべていた。
 神童VS神童。
 ブラフとハンデが入り乱れたこの対決、この局面に至り、両者はついに互いの強さを認め合い、対等なスタートラインに立つ。
 序盤・中盤が終わり、残るは詰めの終盤戦。
 
 最後に笑っているのは、果たしてどちらだ。
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