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岬は小学五年生になったこの春に転校してきた。小学一年生から——あるいは保育園から——ずっと同じ集団の中に属してきた子供達が占める完成した場所にとって、岬は突如として現れた“異物”だった。
四月。子供達がまず岬に対してざわつきを覚えたのは、国語の授業の時間だった。先生が岬を指して、教科書のこの部分を読むようにと言う。岬は立って、一切つっかえることなく、正確かつ堂々と文章を読み切ってみせた。子供達はそのイントネーションに驚いた。あまりにも聴き取りやすかったためか、ニュースみたい、という声が漏れた。次に驚かせたのは、先生が続けて、この人物の気持ちを考えて答えて下さい、と課題を出してからだった。岬は先ほどとは打って変わって困った顔をして、モゴモゴと口を動かすが、まとまった回答を出せなかった。先生は息を一つ吐いて、よく考えてみてね、とその場を終わらせた。あんなに読めるのに言えないんだ、とまた場がざわついたものだった。
岬はこの時、これは言えなければならないものだった、と思っていた。広いようでいてその実狭い教室という密閉空間の中で、さまざまな音が飛び散っているのは自分のせい? 岬は自問自答を繰り返したが、それは誰にも伝わらなかった。
岬が集団から離れた場所に机を置くようになったきっかけは、転校してきて一ヶ月ほど経ったある日の給食の時間だった。
集団の中にいた朱里(あかり)という名前の女の子が、急に自分の机を岬の方に寄せてきたのである。岬は内心飛び上がりそうになったが、表情や態度に出にくいせいで朱里には分からなかった。それからすぐにいただきますの挨拶が始まったため、どうやら一緒に給食を食べることになるらしいことを理解した。
朱里の発する音は、どこか岬の母親に似ていた。間断がない。常に耳が仕事をしている感覚。そのくせ給食は順調に減っている。音は止まない。朱里の口元から飲み込まれなかった食べ物のなれの果てが猛スピードで飛び出し、気圧される岬のご飯や豚汁やおかずのハンバーグの上に散り散りになっていく。岬は朱里から一瞬目線を切って、自分の着ている白い長袖服の袖のあたりを見つめた。
ハンバーグのケチャップと思われる赤が、真っ白な袖に点を打っていた。あ、と自分から短くも鋭い音が発せられたことを認める前に、岬は瞬間的に立ち上がり机を引いて、教室の隅の掃除ロッカー付近に自分の城を築き上げたあと、教室を飛び出して、廊下の手洗い場で朱色の点を洗い落とそうとした。
その日帰宅した岬は、ルーチンに沿って母親帰宅前までの工程を完了させてから、本も読まずに袖の滲んだ朱色をただ眺めていた。
母親は岬の“服”を愛している。引っ越してからも引っ越し前と変わらないかそれよりもっと頻繁に宅急便が届く。多くは通販ショップで購入した岬の衣服だった。岬も、自分とクラスの集団の服の種類がどうも異なることを理解していた。岬の部屋は、ほとんど衣服で埋め尽くされているような状況であり、前の部屋とあまり変わらなかった。ただ、一つだけ違うのは、この部屋には沢山の本が残されている。岬には、前の部屋より今の方が好ましく思えてならなかった。服より本を見ている方が落ち着くし、ページを開いて新たな文字の連なりを目を通して頭に送り込む行為は快感だった。
一日のうちに色々なことが起きるし、時に自分がぐちゃぐちゃになるような感覚もあるけれど、それでも自分には本があってよかったと思った。
玄関から今日も母親の音がした。滲んだ朱色のことは何か言われるだろうか。