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またタイムリミットがきたのだ、と思った。
岬にとってはまだまだ着られる服も、母親から見れば『いらないボックス』行きになる。断捨離について取り上げたテレビ番組を観て影響されたのか、急に用意された段ボール箱だった。
母親はボックスに入れる前に服を畳の上に広げてスマートフォンで写真を撮る。どうしてそうしているのか岬はよく知らないが、たまにボックスから服を取り出してA四サイズの封筒に入れ、車で二十分くらい行ったところにある宅急便の店舗に持ち込むことがあった。車に戻ってきた母親は鼻で歌っていて、とても嬉しいことがあったように岬には感じられていた。
今日最後の宣告を受ける服は、先ほどお風呂に入る直前まで着ていた白い長袖服だった。母親は型通り広げて服にスマートフォンをかざす。岬は、ボックスに入れようとしていた母親に身体を割り込ませて袖を指差した。母親は口からノコギリのような音を出して、しかめっ面でスマートフォンを袖に近付けて二枚目の写真を撮った。
もう『いらないボックス』に入ってしまうのか。まだ片手で数えられるくらいしか着ていないのに。岬にはそれが残念に思えてならなかった。この服は、岬が母親から与えられる服の中では比較的落ち着いた色とデザインであり、学校へ来て行くにも抵抗感が少なくて気に入っていた——気に入っていた、と気付いた。
わたしはこういうのがいい。岬は今そう言いたい。しかしその時、廊下の方から祖父の音がした。母親は祖父に向かって干した布団を叩くような音を発したが、祖父のそれをいなす風のような音がして、母親の音は鳴り止んだ。結果として、袖の汚れた岬のお気に入りは『いらないボックス』行きをこの場はどうにか免れたようであった。
岬はこの夜夢を見た。夢には父だけが現れた。ほんの少し前まで一緒に暮らしていたはずなのに、もう顔がぼやけていた。それでも、父の出していた音だけは身体に染みついて離れなかった。これは自分の一部だ、と思うのだった。産まれてからこの瞬間に至るまでの“わたし”は、父の音で出来ている。そんな確信めいたものがあった。
岬には自分の音が分からない。自分以外の人の音もよく分からないことが多いが、一番分からないのはやはり自分のことだった。それでも、こうなれればいい——というモデルのようなものがあるとしたら、それは父だった。
父の発していた音は、とても平かだった。常に荒れ狂う外海で沈没しそうになるところを堪えるような岬の日々の中で、父と共にあった時間だけは穏やかな風に身を任せて水面を進んでいけるようだった。
夢の中でも、父の表情からは喜怒哀楽が感じられない。岬は安心して父に寄り掛かった。父はただ岬の肩に手を置いた。それだけでよかった。
目覚めると、何故だか眼が濡れていた。岬にはその理由が思い当たらなかったが、さっきまで見ていた夢によるものだろうか。夢の内容はすでに遠くへといってしまっている。思い出そうとしても思い出せないのはもどかしい感じがしてならなかったが、きっと悪い夢ではなかったのだ。