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第10話『ディフェンス衝動』

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 テイクダウン・ディフェンスの能力を培うために最も必要なことは何か。
 それは基礎体力を上げることだ、とトシは言った。
 脳ミソが筋肉でできていそうな答えだが(というか実際やつの脳ミソは筋肉でできているだろうが)俺は案外合理的な考えだと思った。どんな技術や論理にしても、それを実践するのは己の肉体なのだ。それにフィジカル強化の必要性はジムに誘われる前から感じていたことでもある。
「お前は軽すぎんのや。齢が齢やし身長はこれから伸びるやろうが、身体の厚みが全然足りてへん。総合の階級で言ったらギリでフェザーぐらいしかないからなぁ、重いやつとやるにはキツすぎや」
「次の試合までに、どれくらい重くなれる?」
「まぁ、ライトは余裕やろ。できたらウェルターまで行かしたいけど、骨格的にはそこらへんがリミット限界やろうし、五か月弱やと調整きついかも分からんなぁ。オーバーワークも怖いし、無駄な筋肉ついたらついたでスピードもスタミナも落ちてまうからな」
 正直言って、トシの言いなりになってトレーニングをするのは耐え難かった。あくまで目的のための手段だ、という言葉で自分を納得させるには俺の性格は潔癖すぎたのだ。だから必要な技術を学んだ暁には、俺はジムのやつら全員を血祭にせざるを得ないだろう。俺にとってはそれでも足りないぐらい屈辱だった。
「筋トレは足腰と体幹中心やな。まずはレスリングに必要な筋肉つけな話にならん。倒されん技術はレスリングが基本や」 
 そのために俺は最初の三か月間ジムのプロクラスに交じって練習することになった。屈辱だったが、てめぇらをぶっ殺す筋肉をつけるために教えを乞うているのだと思えば少しは気が紛れた。
 
 
「ここじゃ暴れんなよ。まぁ、暴れても落とすけど」
 ジムでの練習の初日、ユキトにそう言われた。プロクラスに所属している選手は七人で、全員が他に本業やアルバイトを掛け持ちしていた。プロ格闘家なんてものはよっぽどの有名人でなければ、それだけでは食って行くのに困る職業らしい。仕事の都合で全員が毎日ジムに顔を出せるわけではなく、大抵は五、六人で練習は行われていた。トシはその中にはいなかった。
「あのチビは来ないのか」
 質問するとユキトは気だるい声だ答えた。
「トシさんは皆とは時間をずらしてる」
「へぇ、『上』のファイターはそんなに忙しいのか」
「そういうんじゃない。ヤクザとつるんでるからって、カタギの俺らに気をつかってるんだ。あと、ここでそういう話もするな」
「なんだ、知ってんのはお前だけか」
「皆知ってる。口に出さないだけだ」
「面倒臭ぇな。プロなんだろ。あいつに紹介してもらって地下でやったほうが儲かるんじゃねぇのか」
「皆お前みたいな自殺志願者じゃないんだ」
「それってあのチビのこともディスってるだろ」
「本人が言ってたことさ」
「……お前はどうなんだよ。ビビってんのか?」
「お前はそのビビり野郎に手も足も出ないんだろ」
 結局、その日はキレてユキトに突っかかり、チョークスリーパーを喰らっただけで終わった。こちらの打撃が当たる前に組み付き技をかけるというのは、もはややつの必勝パターンになっていた。
 トシから聞いた話だが、ユキトは喧嘩で高校中退してプロを目指しているのだそうだ。実力的にはすぐにプロの上げても申し分ないが、まだ未成年なことと、血の気が多くて試合で反則しまくるのでジムの会長に止められているらしい。俺はそれを意外に思った。俺は襲われはしたが、ユキトが一時の感情をコントロールできずに暴力に走るやつだとは思わなかった。あいつの戦い方は計算高い感じがしていた。どちらかというと感情をため込んで計画的に発散する執念深いタイプだ。おまけにテンションは低いし、なんだか根暗だった。俺とは逆だ。
 トシが俺にユキトを会わせたのは、ジムで練習している間の監視役にするためだった。自分よりキレてるやつを当てがえば少しは性格が直るだろうというのは、トシの浅い打算だった。俺はムカついたのでひたすらユキトに喰ってかかったが、手も足も出ないので三日目ぐらいからは真面目に練習に参加することにした。
 ジムの練習は俺にとっては馴染みがなく、見た目がアホっぽかった。飛んだり跳ねたり身体をよじったりしたかと思えば、寝そべった状態で横向きに匍匐前進したり、ペアを組んで何回も相手を持ち上げたりした。まぁ、普段使わない筋肉を鍛えるには理に適っている動きではあった。このジムに来なければ、恐らく一生やらなかった練習だろう。こんな練習を誰に言われるでもなく好き好んでやっているなんて、ある意味で俺が親父にやらされた修行と同じぐらいの狂気だと思えた。
 それからユキトと組んで寝技のスパーリングをやらされた。基本的な動きは最初に一通り教えてもらったが、やはりまったく対応できなかった。
「お前とやってると変な癖がつく」
 ユキトが低い声でそうぼやいていた。俺は技をかけられると、噛みつこうとしたり、あるいは両手のどちらかが自由なら相手の皮膚をつねったり爪を狙ったりするので、やつはそれを見越して有利な体勢をキープしなければならなかった。総合のルール内では余計な動きだ。
「ルールは守れよ。練習だ」
「うるせぇ、俺はルール無しなんだよ」
「そんなんじゃいつまでたっても技術が身につかない」
「俺は寝技やりに来たんじゃねぇ。テイクダウン・ディフェンス教えろよ。倒されなきゃ、寝技なんて無意味だろ」
「……分かったよ。リング上がれ」  
 グローブとヘッドギアをつけた俺は、それから二時間近くユキトに投げられ続けた。柔らかいマットの上だったのでダメージはなかったが、体力の消耗が激しかった。グローブをつけているので、こちらの拳の殺傷力も半減だ。俺はイライラしていたが、そのうちユキトにこちらの動きを観られているのに気が付いた。
 俺がタックルや投げ技に対応できるようになるということは、ユキトにとってはアドバンテージを一つ失うということだ。しかし、あいつはそれでも俺を完封し続けようとしている。だから何度も負かしている俺を、なおも研究しているのだ。几帳面な完璧主義者だ。それは俺の潔癖な攻撃性とも少し似ているのかもしれない。俺は少しトシにしてやられたと思った。
 多分、あの筋肉チビは俺がすんなりジムで技術を学ぶとは思っていなかったのだろう。だから技術で俺を抑えることのできる根暗なオタク野郎を連れてきて、その姿勢を見習わせようとしたわけだ。脳細胞まで筋繊維でできたアホにしては、そこそこの人選だ。空手とかボクシングとか、そういうこだわりはユキトにはない。だからこそ強い。そういう強さもある。
 でもそれは総合格闘家の強さだ。混ざりものの強さだ。
 俺は空手家だ。
 それはほんの少しの挫折で揺らぐようなものではない。親父が俺の腹の底に深くに突きさした巨大な楔だ。それが抜けるときは、俺が出血多量で死ぬときだ。
「もう一回やろうぜ」
 完全に息が上がった状態で、俺はユキトにそう言った。投げと寝技は合計すれば百回以上は喰らっている。全身の筋肉に乳酸が溜まっている感じがして、やけに重い。ユキトはヘッドギアを外そうとしていた。あいつはプロの合同練習が終わると一人で走り込みに行くのを日課にしているそうだ。いつか俺に投げつけた、砂袋入りのリュックサックを背負ってだ。基礎から鍛え直せというトシの言葉が頭をよぎる。それがそのまま俺とユキトの差のように思えた。クソったれ。
「もう限界だろ。帰って寝ろ」
 ユキトはため息をついてリングに背を向けた。俺は自分のヘッドギアを外して、その後頭部に投げつけた。もちろんそんなもの痛くないだろうが、むこうをムカつかせるには十分だった。舌打ちをしてユキトがこちらに振り返る。
「いい加減にしろよ。マジで折るぞ」
 ユキトの目つきはキレてるやつの目つきだった。俺と同じだ。何となく、こちらのほうがやつの本性だと思った。これが試合でキレて相手を病院送りにするユキトだ。俺は少し楽しかった。
「できるもんなら折ってみろよ」
 俺は立ち上がり、呼吸を整えた。親父から教えてもらった例の呼吸だ。腰を落として、両手を開き胸の高さに構える。疲れちゃいるが、俺の空手はまだ使い物になるようだ。ユキトが俺を睨んでいた。
「だせぇ空手ごっこには付き合わねぇよ」
「だせぇのはビビッてるてめぇだろーが」
 ユキトは何も言い返さず、リングに上がった。グローブはつけっぱなしだが、ヘッドギアは二人とも外している。ジムの誰かが制止する声が聞こえたが、俺たちは無視した。
「空手ってのはな、人間ぶっ壊す技なんだよ。お前の総合は遊びだ。目付きも金的もなけりゃ、後頭部すら殴れねぇ」
「してほしいってことでいいな、それを」
 ユキトの返しに俺は思わず笑ってしまった。
 次の瞬間、やつのジャブが俺の顔面を叩いていた。本気のスピードだ。鋭いステップイン。だが踏み込みは遠い。
 俺はやつが冷静だということを瞬時に理解した。正面から打撃の打ち合いをするつもりはない。リーチを活かしたアウトボクシングで翻弄し、どこかでフェイントからの組技に繋げるつもりだ。キレてるくせに、しっかり俺の空手に警戒してやがる。
「どうした。威勢は口だけか」
 ユキトは挑発の言葉を吐きながら、数発のジャブで俺の顔を叩いた。鞭のようにしなる打撃は、フリッカージャブと呼ばれるものだ。低い位置から伸びてくる軌道、外側からフック気味に伸びてくる軌道、そして普通の真っ直ぐなジャブを織り交ぜて来る。俺はほとんどモロに喰らって、変化球を空振りするバッターのような気分だった。大したダメージにはならないが鬱陶しいことこの上ない。
 いつもなら怒りに任せて距離をつめようとするところだったが、強引に行けば組み付かれるのは目に見えていた。俺の拳がユキトを捉えられなかった原因としては、古流空手の突きのモーションでは攻撃の起こりが分かりやすいということがある。現代的なコンパクトな打撃に慣れている総合格闘家にしてみれば、タックルを合わせてくださいと言っているようなものだ。オマケに今はグローブ着きで打撃の威力は半減している。
 俺は顔面のガードを固めた。得意の弱っているフリ作戦だ。しかし、ユキトは難なく対応した。
 頭を守るガードの上から強めに叩いて意識を上に向けさせた瞬間、ステップインしてがら空きの脇にボディーブローを打ち込まれた。こっちが反応したときにはやつは再び距離をとっていた。若干下がり気味になったガードの隙間を抜けて、またもやジャブが顔面を叩く。すでに鼻血が出ていた。
 俺は笑った。
 これがユキトの戦い方だ。打撃を散らして、俺の意識を上下に振り回す。そこにフェイントを入れたタックルを混ぜられたなら、素人レベルの俺が対応できるはずがない。
 おまけにユキトの武器がボクシングテクだけじゃないことも俺は知っていた。やつの打撃の基礎はキックボクシングだが、まだ蹴りを放っていない。新しい技術を実験しているのだ。それぐらいの余裕がユキトにはある。
 現状を打破するにはどうすればいいか。恐らく、むこうはこのままジワジワ体力を削ってくるだろう。フィニッシュは組技だがそれまでには少し猶予がある。俺が勝つにはスタンドの打撃ステージで圧倒する何かが必要だった。     
 思考の合間にも、ジャブの削りは容赦なく降ってきた。
 地下での戦いに比べれば怪我をした内にも入らないが、今日一日の疲労で身体が限界に近かった。体力を管理しながら動くことに関しては、アスリートである総合格闘家には敵わない。ジムという環境も含めて、ユキトは全てを利用して総合のリズムに俺を巻き込んでいる。殺し合いをさせないという部分まで含めてコントロールするというのが、ユキトの編み出した総合の実戦の型なのだ。
 だが、いい塩梅で追い詰められてきたことで、俺の頭の血の巡りもそこそこ冴え始めていた。ユキトが分析と思考で完璧なプランを立てて戦うならば、俺はそれをぶち壊しにするだけだ。この一戦で何かが掴めそうな予感が確かにあった。
 俺は初めてワンツーのコンビネーションを使った。見様見真似でやったので、もちろんユキトには見切られている。ついでに後頭部にバックブローを喰らってしまった。
 俺は前につんのめって、ロープの身体を預けた。振り向きざまにも、あいつのパンチが飛んでくる。そこで初めて、俺は『脚に来ている』という感覚を味わった。意識に反して両脚の力が一瞬抜けるのだ。裸拳ではなく、グローブならではの現象だった。衝撃が拡散し脳に響きやすい。自覚しているよりもダメージを喰らっている。
 今度はユキトが笑っていた。根暗っぽい薄ら笑いだ。
 次のジャブを何とかガードした瞬間、今度は逆サイドにローキックを貰った。力の入りにくい脚がさらに痺れる。ここに来てユキトの連撃がハマり始めた。
 こいつは打撃で決めるつもりか。
 俺がグローブの特性を理解していないことを考慮に入れた上で戦法を組み立てたのだとしたら、今日のあいつは多分人生で一番冴えているだろう。あるいは、そう思わせること自体が組技への伏線なのかもしれない。
 やつは俺を中心にサークリングして、角度を変えながら打撃を打ち続ける。手数とパターンは加速度的に増えていった。フリッカー、ボディ打ち、そして最も厄介で反応し辛いのは、キックとパンチの対角線のコンビネーションだった。それはオランダで発達した現代キックボクシングの基本とされるテクニックだ。人間の肉体の構造的に無理なく使える素早い連撃かつ、やられるほうは真逆の方向からの二点攻撃ゆえに分かっていても肉体の反応が遅れてしまう。その合理性はユキトの打撃の核を成すものだった。
 オランダ式キックボクシング。
 俺はずっと前に、親父から聞いたことがあった。その洗練された打撃格闘技のルーツは、日本から西洋に渡ったフルコンタクト空手にあると。同じ空手なのだ。
 俺は親父との稽古の日々を思い出した。親父に組手で勝ったことはなかった。俺の理想はどんな打撃も通さない鋼の肉体と、何物も一撃で倒す拳を手に入れることだが、親父はそうではなかった。そのズレの原因は親父に対する反感だ。
 こだわりのない強さを持つ敵を前にして、俺はその反感を捨てた。 
 オランダ式キックの対角線コンビネーションは、人間の反射を利用している。もっとも単純な反射は痛みへの反射だ。親父の空手はそれを利用する。
 俺はリングのコーナーポストを背にした。逃げ場のない角に追い詰められたように見えて、やはりそこは俺の場所だった。タックルで簡単に後ろに倒されることはないし、投げのスペースも限られている。それはユキトにも分かりきったことだった。容易に間合いを詰めようとはせずに、遠い距離から打撃を散らし、ここぞと言うタイミングで重い打撃を打ち分けてくる。警戒心は解いてはいない。ダメージの貯金を増やすつもりだ。
 俺はそれで十分だった。コーナーを背にしたのは、やつの打撃を見ることに集中するためだ。やはり組技へのディフェンスには一抹の不安があるが、抑止力があれば時間を稼ぐことはできる。俺が動けば、まだ意思は折れていないと思ってユキトは警戒し現状を維持するだろう。即決めに行かず有利な状態をキープするという総合の考え方がアダになった。グローブを着けてはいるが、これは喧嘩だ。そして俺の空手は人体破壊の技だった。 
 拳が胴に届かないらば、より近い場所を狙えばことは足りる。伸びて来たジャブの先端を、俺はグローブで覆われていない手首を使って弾き飛ばした。
 俺がやったのはかつて何万回と喰らった親父の技の再現だった。どれだけ鍛えても、親父の受けは痛かった。大人と子供の体力差から来るものではない。そういう技術なのだ。人体の固い部位で、相手の弱い部位を受け、痛みによって相手をコントロールできる。そして執拗な部位鍛錬を続けた俺の四肢ならば、その威力は倍化する。
 古流空手の受けはディフェンスであると同時に破壊なのだ。
 ユキトは思わず後退するが、俺はそれに合わせて一歩踏み込んでいた。予想外の痛みによる退却で、この体勢からカウンターのタックルはあり得ない。
 俺は左手でリードブローで追い打ちをかけた。もちろん間合いの管理はむこうが上だから、リーチがギリギリ届かない。それでいい。攻撃ではなく、広げた手のひらとグローブで相手の視界を防ぐことが目的だった。
 本命は対角線のコンビネーション。
 俺の右回し蹴りがユキトにぶち当たる音がした。
 ユキトの身体が一瞬宙に浮いた。なかなか勘のいいやつだった。回し蹴りを喰らったとき、完全に死角だった蹴りをガードしていたのだ。人間本来の生理反応を超えて身に着けた、格闘家の反射行動だったのかもしれない。しかし、俺の蹴りはガードの上から相手を倒すために鍛えた蹴りだ。
 バランスを崩したユキトは、リングの上に倒れこんだ。まだ意識ははっきりある。追い打ちはかけなかった。下手に攻めれば、引き込まれて寝技に持ち込まれるからだ。 
 すぐさま立ち上がったユキトは、再び距離をとった打撃を打ってくる。リーチ差で顔面には喰らうが、相打ち気味に腕の側面を俺の受け手が叩く。
 攻撃を捌き、ユキトの意識が上に向いたところを狙って今度はローキックを放った。打撃の組み立て方というのが分かってきた。古流空手の打撃は一撃で倒すことが目的だ。俺のローはまだその域に達してはいないが、それでも二度と喰らいたくないと思わせる威力はあった。それもまた相手に対する抑止力になる。 
 嫌がらせのようだったジャブの手数が減り始めた。踏み込みも甘い。手足の痛みに対する反射的な行動だ。それは思考にも影響を及ぼす。ユキトはタックルを狙ってくるはずだ。追い詰められたときこそ、人間は短絡的になる。
 自分自身のことで一つ発見があった。俺の頭は追い詰められたときこそ冴える。普通の人間とは逆だ。それが俺の本領であり武器だった。
 明らかに打撃のペースが落ちたユキトは、それでも脚を動かし距離を保っていた。時々軽いジャブが来るが、腕を捌かれないように踏み込みは浅く、俺から逃げるようにリングの上を回っている。ユキトの作戦だった。弱っているように見せて、止めを刺すための大振りな攻撃を誘い、それに合わせてカウンターのタックルを狙っているのだ。だが、もう遅い。お前は機を逸したのだ。打撃で翻弄している間に倒すべきだった。今はもうお前のタイミングは読めている。
 俺は逃げるユキトを追い、一気に間合いをつめた。同時に右拳を引いて構える。
 古流空手の正拳突きはモーションが大げさで、相手からすれば見え見えの攻撃だ。しかし、むこうがそれにカウンターを合わせてくると分かっている場合のみ、フェイントとしてその動きは活きる。
 ユキトがタックルの体勢になった瞬間、俺は拳を打たずに右脚で地面を蹴った。狙ったのはカウンターのタックルに対する、さらなるカウンター。
 俺の膝蹴りはユキトの顔面を捉えた。
 リング上に鼻血が飛ぶ。構えを保ったまま俺はユキトのほうに向きなおったが、勝負はついていた。リングに倒れたやつは、顔を押さえてうずくまっている。大したやつだった。俺が膝蹴りを打つ瞬間、しっかり減速して腕で顔を守っていたのだ。もっとも身長差のせいで俺の膝はやつのガードの下をくぐるような軌道で顔面に入っていた。
 止めを刺すつもりはなかった。ユキトからは、まだ絞り取れることがあった。今日は勝てたが、こいつはきっとまた戦法を変えて俺を負かそうとするだろう。
 俺は何となくユキトという人間を理解できた気がした。こいつの腹の底には俺と同じどうしようもない凶暴性が居座っているが、同時に総合格闘家としての天分も持ち合わせている。己と相手をコントロールすることが、総合格闘技の神髄だ。ユキトの才能はその理念に誰よりフィットしている。凶暴性と、それを制御することは矛盾しない。その二つを高いレベルで両立させたとき、人は相手を打ちのめす冷徹な機械になる。それは自分には欠けているものでもあった。
 ここで学ぶべきことが明確に見えた気がした。
 一息ついた瞬間、俺は後ろからタックルを喰らった。ユキトをマジでのしてしまったので、危険だと思ったジムの格闘家たちが止めに入ったのだ。俺は五人ぐらいに羽交い絞めにされた。反撃する体力はなかったが、むこうも俺を止めるのが目的だったので殴られたりはしなかった。ただし死にそうなほど汗臭かった。
 次の日は全身筋肉痛で病院のベッドから出られなかった。
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