第18話『対策衝動』
妙な蒸し暑さのせいで、真夜中に目が覚めた。
横になっていればそのうち眠れるだろうと思っていたが、しばらくすると余計に目が冴えて、被っていた布団すら鬱陶しくなり始めた。起き上がって時計を見ると、午前二時を指している。俺は少し夜風に当たることにした。不思議と喉は乾いていなかった。
空は淀んでいた。輪郭のない黒々とした塊の雲が、月と星の光を遮っている。明日は雨かもしれない。空気だけはやけに冷たく気持ちが良い。先ほどまでの暑苦しさはなんだったのかと思って顔を触ると、巻き付けた包帯の下で傷が熱を帯びているのが分かった。自分には倒すべき相手がいたことを思い出した。肉体がその意思に応えようとしている。戦うための準備、傷の治療。その熱だ。
反面、己の心が冷めていることにも俺は気が付いた。どこか現実感がない、他人事のような目的だ。俺は本当に誰かを倒さなくてはならないのだろうか。
そんなやつが存在するとして、それは一体、誰なのか。
俺は街灯を頼りに当てもなく歩き続けた。最後に辿り着いたのは、人気のない公園だった。誰かと闘うなら、こんな場所だと思えるような、しっくりとくる佇まいの公園だった。
男が一人、公園の街灯の下で俺のことを待っていた。
見覚えのある姿だった。最初は、俺を負かした柔道とボクシングを使うあいつだと思った。いや、チビでマッチョなトシにも見えたし、警官の格好をした口原のようにも見えた。あるいは全身傷だらけのウィンとも思えたし、身長二メートルの市ヶ谷だとも思った。
しかし、よく見るとどれも違う。そいつは空手着を身に着けていた。
親父だった。
俺は親父をぶっ殺さなきゃいけなかった。
さもなければ、俺は一生親父の空手に縛られたままで生きることになる。その考えは、理性の底に植え付けられていた。
俺は空手になんて命を賭けたくはなかった。何も、誰も、自分のことも親父のことも破壊したいなんて思ってはいなかった。しかし、それから逃れるためには最強の親父を超えなければならない。矛盾している。
親父の空手着は体格に馴染んで一体化していた。その拳は樫の幹のように固く乾いていた。それは俺が決して敵わないと思っていた親父のイメージそのものだった。
そのイメージを破壊しなければならなかった。
俺は親父をぶっ殺すしかない。
親父が構え、俺もそれに合わせる。
こちらからは攻めるつもりはない。親父は俺の打撃を見切っている。正面から行っても、捌かれて防御できない角度から反撃を喰らうだけだ。
直突きをカウンターに使うつもりだった。親父が先に動き、それに合わせる形なら、回避は難しい。直突きは迎撃に適している。出が早く、攻撃動作が距離を潰す動きを兼ねるからだ。
勝負は密着した間合いだ。
俺は組技に賭けていた。今までの俺にはなかった手段だ。空手家の親父は、それに対応できるだろうか。きっと対応する。親父の最強は独りよがりではない。疑いようのない、純然と存在する鉄の塊のような最強だ。当然、異種格闘技戦は想定しているだろう。だが俺が組技を使えるようになったことは知らないはずだ。
だから、ほんの少しだけ反応は遅れるだろう。
そのほんの少しで、親父をテイクダウンする。それから殺すか、あるいは戦闘続行が不可能と思えるような致命傷を与えればいい。ダメージは動揺を生み、行動を短絡的に変える。相手をコントロールするのは総合から学んだ戦い方だ。俺は親父をコントロールする。
睨み合いがしばらく続いた。
ウィンと市ヶ谷にやられた負傷は治りきってはいなかったが、臨戦態勢を維持することに消耗は感じられなかった。こちらを見据える親父の目には、俺はどう映っているだろう。こちらが待ちに徹するのは初めてだった。
短絡的に間合いを詰め、足りないタフネスに任せ、砂袋を殴るのと同じように、己の四肢ごと破壊するつもりでえぐり込む。それが俺の今までの戦い方だった。それでは勝てない。
俺は再びボクシングと柔道を使うあの男のことを思い出した。俺の粗暴で飾りがないだけの殺意が不出来な武器だということを教えてくれたのはあいつだ。もう少し早くあの男と出会っていれば、俺は親父との修練の中で、何か別のものを得ることができただろうか。親父から何かを学び取ることができただろか。
俺はまだ遅くはないと思った。
親父は目の前にいる。俺の一挙一動を睨んでいる。俺は親父をぶっ殺す。
親父の重心がわずかに前方に寄ったのを、俺は見逃さなかった。同時に踏み込み、縦拳を打ち込む。
最小動作、最短距離で当たるはずの拳。
それは空を切っていた。
機を制したのは親父だった。俺に打たせるために、わざと動いて見せたのだ。親父はこちらから見ての左斜め前方、つまり順手で突きを放った俺の死角に踏み込むと同時に、がら空きにの脇に拳を打ち込んでいた。
打たれたの腹ではなく、そのわずかに上。あばら骨を狙われた。
折れたのは二、三本か。肺に喰い込めば、打撃の起点となる胴の捻りの障害となる。
つまり尚更に短期決戦で決める必要があった。
俺は脇腹を庇うように上体を下げると同時に、タックルの体勢に入っていた。親父の帯が目に映る。
次の瞬間、俺が見たのは淀んだ空だった。
顎を下から蹴り上げられた。その動作もまた、親父には読まれていたらしい。親父の強さには驕りがない。相手の攻撃を待つ、という行動をとった時点で俺の負けは決まっていた。いつもと違う、あまりに狙いの見え透いた動き。親父に油断というものがあるとして、それを突くにはもっと巧妙な手段が必要だった。俺はまだまだ未熟で、単調で、甘い。
頭を蹴り上げられた俺は倒れまいとバランスをとったが、次の瞬間にはその場に膝をついていた。足腰の力が勝手に抜けていた。脳が揺れている。脳への攻撃はタフネスを無効化する。的確な打撃だ。
俺は親父の手に見覚えのあるものが握られているのに気が付く。
金槌だった。俺が親父の後頭部に打ち付けたものだ。べっとりとついた返り血はまだ乾いていない。親父は頭から血を流していた。
俺はまだ、己の中にある親父のイメージを打ち破ることができない。
まるで亡霊のような、過去の姿に。
親父は俺を見てはいなかった。虚ろな目で虚空を見つめている。金槌を振り下ろしたときも、親父は無表情だった。
卵が割れるような音とともに、頭の内側に強烈な痛みが走った。
目が覚めると、朝の四時だった。
ひたすら気分の悪い夢を見たような気がしたが、内容は思い出せなかった。頭痛が酷い。ウィンに痛めつけられた頭蓋骨が疼いていた。
俺が病院を脱走してから、一晩が明けていた。ユキトのアパートに着いたのは昨日の昼過ぎで、腹ごしらえをしてすぐに練習を始めた。三日だけとはいえ、時間は無駄にはできなかった。
マズかったのは、比較的本気でスパーリングをしたことだった。グローブとヘッドギアはつけていたが、それでは不十分だったらしい。三十分もしないうちに、俺はこめかみ辺りに割れるような痛みを感じ始めた。ユキトに市販の痛み止めを買ってこさせたが、たいして効き目はなかった。
結局、昨日はほとんどユキトと戦術を議論するだけで終わってしまった。怪我が悪化すれば、市ヶ谷戦に致命的な影響が出る。
「朝なったら死んでるとかはやめろよ」
押入れから寝袋を引っ張り出してきたユキトの言葉を俺は鼻で笑ったが、その後は痛みが酷くてほとんど眠れなかった。熟睡は一時間にも満たないだろう。
俺は寝袋を這い出して、流し台でコップに水を汲んで一気に飲み干した。血の味がした。確認したが、口の中は出血はしていない。まだ夢の中にいるようだった。俺は外の空気を浴びることにした。堂々巡りをしているような気分になったが、空は晴れていた。
その日は満月だった。俺のことなど砂粒ほども気にしていない、知らん顔をした月だった。ユキトのボロアパートの横には狭い用水路が通っていて、その水面に月の光が反射していた。俺は月を殴ることなんてできないし、水面を割って月の鏡像を消すこともできなかった。俺はアパートの敷地を囲うブロック塀を叩くことにした。左腕の親指は折れているので、使うのは右腕だけだ。己の身体を気遣わないことは弱さではない。ただ、己の身体を気遣えぬことは、確実な弱さになる。コントロールするのだ。俺は学んだことを思い出し、積み上げて来たものをさらに磨くことに努める。
コンクリートに正拳突きを打ち込んだ。何度も、打ち込んだ。
続けているうちに額に汗が滲み始めて、喉が渇いて、しばらくすると喉の渇きは気にならなくなる。俺は正拳突きに飽きて、今度は手刀の横打を始めた。頭の痛みは感じなくなっていた。拳の痛みは初めから感じていない。俺は自分の空手が衰えていると感じた。退化してるわけではない。だが、進歩を止めている。俺は親父から進歩することを強要され、ずっとそれに逆らってきた。だが、ここにはもう親父はいない。俺は一人になることを選んだ。
俺を鍛えるのは俺だ。俺は一個の熱を帯びた赤い鉄の切れ端だ。俺は俺自身に金槌を打ち付けて、それを鍛える鍛冶師になる必要性がある。十分な切れ味を得るために。
人を殺すのに、十分な技を、己の拳に与えるために。
いつのまにか、空が白んでいた。俺は今度は直突きの練習を始めた。踏み込みと同時に打つ縦拳の拳。拳に回転を加えて威力を高める正拳突きに対し、直突きは構えた拳をそのまま前方に打ち出す。用いる関節が少ない分、打撃の伸びは直突きが優れていた。だが、それだけでは市ヶ谷には通用しない。リーチと体格差があり、やつ自身が直突きを使うからだ。どう活かすかは考えてあった。
俺は己の空手を鍛えている。
「ガンガンうるさいと思ってたら、お前か」
雀がさえずり始めたころに、後ろから声をかけられた。振り向くと、トレーニングウェアを着たユキトだった。
「オーバーワークで怪我が酷くなったらただの間抜けだろ。三日ぐらい休んだらどうなんだ」
「問題ねぇよ。お前とは鍛え方が違う。それより今は時間が惜しい」
「そうかよ」
ユキトは欠伸をすると、持っていた二つ目の砂袋入りのリュックをこちらに投げてよこした。
日課の走り込みの時間だった。
「自衛隊の徒手格闘っていうのは日本拳法をベースに柔道や合気道や相撲の技を組み込んだものってことになってる。全部が一般公開されてるわけじゃないが、市ヶ谷ってやつに関しては体格やもう一つの技から逆算して戦い方は想像はできる」
「強打を打ち込みながら間合いを詰めて組み付くっていうのが、日拳のオーソドックスな戦法だ。防具前提の戦法だが、体格の有利があればあながち非実戦的とは言い切れない。グラップラーなら、最終的には間合いを詰める動きになる」
「ただし、徒格には打撃と組み付きの間に、腕をとって肘や手首を極める合気道の技がある。立ち技の段階なら、中間距離の攻防がカギかもな。もちろん極まれば腕だけじゃ済まない。確実にテイクダウンに繋げてくるだろう。リーチ差も考えれば危険ゾーンはかなり広いな。問題はその中に入らずに使える武器がお前にないってことだ」
「打撃面に関しては、徒格に限って言えば直突きと前蹴りに警戒すれば十分だ。元の日拳で実用レベルで使える打撃はその二つだけだし、徒格はさらに組技よりになっている。細かい打撃の応酬は重視してない。ここで何とかカウンターを狙うって言うのが、比較的現実的な攻略法だ。比較的、な」
「ただ、市ヶ谷が別の技術を隠している可能性はあるな。まるまる別の格闘技を習得する必要はない。徒格自体が複合格闘技だから、打撃・組技の距離の出入りの要所に効果的な技を混ぜるのは自然な発想だ。特に打撃面での単調さを改善するための工夫はあると考えたほうがいい」
「……まぁ、どんな技術を持ってるかは分からないけどな」
三日間の間、ユキトは大体こんな調子だった。俺はやつのクソ格闘オタクぶりを堪能し、同時に肝心なところで役に立たないことにがっかりした。体格差がヤバいということを何度も強調してくるのが、特にウザかった。そんなことは分かり切っている。
「なら聞くが、お前だったらどう戦うんだよ」
「俺はそんな体重差があるやつと闘うなんて無謀なことはやらない」
「仮定の話だろーが。いちいち面倒くせぇやつだな」
「いいから、さっさと出ろよ。それとも追加料金払ってくれるのか」
ユキトとそんなやりとりをしたのは、病院から脱走して三日経った午前十時ごろのことだった。三日前にアパートに到着したのは昼頃だったと俺は主張したが、ユキトは原付の移動時間込みだと言って譲らなかった。マジでみみっちいやつだ。
「じゃあ聞くが、体格差を抜きにしたら、お前と市ヶ谷どっちが上だ」
「無意味な仮定だろ」
「マジで面倒だな、お前。死ぬほど面倒だ」
俺はポケットに入れていた札束を取り出して、ユキトに向かって投げつけた。キャッチすると、やつは訝し気な表情をする。
「……追加料金か?」
「コーチ料だよ。着いて来い。練習相手は必要だ」
「やだよ。それこそ面倒だ」
ユキトは札束を投げ返してきたが、俺は引かなかった。
「札束を受け取って俺の質問に答えて一緒に来るか、お前が死ぬほどビビッて興味ないふりをしてる殺し合いを今この場で始めるか、どっちかだ」
投げつけた札束は返ってこなかった。それでいい。俺はお前に期待なんかはしていないのだ。格闘センスは認めるが、それが競技格闘技の世界に引きこもって出てこないことを惜しいだなんて思ってはない。だが、こっちが必要としてるものはよこしてもらう。お前の事情だとか、主義だとかは関係ない。興味もない。
札束をポケットに入れたユキトはため息をついた。
「……大体、マジでお前の目論見通りになるのかよ。やっぱりここに戻ってくるとかは御免だぞ」
「そんときは俺のことぶっ殺して止めればいいだろ。できるもんならな」
「……お前なぁ」
「で、どうなんだよ。さっきの質問の答えは」
「だから、無意味だって言ってるだろ。机上の空論云々以前に、俺はそいつが実際どういう動きするかなんて見たことないんだ。お前から聞いたデータで想定してるだけだし、体格を変えたらもはや別人だろ。お前の参考にはなんねぇよ」
「じゃあ、初めから一個目の質問に答えろよ。市ヶ谷に路上で襲われた、さぁ、お前ならどうする」
「なんで俺が襲われるんだよ」
「重要か? それ」
「襲われるならお前のほうだろ」
「じゃあ、俺と間違えられたって設定でいいだろ」
「俺とお前じゃ体格が違う」
「じゃあ顔がムカつくとかでいいだろ? テメ―いい加減にしろよ」
「とりあえず逃げる」
「死ね。袋小路で逃げ場はない、そういう設定だ」
「待てよ、そこまでするならヤクザに拉致られて地下のケージで闘うとかのほうが自然だろ」
協力的なのか非協力的なのか訳の分からないやつだった。市ヶ谷戦が終わったら殺すリストに正式に入れるか迷うレベルだ。
「……それでいい。答えろよ」
「アウトボクシングで削って、弱らせたところでテイクダウンして仕留める」
「スポーツマンかよ」
がっかりだった。やはり殺すリストに入れるほどではない。というか、その程度の答えをもったいぶってんじゃねぇ。
「散々、体格差がどうのって言ってたくせに、テイクダウンできるつもりかよ」
「ギリギリな。俺はお前よりも体格はいいし、レスリングテクも上だ。加えて、体格差で何とかなることが多い分、市ヶ谷は本業のレスラーや総合格闘家ほど徹底して足腰を鍛えてはいない可能性は高い」
「結構重要なことじゃねぇか。最初に言えよ」
「お前はアウトボクシングもできなけりゃ、レスリングも初級レベルだろ。それに倒した後でどうするつもりだ。お前の体格差じゃマウントポジションとったってすぐ起き上がられる」
「お前はどうするんだよ。リーチはともかく、体重は俺と比べてもそれほど重い訳じゃないだろ。マウントとれんのか」
「デカい相手にポジションをキープし続けるのは現実的じゃない。寝技をかける。そいつは攻めは得意でも、同じレベルの相手と日常的に練習でもしてない限り、守りに関しちゃ隙はあると思う。その点はプロ格闘家優位だ。弱らせた上で、って条件付きなら勝負できるはずだ」
「お前はまだプロになってねーだろ」
ユキトは俺の言葉を無視して、原付のエンジンをかけた。俺はフルフェイスのヘルメットをかぶり、後部座席に腰かける。ビビりのユキトはまだ不安があったらしく、最後にもう一度俺に質問をしてきた。
「マジで、大丈夫なんだろうな。武装したヤクザの集団がいたら、お前なんか見捨てて逃げるからな」
「しつけーな、勝手にしろよ。その代わり、こっちの言う通りになったら金の分は付き合えよな」
ユキトはまた深いため息をついて原付を走らせた。しみったれた野郎だった。下宿のアパートもしみったれてたし、練習環境としては下の下だった。今から行く場所は、それよりはマシになってるといいが。
俺たちの目的地は、あのジジイの診療所だった。
原付を走らせていると、途中で雨が降り始めた。
小雨はすぐに土砂降りに変わる。今朝の予報は晴れだった。湿気が多いせいで、顔に巻いた包帯の下が疼くような気がした。俺は構わずに原付を走らせるようユキトに命令した。
「原付はコンビニとかに停めて、途中から徒歩で行ったほうがいいじゃないか。目立つだろ」
信号待ちをしてたとき、ユキトがそう聞いてきた。
「ダメだ。俺は外じゃヘルメット脱げないし、徒歩は余計に目立つ。それにヤクザの多い街なんだから、コンビニなんて人の出入りが激しい場所には近づかないほうがいい」
診療所の雑居ビルの前に到着すると、ユキトはやたらと周囲をきょろきょろ見回していた。雨に紛れてヤクザが診療所を見張っていないかを警戒している様子だ。俺は大して気にしていなかった。ヤクザなんて返り打ちにすればいいだけだ。
原付を表通りから見えない裏路地に停め、俺たちはビルの中に入った。診療所で出迎えたのは見知った相手だ。ヤブ医者のおっさんだった。
「よう、坊主。相変わらずやってるみてぇだな」
「なんでいるんだよ」
理由は予想できたが、俺は一応そう質問しておいた。お笑い芸人のボケにツッコミを入れるようなものだ。おっさんの呑気な態度を見ていると、ヤクザ相手にコソコソ隠れなければならない自分の状況が馬鹿らしく思えてくる。地下のドクターで金髪の知り合いなら、俺と会うなんて立場上ヤバいはずだ。そうじゃなけれ地下の仕事なんてやれないのかもしれない。医者の腕は残念だが、毛の生えた心臓はしっかり受け継いでいるらしかった。診療所のジジイはおっさんの前任者で、同時に医術の師匠であるそうだ。
「ちょっと、力仕事を手伝ったのさ。お前をここに連れ込んだのは俺だし、責任はあるからな。じいさんに迷惑をかけた分の償いだよ」
「なら、金は奪い返さなくていいのかよ」
「俺が? 馬鹿言えよ。お前相手にどうしろってんだよ」
おっさんは両手でお手上げだというジェスチャーをした。
「そうかよ。どうでもいいけどな。それより、準備はできてんのか」
「ああ、ばっちりさ。有り難く使えよな。ほとんど俺一人でやったんだぜ」
待合室を抜け、俺たちは模様替えをした診察室へ移動した。及第点だった。置いてあった机と書類棚は待合室に移され、ベッドは横にして壁に立てかけてある。練習するスペースとしては十分だ。どこから調達したのか、床には練習用のマットまで敷かれていた。
「こいつは余計じゃねぇか。俺はコンクリの上でやるんだぜ。固い床のほうが感覚が掴める」
「馬鹿野郎、その傷は普通なら絶対安静だ、間抜け」
俺を罵ったのは年寄りのしわがれ声だった。
苦虫でも噛んだような表情を顔に浮かべながら、ジジイはタバコを吸っていた。
「何笑ってやがる」
そう言って、ジジイは噛みつくように舌打ちをする。腕のいい医者だからなのかは知らないが、包帯越しでも俺の表情が分かるらしい。
「別に。逃げなかったなと思っただけさ」
思惑通りだった。俺はジジイから金を奪っている。あれは人質なのだ。
話は三日前に戻る。
俺が発射した弾丸は診療所の床に穴を開けただけだった。俺の狙いはジジイの命ではなく、脅しをかけることだ。いざとなれば平気で撃つ、と思わせることでジジイの行動をコントロールしようとしたわけだ。
俺がまずジジイにさせたのは、銃声を聞きつけて様子を見に来たサラ金のチンピラどもを追っ払わせることだった。ジジイは診療所のドアから頭だけを外に出し、ドアの陰の死角に隠れた俺がそのこめかみに銃口を突きつける。
ジジイは少し話すると、チンピラどもに金を握らせてあっさり追い返した。
ジジイがヤクザたちにそれなりにものを言える立場だということはそれで確認がとれた。守る、守られるの関係というよりは不可侵条約と言ったほうが正確だろう。診療所で銃声がしたことも、チンピラどもにとっては面倒だが異常事態というほどでもないトラブルらしい。隠れて会話だけを盗み聞きした限りでは、そんな印象だった。
ただし、俺はこのひねくれたしわくちゃの化石野郎を侮ってはいなかった。ドアの陰に隠れたことで、俺はジジイやチンピラどもの表情を見ることができなかったのだ。こいつなら表情や身振りで異変を伝えるぐらいはやるかもしれない。いや、もっと確実なのは、渡した賄賂の札の間に助けを呼ぶメモを挟むという方法だ。こういう状況を想定して、あらかじめ財布にメモを仕込むぐらいのことはやりそうな年寄りだった。
だが、助けを呼ぶことはできても、状況を正確に伝えることは不可能だ。拳銃を奪った後は、メモを書き直す隙など与えていない。そしてもう一つ、頭に拳銃を突きつけられている以上、ジジイはチンピラどもを一度は追い返すフリをするしかなかった。やつらが救難信号を真に受けたとして、助けに来るまでにはタイムラグがある。ジジイがこちらの存在を隠さざるを得ない状況を作るには十分だった。
「追っ払ったんだから、もういいだろ。拳銃を下ろせよ。生きた心地がしねぇ」
ジジイはそう言ったが、俺には突きつけた拳銃の撃鉄を上げた。
「あんたが金をため込んでんのは分かってんだ。死にたくなかったら出せ」
「何意味の分からねぇこと言ってやがる」
「別にいいぜ。指でも肋骨でも、好きなだけ折ってやる。何本までその演技が続くか、見ものだ」
ジジイはしばらく黙った後、舌打ちをした。脅しの手段は一つではない。やつに俺の命令に従う以外の選択肢はなかった。
「……こっちだよ」
金の隠し場所は床下だった。床板の一部が剥がせるようになっていて、札束の入った黒皮のカバンが出てくる。雑な隠し方だった。ジジイほどの頭があれば、強盗や空き巣対策に金を分けて隠しリスクを分割するはずだ。
ジジイはそれなりの額を見せることで、こちらに素直に従っていると思わせたかったのだろうが裏目に出た。あっさり出したということは、総資産はこのカバンに入っている倍以上はあると見ていい。もちろん俺の狙いは金ではないから、それら全てを強奪する必要はない。その事実があれば脅しには十分だった。
「助けを呼んだんだろ」
「助け? この状況でどうやって呼べばいいっつーんだよ、ボケ」
カマをかけたが、ジジイは動揺を見せなかった。毛の生えた心臓。だが俺はもうこれ以上、駆け引きをするつもりはなかった。
「とぼけるのが上手いな、クソジジイ。感心するが、もう詰みだぜ。俺は今から逃げて、三日後に戻って来る。その間に診察室を片付けて、トレーニングができるスペースを作っとけ」
「イカレてんのか、てめぇ」
「ヤクザはあんたの金を守ってくれんのか?」
「……何が言いてぇ」
「俺はこの金をヤクザに献上すれば見逃してもらえるぜ。そしたらそっちの丸損だ。あんたの金だから返す、なんて義理立てするような連中じゃねぇだろ」
「おめぇみてぇなキチガイと関わり合いになるよりはマシだ」
「じゃあ、やつらに月幾ら払ってるんだ」
「……何?」
「ショバ代っつーのか。金でこの街での安全を買ってるんだろ。銃声がしても見逃してしてもらえるんなら、まぁまぁな額なはずだ」
「それがどうしたっつーんだよ」
「こんだけの金を奪われて、それでもショバ代を平気で払い続けるなら、もっとデカい金をため込んでるって話も現実味を帯びてくる。俺に従わないなら、その情報をヤクザに売るぜ」
「……てめぇの妄想だ」
「ヤクザじゃなくたっていいさ。俺の話に乗る頭の弱いチンピラなんてこの街なら吐いて捨てるほどいる。額が額なら、ヤクザの後ろ盾は当てにはならない。馬鹿は金のためなら危険は冒すさ。何人ぐらいいると思う? まぁ、拳銃だけで追っ払い続けるには厳しいだろうな。三日の間に逃げるのもありだが、年寄り一人で持ち逃げできる量の現金でもないんだろ」
ジジイは何も答えなかった。
正直言って、ジジイが夜逃げをする可能性はあった。持ち逃げできる量の金じゃあない、というのはハッタリだ。
もう一点、俺の心配は下の階のサラ金が金髪の組の下っ端だった場合だ。一週間前、ウィンに半殺しにされた後担ぎ込まれたのがこの診療所だということは金髪には伝わってはいない。厄介事を嫌うジジイが、おっさんに口止めをしたのだ。だが、おっさんがジジイの弟子だということは地下の関係者の大半が知っていることだった。診療所でトラブルがあったという話を聞けば、さすがの金髪も感づくだろう。
そういうわけで、俺はジジイを脅している間中ずっと鼻血が止まらず診察室の机の下に隠れていたユキトを銃で脅して、非常階段ですぐさま脱出しなければならなかった。
後の顛末は知っての通りだ。計画の粗さは否めないが、俺は概ね正しかった。
「安心しろよ。金も拳銃も安全なところに隠してある。あんたのことだから予備の拳銃は隠し持ってるだろうが、脅したって無駄だぜ。俺に通じないことは分かってるだろうし、そっちのユキトは隠し場所を知らない。ユキトを人質にしても見捨てるから無駄だ」
「おい、待てコラ」
俺はジジイに警告をしたが、反応したのはユキトだった。診療所が安全だと分かった途端、さっきまでビビりまくりだったのが嘘のように、ごちゃごちゃと文句をぬかしてくる。おっさんはそれを見て「そっちの兄ちゃんも災難だな」と笑っていた。
ジジイは仏頂面で返事をする。
「もうそんな気も失せちまったよ。てめーみたいな頭のおかしいガキに喧嘩売ったって損するだけだ。年寄りをいじめやがって」
無駄に歳を食っているだけあって、話の分かるやつだった。だが、油断してはいけない。こいつは人を食ったような狸ジジイだ。
ジジイの金を幾らか使い込んだことは、ユキトには口止めしておいた。バレても問題はないが、面倒なことになるのは目に見えている。補填するのは簡単だし、ジジイの手元に返るころには同じ額に戻っているから問題はない。
それよりも、とにかく今は市ヶ谷対策が先決だった。
病院で一週間、ユキトのアパートで三日、本番までは残り三週間だ。やれることは限られている。
「おっさん、市ヶ谷戦は何回か見たことあるって言ってたよな。専門家も交えて作戦会議だ。時間がもったいない」
「なぁ、坊主。じいさんからもチラっと聞いたんだが、『もうすぐ試合』ってのはつまり、あれか。もしかして、またやるつもりかよ」
「当然だろ。市ヶ谷戦に乱入する」
「ああ、やっぱりか。まぁ、言って止まるようなやつじゃないしな、お前は。乗りかかった船だ。できる限りは付き合うぜ」
「そっちがどう思ってようと強制乗船さ。精々、ドロ船じゃないことを願いな」
「ははっ、とんでもねぇガキだな、やっぱり。ところで市ヶ谷戦のことだが、新情報がある。あっちもあっちでとんでもねぇやつみたいだぜ」
「何かしたのか」
「挑戦者決定戦を、特別ルールでやるって話だ。『けじめ』と似たようなルールだ。要は『四天王』と同じで、勝つこと前提でどれくらいの時間で相手を倒すか賭けて闘うことになる。さらに市ヶ谷の場合は十分って制限時間付きで、それを超えたら無条件で負けるっていう追加ルールがある。『けじめ』以外でこんなハンデ戦は前代未聞だ」
「なんだそれ。誰の提案だよ。市ヶ谷か、運営か?」
「さぁな。だが、本人がノリ気なのは確かみたいだぜ。半分の五分で倒すって言ってるらしい。相手だって、時期挑戦者に選ばれる実力はあるのにだ」
俺は己が知る市ヶ谷の人物像を照らし合わせて、すぐさまその事態に裏があることを確信した。やつは決して演出のためにそんなことをやるタイプではない。つまり、必要に迫られてやっている。それはこちらが付け入ることのできる大きな隙だと思えた。
同時に、市ヶ谷がその状況を甘んじて受け入れるはずがないということも俺は確信していた。やつは必ず保険をかける。確実性を上げるための仕込み。それは俺にとっても、大きな障害になる。
あいつは大勢の目の前で己の実力を証明しなければならない。
手段は限定されるし、服装からも大まかな予測はできるだろう。だが、それがどういうシロモノなのかを正確に特定することは不可能だ。
頭を悩ませていると、診察室の壁に寄せてあった点滴台が目に入った。今は使われてはいないが、もしかしたら俺が出血多量でここに運び込まれたときには、輸血用の血液製剤なんかがぶら下げられていたのかもしれない。
可能なのか? そもそも場合によっては無意味かもしれない。
だが、試す価値はあるアイディアだと思った。やること自体に損はない。保険をかける。策を仕込む。そういう思考で上回ることができなくては市ヶ谷には勝てないだろう。
「お前、またクソみたいなことを考えてるだろ」
ユキトが横でそう言った。
ご名答だ。