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第24話『柔術馬鹿』

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 クスリの売人に撃ち殺される瞬間、親父は何を考えただろう。


 そんな疑問が、ふと浮かんだ。
 
 
 なんて場違いなんだ。
 俺は今、クソったれなキチガイと地下の檻に閉じ込められ、自分が用意した一分以内に全身が麻痺するヘビ毒を喰らい、後ろ盾だったヤクザとの取引条件を完膚なきまでに台無しにして、生きて明日の朝日を拝めないことが確定しているのに。
 スポットライトが、今さらに眩しかった。
 俺は死ぬのだ。
 なのに、己と親父とどちらがより間抜けな死に様かをまだ比べている。それをコケにするかのように、眼下で狂った小僧が笑っていた。
 確認するまでもなかった。
 やってほしいということだよな、それは。
 マウントポジション。その圧倒的優位から、マグマのような怒りと征服感を叩きつける。それはかつて親父が俺にしたことの再現だった。相手との体格差も一致している。
 腕を振り上げたとき、ガキと目が合う。
 母親の眼は俺に似ていた。日本人の黒い瞳。俺はずっと母親の眼で親父を睨みつけていた。母親を殺し、その死体を埋めたとき気が付いたのだ。だから親父は自分を捨てた妻への怒りを幼い俺へと向けたのかもしれない。
 出来損ないの、クズめ。
 渾身の力を込めて振り下ろされた拳。
 肉厚の拳の底を当てるハンマーフィストであると同時に、右手には仕込みナイフが取り付けられている。相手と自分の、二回の刺突でおそらく表面の毒はほとんど残っていない。仮に効果が出たとしても、こちらが動けなくなるほうが先。だから単純な刃物として、もっともダメージを与えられる箇所を狙う。
 忌々しい、真っ黒な瞳。
 串刺しにして刃の先端で中身をかき回す。その次は喰い千取られた鼻の仕返しをする。鼻の軟骨をぐしゃぐしゃに刺し開き、細切りの肉を上から叩いて顔面に潰し埋め、窒息させる。必要な時間は最長三秒。
 次の瞬間にはその計画は不能になった。
 鉄槌をガードされた。いや、迎撃のカウンターを喰らったのだ。
 ぐしゃり。
 やけに柔らかい生ぬるい音と共に、振り下ろした拳の下半分が砕ける。
 反撃の正体はやつの左腕。包帯で固定した肘による打撃。
 鋭角的かつ頑強、それゆえに上体の捻りのみで十分な威力を持つ。本来ならリーチの短い肘打ちはこちらの胴体や頭部には届かず、有効なダメージは与えられない。だからやつはカウンターとしてこちらの末端部位を狙った。
 その攻撃により右拳は『半壊』。
 重要なのは手段そのものではなく、この局面に至るまで有効な武器を隠していたという事実。
 一度目のマウントポジション。
 肘打ちが有効なタイミングはあったはずだ。だが、あえて使わずこちらの思考から肘の使用というアイディアを外した。同時にそれはマウントの上側にとっても有効な打撃だった。俺は拳ではなく肘でやつの顔面を叩き潰すべきだった。そうすれば、やつの憎たらしい『ぐちゃぐちゃ』な笑い顔を、さらに『ぐちゃぐちゃ』にできたのに。
 ――思考はそこで引き千切られる。 
 激痛。
 出所は打たれた拳ではない。
 腿の裏。
 一度目の寝技の攻防で、手足の指によるつねりは何度か喰らった。だが今回はそれどころではない。もっとデカい痛みの塊。そうだ、つねりで指の骨を折れるのだから、掌全部を使えば人間の肉を毟り取ることなど――
 その分析も次の攻撃で中断。
 今度はケツを膝で蹴り上げられた。先二つに比べれば、ずいぶんと優しいダメージ。そのはずだ。目的はダメージを与えることではなく、こちらのバランスを崩すこと。腿裏の痛みへの反射で、重心は浮いていた。後ろから蹴りつければ、前のめりに倒れる。
 結果として、やつは己の右手の届く範囲内に俺の頭部を引き寄せた。
 耳を掴まれると同時に頭突き。
 なくなった鼻から空気が押し込まれ、逆流した血液が眼球の裏と口から飛び出る。
 俺は反射的にやつの右手首と、顔面を掴んだ。咄嗟の防御動作。反撃のアイディアは未定。
 遅い。
 周回分思考が遅れた俺の側頭部に、今度は左の肘打ちが突き刺さる。
 絶え間ない激痛と、意識の混濁。
 その散漫な思考の中で理解する。完璧な温存。こいつはあえてマウントを取らせ、反撃すら手を抜いた。全力を出せば俺が即座に毒を使うか、早い段階で四肢を無力化する可能性がある。だからこいつは耐えたのだ。勝ち筋を残すための無力なガキのふり。結果、俺はマウントの優越感に酔い痴れ、勝敗には直接関係しない、己の怒りを発散させるためだけのパウンドでまんまと相手に反撃のチャンスを与えた。全てはやつの計画通り。
 肘の反動で上体がよれた一瞬、再び小僧と目が合う。
 その眼は、母親の眼とは違っていた。
 くだらない無抵抗な死体の眼とは、何もかも違っていた。
 再度、左肘が頭蓋を穿つ。顔中の穴から噴き出た血液がやけに熱い。あるいは痛みを熱と錯覚したか。感覚は不明瞭。同時に馬鹿な考えが思考に混じる。
 この小僧は俺と同じだ。
 ガキのころの俺と。強者を倒すため屈辱に耐えた。その先の勝利を信じて。 
 シンパシー。
 直後、発狂に似た嫉妬が途切れかけた意識を強制的に繋ぎとめる。
 俺は親父を殺せなかった。
 だが、お前はすでに俺を殺したも同然だ。
 なにより、俺はその事実を理解してしまっている。完全な敗北から目を逸らすことすらできずに、命が尽きる最後の瞬間を不毛な自己満足に費やすしかない。
 こんな惨めな死があるか。親父より酷い。何万倍も。
 だが『馬鹿な』と思ったのはそこではない。
 混乱も、怒りも、絶望も、それら全てをブチ抜いて全身を駆け巡った一つの感情。
 それは昂揚だった。
 笑うしかないほどの末路。だからこそ、このガキは相応しい。己の全てを投げうつに値する、腹いせの『最強』に。
 最高じゃないか。

 記憶が飛んだ。

 気づいたときには、掴まれた耳を自ら引き千切っていた。
 直後、身体は習慣化された動作を再現し、回復した思考がバトンタッチで継ぎ目なくそれを完遂する。
 右腕によるワンハンドチョーク。
 腕を首にかけ抱え込むようにして身体は相手の上方向に前転、マウントを自ら放棄し、そこからさらに横方向へ半転。両者がうつぶせになり、上半身の下に相手の頭を抑えた形になる。有効な反撃手段である相手の右腕もこちらの左が捕えていた。
 ただし技自体は不発。
 横へ反転で捻りを加え、スピニングチョーク気味の角度で腕が首筋に入ることを狙ったが、一瞬早く顎を引いて防御動作を取られていた。加えて、大人と子供の体格差。こちらの腕は相手の顎と首の隙間に対して若干太い。口元にヘッドロックをしているのと変わらない状態。もちろんダメージはなし。
 嫌になる。 
 嫌になりながら、俺はやはり心底笑っていた。
『ハマるぜ。体は正直だ』
 やつのセリフを思い出す。キチガイめ。こんなものに巻き込みやがって。必ず道連れにしてやる。
 身体を浮かし、抱え込んだやつの頭に向かって渾身の膝蹴りを打ち込んだ。
 決定打にはならない。ウィンのように、頭蓋骨を単発で砕く打撃でなければ、連打しているうちにこちらの時間切れ。それでも、その一撃には十分な効果があった。
 俺は柔術家だ。
 全ての行為は組技への布石。
 上方向から衝撃で、やつの頭は失敗作のヘッドロックもどきからすっぽ抜ける。俺たちはすでにお互い血塗れで、潤滑油には申し分がなかった。
 一見すれば、やっと作った技の形を自ら潰す間抜けな行動だが、それは腕の力を抜くという予備動作なしに技を解除すること―――つまり相手の反応を一歩遅らせた上で、次の攻撃へ移行できるという『繋ぎ』の効果を果たす。もちろん標的は、掴んでいた相手の右腕。
 瞬時に生みだされた形は、キムラロック。
 手首を掴み肩関節を捻り上げて極める、稀代の柔道家・木村政彦がブラジリアン柔術のエリオ・グレイシーを仕留めたと言われる技。
 ガキは流れるようなディフェンスでそれを凌いだ。
 関節が極まる方向へ身体を回転。基本的な技の抜け方だが、こちらがポジションを入れ替えるより先に動作は始まっている。それは染みついた反復動作だ。頭で考えるよりも、身体が先に。そうでなければ防御は間に合わない。
 確かな訓練の跡。
 親父も同じものを見ただろうか。
 己の技を吸収する生意気なガキの、必死で足掻いた努力の跡を。
 『最強』を殺すためのレッスン。攻防の立場は入れ替わっているが、あのころと同じだ。そして親父はたった一つの技を凌いだだけで憐れなガキを逃すようなことはしなかった。
 次なる技はV1アームロック。 
 回転動作で仰向けになった相手の上体にのしかかり、サイドポジションの形を作ると同時に肘で顔面を打突、掴んでいた腕を折り曲げた。
 同時に、むこうの反撃がくる。
 脇腹に膝蹴り。
 狙いは一月前に折られたアバラ。完治した部位は再度骨折。痛みを無視できるほど俺はイカれてはいない。怯んだ一瞬で、小僧は腕を伸ばし技を抜けていた。
 が、こちははその動きに追従し、曲げて壊す技から伸ばして壊す技――ストレートアームバーに切替を済ましている。
 その技も恐らく防御されるだろう。
 血の潤滑油は防御側の有利に働く。特に標的となる右腕には、出血元の傷口があった。どの技を狙ったとしても強引に角度を変えて抜けられる可能性は高い。だか全ては布石だ。
 血の滑りでアームバーを外された瞬間、右腕はすでに相手の首元に回している。
 狙いは再び腕から首へ。
 相手の右肩を側頭部で押しながら、首を巻き込み一周した両腕をがっちりと固定する。
 アームトライアングルホールド。
 相手の右腕を巻き込み頸動脈を締める、要は腕で行う三角絞めだ。目障りな左脚もこちらの両足でクラッチ、残った肘も有効打にはならないほど身体が密着している。
 全ての反撃手段を潰した、詰みの形。
 寝技の展開になった時点で時間の問題だった。
 柔術の強さとは『反射』と『思考』のシナジー。
 防御という点で、この小僧の柔術対策は一定の効果を上げた。しかし、反撃のアイディアがなければ結局は時間稼ぎ。その場凌ぎの『反射』は可能でも、そこから勝ちを手繰り寄せる『思考』のステージには達していない。覆せない経験の差。
 普通なら。 
 
 その瞬間、狂人の戦略の全てが理解できた。

 わざと折らせた、腕足一本づつ。 
 対毒だけではない。それにはもう一つの目的がある。
 最終局面、首と腕の二択。俺は勘違いしていた。己の磨いた技が着実に敵を追い詰めているのだと。
 逆だ。
 狙いが絞られるということは、攻撃パターンが絞られるということ。連携は単純化し、個々の技の防御は容易になる。
 つまり、四肢の半分と引き換えに、一月対策すれば凌げるレベルにまで、こちらの技を引きずり堕とす――それがやつの『思考』なのだ。
 最悪に間抜けなのは、最後のピースを完成させたのは、他でもない俺自身だということだ。純粋な実力のみで戦っていれば、やつは『凌ぐだけ』で終わりだった。
 神経毒。それは俺にとっての切札ではなく、やつにとっての活路。
 決して『柔術の反撃』には繋がらないはずの防戦一方は、こちらの命の残量を着実に消し潰す致命の連打に変わっている。
 その攻撃はまだ終わっていない。悪足掻き、『時間稼ぎ』のディフェンスは続いている。 
 やつは己の肩に噛み付いていた。
 アームトライアングルホールドの別名は、肩固め。
 相手の肩を頸部を固定するための障害物として利用する。
 自らの肩肉を口の中に収納することで、より深く首を回転させ、本来ならば圧迫される頸動脈の位置をずらしたのだ。他の締め技に切り替えることは不可能。もう一度、腕狙いを経由する必要がある。俺にはその時間が残されていない。
 己の腕が痙攣するのが見えた。 
 神経毒が身体に回り始めている。タイムリミット。
 いや、まだだ。
 肩固めを解除すると同時に相手の頭髪を掴み、肘を振り上げる。 
 サブミッションが無理なら、打撃でコンクリに後頭部を叩きつけて殺す。だが次の瞬間、折られたアバラに激痛が走った。再び肘を喰らい、今度は骨の先端が肺を突き破る。
 痛みに呻いた瞬間、やつは動く。
 一瞬で、マウントを取られていた。
 ああ、そうだ。痛みによるコントロールはやつの領域。たとえ寝技だろうと。俺の柔術はもはや無効化された。今まさに、自らパウンドの打撃に逃げたのだ。
 顔面に鉄槌を喰らい、意識が飛ぶ。
 しかし、二撃目で再び覚醒。
 やつは笑っている。
 怒りに滾った笑顔で、継ぎ接いだ頬肉を引きつらせる。

『屑が』

『敗北感を誤魔化すために、今さら殺し合いを楽しんだふりをするな』
 
『お前はもっとも惨めな死に方で負ける』

『逃げられると思うな』
 
 三打目の鉄槌で再び意識が飛ぶ。
 次に目が覚めたのは腕へのダメージ。
 腕菱木だった。やつが俺に技をかけたのだ。同時にやつのアイディアを理解した。俺も同じことを考えたから。
 身体が重い。
 神経毒の作用だ。『反射』のディフェンスが破壊されている。
 俺はあっさりとヒールホールドを喰らう。
 地べたを這いずるが、後頭部に再び肘の一撃。
 失神。
 膝十字で覚醒。
 マウントを取られ、後頭部をコンクリに叩きつけられる。
 反対の腕も折られた。何の技かも分からない。
 抵抗したつもりだったが、もはや身体の自由は効かなかった。これは俺が『四天王』に対して行使するはずのプランだった。
 俺は勝つはずだった。
 勝っていた。
 一月前、ウィンに殺されかけたやつの顔の上を跨いだとき、顔面を踏みつぶしていれば、それで終わりだったのに。半死半生で逃げ込んだ潜伏先すら把握していたのに。柔術の技のみで闘うことに徹していれば、決して負けることはなかったのに。
 いつでも殺せたはずだった。
 
『気分はどうだ間抜け野郎』

 気づけば無抵抗のバックチョークを喰らっている。 
 意識を失うまでの七秒間、すでに全身の昂揚感は失せていた。
 全ては間違いだった。俺は親父と違うと思っていた。ドブの中の死体とは。だが、そうではなかった。 
 敗北に美学などない。慈悲も、容赦も。
 遠ざかる観客たちの罵声。その中の一つが、俺にははっきりと聞き取れた。

 


 出来損ないの、クズめ。



 
 やっと分かった。
 ヤク中に撃ち殺される瞬間、きっと親父は『死にたくない』と考えていたのだ。
 俺たちは皆同じだ。
 






 それから、何も聞こえなくなった。
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