第26話『回帰衝動』
フラッシュバック。
小指切断。
毒。
折られた手足。
頭痛。叩き潰された顔面。陥没寸前。
スパーリングとタップの連打。
バックドロップ。
クソったれが。
肉が有刺鉄線でブチブチ裂ける。
脱臼、ハメ直す、ぶっ飛ぶ顔面、また脱臼。
それでようやく、俺の意識は数か月前のある地点に戻っている。
殺意を再認識するために必要な作業。同時に、逆境を覆すインスピレーションを模索する。
「最も優れた格闘技の在り方を模索している。これは俺の人生におけるテーマだな」
まるで哲学者のような神妙な顔で、やつは己の珍妙な趣味に関してそう語った。
名前すら知らない男。
通称は柔道ボクサー。
我ながらテキトーなネーミングセンスだが、今思うとやつの得体の知れない無機質さにはぴったりの呼び名だ。
柔道とボクシング。いや、ボクシングベースに、柔道の組技か。そのコンボが路上における最適解というのが持論らしい。パンにバターを塗るような、シンプルな説得力とありきたりさを兼ね備えたアイディア。
やつを観察する。服越しでも体格の良さは分かった。だが、印象としての『強さ』は感じない。一見すればそこらを歩いていそうな平凡な男。ぼんくらで喧嘩なんてしそうにない。
もちろん、それは高度な擬態だ。
そんな擬態ができるようなクソ野郎が、俺をノックアウトしたというなら、俺を投げ飛ばしたというなら、何度も何度も打ち負かし屈辱を味合わせたというのなら、俺は最大限の力を注ぎ込んでやつをぶっ殺すしかない。
俺たちは対峙し、相手の顔には笑みが浮かぶ。
期待、充実感、そして余裕を含んだ笑み。
そして一冊の本を差し出す。
『格闘技立ち技テクニック』
てめぇは存在が侮辱だ。
キレた瞬間、一気に踏み込む。
伸び切った腕、左の直突き。その先端は目標のミリ単位手前で静止した。
胸を張るかのような、わずかなスウェーバックだった。最小動作で回避されたのだ。
構うか。
すでに右腕は振りかぶられ、殺意のコンビネーションブローを繰り出している。
腰ではなく、肩の回転による打撃。ロシアンフックとも呼ばれるそれは、折れたメリケンサック付きの腕を振り回すために身に着けたテクニックだった。
腕が引き千切れるほどの殺意を込める。
そして、やすやすとその下をくぐり抜けるやつの姿を視界の端に見失う。
芸術的テクニック。
芸術なんぞクソくらえ。
俺は再びブチ切れ、怒りと外れた打撃の勢いを横方向の回転運動に累乗する。
つまりここまでのワンツーは死角ーーそこにいる間抜けの首から上がぶっ飛ぶという意味で死の角度に相手を誘い込むための囮だ。
本命は全身の筋力を乗せた渾身のスピニングバックキック。
それは渾身の熱量をもって、虚しく空を引き裂く。
回転体はバランスを失っていた。
かろうじて、脳震盪の症状を自覚する。
『いいのが入っちまったな』
やつの台詞が頭に浮び、キレ直す。
それは飛びかけた意識を繋ぐための自動化された思考の反芻。
一方、実際の俺は蹴りと視覚の両方でやつの実態を捉えていなかった。つまり推測される敵の位置は右回転した俺の、さらに右斜め後方。
異様だった。
やつがその角度にいるということは、こちらの回転に追従し、影のように背後をキープし続けたということだ。
直前、右フックとすれ違った回避動作には逆方向の慣性がかかっていた。その上で、こちらよりもデカい回転の径をより速く動いたことになる。
人の域を逸した反応速度と瞬発性。
あるいは、それすらもやつの言うテクニックを最適化した先にある『最強』の一端か。
ふざけるな。
スローモーションで傾く地面を睨みながら、神経が焦げ付く匂いははっきりと錯覚できた。怒りはなお高回転を維持し、予想外の攻撃に対する精神的動揺は即座に霧散。
結果、脳震盪による酩酊の中、身体は的確な防御動作を取っている。
つまりダウン直後のマウントをうばわれた状態における、相手の一発目のパウンド――より破壊的な追加ダメージを頭部に与えるための打撃を、両腕でガードしていた。
俺は自分が常に同じ位置にいることを感じる。
慣れ親しんだ逆境。
精神に高揚と平静、より強力な勝利へのモチベーションをもたらす好条件。肉体は呼吸を保っている。深く、最適速度のリズム。消耗した脳は新鮮な酸素を、アドレナリンは絶対的不利を覆す天啓をシナプスに要求する。
口元ではいつもの笑みが牙を剥く。
同時に、二発目のパウンドの衝撃がガードを抜けて俺の頭蓋を震盪させた。
それは肉と骨、心を砕く打撃。
マウントの主はもはや柔道ボクサーではなくなっていた。
ウィン。
全身に傷を纏う、無痛の君臨者。
俺は二つの事実を理解する。
一つは、これが高度なシュミュレーションであること。記憶の残像と、思考の補正に過ぎないものだと。
もう一つは戦術的な理解だ。
ウィンが三発目のパウンドを振りかぶる。
拳ではなく肘だ。頭部への蓄積ダメージではなく、ガードする腕を破壊するための打撃。
折られたのは左前腕、尺骨。
市ヶ谷の再現。しかし、あのときとは逆に、肘によって相手の攻撃手段を削いだのは上のポジションを得た者だ。前腕の骨折は握力への障害となり、俺は『掴み』という攻撃手段を半分失う。『四天王』はその優位を滞りなく保つ術を心得ていた。
間髪入れず、ガードの隙間から逆の手がねじ込まれる。
オープンブローの親指は、右目に突き立てられた。防御せず、こちらも肘で相手の尺骨を打ち返す。だが破壊はできない。やつですら、こちらの腕を折るのに三発のパウンドが必要だった。フィジカルの差、マウントポジションの上と下の差。覆すには圧倒的に破壊力が不足している。
これが『壊し合い』のレースとするならば、こちらの最高時速が百キロであるのに対し、ウィンは三百キロオーバーのモンスターマシンだ。直線的破壊のごり押し勝負になれば、差は開く一方。加え得てこの怪物は、テクニカルにコーナーを攻める。
こちらがマウントの下からの攻めを覚えたなら、やつも即座に闘い方を修正するだろう。付け焼刃のアイディアは気休め。この獣の強さの根幹は天性の肉体、そして揺るぎない経験だ。
再度、肘打ちが俺のガードを抉る。左腕は完全に使い物にならなくなった。
同時に、右目に突っ込まれていた親指が眼窩の縁に引っ掛けられるのを感じる。狙いは視力を奪うことではなく、頭を持ち上げることだ。
理解したが、四度目の肘で反応が遅らされる。
頭蓋とコンクリの床との間にできた僅かな隙間。その上から、より硬い、もう一つの頭蓋が叩きつけられた。
ラウェイの頭突き。
コンクリとウィンの頭の間で、自分の頭蓋骨が数回バウンドする。親指に押された眼球が眼底骨を砕き、やわい脳味噌に圧力をかけ一部を押し出す。
同時に、俺の右腕はウィンの頭部を掴み、親指を目玉の中に突っ込み返していた。
レースは圧倒的な差をつけられた。だが、まだ負けていない。脳味噌の大部分はまだ無事だ。全部がぐしゃぐしゃになるまでは、手足のどれかは反撃を試みるだろう。『殺してみろ』なんて寝言は死んでも言うつもりはなかった。そんな挑発もどきの台詞は無意識で自分を被虐者と認めた人間の弱音だ。
原型を留めた残りの脳は、いつもと同じことを思っている。
ぶっ殺す。
俺がお前を、だ。
ウィン、お前に俺は壊せない。
俺はすでにぶっ壊れている。
『で? そこからの具体的な逆転のアイディアがあるのかよ』
押し出された脳味噌が耳の穴に詰まったせいか、ユキトの声が空耳した。うるせぇよ。文句があるなら、てめぇがこいつと闘ってみろ。
いや、そもそもこれは夢か。
いいかげん、俺は自問自答に飽き飽きし始めている。
それから目を覚ます。