第27話『柔道アラサー(あるいは、その女狂暴につき)(前)』
噂があった。
中学生が非合法の地下格闘で無双している。
馬鹿らしい。
だが、そんな馬鹿な噂話の真偽を確かめて馬鹿しか読まない三流月刊誌のページの隅を埋めるのが私の仕事。
「まぁ、適当でいいよ、テキトーで。帰りはなんか美味いもんでも食ってさ」
新人時代の教育担当だった、取材実態ゼロで記事をでっち上げ出張を会社持ちの観光旅行に変える天才の先輩は、ニコチンといつものセリフを吐いて私を見送った。生憎、こちらは感覚派のクズほどの創意を持ち合わせてはおらず、ゼロから一を生み出す最終奥義は伝授失敗。つまり飯の種は手前の足で稼ぐ必要がある。
噂の出所―—弊誌に寄せられた複数の読者投稿、ブログ記事やネット掲示板を頼りに、向かった先は某県の港町。珍走団と届出なしの風俗店の数では日本の三本指に入るとされる。
「お姉さん、よかったらいいお店紹介しようか?」
声をかけられたのは、二十時過ぎの視力に悪いネオン街でのことだった。
棒に当たる犬コロなんぞ生まれてこのかた見たことはないが、馬鹿の掃き溜めに女ひとりで歩いていれば、ことわざ通りの状況にはなる。人生とは不毛だが思いのほかスムーズでもあるらしい。
キャッチか女衒(げぜん)か見分けのつかない茶髪の若造を人気のない路地裏に誘い出した私は、そこで相手の襟と袖口をつかむ。
血が沸騰した理由は、強化選手に選ばれた大学時代を思い出したからだけではない。
中に出したい。全日本ベスト4の二つ上の先輩に女の一線を許したのは、彼にもらった不思議な錠剤の影響だけではなかった。子供がほしかった。そうすれば、この強く優秀そうに見えるオスは私に対して責任を負わなければならない。心理的安全性への異常な飢餓感の原因は、母が水商売で、客だった父親の名前すら知らないからだ。
あのヒステリックなアバズレとは違う。私はもっと上手くやる。
そんな焦りと反感混じりの自意識過剰がもたらしたのは、カエルの子はカエルという有体の教訓だけだった。母はクスリのオーバードーズで私が小学4のとき狂い死んだ。私の場合生まれる前の命が身代わりになり、ついでに大学を中退するだけで正気に戻れた。クズ親の再生産を防げたのは良かったが、今でも深夜に突然目が覚める。そんなときは近所の公園の木にゴムチューブを巻き付けて打ち込みをするのがいつのまにかの日課だった。
そんなわけで『憂さ晴らし』の分、私の投げの『キレ』は現役時代より冴えていた。
払腰で上下が逆転した若造は、ハエがたかった水色のゴミバケツの群れに突っ込む。頭も腰も死ぬほど軽い。私はいまだ無意識に相手を『男』として値踏みしている己に気づき、軽い吐き気を覚える。
「この街の地下格闘って知ってる?」
「……勘弁してください。勝手によそ者なんか入れたら俺が、ッうげっ、ゲホッゲホッ」
胸や鳩尾にしこたま蹴りを入れ続けると犬の『しつけ』は完了し、二日後の興行を観戦する算段がついた。
聞けば、茶髪はホストと地下格のスタッフを掛け持ちしているそうだ。
名前は安居。本名の読みは『やすい』だが、仲間うちでは源氏名の『あんご』で通っているらしい。私にビビり散らしながらも、訊いてもいない話をペラペラ教えてくれる口先の男だった。
一発目で関係者を引くなんて。こういう場合、大抵がろくでもないぬか喜びで終わるのは経験則で知っていた。
「けっ、また女かよ。このヤリチンめ」
量販店で買ったパーカーと黒マスク、数年ぶりの毛染めと濃い目のアイシャドウで変装した私を顎で差した受付男の顔には品性ゼロが張り付いていた。
「ネェちゃん、アンゴはクズ男だぜ。ここの試合観た後のが女は『濡れる』つってたからな。それが常套手段だ」
「……っつ!? ……おい、冗談きついって、ははっ……」
スニーカーではなく、履いてきたパンプスだったなら小指ぐらいは普通に折れる勢いで足を踏んだが、安居は何とか平静を保った。
実を言えば、地下格闘の取材は初めてではなかった。
以前に観たのは幼稚園児の喧嘩をそのままサイズアップして流血でデコレーションしただけの犬のクソだった。それに比べれば今回のはかなり上等だというのは、会場に着いた時点で分かった。
まず規模が違う。キャパ100人のライブハウスの中央を申し訳程度の仕切り板で囲っただけのしょぼいリングではない。少なく見積もって前の犬小屋の四倍の客が入る地下アリーナは血気盛んなジャンキーで溢れかえっていた。人の合間を縫うように、いかにもな黒服の警備スタッフが見える範囲だけ十数名。VIPシートや会員限定のライブ中継なんかもあるのかもしれない。それぐらいのデカいビジネスでもなければ、どう考えても採算の合わない金のかけ方だった。
『なっ? 取材なんてするだけ無駄だろ』
いつかの社会の寄生虫兼先輩のしたり顔が脳裏に浮かんだ。記者一年目の私が味のないガムみたいな凡戦を見ている間、あの男は会社の経費でパチンコで二万負けていやがった。
最低だった。今回も同じだ。
どう見ても、これには本職のヤクザが組織的に関わってる。弱小出版の記者がどうこうできるレベルではない。すなわちお蔵入りコースど真ん中の一直線。
「クソが。これで試合がショボかったら箱根で温泉浸って全額経費で落としてやる」
「えっ?」
「何でもない……それよりちゃんと出んの? 中学生」
「あっ、はい。今日のメインイベントなんで。人気ファイターなんすよ。八か月ぶりの復帰戦で」
「八か月って、それ、ホントにまだ中学生?」
「あー、そっか。ここ来て一年以上は経ってるから、下手したら高校行って歳かも」
「……そいつの戦績は?」
「ええと、三戦全勝で、これが四試合目です」
思わず溜息が漏れた。『地下格で無双』と言うには、いささか慎ましい戦績だ。この調子では『中学生』というのも怪しい。噂には尾ひれがつく。尾ひれをさらに誇張して金にしている身としては、せめてマシな魚を釣りたいものだが、そもそもこんな仕事をしている時点で運の味方は期待できなかった。
「あの下には降りれないの?」
私が指さしたのは、階段状のアリーナ席の中央にある平場のスペースだ。四角いリングの周囲10メートル程の座席のない空間には立ち見客が群がっていた。
「あそこはS席なんすよ」
「あんたここのスタッフでしょ。ゴネて何とかなんないの?」
「いや、勘弁してくださいよ。ここに入るのだってかなり無茶してるんすよ? それにあそこは結構危ないんで、客層が。どっちかってーと『隔離スペース』なんです」
「何それ」
「ここって元々立ち見が基本だったんですけど、去年、ええと……『乱闘騒ぎ』があって、興奮した観客が将棋倒しになってけっこう怪我人が出ちゃって。それでアリーナ席に改造したんすよ。だから、あそこは怪我しても自己責任って頭のおかしい連中専用ってわけ」
照明が落ち、リングアナウンサーが興行の開始を告げたのは、そんな話をしている途中だった。
レディース、アンドジェントルメン。お決まりの挨拶もそこそこに赤青両コーナーから選手が入場してくる。両者が裸の上半身を入れ墨まみれにした同キャラ対決、違いは1Pが顔面ピアスまみれで2Pが髭もじゃ。だみ声リングアナの選手紹介が半分も聞き取れなかったのは、興奮した『隔離スペース』の客共が喚き散らしていたからだ。
闘犬二匹がリングに上がると、天井に吊るされていたケージがキリキリというチェーンの音とともにゆっくりと下ろされる。同時に『隔離スペース』の罵声奇声の嵐は、息ぴったりなカウントダウンの大合唱へと集約された。
5、4、3、2、1… 。
重いケージの接地音。どこかのサルの絶叫。試合開始。
両者同時に仕掛け、被弾上等の大振り打撃の応酬が二、三発。
レベル低っ。所詮、地下格なんてどこも―—。
出かけた溜息を飲み込んだのは、いい一撃をもらいよろけたピアスが髭を金網に押し込んだからだ。
ガシャン。
金網全体がやや外側にたわむと同時に、固定ボルトのどこかが緩んでいるのだろう、甲高い金属音が響いた。
同時に宙を舞ったのは血のシャワー。
比喩ではない。髭の背中一面に描かれた不動明王から、水鉄砲のようなか細い血柱が十数本噴き出し、『隔離スペース』に降り注いでいた。
変態仕様。
リングを囲むケージに巻き付けられた有刺鉄線はこけおどしではない。顔をしかめながら、私はこの場所に金が集まる理由を理解した。単純に、ここでしか見れない希少価値を提供している。反吐が出る希少価値を。
背中に棘が喰い込んで動くことのできない髭を、ピアス顔が一方的にタコ殴りにする。やがて客どものコール――この頃には『隔離スペース』以外もだいぶ混じっていた―—と供に、ケージの上に接地された大型の文字盤が残り秒数のカウントを始めた。
『三十秒ルール』。
来る途中、茶髪からちらっと聞いた地下の決着基準を思い出す。狂った客たちがカウントを一つ刻むごとにピアス顔が殴り、髭の絶叫と血の噴水が地下に飛び散る。
それがゼロまで続き、決着はついた。
「ああ、くそ。三千円」
隣の安居が苦虫を噛んだ顔でうめいた。イカれた残虐ショーに対してではなく、自分のはした金の行方に対するリアクション。周りを見回したが、他の観客も同じだった。ある者はガッツポーズ、ある者は舌打ち、勝者に指笛を送る者、敗者には罵声。
眩暈がしてきた。
「……ここっていつもこんな感じなわけ?」
「ああ、大丈夫っすよ―—」
なるべく平静を装いながら声を絞り出した私に、多分、本人の自覚よりもよほど感覚の狂った茶髪の若造は事もなげにこう答える。
「―—メインはこんなしょっぱくないんで。保証します」
「今日はメイン以外はハズレ回っすねー。つーか、予想もここまで全外し」
自嘲ぎみな安居の言葉は無視した。
三試合目が終わったころには、それなりに動揺は治まっていた。三試合ともほぼ録画並みに焼き直しの展開が続いたからかもしれない。素人丸出しの殴り合いからフェンスに押し込んでの『三十秒ルール』。刺激は強いが、技術レベルは一般的な地下格並み。むしろ四方を凶器に囲まれているという特殊な環境だからこそ、ワンパターンな必勝法が横行しているのだろう。
それよりも問題は、こんな完全アウトなヤクザの夢のテーマパークに潜入取材なんぞブチかましてしまったことだった。
事前に覚悟していた『多少のリスク』は完全なる見込み違い。記者とバレれば最悪口封じの可能性もゼロではない。
「大丈夫、メインは堅いんで! 今日はそれで絶対プラスになる」
私の気も知らないで興奮気味に話す安居の両目はやたら血走っていた。その手に握られていたすでに折り目だらけの賭けの半券のうち、四試合目だけ表記方法が異なっている。
けじめ。
赤青コーナーの二択でない、マークシート式の記入欄の下にある無機質なフォントの平仮名三文字に嫌な予感を覚えつつ、それでも確認せずにはいられなかったのは、曲がりなりにも記者の端くれだったから。それにどの道、試合は観るしかないのだ。
「ああ、これね、余興っすよ。債権者とか、ヘマした下っ端とか、償い分は身体で払えって。それで何分持つか賭けるんです」
想定の範囲内では最悪の答えだった。気持ちの準備をする前に、選手入場のブザーが鳴る。
赤コーナーは本日の生贄。
屈強な男二人――手にはスタンガン付きの極太警棒が握られている―—に付き添われた、メガネをかけた肥満体の男。裏で揉めたのだろう、顔にはガーゼ。どう見ても、地下格闘のリングには似つかわしくない。
くたばれ、ブタ。
客席からの罵声と嘲笑。先ほどまでの盛り上がりとはまた一段階ギアを変えた、サディスティックな熱が会場に充満していた。
「ああ、今回は特別演出で」
安居の台詞は、ほとんど耳に入っていなかった。青コーナーから意気揚々と入場してきた今回の『処刑人』の顔を確認しようとして、必死に目を凝らしていたから。
会社の経費を私用で使うのは初めてだった。本来だったら、道端のチンピラを柔道技で言いなりにするなんて、下手をすれば自分の身に危険が及びかねない犯罪行為を犯すほど仕事熱心なわけでもない。
今回は特別だった。
「メインの中坊の対戦相手が『けじめ』も担当なんすよ。人気はまだそんなだけど、戦績は三戦全勝中の柔道家」
全身の毛が逆立ち、死んだ水子とかつて繋がっていた腹の底から、ドス黒い嘔吐感が湧き上がる。間違いなかった。
中出し無責任男。
忘れもしないニキビ跡だらけの凸凹顔の上には、かつての坊主頭の代わりに、使い古しのモップを取って付けたような金髪のパーマヘアが乗っている。
地下格に関する読者投稿の中からやつの苗字を見つけたのは偶然だった。全国に十軒もない珍しい苗字で、柔道をやっているのは親戚でも自分だけだと昔本人が教えてくれたのだ。
猿山の奇声に意気揚々と応える畜生男は、大学時代の使い古しの柔道着をまだ着け続けていた。名前や学校名の刺繍はすでに剥がされていたが、見間違うはずもない。
深夜の日課、公園の打ち込みをするとき、私は必ずやつの写真を木に貼り付ける。
必ず、投げる必要があった。
私の子供は中絶手術ではなく、やつに腹を蹴られたせいで死んだから。
恐らく二度と子供は作れないと医者に言われた。一方の相手はそれ以来、音信不通の雲隠れ。償いを支払わせると赤ん坊の墓前に誓って幾数年、気づけば私も三十手前になっている。いつまでの『次』に行けないのは、この怒りが風化するのを恐れたせいだった。
でも、もう大丈夫。
あいつは必ずぶっ殺す。それで全てを終わりにする。
「……なんで笑ってるんすか?」
隣にいた安居が、なぜか少し顔を引きつらせながらそう言った。