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第28話『柔道アラサー(あるいは、その女狂暴につき)(後)』

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「――今、なんて?」
 

 ロッカールーム、脚先から力が抜けて、私は呆然と立ち尽くす。
 自分がどうしてまだ立っていられるのか不思議だった。浮遊感。平衡感覚の消失と、それに続く強烈な酩酊。反応できないタイミングで投げを喰らった瞬間のあの感じが、いつまでも終わらない。それは死ぬ前の走馬灯だったのかもしれない。私ではなく、へその緒でつながったあの子にとっての。
 フリーズする私と目も合わさず、『この人なら』と決めて選んだはずの馬の骨は、サディスティックに追い打ちの罵声を放つ。
「……だから、堕ろすしかないだろ。大会近いんだぞ。頭わいてんのか」
 私はもっと、強かであるべきだった。
 妊娠22週。彼に全てを打ち明けるなら、その法的な中絶不可能ラインを超えた後にすべきだった。外堀を埋め、社会的に逃げられない状況を入念に作り出すべきだった。
 きっと分かってくれるはずだ。 希望的観測にすがりついたのは、ひとえに私が弱かったから。自分ひとりで最後の一線を超える覚悟が持てなかったから。
「……私たちの子供だよ」
 彼は明らかに練習中に呼び出されたことに対してイラついていた。あるいは、着信拒否して『切った女』が電車で半日かけて自分の大学まで乗り込んできたことに対して。
「お前がちゃんと避妊しないからだろ」
「……はっ?……悪いの私?」
「選考ラインギリギリの誰かと違ってこっちは忙しいんだよ、あそ」
 遊びじゃねぇんだ。
 その言葉が終わる前に、手にしたダンベルを相手の顔面に投げつけていた。死ねばよかった。この場にいる三人全員。地獄みたいな火遊びもそれで終わりになる。残念ながらそうはならなかった。
 間一髪で飛来物を避けた彼は、二つ目のダンベルに手を伸ばそうとしていた私の袖を掴む。
 全国レベルの柔道家のカップルが痴話ゲンカを起こすとどうなるか。肉体に染みついた条件反射は思考よりも早い。
 喧嘩四つ。
 嚙み合わない男女関係と同じ、互いの組手が左右逆。私は左手で相手の襟を掴む左組み、彼は逆の右組みだった。
 有利な点は二つ。一つは私たち二人はどちらも得意が左組みのひねくれ者だったこと。私は得意、彼は不得意な組手の形だ。もう一つは来ている服だった。彼の柔道着に対し、普段着の私はゆとりと伸縮性のあるニットセーター。その違いは相手の『崩し』の妨げになる。
 不利な点の一つ目は、男女の明確なフィジカル差。
 横加速。
 単純な腕力が私をロッカーに叩きつける。頭を打った。スチール製の薄い扉ではなく、その周りを囲む補強された縁部分を狙ったのだ。 
 こめかみが熱を帯びる。
 同時に私は掴まれていた右袖を切り、衝突の反作用を利用して投げの体勢に入っていた。
 得意の一本背負い。完璧なタイミング。

 私たちの競技レベルにおいて、それは予測可能な攻撃を意味した。

 こちらの動きに同調し、相手は膝を曲げ重心を落とす。不利の二つ目は彼のほうが競技者として格上だったこと。女を孕ましておいて柔道に打ち込むだけのことはあった。
 この投げは決まらない。
 コンマ数秒前の己の予測を確信した私は、次の攻撃動作に入っている。
 背負い投げは端からブラフ。私たちのレベルにおいて、一手予測された程度で防がれる攻撃は得意技とは呼ばれない。背後から私を押しつぶそうとする彼の襟をつかんだまま、脇をくぐってサイドに体を逃がし、さらに逆方向から右腕を脇に差し、両腕で肘を極める。
 うつ伏せ相手への腕緘(うでがらみ)。別名キムラ・ロック。
 数種ある私の一本背負いからの派生パターンの一つだった。開けた柔道場なら縦回転して逃げることも可能だが、ここでは先ほど相手が武器として利用したロッカーが壁となる。
 壊すことに躊躇はなかった。
 反応が遅れたのは、相手のエスケープが予想外だったから。極まりきる前に、彼は力を受け流す方向へと横回転して仰向けになった。それに合わせて極めを解除した私は、反射的に横四方固めの形を作る。
 本来のルールなら、わざわざ抑え込みを喰らいに行く自滅の動き。
 だが、あちらの不利に対し、こちらの不利はもう一つあった。
 妊娠。
 それは女性にとって、最も生物学的な弱点が増える期間を指している。
 横腹への膝蹴り。反射的に胎児を庇った私は、ベルトを掴む相手の動きに反応が遅れ、ブリッジで抑え込みをひっくり返されていた。その方向もロッカーが壁になっていたが、私たちのドメスティック・バイオレンスには、もはや柔道の寝技の攻防は必要なくなっている。
 振り下ろされた鉄槌。
 吹き出た鼻血が床と天井の間を舞い、一瞬だけ蛍光灯の光に透けて、彼の柔道着の白にまばらなシミを作る。
 立ち上がった彼は、横になった私の腹にもう一発蹴りをくれた。
 何か喚いていたが聞き取れなかった。
 覚えているのは、こちらを見下す怒り狂ったクズ男の顔から、一気に血の気が引いたこと。それから彼はロッカールームを出ていって、私だけが取り残された。
 下半身が濡れている。朦朧とした頭で辛うじてそれが分かった。
 ジーンズの尻の部分を触ると、べっとりとした血が手についた。大量出血。それにしては、痛みはあまり感じなかった。

 それが誰の血なのかはすぐに分かった。
  


 
 
 

「……なんか、顔、怖いっすよ……俺、うるさかったですかね? だったら、すいませんけど」
 幽霊でも見たような、安居の顔がそう言った。
 血の気の失せた間抜け面がいつかの彼にフラッシュバックし、思わず出た舌打ちは地下に溢れた罵声の山に混ざって消える。騒音にかき消されながら、安居は何に対してかも分からない弁明を続けるが、私は約二十メートル先で呑気にスポットライトに照らされる復讐相手を睨むので忙しかった。
 目を凝らすと、ずいぶん薄汚れた柔道着の襟に、まばらな斑点が残っているのが分かった。
 古い血の跡。
 海底に沈めておいた記憶が鮮明に蘇る。確かにそれは、私が顔面を殴られたときの返り血だった。お菓子の家に続くパンくずを十年越しに見つけたような驚き。同時に鼻の奥、次いで女としての役割を失った腹の付け根がわずかに疼く。冷たい熱さが己の中で燃えていた。『地下』の流血プレイなどただの遊びに思えるほどの。
 間もなく、チェーンが軋みを上げて、有刺鉄線の籠がリングの上に降りる。
 それに合わせる馬鹿どもの毎度のカウント。見ると、檻の中の哀れなネズミ―—生贄役の太った中年男の手には金属バットが握られていた。格差マッチの差を埋めるには明らかに小さすぎるハンデ。だがヒントにはなる。私にも武器が必要だ。
 直後、かき消される開始のブザー、途切れる思考。
 縦に振り下ろす大振りの一撃。
 先に動いたのは中年男のほうだった。当然、それは猫を噛む一撃にはなりえない。よりにもよって一番回避しやすく隙も大きい縦方向の振り下ろし。ド素人の動きは勝率ゼロを確信させるには十二分。
 金属バットの打撃音は騒音にかき消され、私のいる観客席まで届かなかった。 
 その代わりは耳障りな甲高い悲鳴。
 柔道家の一撃目は、振り下ろしをサイドに回避してからの側頭部へのビンタだった。DV元彼の手柔らかさに少しの違和感を覚えるが、攻撃の本質はすぐに分かった。肥満ネズミの耳穴から血が噴き出している。
 イヤーカップ。
 椀の形を作った掌で耳を叩き、空気を送り込んで鼓膜を破る技。
 間髪入れず、苦痛で身体を丸めた相手の膝を狙い、足払いと判別のつかない強烈な関節蹴りがヒット。悲鳴のブタはバランスを崩し、顔面からステージに突っ込むように倒れる。
 三半規管と片足、身体を支える二つの機能へのダメージ。相手が柔道家だとしても、彼の投げに耐えることは不可能になった。全国レベルのスポーツマンが随分と『ルールなし』にチューニングしたらしい。あれから十年近く経っているのだ。
 だが、変わらないこともある。
 倒れ込んだ相手の胴体を目掛け、彼は大きく脚を振りかぶった。強烈なサッカーボールキック。猿たちの歓声。同時に私の腹の中でも血がのたうつ。
 クズ野郎。
「あっ、ちょっと! お姉さん!?」
 安居の呼びかけには応えず、私は座席を立っていた。
 人生最高にキレちゃいるが、頭ややけに冴えている。簡単だ。『隔離スペース』に紛れ込み、試合終了直後、ケージが上がったところでバットを拾って頭をカチ割る。どうせ、勝ち誇ったクズはいい気になって隙だらけだろうから。
 檻の中では、奪ったバットで生贄役を滅多打ちにする彼の姿。
 逆の立場が数秒後の未来だった。頭上の電光掲示板はカウントダウンを開始している。本日何度目かの残り秒数の大合掌。『30秒ルール』。私は皆に合わせてクズ男の余生をカウントし始めていた。沸騰した殺意が、水子を亡くして空っぽになった腹の底に焦げ付く。
 だが、凶行は不発に終わった。
「―—お客サン」
 アリーナ席と『隔離スペース』の間の胸の高さの柵に手をかけた瞬間、背後から肩をつかまれた。相手は警備員の黒服。頬のこけた切れ目のセンターパートは、訝し気な表情を顔に浮かべている。
「そっちは別料金―—チケットの半券は?」
 騒音の中、辛うじて黒服の台詞が判別できる。
 言葉に詰まった私の背後で、残りカウントはあっけなくゼロになった。猿。奇声と怒号。キリキリと巻き上げられるチェーンの音。振り返ると、ステージ上のクソったれが『隔離スペース』に血のついたバットを放り投げるのが見えた。
「おい、聞こえてない? 半券あんの?」
 やや苛立ち混じりの黒服の声で、私はやっと我に返る。何をやってるんだ私は。
「えっと……ごめんなさい、試合がすごくて、興奮して……別料金?なのね、この先って。初めてだったから、分からなくて」
 しどろもどろの演技をすると、黒服は鼻で笑った。こちらの狙い通りだが、何か残念なものを見るような目が引っかかる。
「てめぇの席で行儀よく。次はないよ、おばさん」
 親指でアリーナ席を差して言うと、黒服は元の持ち場に戻っていった。私は相手の襟を掴みたい衝動に必死で耐える。
 恥。
 私はお姉さんだ、クソガキが。この若い子風な変装だってちゃんと着こなして、まだ全然いけてるはずだ。ちゃんと鏡でチェックしたし。
 気恥ずかしさを誤魔化し―—いや、気を取り直して再びリングの方を見る。

 爆雷が起きたのは、そのときだった。

 メインイベント。
 アリーナ席の観客までが総立ちになる。その中心、スポットライトに照らされた赤コーナーの入場口に立つのは、筋肉質だが、まだ十代と分かる体格の少年。
 例の中学生ファイター。
 ああ、そういえば、あいつが当初の取材目的だっけ。
 黒髪の短髪に鋭い眼光。上裸にハーフパンツ。一番特徴的なのは幼さを残す顔だちの上を縦横無尽に走る筋のような傷跡だった。十代の代謝で傷跡として残るなら、相当な重傷だったはず。そんな傷を負ってなお、同じ死線に帰ってくるなんて。実力はまだ不明だが『ホンモノ』であるのは間違いなさそうだ。
 少年は目を閉じ、大きく深呼吸する。
 それから目を開くと、天井に吊るされた『ケージ』を見ながらニヤリと笑う。
 小鬼。そんな第一印象が私の中で確定した瞬間、少年は矢のように駆け出し、リングの上に飛び乗った。

 再び爆雷。 

 ボリュームの振り切れた熱量。華があるなんて表現はここの血生臭さには合わないが、人気ファイターというのは間違いないらしい。
 これはチャンスかもしれない。私は周囲を見渡し、先ほどの黒服の位置を確認する。こちらは見ていない。やつの視線もリング上に向けられていた。
 職務怠慢ボケ野郎。
 口元で毒づくと同時に、私は一気にフェンスを乗り越えた。
 次の瞬間、蒸し暑さと汗と血の発酵した臭いが身体を飲み込む。確かにこれは『隔離』するべきだと感じた。まるで巨大な胃袋の中で溶かされているような感覚。怒号の音源の中にいるせいで聴覚も麻痺状態。試合開始のカウントダウンが聞き取れなかったのは、イカれた客どもが数すら数えられなくなったのか、単に私の耳がイカれたせいか。
 もみくちゃになりながら、リング上の中学生を見る。
 顔面に走る傷の理由はそこで理解した。
 少年の顔は先ほどとは違う、牙を剥くような、顔全体で噛み付くような笑みに変わっている。
 それにともなって顔の傷跡に赤みを帯びていた。あの笑みを浮かべる度に、閉じかけた傷が開くのだ。だから消えない跡として残る。
 それから私は対峙するクズ男に視線を移す。
 薄ら笑い。だが、目はキマっている。加虐性を自信と余裕でラッピングした表情は、ベッドの中で見慣れたあの頃のまま。
『いい女だよ、お前。激しくやっても壊れねぇ』
 冗談と思って笑って流したいつかのピロートークが脳内で反芻、萎えた炎が再点火。私を犯した『加減を知らず』の肉布団の記憶が、『隔離スペース』の不快な圧迫感に同期した。
 チャンスはもう一度ある。
 武器はないが、本来の想定に戻っただけだ。次に『ケージ』が開いたとき、日課の打ち込みの成果を披露する。道に迷った柔道女の重い重い―—ダラ糞重い十年間をこめた渾身の投げを。
 耳奥では血管が二、三本破裂する音。
 試合はそれと同時に始まった。

 先に動いたのは中学生。

 弾丸級のステップイン。
 速い。
 だが、柔道家も反応している。体重を乗せた前手の突きを、腕で捌くと同時にバックステップ。おかげで奥手の二撃目、肩ごと振り回すようなロングフックをギリギリでかわす。
 ただし小鬼のコンビネーションは終わっていない。
 外れたフックの勢いを乗せ、さらに一歩踏み込みつつコンパクトに横回転。
 スピニング・バックブロー
 外れると同時に『隔離スペース』が一個の生物のようにうねるのを肉と骨が感じ取る。クズ男が中学生の拳の軌道の下をくぐり抜け、顔面にカウンターの掌底を打ち込んでいたから。
 同時に、反対の腕で相手の片脚を抱え込む。

 朽木倒し、顔面打撃のトッピング付き。

 脚を狙う技は競技柔道では不遇だが、ルールなしの『地下』は実用性重視。加えて顔面への当身を織り交ぜることで下半身への反応が遅れ、防御不能な投げ技が完成する。

 問題は中学生がバックブローとは逆の手で、目障りなパーマヘアを掴んでいたこと。

 完璧な受け身と同時に、マズそうな金髪のカルボナーラがミートソースで染まる。
 彼の絶叫。それを上書きする猿共の嘲笑と興奮した息遣い。 
 その中にいる私は、『地下』の人気ファイターのレベルの高さに目を見張っていた。
 柔道家のカウンターの当身投げにタイミングを合わせて髪を掴み、その上受け身まで取る。攻撃を予測できていなければそんな芸当は不可能だ。回転バックブローまでのコンビネーションは相手を誘い込むための餌。いや、たとえ計算通りだとしても、顔面への掌底はモロに喰らったはず。その上で、一切怯むことなく、失敗すればさらなるダメージを負うリスキーなプランを実行した。
 十代のレベルではない。そこらのプロ格闘家が霞むレベルのファイトIQと強メンタル。

 だが、全身に鳥肌が立った理由は別にある。

 頭を押さえうずくまる無様な柔道着、そのリングの対角でゆっくりと立ち上がった小鬼は、手に掴んでいた髪の束を脇に捨てる。
 私の位置からでもよく見えた。頭皮ごと剥ぎ取った、カラフルな肉片。そこから滲み出た赤がゆっくりと床に広がっていく。今までは灰色のリングマットだと思っていたものに。だが、違った。
 血を吸い取って変色する、ざらついた質感。
 ここのリングは打ちっぱなしのコンクリート塊。人の頭など容易く砕く硬さ。
 狂っている。
 リングを用意したヤクザも、そこに上がる命知らずも、よりにもよって柔道家相手にわざと投げを喰らう作戦を実行したガキも。
 そして誰より、『武器を見つけた』なんて思ってしまった私自身が。
 投げを喰らった浮遊感。強烈な酩酊。私は『地下』に飲まれている。抗うべきか、身を任せるべきか。どちらだ。復讐に必要なのは。
 答えが出る前に『ケージ』の中の状況が動いた。
 クズ男が立ち上がる。逆上した顔はあのときと同じ。違うのは社会的制約を無視して相手を殺せる状況だということ。アドレナリンが分泌され、ハゲ確定の頭皮ダメージは一時的に無効化される。
 小鬼よりよほど鈍い、直線的なステップイン。
 それに対し、中学生はサイドに回り込むフットワーク。だが、反応がやや遅れた。先ほどの受け身は完璧。だが、どんな武術もコンクリの床を想定したものではない。ダメージは免れなかった。
 平静を失ったはずの実戦柔道家は、その僅かな隙を見逃さない。
 出足を刈り取る、足払いのようなローキック。バランスを崩した中学生の顔面に、クズの右前手が伸びていた。
 上下の打ち分け、フィンガージャブ。狙いは眼球。
 間一髪、首を傾けた小鬼の額が指先を受けるが、コンビネーションは続いていた。視界を防ぐのは一瞬だけで良かったのだ。
 本命のイヤーカップは、掌で覆われた死角から放たれた。
 側頭部に命中したそれは、わずかにポイントをズラされ、ただの平手打ちと化す。
 分析と対策。見えない角度の攻撃を防御できた理由は、当身付きの朽木倒しを防いだときと同じだろう。柔道家が見せた流暢な連撃は、恐らくパターン化された攻撃の一つ。有効性は高いが、投げ技とコンクリの相性が良すぎるからこそスタンド打撃のバリエーションには期待できず、その分対策は容易。
 柔道家の武器はあくまで投げ技。
 つまりその瞬間、私はクズ男の実戦柔道を理解した。
 柔道の技は相手の道着着用が前提。コンクリの床でお釣りが来るとはいえ、技術の大半は制限される。だが、人体には一か所だけ、道着の襟と似た要領で掴める部位がある。
 
 耳たぶ。
 
 不発のイヤーカップは、瞬時にそれを捉えていた。
 むしろこれが本来の狙い、組みへの繋ぎを想定した打撃技術。少年はノータイムで耳を引きちぎろうとするが(私にはそうとしか思えない動作に見えた)組みが混ざったことにより、実戦柔道の当身はより鮮やかな冴えを見せる。
 奥襟を掴む容量で引く、柔道家の崩し。
 直後に放たれた逆サイドからの二発目のイヤーカップ。中学生は引き手を取られるのを恐れ腕を引いていたため、ガードが下がり打撃がモロに入るスペースが生まれていた。耳穴に正確に打ち込まれる空気圧は、獲物の三半規管を機能不全に陥らせる。

 と、同時に。

 二手。
 圧倒的不利の対柔道、少年もやはり無策ではない。
 一つは、相手の腕の外から喧嘩四つの相打ちで入ったイヤーカップ。
 同じ技。選んだ理由は姿勢を崩された状態でも、体重を乗せない手打ちで十分なダメージを期待できるから。
 同時にもう一つ、口から放たれた血の礫が、クズ男の両目を塞いでいた。恐らく立ち上がった時点で、口の中に血を溜めていたのだ。
 バランス感覚と視覚。二つを失った彼は、即座に投げの体勢に移行する。耳たぶを釣り手、イヤーカップを決めた手首を引き手が掴む。
 背負投―—いや、投げと同時に体を落とし膝を着く、背負落。
 相打ちだろうと、相手への三半規管への攻撃が通った時点で必殺のお膳立ては完了済み。何よりも柔道家の本能がそうさせた。何万回もの反復動作が染みついた、必勝の動き。

 それは同時に、この『地下』に棲む強者たちのレベルにおいても、予測可能な攻撃を意味した。

 ダメージで反応が遅れたのではない。少年が相手の接近を許したのは、そこがベストポジションだったから。ここのリングはコンクリ製、それは間違いなく柔道家の圧倒的なアドバンテージになる。だが、ここは単なる『リング』とは呼ばれていない。
 四方を鋭い有刺鉄線の檻で囲まれた『ケージ』。
 壁際にポジショニングした中学生は、そこから生える無数の棘を、必殺を防ぐためのフックとして利用した。
 投げられる瞬間、少年はあえて床を蹴りさらに加速、通常の投げよりもやや外側に逸れるよう両脚を伸ばし、踵を有刺鉄線に深く突き刺す。同時に相手の頭を抱え込み、しがみつくようにして勢いを相殺。
 結果、背追落は緊急停止。
 相手の両足が床を離れた、柔道においては絶対にあり得ないタイミングだった。
 イヤーカップはあえて引き手を取らせ、投げを誘発させるための餌だったのだ。同時に平衡感覚にダメージを与えることで、相手に膝を着く背追落を誘発させ、別の投げへの変化という選択肢も塞いでいた。
 再び、クズ男の絶叫。
 空中を舞ったのは人の耳たぶ。
 柔道耳かは判別できなかったが、どちらがどちらを引き千切ったのかは言うまでもない。
 肉片が着地したときには、壁を蹴って棘から脚先を引き抜いた中学生が、自分の耳を掴み続けていた彼の腕をとり、腕菱木十字固めを極めている。
 マッチ棒のようにへし折れて、三度目の絶叫はもう一段階音量のイカれた会場の熱狂にかき消された。
 両者の距離が離れる。腕を押さえのたうち回る柔道家に対し、突き放されて床に大の字になった小鬼は、やはりゆっくりと立ち上がった。
 片耳から血を流しながら欠伸――それから牙を剥くような笑みを浮かべる。
 私の中で爆雷が鳴ったのは、その表情を見たときだった。
 平衡感覚が回復し、両脚が床の感触を確かめる。重力と平衡感覚。もみくちゃになった立ち見客の中でも、自分と他人のくっきりとした境目が分かった。暑いし、臭いし、喧しい。だが、不思議と不快感は感じなかった。それは私がこの不愉快な『地下』に適応したからではない。それどころではない、もっと強烈な感覚が、身体の中を駆けたから。
 私はずっと浮遊していた。あの子を亡くしたあのときから、長い長い投げを喰らったままで、気づけば三十手前になった。その落とし前をつければ、終わりにできると思っていた。ついにその日が来たと思った。
 でも、違った。
 私は落ちた。違う意味で。
 目の前では、悠々と歩く少年が四つん這いに逃げる彼に追いついている。
 振りかぶる脚、サッカーボールキック。狙うは女の腹ではなく、無責任男のクソったれ股間。
 今度の叫び声は、再び聞き取ることができた。会場の熱狂と生贄の絶叫でボリューム比べをしているのか。クズ男は胎児のようなポーズで床に倒れ、片手で押さえた柔道着の股が赤く濡れる。ざまぁ見ろ。でも、それは本来私がやるべきことだった。もう、どうでもよくなっていたが。
 クソったれのクソったれが潰れたとき、私も腹を蹴られた気がした。
 外側からではなく、内側から。多分、死んだあの子の亡霊だ。生まれたがっている。
 馬鹿が。

 相手は中学生だぞ。何を血迷ってるんだ、私は。

 だが、身体に嘘はつけなかった。腹の底に渦巻いていた炎は、今や胸まで這い上がり、私の心臓を鷲掴みにして、血液に乗せて忘れかけていたいつかの充実感を全身に送る。
 それは、あまりに原始的で、私の人生を狂わせた愚かな感情。十年も執着しながら、殺意で塗りつぶして誤魔化すしかなかった、同時にたった今あっさり上書き保存されたばかりの、昔の男に抱いていた未練と同種のもの。
 
 恋。

 ざけんな。私をコケにしてんのか。
 こんな場所に来て、こんな年齢になって、こんな相手に今さら何を。
 全部終わりにするつもりだったのに、一体何が始まってんだよ。そんなのは絶対に実らないし、実っていいものですらない。
 私をこれ以上惨めな女にするつもりか。

 行き遅れの乱れた心中などおかまいなしに、檻の中では始まったばかりの新しい恋が過去の男を馬乗りで殴り始める。

 飛び散る血しぶきがスポットライトの光に一瞬透けて、殺意のコンクリ上にまばらな染みを作った。目をこらすと床には薄茶けた古い血の跡がいくつも残っていたが、今回のそれもやがて混ざってすぐに判別不能になるのだろう。本日ラストの三十秒コールが始まるが、そのリズムは高鳴る心臓よりもだいぶ遅いペースだった。
 首筋におぞ気と異物感を覚えたのはそのときだ。
「―—なぁ、姉ちゃん、さっきからずっと気になってたんだよ」
 耳元で、酒とタバコの混じった酷い口臭。『隔離スペース』。あそこはけっこう危ないんで、客層が。安居の言った言葉を思い出す。同時に胸のあたりをまさぐる乱暴な腕と、ジーンズの尻に押し当てられた不愉快な突起物に気づく。
「メスくせぇ、いい匂いさせてよぉ、もう試合どころじゃねぇんだよ。なぁ、俺たちもここでおっ始めちまおうぜ。好きなんだろ?じゃなきゃこんなところに―—」
 間抜けの台詞はそこで止まった。
 私は相手のスウェットの襟を両手で掴み、交差させるように引いている。背後にいる相手にかける、変形十字締。
 胸を掴んだ手に力が入ったが、大した痛みもなかったのでそのままにしておいた。
 目を離す余裕がなかったから。
 どこかのクズの柔道家を喜々としてボコボコにする、ツギハギ顔の彼の姿から。
 最高潮に達する『地下』の熱狂を纏う少年、その額から飛んだ、汗か血かも分からない飛沫がやけにキラキラ光って見えた。
 熱視線。
 己に向けられるその中に、ひとつだけまったく意味の異なるものが混ざっていることに彼はまだ気づいていない。気づいて欲しいのかすら、私自身にも分からない。
 クソったれ。

 5、4、3、2、1… 。

 猿どもの大合掌。
 彼の勝利が確定するのと、痴漢男の手から力が抜けるのは、まったく同じタイミングだった。
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