第3話『無差別衝動』
メモの住所の場所に行くと、あったのはジムだった。
中を覗くと何人か人がいて、リングがあって、グローブをはめてスパーリングをしているやつらもいた。格闘技のジムだ。あのボクサーはここでボクシングを覚えたのかとも思ったが、リングの上にいる二人は蹴りや組み技の練習もしていた。
看板に書いてあるMMAというのが何を意味しているのかは分からなかったが、俺はスパーリングしているリングの上に乗り込んで、まず片方の鳩尾に入れて悶絶させて、もう一方をやる気にさせた。今まであいつに散々やられていたので、格闘技をやってるやつに自分の空手が通用したのは少し気分が良かった。
二人目はチビだったがムキムキで、筋肉に手足が生えて歩いているように見えた。そいつは冷徹なマシーンで、ジムの仲間がブッ倒された瞬間、俺が少しいい気になっている瞬間を狙って一気にに懐に飛び込んできた。
踏み込みと同時に、腕をブン回すようなパンチが伸びてくる。咄嗟に顔面を守ったので右腕が痺れただけで済んだが、それは次の攻撃への布石だった。顔の防御に意識が行って、俺はそのチビが腰の辺りに飛びついてくるのを無抵抗に許した。後で知ったことだが、MMAというのはミックスド・マーシャル・アーツ、日本語で言うと総合格闘技の略で、そいつがやったのはそれのものすごく基本的な戦法だった。基本戦法というのは、ものすごく効果的だからこそ基本なのであって、そのままマットの上に倒された俺は馬乗りになられた状態で殴られ続けた。全力だったかは分からないが、容赦のあるパンチではなかった。反撃したが、のしかかられた状態では突きに威力を乗せることができない。目玉をついたり、髪の毛をつかめるような隙のなかったし、そうこうしているうちにどうしようもないくらいにボコボコにされて、今まで俺が殴ってきたやつはこんな気分だったのかと思い、自分がそんな目に遭わされていることに酷く怒りを覚えた。相手はグローブをつけていたが、一発一発が鉛のように重い拳だった。結局、俺は最後まで折れなかったので、裸締めで落とされた。
「なんなんや、お前は」
そのチビは関西弁だった。一度目が覚めて、また暴れて、同じやつになんだかよく分からない関節技で右肩を外されても俺が諦めなかったので、もう一度裸締めを喰らった。次に目覚めたときには、俺は何かのトレーニングマシンに縛り付けられていた。縄から脱出しようともがいていると、警察が来た。俺は観念なんてしなかった。警察につかまれば、家に帰ることになってしまう。
警官は三人いて、縄が解かれた瞬間に一番近い一人目の顎に掌底を入れた。右肩の関節は外れたままだったし、自分で関節を入れ直したこともなかったから、その状態で三人以上を倒す必要があった。二人目は警棒を取り出して、顔を狙ってきた。右サイドから来たので、ガードはできなかった。耐えるしかない。殴られた瞬間、俺はその警官の股間に前蹴りをいれていた。警官は残り一人。
直接中には入らなかったが、警棒は瞼の上から俺の右目を叩いていて、視界の右半分でチカチカと星が光っていた。足元も少しふらついていたが、まだやれると思った。最後の警官を見ると、距離をとり拳を構えてファイテング・ポーズをとっている。警棒は使わないらしい。脚では絶えずステップを踏み、リズムをとっている。
ボクシングかと思ったが、若干の前後移動があるそのステップにはどこか見覚えがあった。それに間合いがずいぶん遠い。結論から言うと、それは空手だった。俺のとは流派の違う空手だ。俺のは沖縄のなんとかだったが、そいつの使うのはごちゃごちゃと色々な流派がある伝統派という括りの空手だった。絶えずステップを刻むのは、動き続けて相手との距離を保つのと、攻撃の起こりを分かりにくくさせるためだった。伝統派がそういう風になったのは相手に拳を当てないポイント制の試合形式のおかげで、安全な位置から確実に打撃をヒットさせなければいけないルールはかえって実戦的なのだそうだ。ただし、その警官に関しては試合ではなく本番だけで技を磨いた人間だった。
踏み込みが見えたと思った瞬間、俺の顔面はぶっ飛んでいた。
全身のバネと踏み込みの勢いを利用した、全体重を乗せた一撃だ。首の骨が折れたかと思った。普通ならこれを喰らえば終わりだ。
俺は普通じゃなかったので、外れていない左腕で相手の制服の袖をつかんでいた。親父に一生分痛めつけられていたおかげで、俺はもう痛みではひるむことはなくなっていた。ダメージからのリカバリーが早いのだ。何も感じないというわけではないから、やられた分を倍にして返すことは気持ちの上では重要だった。
俺は警官の右脇に目がけて中段蹴りを叩き込む。
内臓が破裂するか肋骨が折れて肺に刺さるか、どちらでもいい。殺せはしないが致命的になるはずだった。
しかし、その攻撃は失敗していた。やつは俺のほうにさらに一歩踏み込んで、蹴った脚のももの当たりを胴で受けていたのだ。スピードの乗った脚先ではなく、付け根に近いところで動きを止められたので威力は出ない。
完全に密着した間合いでは攻撃手段は限られていた。俺には短いアッパーやフックを打つ技術はない。とっさに思いついたのは頭突きだった。悪くはなかったが、相手のほうが一歩早かった。
ひじ打ちが俺の顎を掠めた。
足元が傾き、目の前に地面が迫る。脳震盪の症状だった。もし頭突きの勢いをつけるために首を後ろにそらしていなれけば、顎骨を砕かれていただろう。試合でひじ打ちを使うをことを認めている空手の流派なんて日本には存在しない。生え抜きの喧嘩の空手だった。俺の空手だってそのはずだったが、まったく及ばなかった。ジムの格闘家にも負けて、結果は一日で三度の失神KOだ。
ゆっくりと傾く景色を見ながら、俺はこのジムのメモを渡したボクサーの顔を思い出した。俺はずっと負け続けだったが、あいつは特別だとか、俺より強いのはあいつだけだとか、とにかく自分の中でその存在を大きくして、なんとか正当化していた。だが、違っていたのだ。
俺より強いやつなんて、いくらでもいる。俺は弱かった。まだまだだ。
もちろん、死んでもそんなことを認めるわけにはいかなかった。殺さなきゃいけない相手が少なくとも新たに三人は増えた。絶対に殺す必要がある。さもなきゃ、頭が狂って死ぬしかない。俺は体の中で血液が沸騰するのを感じた。
同時に俺は、なんだかワクワクもしていた。
目が覚めたのは、頭からバケツ一杯の冷や水をぶっかけられたからだ。
天井から裸電球がぶら下がっていて、薄暗い倉庫のような場所だった。俺は椅子に縛り付けられていて、回りには何人かの男が立っていた。ガラの悪い連中だ。その中には俺をのした警官もいたが、制服は着ていない。俺は直観的に状況を理解していた。ただの警官が暴漢を取り押さえるのに、あんな半殺しにして当然の技を使うはずがない。異常な警官か、あるいは警官の恰好をしただけの異常者かのどちらかだ。そいつは後者だった。
「兄ちゃん、どっかの鉄砲玉じゃねぇよな? うちに用でもあんのか?」
男の一人が俺に質問した。そいつがこの場では一番偉そうだった。いかつくて、金髪で、腕には入れ墨が入っている。一目で何の仕事をやっているのか分かる外見だった。
「そこのそいつをぶん殴りたいだけだ」
顎で警官のほうを差すと、無言で睨まれた。とりまきの一人が舌打ちをして俺に詰め寄ろうとするが、金髪がそれを制止した。
「お前、うちに喧嘩売ってんのか? それともうちで喧嘩してぇのか?」
俺は笑いそうだった。こんなのは出来すぎだ。自分にメモを渡したボクサーの顔が自然と浮かんだ。あいつの思い通りになっているようで尺だったから、感謝はしない。
「喧嘩できるんなら、何でもいい」
金髪はその答えを鼻で笑うと、俺の顔面を一発殴りつけた。それから子分たちに命令して俺を立たせ、倉庫から連れ出そうとした。警官の横をすれ違うときに顔につばを吐きつけてやると、鋭いローキックを膝関節に食らいよろけたところで顔面に膝が飛んできた。すぐにま周りに止められて、鼻血が止まらなくなったが俺はもう笑うのを堪えきれなかった。
頭に黒い布袋を被せられ視界を奪われた後、俺は車に乗せられどこかへ連れて行かれた。きっと真っ黒なベンツだろうか。俺はフロントについているであろうエンブレムをへし折り、窓ガラスに投げつける想像をして暇をつぶした。一時間ほどで車は目的地に到着し、降りてからも十分ほど布袋をつけたまま歩かされ、階段を下りたりエレベーターに乗せられたりした。最後の扉が開いたとき、歓声が俺を迎えた。熱気と狂気を孕んだ歓声だ。
布袋が頭から外される。
空気が蒸し暑いのは、密閉された場所にたくさんの人間がごった返しているからだった。ホールかドームのような場所で、狭くはないがとにかく人が多すぎる。天井から吊り下げられた数台の照明機は、その空間の中央を照らしていた。
そこにはあるのは、四角形のケージだ。
その中では二人の男が血を流しながら、殴り合い、蹴り合い、片方が片方の片目を潰し、片方が片方の指を折り、片方が片方を指を折られたほうの拳で殴って、それで勝敗は決した。俺がいたのはケージからだいぶ離れた場所だったが、血の匂いが漂っていた。
それから俺はヤクザたちに引っ張られ、控室に連れて行かれた。
その夜が俺のデビュー戦だった。