18:Beautiful World-03
セスはハッキングの準備にキーボードを叩き続けている。静かな雛の部屋に、その音はリズミカルに響いている。
沢口も、ルミナも口を開かない。セスの邪魔をしないよう、セスの背後で彼の動向を見守っていた。
同じくただその背を見ていた雛は、ポツリと友人の名を呼ぶ。
「…セス君」
「……ん?」
「無理を言って、ごめんなさい」
雛はそう言って、振り返らなかったセスの背中に向かって頭を下げた。
セスは振り返らないまま、静かに雛に言葉を返す。
「気持ちはわからないでもないさ。自分のドールが悪用されるなんて…考えたくもない」
「…うん……ありがとう」
セス君カッコイイ!とそこで沢口が後ろから茶々を入れたのを、セスは振り向かないまま肘を入れた。
セスの肘は綺麗に沢口の鳩尾に決まり、沢口は蹲って悶える。細っこい外見の割に、意外とセスは強かった。
打たれた沢口はといえば、グッド、肘…などと呻いている。
沢口の軽口は、雛の不安を少しでも軽くしようという気持ちがあったのかもしれない。
…そもそもの彼の性格である可能性も捨てきれないが…。
ただ、このやり取りで雛の不安が少し軽くなったのは事実だった。
雛は強張っていた表情を少しだけ緩め、深呼吸を二度行った。理由はどうあれ、これから行うことを楽観してみていることなどできないが、彼女が緊張していようとリラックスしていようとセスには関係がない。
そうであるならば、雛は少しでも自分の気持ちを楽にしておきたかった。
セスは特に背後の緊張感など気にせず、打鍵しながらシャティに声をかける。
「…シャティ、パスは作成できそうか?」
シャティは雛のユーザ情報の暗号化パターンを紐解き、スーパユーザのパスコードを解析していた。
モニタの向かって左側に開かれた小さいウィンドウの中、シャティは赤い双眸を細め、頷いた。
『ええ。あと3分ほどで解析できると思うわ』
「そうか。続けてくれ」
『了解』
「キュア、どうだセキュリティホールは見つかったか?」
キュアは、サーバのセキュリティホールを探しているが、なかなか見つからないようだ。
モニタの右側の小さなウィンドウの中で首を横に振っている。
堅固な守りにかためられた円条グループのサーバは、縦横無尽に入出の管理の網を張り巡らせているようだった。
「さすがに一筋縄ではいかないか…キュア、セキュリティホールの検索はもういい。ログの取り方の解析を」
『了解ですワ』
セスに向かってにっこりと微笑んだキュアは、今まで開いていた紫色のコンソールを閉じて、新しい赤のコンソールを開いて違う解析を始めた。
「ログの取り方解析してどうする気なんだよ」
「…行動履歴というのは、完全に削除するのは難しいし面倒だ。だが、実際の行動と違う行動を履歴に残しておくことは容易かったりする」
それも場合に拠るがな、セスは仮想クライアントを構築しながら沢口の疑問に応えている。
「じゃあ歌花のデータを取り戻すって作業を、何か別の作業をしたってログに残すわけか」
「ご名答。似たようなログの残し方をする作業に置き換えるのがベターだな。だからログの取り方を解析する」
「…大丈夫…かなあ」
ルミナが心配そうな表情で、沢口と雛とを見比べる。
ルミナもセスの腕を十分知っているのだが、彼女はハッキングという危険な行為そのもので仲間に降りかかるかもしれない災厄を心配している。
それを感じ取ったセスは一度手を止めて、三人にようやく振り返る。
「歌花のデータを奪ったことが露見したとしても、そもそものデータの泥棒は向こうだ。表沙汰にはできないと思うがな」
言い終えると再び背を向けて、仮想クライアント構築のコードの続きを書きだす。
PCに向かうセスと、心配そうな表情のルミナを視界に入れた雛は、しばらく逡巡した後、部屋の出口へと踵を返した。
「おい、ピィどこ行くんだよ!」
「…セス君が歌花のデータを取り戻して…それで全てが丸く収まるわけじゃない。私は私にできることをしてみる」
雛の決意は、データを持ち出した本人の糾弾へと向いているようだった。
「ピナちゃん待って!私もついてく!」
一人自室を去ろうとする雛を、ルミナが追おうとするのを、セスが止めた。
「…コウ、お前がついていけ。ルミナ君には俺のサポートをしてもらいたい」
「え?…でも」
「…女性二人で行くよりは男の沢口がいるほうが力負けはしないだろう」
「別にいいけどよ…喧嘩しにいくわけじゃないだろ」
恰好の問題だ、セスはキーボードを叩き続けながら淡々と言う。
「見かけっていうのは存外に大事なんだよ。根拠なく大人は子どもを侮るし、子どもは大人を畏れる…一般的にはな。男女も同じこと」
ルミナ君よりお前のほうがどう見ても強そうだ。セスの言葉に、沢口は大きく頷いた。
「…よっし分かった。なるべくこっわい顔で後ろついていってやるよ。行こうぜピィ」
努めて作った沢口の厳しい顔を見た雛は少しだけ口許に笑みを浮かべ、頷いた。
「すぐ戻るから」と静かに言った雛は、沢口を連れて部屋を出て行く。
不安そうな表情で二人の後姿を見ていたルミナは、扉が閉まると同時にセスとモニタに視線を戻した。
シャティのウィンドウと、キュアのウィンドウには、それぞれ文字列が目にも止まらぬ速さで流れていっている。
目を閉じている二人の女性型ドールの表情は、眉や鼻筋等の基本パーツが似ていた。
ふとそのことに気がついたルミナは、何の気なしにセスにそのことを訊いてみることにした。
「…ねえ、セス君」
「…ん?」
「シャティとキュアのモデルって、同じ人?」
「………」
セスは答えに一瞬詰まり、キーをいくつか叩いた後に、「いや、違う」と答えた。
聞かれたくないことだったのかもしれない、そう思ったルミナは謝罪する。
「ごめんね」
「……いや…構わない。別に…話せないことというわけでもないから」
自分から話すことではないけどな、とセスは言う。
チームの連中は、お互いに興味を持っていないわけではないが、深く問わないところがあった。
深く訊いてしまったと感じたとき、お互い謝ってしまうところがあった。
先日セスがルミナに彼女の父のことを訊いたときもそうだった。
彼らは、知りたいと思わないわけではない。
お互いのことを信頼してはいるものの、お互いがお互いのことを訊ねがたい雰囲気を、誰もが持っていた。
「……訊けることと訊けないことがあるのは…友だちじゃないのかな?」
ルミナがぽつりと呟く。
セスはキーを叩き続けながら、静かに首を横に振る。
「…さあな。事情を知っているだけで満足するなら意味がないと俺は思うが」
ドールと話せない沢口。
日本屈指のグループの令嬢雛。
10年前の記憶がないルミナ。
天才少年と謳われていたセス。
皆それぞれ事情を抱えている。ただ彼らは、事情を共有したくて集まったわけではない。
「俺は…わりと自分のことで手一杯なんだ」
「…うん。私も、そうだな」
「とりあえず、全力で他人に手を貸すのはもう少し自分のことが片付いてからだな。…薄情かもしれないが」
セスの言に頭を振ったルミナは、いつものように笑ってみせた。
「私も。私も薄情だよ」
モニタの中で、シャティとキュアがセスに視線を遣っている。特に意味はないのだろうが、その視線はやさしい。
視線に温度があるのなら、それは間違いなく暖かいだろう。
視線に後押しされたかのように、セスは自分の深い部分を、少しだけルミナに晒す。
「…シャティとキュアは…俺の姉と妹がモデルなんだ」
「……!そう…なんだ」
マスメディアによってもたらされたセスの家の事情は、ルミナも多少知っていた。
セスの家がどうなってしまったのか、同情を装いつつ好奇心を煽るような記事が、週刊誌に載っているのを見たことがあった。
その記事を読んだ頃は、ルミナはセスと知り合っていなかった。
知り合った後、あの記事のことをしばらくしてから思い出した。でも現実に目の前にいる『天才少年』はただ真っ直ぐ現実を見据えていて、ルミナはあの記事が事実であろうが憶測が飛躍しすぎたものであろうが関係ないと思った。
彼は重い過去を背負っているかもしれない。でも、今目の前にいる彼は飄々とした顔をしている。
彼が同情を欲しているのであれば、友人としてそうすべきかもしれない。でも、そうじゃない。
セスが話を続けたということは、拒否ではないのだろう。
そう感じたルミナは、もう少しだけ踏み込んでみる。
「…お姉さんと妹さん、美人さんだったんだね」
「………まあ、11年前に姉も妹も死んでるから、こう成長しただろうなという俺の予想でしかないんだが」
「美化されてるかも?」
「…かもな」
そう言ったセスは少しだけ笑っていた。
しかし、その横顔からは、隠しきれない寂しさが溢れてきていた。ルミナはそこで踏み込むのを止め、モニタのシャティとキュアと、そしてセスの背中を見て、黙った。
写真週刊誌が告げていた記事は、たとえ内容が飛躍していようと、事実も内包していた。
セスは姉と妹、そして母を11年前に悲惨な事故で喪っている。それは偽りようのない事実だった。
キーを打ち続けていた手が止まった。
「幼い頃、姉貴は医者に、妹は看護士になりたいと言っていた…」
「………」
「俺にできるのは、見かけだけそれらしくしてやることくらいで」
「………セス君」
セスは緩やかに頭を振り、搾り出すようにして呟いた。
「今も昔も、何もできないよ、俺は…」
----------
自室を出た雛の足は、早足から駆け足に変わっていた。
羽田が生活している部屋は別棟にあり、彼女はそこに向かって走っていた。
沢口は雛のペースに合わせてその後ろを走っている。
いつも冷静な雛が、今日は完全に違っている。だが、これが本来の彼女なのかもしれない、沢口は思う。
自分を出せずにいたわけじゃない。
今まで素通りしてきたものは、雛の感性を揺らすものでなかっただけかもしれない。
今日あった出来事はきっと、雛にとって雛の根幹を揺るがすものなのだろう。
彼女は笑わないわけじゃない。
泣かないわけじゃない。
この家で育てられてきた彼女は、どこかで感情を抑えたほうが自分の身を守ると無意識のうちに思っているのかもしれなかった。
すれ違うメイドたちが、「お嬢様」と驚いた顔をしているのに、雛は構わなかった。
階段を駆け上がり、大きなドアの前に立つ。
一瞬沢口のほうを向いた雛に、沢口は大きく頷いて見せた。
大きめに、2回ノックの音を響かせる。
ゆったりとした「はい」という返答を聞き、雛は「羽田さん」と呼びかけた。
声は抑えていたが、若干上擦っていた。
「…雛ちゃん?どうぞ」
部屋の奥から声が聞こえる。
この家の令嬢をドアを開けて迎え入れる気はないらしい。もう自分もこの家の一員であると思っているのだろう。
沢口は若干部屋の奥の男の対応にむっとした。
「入ります」
それでも雛は冷静さを装い、一声かけてドアを開ける。
ドアの向こうはだだっ広い部屋で、ホテルのスイートばりの豪華さだ。応接室のような大きなソファ、大きなテーブル、そしてバーカウンターの向こうにはワインやシャンパンの瓶が並んでいて、奥にはきちんとベッドメイクされたベッドが覗いている。
ベージュと黒で統一されたその部屋は、綺麗にされているがどことなく臭う。沢口は顔を顰めた。
テーブルの上には灰皿が置いてあり、吸殻が多く残っている。
―――臭う正体はヤニか。沢口は一瞬にして目の前の優男に悪い印象を持った。
尤も、まず優男なところが気に食わない。
茶色の髪を長めにしている羽田は、黒いシャツをはだけさせて、ソファに座ったまま雛たちを迎えた。
ドアが開いたときにチラリと雛たちを見て、後ろの沢口を認めて一瞬眉を顰めたが、何事もなかったかのようにもとの表情に戻す。
雛と沢口が羽田の傍までやってきた頃には、薄笑いを顔に貼り付けていた。
「羽田さん、訊きたいことがあります」
「…なんだい?」
羽田はゆっくりと返答する。心当たりがゼロではないだろうに、その表情を崩さないあたり彼は相当強かな男だ。
「………歌花のこと」
「…………歌花」
沢口は彼の惚けた表情を殴ってやりたいと思った。が、我慢した。
本当にこの男を殴りたいのは沢口ではなく、雛のほうだろうから。
「調べればすぐにわかります。電脳空間を彷徨う、『うたうユーレイ』…ユーレイの棲家は円条グループのドール研究部門だって」
「…………知ってたんだ」
羽田はそこでようやく歌花のことを知っているそぶりを見せた。沢口は彼のそのふてぶてしい表情が気に入らなくて、声を荒げた。
「てめえ!!」
「おっと…暴力で解決しようというのかい?君は沢口君だろ?永泉の来島先生から聞いてるよ。…これだから頭の悪いやつは困るね」
「…!」
来島は、沢口が一年のときの電子工学の教師で、沢口のコードを結局ひとつも見ようともせずに最低の成績をつけた男だ。
来島の名前を出された沢口は、勢いを失い、次の言葉も失ってしまった。それに気を良くした羽田は、沢口の傷を抉ろうと、次の手を披露しようとした。
「来島先生は僕の恩師でね…いろいろ聞いてるよ」
「……羽田さん!」
だが、それを遮ったのは言葉に詰まった沢口ではなく、激昂した雛だった。
「あなたにコウのことを言う権利なんかない!それに、私はそんな話をしにきたわけじゃありません!」
雛の滅多に見ない怒った顔と大きな声に、羽田は若干怯んだようだった。
「あのこ…歌花は私の友人がモデルなんです!勝手に外に出さないで!」
「…もう無理だよ。歌花は製品化が進んでる。来月にはリリースされるんじゃないかな」
「…製品化…!?」
勝手に話を進め、人のプライバシーなどまるきり構っていない様子の羽田に、雛が切れた。
羽田の傍まで詰め寄り、右手を振り上げる。
だが次の瞬間、雛の右手は羽田を打つことなく行き場を失くした。
「フガッ!!!」
情けない声を上げて、ソファから転げ落ちた羽田。
彼の左頬を、沢口が力いっぱい殴っていた。