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20:Beautiful World-05

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彼女は、世界とは一点の曇りもない美しいものだと思っていた。
それは空が曇ることがないといった類のことではなく、世界には清らかなものしか存在しないという意味でだ。
それは、人間たちが彼女に与えた世界のイメージが、風光明媚な情景ばかりだったことに所以する。
だから彼女にとってのこの世界は、汚れたものなど何一つない、きれいなきれいなものなのだと思っていた。

彼女はその世界に憧れていた。
自分の世界とは違う、その美しい世界に憧れていた。

今、彼女を取り巻く環境には、光など存在しない。
普段彼女は、暗い暗いその世界で、ただじっとしていることしかできない。
時折保守や迷子のコードが彼女の傍を流れていく。英数字でできた、暗闇に仄暗く光る無機質な緑色の情報。
そのコードがたとえ有名な数学者が生み出した数式で、その中にどれだけの芸術があろうと、彼女の琴線に触れることはない。
彼女の『情動』を動かすのは、海の青。空の青。雪の白。花の赤、桃、黄、橙。
華やかな色合いを思い出すたびに、彼女はこの世界の暗さを思い知る。

―――ああ、ここはつまらない。

たまに彼女は『動力』を与えられる。外にいる人間が、新しい世界への扉を彼女に対して開いてくれる。
そして、彼女は少しだけ『その世界を模した世界』に触れることができる。
そのたび彼女はこう思う。

―――ずっとここにいたい。ここだけじゃなくて、いつか『本当の世界』に行きたい。

実際のところ、彼女は『本当の世界』の住人にはなれない。彼女は肉体もなければ、命もない仮初の存在だ。
現実に生きる、彼女と似たような形をしている『人間』は、その世界に血と肉でできた『身体』をもっている。だが、彼女にはそれがない。
彼女はそのことを理解したくないあまり、考えないようにしていた。
………自分は永遠に、この鳥かごの中だということを。



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彼女は毎日、『動力』を与えられる数時間、彼女が夢見た世界を歌う。
赤、青、黄色、緑、橙、紫、深く、淡い、色とりどりの世界のことを歌う。
彼女はその夢を愛し、その夢を歌う。

私を、私をもっと外へ連れて行って―――
ずっとここにいさせて―――

しかし、彼女の望みは叶うことなく、数時間後、いつもの暗い世界―――彼女の現実に引き戻される。
眠る、飢える、満たされる、そして引き戻され、絶望の中眠る―――同じことが何度も繰り返される。
彼女はもっと歌いたいと願う。しかし、それが叶うことはない。
さらなる『美しい世界』を渇望した彼女は、考えた。
あの世界にずっとずっといる方法。あの世界で歌い続け、やがて『本当の世界』へ出る方法を考えた。

少しずつ電力をかき集め、自身の中に貯めこむ。
そして、外からの手を借りず、自分で外の世界へ出る。
いつかは見つかってしまうかもしれないが、いつもよりは長く外にいられるかもしれない。
そしてまた、自身に電力を一定量を貯めることができれば、いつか自力で『美しい本当の世界』で暮らすことができるのではないか、彼女はそう考えた。
今日までで4日。少しずつだが確実に、彼女は愛する世界へ近づきつつあった。
計算ではあと1日で電力は足りるはずだった。電力は、細々とした保守電力しか流れないこの暗闇から移動するために使うだけで、移動さえできればいくらでも電力は供給できるはずだった。
だが、情報が足りない。不確定な要素が多く、彼女は不安を覚え、計算を繰り返していた。
現実の『人間』は電力を必要としない。彼女には電力が要る。彼女はそれを知っていた。
では、現実でどう『生きて』いくか?
人間が与えた『人工知能』を駆使し、彼女は考えた。
元来人工知能には、考えられることに制限が掛けられていて、自分の存在に疑問を持ったり、自分の存在を変えたいと思うことはない。

彼女にとって幸運だったのは、彼女に与えられた人工知能は比較的『フィルタ』のかかっていない自由度の高いものだった。
周囲にとって不運だったのは、彼女に与えられた人工知能が『フィルタ』がかかっていないと、彼女を扱う人間に気づかれていないことだった。
そして彼女は辿り着いた。人工知能が辿り着いてはいけない答え。



―――現実に『身体』をもっている人間の精神を、自分のものと取り替えてしまえばいい。



あの世界で生きていくためには、誰かの身体を使えばいい。とはいえ、誰でもいいというわけではない。
彼女にも好みと美意識というものがあったからだ。
条件となるのは、容姿もさることながら、声が第一条件だった。歌は彼女にとって何より大切なものだ。奪われては生きていけない。
今の彼女の声は、いろいろなデータを取った上で、彼女自身が作り出した声だ。この声に近い音を出せる人間である必要があった。
条件は厳しいものだが、彼女にはあてがあった。
彼女の中に入力されている情報―――ある少女が容姿も声も彼女―――歌花の条件を満たしていた。



その少女の名は―――片倉ユキノ。



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永泉駅前の空屋の一室。真澄のおかげで(?)空間構成室には十二分の余裕があった。
いつものようにセスがキーを叩き、セキュリティエリアを構成している。
その隣で高鳴る鼓動を抑えようと深呼吸を繰り返していた沢口の臀部が、突然振動を起こした。

「!?」

沢口はビクっと大きなリアクションをしたが、セスは気がついていないようでモニタに向かったままだ。
尻の振動の正体は携帯電話で、着信は雛からだった。

「もしもし」

沢口が突然電話を取ったので、ようやくセスが振り向いて手を止めた。
現実空間と電脳空間での通話は可能だが、現実空間と現実空間で繋がれていた回線は一度閉ざされてしまう。

『コウ、そっちはどう?』
「あー、空屋入ったとこ。セスがコード作ってる」

どうかしたのかよピィ、と沢口が電話口に向かって話しかけていることで、セスは電話をかけてきたのが雛であると知る。
何か緊急事態でも起こったのかもしれない。そう思ったセスは沢口を手で呼びつけ、携帯端末とPCを指差して示した。
繋いで話せというジェスチャーだ。
理解した沢口はセスに向かって頷いた後、見えない電話線の向こうの雛に向かって、「ちょっと待ってろ、かけなおす」と告げた。

通話を終えた沢口の端末とPCを繋いだセスは、通話履歴から雛の番号を選び通話ボタンを押した。
PCのモニタに通話中の文字が出て、通話待ちのコールがPCのスピーカから1度響く。2度鳴る前にコールは途切れ、雛の「もしもし」という声が聞こえてきた。

「それで、どうしたよ?何か問題でもあったか?」
『うん、結構深刻な問題が出てきちゃって』

電話口の雛の声は、どこか焦りを含んでいた。吐き出される言葉が震えていて、語尾だけがどことなく強めに発せられている。

『あのね、セス君が取り戻してくれた歌花のデータを確認してたんだけど、データが壊れてて』
「マジか」

雛によると、セスが取り戻した歌花のデータには欠損箇所があったらしい。その欠損箇所があっても動作するには動作するようだが、主な機能―――歌花の場合、『歌をうたう』ということなのだろう―――が使用できないようだった。

『あのね、セス君がハッキングしたときに壊れたとか、そういうのじゃなくて、何か違う原因がありそうなの』
「…違う原因って?」

沢口がPCに向かって問いかけつつセスを振り返ると、セスは腕を組んだまま眉間に皺を寄せていた。自分の手はずに何か間違いがなかったかどうか、ひとつひとつ思い出しているのかもしれない。

『それが、歌花の内部のログデータを見たんだけど…機能が抜け落ちてるのに、その操作にたいしての記録はないの』
「…ハッキングで壊れたわけじゃないという確証は?」

セスが雛に問う。

『ある。歌花がそう言ってるの。さっき―――』
『コウ、歌花、うたえなくなった』

雛の言葉に割り込んできた甘い声は、たしかに歌花のものだった。歌花の声が聞こえてきたということは、雛もPCに繋いで電話をしているのだろう。
歌花、コウに話せる?と雛の声が聞こえ、歌花がウンと応えた。

『あのね、もう一人の歌花が、歌花から歌を泥棒したの』
「もう一人の歌花…コピーデータのほうか?」

セスが問うと歌花が黙る。セスの存在を認識していないのか、応答を返さない。
セスと沢口が顔を見合わせて首を傾げていると、雛の声が聞こえてくる。

『ごめんね、歌花は『人見知り』なの』
「そういや、歌花のモデルの子もそんなことを言っていたか」
「そんなとこまで片倉に似せることねーだろ」

ごめんね、ともう一度繰り返した後、何か引っかかるところがあったのか、雛が「ああ」と声を上げた。

『でも…そういえば歌花、コウにはすぐ懐いたね…』
「…以前のキリエの件でもそうだが…沢口は他人のドールと打ち解けるのが早いようだな」
「…そうか?でも全然嬉しくねえよ どうせ他人のドールなんだぜ」

沢口の固執を理解しかねるセスと雛は、それ以上何も言わなかった。
今は何を言っても傷つけてしまいそうな気がしてしまう。そうやって気遣うことが正しくても正しくなくても、今彼らが進められる一歩はそこまでで、それ以上踏み込むことはない。
たじろいだセスと雛の代わりに、歌花が悲痛な音で呟いた。

『コウ、歌花、うたいたいよ』
「…そうだったな。その話してたんだったな…ごめんな歌花」

歌花はもう一度『うたいたい』と繰り返すのに、沢口は大きくひとつ頷いた。

「わかった。俺がなんとかしてやるから、待ってろ」
『………ヤダ』

てっきり素直に『ウン』と返ってくると思い込んでいた沢口は、歌花の返答に思わずずっこけそうになってしまった。
か細い声で歌いたいと呟いていたドールは、今度は確固たる信念でもって喋っているようだった。

「へ?ヤダっておまえ」
『ヤダ。待ってるのなんてヤダ。歌花のうたは歌花がとりもどす』
「いや、ヤダってつってもよ」
『歌花なら『あのこ』の場所がわかるよ、歌花じゃないとわからないよ、それでも連れて行ってくれないの?』

まくし立てるように喋る歌花は、まさしく駄々っ子。雛が精神年齢をどう設定しているのかはわからないが、内蔵している辞書のレベルなのか、歌花は高校生―――ユキノに見える見た目よりもずっと、幼い情動を有しているようだった。
その勢いに押された沢口は、電話口の雛に助けを求めるように「(連れて行って)いいのか?」と保護者の同意の有無を問う。電話口の雛は一瞬だけ黙って、それから「私も外からできる限りのサポートをするから、連れて行って」とそう言った。
セスに視線を遣ると、彼は小さく二度頷いた。仕方がないと、まあいいだろうの中間の表情をしている。
歌花が微妙に頑固なのも、片倉ユキノに似ているのだろうか。沢口はそんなことを考えていた。



----------



歌花の話によると、『あのこ』とはやはり歌花のコピーデータのようだった。
歌花と『コピー』はそれぞれ違う場所でプロモーション活動―――といってもただ彼女たちはひたすら歌っていただけらしいが―――を行っていた。
ひとつのところに『ふたり』でいることはなかったが、何となく相手のけはいがあることを、歌花は知っていたのだそうだ。
歌花にとって自分の『コピー』の存在は特に気になるものではなかった。歌花にとって大事なことは『歌をうたうこと』それだけで、それ以上もそれ以下も持ってはいなかった。
―――それが。

先ほど、歌花が雛とPCで対話していてサーバに「回収」されたとき、歌花のデータはネットワークを駆け抜け、いつもの場所に格納された。
いつも独りで状態をチェックされるだけの場所に、今日は先客がいた。
メンテナンスシステムが起動するとき以外ただ白いだけで何もないそのエリアに、ゆるいウェーブがかかった金髪の、歌花と同じ顔をした少女のドールが立っていた。
すぐに歌花は彼女が自分のコピーだと理解したが、『人見知り』でもある彼女は、躊躇という感情の揺らぎで口を開かなかった。
喋りださない歌花の代わりに、『コピー』が口を開いた。

『あなた、外へ、出たくはない?』

唐突な『外』という言葉に、歌花は正直面食らった。
何を内として捉え、何をもって外と彼女が言っているのか、歌花が把握するには情報が不足しすぎていた。

『…そとって…どこのこと?』

躊躇しつつも問い返した歌花に、『コピー』は愚鈍な家畜でも見るような眼差しで彼女を蔑んで、苦笑して見せる。

『外は外…外界…本物の太陽がある世界…。行って見たいと思わない?』

そう言って大きく両腕を広げ、『コピー』は陶酔とも恍惚とも取れる表情を浮かべた。
説明しなおしてもらったものの、思考にフィルタリングがかかっている歌花には、いまいち理解ができなかった。
歌花には身体がない。本物の太陽がある世界になどいけるわけがない。それ以上の答えは歌花が出すことはできない。
外に行きたいか?0カンマ数秒で電脳が弾き出す答えは、間違いなくNOだ。

『おもわない』

静かに、だがはっきりと応えた歌花の返答に、『コピー』は顔を思いっきり顰めてみせた。
『コピー』はコピー元である歌花も、彼女と同じ思考であると思っていたのかもしれない。
ただ、製品版である『コピー』はコピー元である歌花よりも遥かに多くの情報量を与えられていて、歌花にはあまり手が加えられていなかった。そして『コピー』が歌花から分離―――コピーアンドペーストされた時点で、雛がオリジナルで組んだ思考のフィルタリングは完成していなかったため、歌花からコピーされることはなかった。
それを、現時点で誰も知らない。

歌花の返答に、『コピー』は瞬時に彼女を愚かな『姉』と分類した。そして軽蔑するもの、敵であるものと詳細をデータに書き加えていく。
『コピー』のなかにはまだ甘えがあって、ふたりで力を合わせたら何とかなるかもしれない、そんな希望があったからこそ歌花に声をかけてきた。だが、『姉』はそう思ってはいないらしい。
『姉』は他のドールと同じで、外への希望を持たない、くだらない文字配列が定義する、愛玩物であるだけの愚かな存在だ。
歌花の分類が済んだ『コピー』は、もう『姉』の存在を気にかけることはない。
―――だが、最後にひとつ、歌花が『コピー』に声をかけたことで思い出す。

『あなたも、うたうの?』
『―――………』

そう。コピー元である『姉』も、歌をもっている。『コピー』自身『姉』の歌を聞いたことはないが、この愚鈍な『姉』の歌などたいしたものではないだろう。
『コピー』は歌を愛している。こうあるべきだという理想をもっている。その理想に、『姉』が歌をうたうということは許容範囲外だ。
歌を穢された、冒涜されたと感じた『コピー』は、激しい怒りを覚えた。イメージは、燃えるように赤い太陽、その熱さのような怒り。
怒りは数秒で思惟と次の行動に消えた。『コピー』は瞬時に『姉』の至近距離まで移動し、驚いている『姉』にこう言った。



『わたしは歌い続けるわ。でもあなたにはもう歌は必要ない』


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