21:Beautiful World-06
体感温度良好。湿度も快適。
ネットワークを擬似的に表現している白い空間には、いくつもの青いコードが一定の方向へ流れている。
コードはその場にいる物体には触れることはなく、宛てもなくどこかへ流れていく。
とめどなく流れるコードはさながら川のように連なり、白い空間を青に染め上げていた。
沢口は自分を摺り抜けていく青の帯を眺めつつ、前を滑るように移動している歌花に尋ねる。
「なあ、歌花、ちょっと」
『ヤダ』
「そうか。じゃあ仕方ねえな。…ってまだ何も言ってねえよ!」
思わずノリツッコミを入れてしまった沢口を振り返りもせず、歌花はどんどん前に行ってしまう。その速度は仮想空間に人間よりも馴染むデータであるドールとしては相応だが、可憐な少女である見た目にはそぐわない。
セスは沢口を振り返りつつ歌花の後に早足で続いていたが、立ち止まっていた沢口は歌花たちからやや遅れてしまう。
歌花の移動速度が速いため、沢口は速度を緩めてもらいたいと思ったのだが、歌花には沢口の言いたいことなどお見通しだったらしい。
情緒がまだ未成熟な歌花は、人間に合わせるということをまだよくわかっていないようだった。ただ、歌花が本気を出せば、一瞬で沢口たちの目の前から消えることもできる。そう考えれば、歌花は歌花なりに考えて『合わせて』いるのかもしれなかった。
だが、さっきの沢口の一言で機嫌を損ねてしまったのか、歌花の速度はやや上がり、沢口の息もそれに伴い上がっていた。
『……?』
しかし、何か思うところがあったのか、歌花がおもむろに足を止めた。
ふわりとした淡い金色の長い髪を揺らし、沢口を振り返る。つう、と足を動かさずに、空間を滑って沢口の傍までやってきて、彼女は小首を傾げた。
「な、なんだよ」
『…………???』
沢口の顔を覗き込み、今度は反対側に首を傾げる。
不思議そうな表情を浮かべた歌花は、沢口の頬に指先を伸ばしたが、汗ばんだその肌に触れた瞬間に表情を変えた。
『う』
ドールは汗をかかない。
処理が追い付かずオーバヒートを起こすこともあるが、体温という情報は仮想空間に出力されることがない。体温がないということは、体温を調整するための汗も必要ない。
初めて触れた人間の汗に、歌花は盛大に顔を顰めていた。
『…なんで?へんなの』
「変って何が変なんだよ。生きてるんだからしょうがねーじゃねーか」
『…いきる……いきてる…?』
歌花はぽつりと呟いて、そして背後にいたセスをちらりと見た。
歌花はまだセスに馴れていないらしく、一瞥するだけですぐに顔を逸らしてしまう。
『……生きて、る?』
しばし思惟を巡らせていた歌花だったが、やがて顔を上げた。
再び空間を滑り、沢口とセス二人が見渡せる位置に立ち、口を開いた。
『……コウは、生きてない』
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男は、最近ずっといらいらしていた。
ツキに見放された状態とでもいうのか、何をやってもうまくいかない。悪いことが連鎖反応のように続いている。
きっかけは一昨日。
ファイルサーバ上にあるデータを不注意で別フォルダに移動させてしまい、元の場所に戻そうとしたのだが、操作を誤って削除してしまった。
しかも、それがよりにもよって、自分のチームが必死に作業しているプロジェクトの過去ドキュメントが格納されたフォルダだった。
さらに、男が報告する前に他人がそれを見つけ、その話は即座に上司に伝わり。大事な過去ドキュメントを削除したことを報告せず済まそうとしたと口汚く詰られた。
ただ、男は内心、ファイルサーバのバックアップに期待していた。定期的にバックアップがとられているのだから、過去ドキュメントであれば残っているのだろう、そう高を括っていた。
だが。
過去ドキュメントは元に戻ることはなかった。
リストアする際にデータが壊れてしまったらしく、ファイルの中身さえ見ることができなかった。
無理やりテキストエディタで開いてみたものの、人間が読めるようなものではないし、その壊れたファイルから本のデータを復元することもできない。
男は一応必死に半日以上かけて復旧作業をがんばってはみたものの、男の努力は結局、徒労に終わった。
午前の作業はそれで全てで、午後からは5枚にも及ぶ始末書の作成が作業となった。一枚で済ませればいいものの、各項目もさして代わり映えのない5種類のファイルに、男は反省や不手際を起こした際の状況を書き込んでいく。
毎日遅くまで残業し、休日まで費やしたりもしているのに、この5枚の始末書は男の疲労という情状など酌量してはくれない。コピペはするなと上司からきつく言われ、似たような文言の語彙を語彙力に乏しい頭で組み替えながら、ああ、スケジュールがこれでまた遅れるな、とどこか他人事のように男は考えていた。
そして、始末書を今日中に提出したとしても、それで全てが終わるわけでもない。
これから起きるであろう面倒ごとを想像し、顔を顰めた男は思わず「メンドクセエ」と小声で呟いてしまった。それを不運にも上司に聞かれてしまい、二度目のきついお叱りを受けた。
定時の時刻まで自分の作業は何一つできず、男は5枚の始末書を書き終えた。披露困憊しつつ、外のコーヒーショップにコーヒーを買いに行った。
すると、自分の後に自分と同じものを頼んだらしい女子高生が、男に用意されたコーヒーを横から掻っ攫っていってしまった。憮然とした顔で女子高生に「ちょっと」と声を掛けると、女子高生は悪びれた風もなく(むしろ当然の権利を男が咎めたかのような顔で)男を一瞥し、心底嫌そうな声で「なにオッサン?ナンパですか?キモイんですけど」とのたまった。
―――何を言ってるんだこの馬鹿女。
本気で腹が立ったがそれ以上に男は疲弊していて、二の句は継げずに口をつぐんだ。
言い負かしたと思ったのか、勝ち誇った表情になった女子高生は友人と甲高い笑い声を上げながらコーヒーショップを後にした。キモイ、キモイ、マジキモイ―――
苛々はひたすらに募る。
その後、女子高生の「不正」の一部始終を見ていた(そしておそらくは気づいていたであろう)店員がひとことの謝罪もせずに差し出した、女子高生が持ち去ったものと同じはずのその商品は、いつもの数倍不味かった。
仕事に戻り作業を続けたが、先ほどの女子高生の言葉が脳裏を繰り返し過ぎり、ろくに集中できなかった。
作業は1週間遅れ。取り戻そうにも、最近規制が厳しいためこれ以上残業も休日出勤もしにくい状況だった。
それでも結果を出すことだけが求められる。スケジュールを引きなおすことは許されない。
そう考えるといろいろなことに腹が立ち始めた。上司、同僚、部下、会社、彼女、友人、全部、全部。
叫びだしたい。全て捨ててしまいたい。
しかし、男は全てを捨てるだけの勇気も情熱も自棄な気持ちも、何一つ持ち合わせてはいなかった。
終電を逃し、タクシーで帰宅する。幸い家は近いが、会社からタクシー代などは出ない。
無駄にかさむ交通費のせいで、今月も赤字だった。車にカーナビを搭載させたいのだが、まだまだ先になりそうだ。雀の涙ほどのボーナスが出たばかりなのだが、ボーナスは貯金の赤字を埋め合わせるだけで精一杯で、ひとつも自分のためには使えそうになかった。
家に帰る前に、家から少し離れた駐車場まで歩く。疲弊しすぎて運転する気はなかったが、ローンを組んで買った新車を一目見ておこうと思った。―――そして、男は異変に気づいた。
異変に気づいたのは、運転席のドアまで近づいてからだった。ドアから異物がぶらりとぶら下がっていて、男はそれがドアの鍵なのだと気づくまで十数秒かかった。
気づいてからはもう思考がまとまらなかった。男は愛車が無残に荒らされているという現実を受け入れることができず、夜中の駐車場で大声で喚いた。
男がしばし喚いていたので近所の人が通報したのか、警察が男を咎めにやってきたが、そのころには男は茫然自失の体で、ぼろぼろと涙をこぼすことしかできなかった。
愛車からは、一生懸命無理と妥協を考えて選んだシートと、カーステレオが抜き取られていた。
不審行為を注意された後、そのまま警察署で車上荒らしの被害届を出した。保険会社にも電話を掛けたが誰も出なかった。24時間受け付けるダイヤルなのだと保険会社の営業は得意げに言っていたのだが、現実はこうだ。時計は午前2時半を回っていた。
10回ほどコール音を鳴らしてみたが誰も出なかったので、男はあきらめた。もうどうでもよかった。
一刻も早く休みたいと思いつつ、男が家に帰ると、半同棲している彼女の姿はなかった。
いつもこの曜日は家に来ているはずだ、とカレンダーを確かめる。木曜日。間違いない。
携帯電話を確認したが、メール等の履歴はない。
男はもう彼女の機嫌をとって繋ぎ止めるのも、怒って自身の感情を表現するのも億劫になって、とりあえずスーツを脱いで放り投げ、ベッドに倒れこんで死んだように眠った。
数時間後。携帯のアラームで目が覚める。
夢うつつでアラームを切る。スヌーズ機能で5分後にはまたアラームが鳴るはずだ。大体三回くらいは起こされないと男は起きることができなかった。
もう一度目を閉じる。すると、5分経っていないのに携帯が鳴り出した。
それはアラーム音ではなく、着信の音だった。
朝から誰だろうと思い、眠い眼をこじ開ける。ディスプレイには会社の上司の名前が表示されていたので、男は慌てて飛び起きた。
声を出すために咳でのどの調子を整えて、意を決して着信ボタンに手を伸ばす。
何か昨日の書類に不備でもあっただろうか、でもこんな朝から電話を掛けてくることだろうか―――男は半覚醒の頭を必死に回転させて考えながら、第一声を発した―――もしもし。
男を迎えたのは大叱咤だった。書類のことではなかった。
今何時だと思っているんだ!そう言われて咄嗟に時計に目を遣る―――時計は就業時刻から2時間経過していた。
申し訳ありません、申し訳ありません、そう繰り返しつつ慌しく家を後にし、そして3時間の遅刻をして男はようやく会社で仕事を始めることができた。
上司は男に対して苛々しており、不機嫌な表情を隠そうともしない。同僚や部下も上司の目を憚っているのか、声を掛けようともしなかった。
―――こんなに俺がひどい目にあっているのに。そう思うと男は怒りの感情よりも悲しくなってきた。
しかし悲しいのは一時のことで、すぐに怒りがふつふつと沸いてきて、男は黙々と作業を進めていった。
一度苛々しだすと、いつもは気にならないことでも気になってしまう。
自分よりも冴えない同僚が、可愛い女性派遣社員と話しながら楽しそうにしている―――気に食わない。
その同僚が上司に業績を褒められている―――気に食わない。
こちらをちらりと見て、申し訳なさそうに作業に戻る―――気に食わない。気に食わない。
仕事中に携帯がメールを受信した。彼女から「もう無理」のメール。―――俺ももうだめだ。
男は体調不良を理由に定時に帰宅した。上司は不服そうな顔をしていたので、昨日車上荒らしに遭ったことをそこで話し、警察で事情聴取がまだ残っているのだと説明した。実際のところは、やるべきことは昨日全て済ませてしまっているため、そんなものは存在しない。
ただ、上司に自分が遭遇した不幸の一端をわかってほしくて、口が滑ってしまった。言ってしまった後、同情を買うようなまねをした自分に腹が立ったが、何事もなかったかのように装って、会社を後にした。
定時の外の世界には、人があふれかえっていた。
朝、それぞれの場所に向かう数多の人は、この時間に帰るんだ。それに気が付いてしまった男は、何となく気が塞いできた。
―――一体俺は何をしているんだろう。若干込み合う電車の中でひたすらそれだけを考え、男は目を伏せていた。
―――何か、ツキを元に戻すきっかけがほしい。
帰宅する前、男はふらりと駅の傍の空屋に寄った。全ての喧騒から逃れ、何もない空間に行きたかった。
一室で白い空間を広げてごろりと横になり、ぼーっと虚空を見つめていた。何の音も聞こえず、耳が痛くなってきたが、それでもよかった。
この世界には、自分を癒してくれるものはないが、傷つけるものもない。ただその白さだけを眺めているだけで何も考えずに済んだ。
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―――何にもない。
1時間を白の中で過ごした男は、ようやく世界に色をつけようと思った。言葉を紡ぐと、手元に仮想キーボードが浮かび上がる。
この世界を支配することなど簡単だ。こんなにも簡単に、自分は世界を動かすことができる。
その力の大きさの反動で、現実世界でできることなど何もないような気がしてしまう。
暗くなりかけた思考を頭を振って元に戻す。青い海でも見て癒されようか、それとも木洩れ日が射す森林がいいだろうか―――。
瞼の裏で、心と体を癒すうつくしい世界を描いてみようと、男は持てる限りの想像力を駆使した。だが、元来男には想像力がないのか、それとも想像する努力を怠ってきたつけなのか、男が描く世界はぼんやりとした輪郭しか持たなかった。
適当に、海でいいや―――男がキーを叩こうとした瞬間、白いだけの世界に、異物が入り込んできた。
白い世界より輝いてみえるその存在は、淡い金色の髪をした、薄紫色のストールを巻いた少女だった。
男は呆気に取られることしかできなかった。目の前の光景が信じられなかった。
そんな男を、少女は伏し目がちの緑色の双眸で不思議そうに見つめている。
陳腐な表現だが―――極度に疲弊した男の目には、彼女は天使に見えた。
彼を現在の不運から救ってくれるもの。根拠はないがそうとしか思えなかった。
金髪の少女は、白いだけの無機質な空間をぐるりと見回すと、つまらない、と一言呟いた。その言葉に男は慌て、出しっぱなしの仮想キーボードにいくつかキーを打ち込んで、何にもなかった空間に、青い海がある風景を広げた。
男と少女の数十メートル先に、群青色の空と、青緑の海がある。海は穏やかなさざ波の音を立て、この世界の音の構造を変える。突如完全な静寂から開放された男は、強い耳鳴りを感じた。
少女は青い海にぱっと顔を輝かせ、砂浜へと駆けていき、頭を振って耳鳴りを飛ばした男がその後に続く。
うつくしい少女、きれいな海、自分。ドラマのワンシーンのような光景だった。
男が追いつくと、少女は砂浜に腰掛けて、静かに歌をうたっているところだった。昔映画かテレビCMか何かで聞いた、古いジャズの曲だ。
男も彼女に倣い、砂浜に腰を下ろす。目を伏せながら彼女の歌を聞くと、疲れ果てた心に歌が染み入り、癒される気がした。
しかし、男のしあわせは長くは続かなかった。一曲歌った少女が、腰に付いた細かい砂を払いながら立ち上がった。
男は直感で、それが彼女が自分に別れを告げるものだと気付いてしまった。男は砂浜から慌ただしく腰を上げ、手を伸ばす。
力いっぱい掴んだ彼女の細い腕には―――体温がなかった。少女は腕をつかまれても、無機質な視線を男に送るばかりだ。
―――ドールか。
天使だと思っていた。
思い込みは簡単に覆り、泥を被って今までの不運と同じ場所に転がり落ちていった。
後は脱力感。
―――ドールなら。
男のくらい衝動に火が灯った。
仮想キーボードを呼び出し、コンソールを開く。
慣れた手つきで自作のドール制御プログラムを起動すると、黄色のコードが実体となり少女を捉えた。男の作ったプログラムは、下手な製品ドール程度であれば、制御を奪えるほどの性能を持っていた。
作りかけのドールである少女は制御を完全に奪われ、その場に膝をついてしまう。
「どうせ人形なら、人間様を愉しませてみろよ」
男が少女の肩を押すと、命令されたかのように少女は砂浜に転がる。視線が焦点を結ばない少女に乾いた笑みを向け、男は自分のベルトに手を掛けた。
陰部を露出し、少女の『衣装』を脱がしにかかる。陶器のようになめらかだが体温のないその肌に手を這わせたところで―――完全に制御を奪われていたように見えた少女の視線が、ふたたび焦点を結んだ。
―――醜い。
少女は歌った。
男の精神に干渉するコードを、声と音程で作り出し、ひたすらに歌った。
ドールにも一応自衛機能はある。だが、少女の行為はあきらかに人を傷つける意図をもっていた。
未成熟な構造の情緒は、過剰な防衛反応となり、人間への『禁じられた』対応をとった。
少女の制御が完全に自身に戻ってきたとき、男の精神はすでに壊れていた。
夢中で伸ばした指先が何かに触れる。
生温く、じっとりと湿った、軟質なもの。
必死で抵抗した際に、『汗』に濡れた人間。
―――これはなに?
再び与えられる光、
壊れる自我、
圧倒的な恐怖―――
彼女の世界は、『醜いもの』に一瞬で冒され、穢れた。
こんなはずじゃない、
世界はこんな色じゃない、
こんな色は、知らない―――
『きゃあああああああああああああああああああ!!!!!』
彼女は『生まれて初めて』悲鳴を上げた。
世界と自分を切り離したいと思った。
怖い。
怖い。
コワイ。
今怖いのは、知らないからだ。
次の瞬間怖いのは、おぞましいからだ。
怖い。
怖い。
コワイ。
嫌だ。
こんなの、『きれいな世界』にはない。
必要ない。
『いやあ!!いやああああああああああああああああああ!!!!』
少女の足元には、正気を失った男が、うつろな目をして何事かを呟きながら転がっていた。
その呟きは波の音よりも小さいにもかかわらず、少女の耳元にしっかりと届いている。
それは恨み、辛み、僻み、嫉み―――醜いものばかりでできているその言葉に、少女は悲鳴を上げ、耳を塞ぐ。
だが、音は絶えず彼女の耳を侵しつづけた。
―――この世界に綺麗なものなんてほんとうは存在しない。