男はPCのモニタで報道番組を見ていた。彼の左手にはカフェラテ、右手にはマウス。
男は慣れた手つきでモニタに散っていた不要なウィンドウを閉じ、報道番組を全画面表示した。それからカフェラテをひとくち飲む。先ほどからずっと手にしていたそれは、すっかり温くなってしまっていたが、わざわざ淹れ直す気にはなれなかった。
テレビの中では、女性レポーターが緊迫した表情を作り、ここ一週間で何度か聞いた話をまた繰り返している。
男は、彼女が他の番組にも出ていることを知っていた。そのときの彼女は相好を崩して笑っていたことも。
彼女は表情を作り、その場に合わせた態度を取ることが仕事だ。だが、そもそも彼女にとってこの事件など他人事でしかない。レポーターとは基本的に、誰かが準備した文章を読むだけの存在だ。
『かわいそうだね、お姫様』
アクティブウィンドウの後ろから、少年とも少女とも判別のつかない声がする。
――警察は誘拐と見ていましたが、一週間経過した現在も身代金等の要求はなく、何らかの事件に巻き込まれた可能性も視野に入れて捜査を続けています。ですが、手がかりが少なく、捜査は難航しています――。
『ほんとは、誰も探してなんかないんじゃない？』
アクティブウィンドウから聞こえているレポーターの言葉に、声は言葉をぶつけている。
――引き続き近隣の住民にも、情報の提供を求めています――。
『たった一人の家族のお母さんも、仕事が忙しくて心配してる暇もないだろーし』
男は返答しなかったが、声はひとりで喋り続けている。そのうち鬱陶しくなってきた男は、声をようやく諫めることにした。
「月虹。うるさいぞ」
「ゲッコウ」と呼ばれた声は、ふてくされた音で「はーい」と返事した。だが、声は黙ったわけでなく、最後にもう一言だけ付け足した。
『誘拐犯なら、ここにいるのにね』
----------
円条グループの一人娘、雛が『誘拐』され行方不明になってから、ちょうど一週間。先週の金曜日で学校は終わり、学生たちは夏休みを迎えていた。一学期最後に起きた大事件に騒然としていた彼らだったが、夏休みというインターバルを挟むことになり、少しずつ平常に戻りつつあるようだった。しかし、沢口たちはそう簡単に他人事として済ませることができず、悶々とした日々を送っていた。
卒業制作に取りかかるのはこの夏休みがメインとなるのだが、沢口もルミナもセスも、全然手をつけていない状態だった。今日も沢口の家にセスとルミナと沢口とで集まり、雁首揃えて雛の心配をしていたところだった。
雛誘拐の知らせを聞いてから3、4日は雛を探しに外に出ていた彼らだったが、手がかりが何一つとして残されていなかったため、捜査を諦めたわけではなかったが、会議と称した集会がメインとなりつつあった。
もっとも、会議と称して三人でいろいろと考えてみたところで、これ以上捜査する場所等の見当をつけることもできず、ただ集まっているだけに成り下がっていたのだが。
「もう一週間だってのに、警察は何やってんだよ……！」
沢口がテーブルを叩くのも、この一週間で何度めになるかわからない。そのたびに、同じ言葉を何度も口にした。
雛が持っている携帯は、GPS機能がついていた。そのことを円条の人間から聞いた警察は、それを頼りに探せば、容易に雛は見つかるだろうと踏んでいたのだろう。
確かに、携帯電話はそのものはすぐに見つかった。電源が切られた状態で、雛がいつも使っている駅、永泉西駅のゴミ箱から見つかった。しかし雛本人の足取りは、駅にたどり着く前の大通りを歩いていたのが防犯カメラに映っていたのを最後に途切れていた。
ゴミ箱に携帯電話が捨ててあったため、駅まではたどりついたものと考えられていたが、駅構内の防犯カメラの映像のどこを探しても、雛と思しき人物は映っていなかった。
ゴミ箱の付近にあった防犯カメラの映像には、何人かゴミを捨てる人間が映っていたものの、携帯電話を捨てているような人物は映っていなかったのである。何らかのゴミに混ぜて捨てたものという見解を警察は示していたものの、携帯電話はまるで突然ゴミ箱の中から現れたように、雛のみの指紋を残してゴミ箱の中に鎮座していたのだった。
かの有名な円条グループの令嬢が行方不明になったということで、報道規制が敷かれていた初日は、身代金の要求等を警察は待っていた。
しかし、一日経てど身代金の要求等犯人からの連絡は何一つとしてなく、何らかの事件に巻き込まれた可能性も考慮して捜査の手を本格的に広げるようになっていた。
だが、初動がやや遅れたことも手伝ってか、手がかりは思うように集まらなかったようだ。その後の雛の足取りは神隠しにでもあったかのように掴めないのだった。
雛が消えた交差点から、駅までの道のりにある家宅は徹底的に調査されたが、何一つ雛に関連するものは見つからなかった。プライバシーを侵害されたと住民が警察を非難する声も上がるほど事細かに調べられたらしいが、何も出てはこなかった。
「車に乗せられたことはまず間違いないはずだが」
セスも、何度披露したかわからない推理を口にする。
何か、次に繋がるヒントを見つけたいのだが、新しい情報が何一つないため思考に詰まってしまっている状態だった。
「携帯の件が、引っかかるな」
円条から得た情報では、雛の携帯のGPSの移動履歴は、交差点のあたりで一度完全に途絶え、駅のゴミ箱で再び現れた、というものだった。
電源を落としても履歴が残るようになっている雛の携帯。
偶然で、円条が準備した高性能のGPSを完全に遮断できるわけがない。犯人は、GPSの電波を遮蔽する何らかのものを準備していたのだろう。
そこまで手の込んだ真似をしているのであれば、誘拐犯である確率の方が高いものだが、事実身代金の要求は、一週間経った現在もない。イタズラ程度のものが何件かはあったようだが、すべて虚偽のものだったと判明している。
「誘拐じゃなきゃ、何が目的だ」
雛は、母の弓とは違い、マスメディアに姿を表すことはなかった。母は確かに顔が知れ渡っているが、雛個人は有名人ではない。ただ、近隣の住民や、永泉学園に通う学生等は雛のことを知っていてもおかしくはない。
成績面でもルックス面でも、目立たない生徒ではなかったのだ。
警察にとって疑わしいのは、雛に近しい人物なのだろう。
――沢口たちも含めて。
「しっかし、おれたちまで疑われるとはなあ」
「仕方ないだろう。雛君に一番近しい存在だったのはおれたちだ」
「ピナちゃんのお母さんが口添えしてくれたおかげで、ウチをひっくり返されることはなかったけどね……」
雛の数日間の行動、沢口たちの来歴、屋敷に仕える人間の来歴等、いろんなところに警察の調査の手は及んだ。
一番容疑者として疑われていたのは――羽田宗樹だった。しかし、羽田も誘拐犯とは無縁のように思われた。
あれから数日、秘書としての立場を失い、円条家から出された羽田は、家元に戻り粛々とした生活を送っていた。
警察の取り調べにも素直に応じているが、雛が誘拐された日の彼のアリバイは完璧だった。ひどく落胆していた彼は雛が誘拐されたと聞かされると激しく狼狽し、涙を流していたという。
まだ、何にも償えていないのに。そう彼は言った。
警察は彼を直接の容疑者とするのはとりあえず保留にしているようだった。
「……ピナちゃん、無事だよね？元気だよね？」
これも、何度めになるかわからないルミナの祈り。沢口とセスは、答えなかった。
一週間経っても掴めない雛の消息。
不安ばかりが募り、時間ばかりが過ぎる。
いつの間にか、外には雨が降り出していた。
----------
雨は止むことなく、次第に勢いを増していた。
セスは夕飯前に沢口家から傘を借りて帰っていった。
夕飯を沢口家で食べたルミナをひとつ傘で家まで送る沢口は、この前母に言われたことを思い出していた。
「あのこの手が動かなくなったのが、あんたの責任だって言うのはわかった。あんたが責任を重々感じてるっていうのもわかった。……で、あんたはどこまで責任をとるつもりなの？」
「どこまでって……できることは全部するつもりだよ」
母は、その返答に納得しなかった。
「できるってどこまで？」
「どこまでって」
「あんたルミナちゃんの一生を引き受けるだけの気持ちはあるの？」
「……」
「もしもルミナちゃんがほかにいい人を見つけたら、あんたは邪魔者になる。そこで自分の責任を投げ出すの？」
「なんだよ母さん、どうしたんだよ」
母の表情は険しかった。やや、悲壮な色も帯びていた。
「中途半端が一番だめだよ、コウ。あんたの生半可な責任感なんて、ルミナちゃんを傷つけるだけなんだよ」
「でも、おれは！」
たとえば。
母の言葉に、沢口は続きを飲み込んでしまう。
「コウがルミナちゃん以外の女の子を本気で好きになったとしたら。あんたはどうするの？ルミナちゃんはどうするの？その女の子はどうするの？」
「……」
「言葉にするのは簡単かもしれない。でも、人間はコンピュータじゃないの。そんなに簡単に割り切れるもんじゃないんだよ」
「でも、今おれにできるのは、これくらいなんだ」
沢口の母はゆるく頭を振り、それから俯く。
「……わかるよ。何もしないのはもっとダメかもしれない。でもコウ、雛ちゃんはどうするのよ……」
「ピィ？」
母はもう一度頭を振り、「とにかく、よく考えて行動しなさいね」とだけ言い残し、席を立った。
雛。幼なじみ。
隣の豪邸に住んでいて、たまに沢口家に質素な夕飯を食べにくる。しかし沢口家にいるときはわりとよく笑う。外面を気にしなくてもいいからかもしれない。
これから沢口が、ルミナにつきっきりになってしまったら、雛は沢口の家に来づらくなるだろう。
母はそれを危惧しているのかもしれなかった。
「じゃあ……どうすりゃいいんだよ」
雛がどうでもいい存在というわけではない。だが、そこまで気を回すのもおかしい気がした。
あまり想像しがたいが、雛が誰かとつきあうことになれば、そもそも沢口の家にはそう来なくなってしまうだろう。
――ピィに、彼氏。
そこまで考えたところで、沢口は若干落ち着かない気分になった。
小さい頃から傍にいた雛。
小さい頃はよく笑っていた。色素が薄く、栗色の髪はふわふわとしていた。オレンジのリボンがお気に入りで、短い髪の毛の一房をリボンで飾っていた。
幼い頃から整った顔をしていたから、男の子から相当もてていた。でも小さな雛は引っ込み思案で、よく知る沢口やユキノとばかり遊んでいた。
沢口にはウサギのセロテープケースを壊されて泣いていた。それでも雛は、沢口の傍から離れることはなかった。
小学校に上がり、中学生になり、高校へ入り。いつしか彼女はあまり笑わなくなった。
しかし、同じクラスになることが多かったこともあり、沢口と雛はその距離を保ち続けてきた。
――コウ。
雛の静かに響く声は、沢口を呼び続ける。
それは、これからも変わらないような気がしていた。
だが多分、そうではない。それは沢口にもわかる。
友達としてありつづけたとしても、大人になったときの雛の住む場所は、きっと沢口とは違う次元にある。
もっとも、残された高校生活の間くらいは雛との距離は変わらないと思っていた。
ただ、ルミナが沢口にとっての特別な存在になってしまったときに、雛が以前と同じ距離で沢口と接することができるかどうかは微妙なところに思えた。
雛はあまり思っていることを口にしないし、遠慮するときはなにも言わずに身を引いてしまう。
それが、沢口と雛の距離をどう変えてしまうのか。
母はそれが言いたかったのだろう。
「……コーちゃん、コーちゃんったら」
「！ ああ、悪いぼーっとしてた」
見上げてくるルミナは、曇らせていた表情を少しだけ笑みに崩した。
「肩、びしょ濡れだよ？」
「あ」
沢口は持っていた傘を一生懸命ルミナに向けていたのだが、自分が入ることを少し忘れてしまったようで、傘を持っていない右肩がだいぶ濡れてしまっていた。
ここで、いつもなら。
いつもの沢口なら、何も考えずルミナとの距離を詰めていただろう。
だが、今日はできなかった。
「……風邪、引いちゃうよ？」
「夏だし、おれ馬鹿だからだいじょうぶじゃね？」
なにそれ、とルミナは笑った。
納得したわけではなかっただろうが、それ以上彼女は何も言わなかった。
神社の祭りの幟が雨に濡れている。それを見たルミナは、ぽつりと呟いた。
「お祭り……あるのかな？」
「……あるよ、きっと」
雛が行方不明になった件で、永泉市は警備が厳しくなっている。
しょっちゅう警官がパトロールしている姿を見かけるし、防犯カメラの台数も相当増やされているようだった。
「でも……わたしたち、それどころじゃないよね？」
幟から目を逸らし、ルミナは俯く。
雛がどこかで心細い思いをしているかもしれない。それなのに、遊び歩くのは気が引けるし、そんな気分でもない。ルミナはそう思っているのだろう。沢口も、セスも同様だった。
夏休みに入ったが、何一つ遊んでいなかった。
雛が行方不明になって一週間。
地元ではまた騒然としているものの、捜査に進展があまり見られないため、マスメディアは事件として扱うのに少しずつ冷めてきている感もある。
――危機感を薄れさせないように。
毎日沢口家に皆で集まって気難しい顔をしているのは、そのためもあった。
沢口は、少し落ち込んでいる様子のルミナに、しばし迷った後に声をかけた。
「おれは、約束は守る男だぞ」
もう一度ルミナは幟に視線を遣り、それから沢口を見て少しだけ笑んだ。
「……うん、知ってる」
「行こうな」
その一言に、ルミナは小さく頷いた。