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32:Electro Summer-02

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お腹が、すいた。

ぼんやりと意識が現実に戻ってきて、最初に思ったことはそれだった。
――ああ、生きている。
そう思う。

目を開くと、無機質な部屋に彼女はいた。眠りに落ちる前と同じ部屋だ。
何日経っているかはわからないが、5日以上はここで過ごしているため、やや見慣れてきた光景でもある。
それでも一応、彼女はぐるりと周囲を見渡した。

部屋にはテーブルに乗ったPC端末が一台、椅子がひとつ。
今横たわっているベッドひとつ。
それしかない。

部屋には窓がある。だがその窓は開かない。
扉はふたつ。バスルームと、トイレに繋がるだけの扉。
出口、入口となる扉は存在しない。
だが、彼女はここにいる。

彼女を中に入れて、この部屋が作られたわけではない。
しかし、彼女は入り口のない部屋に存在している。

時間の感覚はとうになくなってしまった。
朝なのか、昼なのか、夜なのかさえわからない。
窓から見える景色はいつでもどこまでも灰色で、どんな場所なのかもよくわからなかった。

おそらく、ここは、電脳空間なのだろうと彼女は思う。
出口のない部屋。
どこまでも灰色の世界。

でも、ここが電脳空間だとしたら。ドールが呼べるはずなのだ。
だが、部屋に無造作に置かれたPCを使っても、ドールは呼べなかった。そして、仮想キーボードを具現化することもできなかった。
そして、ネットワークに繋がっていないのか、外部との連絡もとれそうになかった。

そもそも電脳空間であるとしたら、バスルームもトイレも必要ないはずだ。しかし彼女の身体は時間の経過とともに不潔となり、生理現象を催す。
ここが電脳空間であるとも言い切れないのだった。

中途半端に電脳空間の様子を呈した、現実空間。そんな印象を受ける場所だった。

――考えても、わからないものはわからない。

彼女はベッドから身を起こし、身体を伸ばす。
それを見計らったように、『かれ』は現れた。

「おハヨー、お姫様。ご機嫌いかが?」
「……ありがとう。とても最悪」

雛は、冷たい微笑みを顔に貼り付けて『かれ』にそう言った。



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入口のないはずの部屋に、雛のための食事や衣類等を持ち、こうして『かれ』は入ってくる。
実際のところは、男なのか女なのかもわからない。顔のつくりは中性的で、男性と言われれば男性のようであり、女性といわれれば女性のような顔だった。
肌の色が白く、茶系の柔らかそうな髪。頭のかたちは小さく、きれいに丸い。おかっぱよりボリュームがやや少ないショートカットの『かれ』は、自分のことを『ぼく』と言う。だから雛は『かれ』は男性だと何となく思っている。しかし、あまり確証をもてなかった。
華奢で細長い手足、カラフルなストライプのやや大きなシャツ、細身のデニムパンツ。
時折笑って見せる顔は、女性のようにも見えた。

最初は警戒し、食事等にも手をつけなかった雛だったが、数日過ごすうちに『かれ』が彼女を害するつもりがないのを感じ、警戒しつつも食事をとり、入浴等もするようになっていた。
軟禁されている状態に慣れたわけではなかったが、おとなしくしていた方が身のためのように思えた雛は、なるべく平静を装い、いつも通りの彼女であるように努めた。
雛は、これから何かが起こる予感がして落ち着かなかった。落ち着かないからこそ、いつもの彼女であろうとした。

その何かとは自分自身の生命や身体にかかわるような小さいことではない。
もっと、大きな何かが起こる気がした。
彼が言った、あの言葉――。

――ねえ、雛ちゃん。この世界の秘密を僕が教えてあげるよ。

あの笑みは、とても不吉な色を帯びていた。


雛が思惟を巡らせていると、『かれ』はふたたび彼女の気を引こうと顔を向けてくる。

「ねえ、お姫様」
「だから。わたしは『ヒメ』じゃなくて『ヒナ』だってば」

『かれ』は悪びれない様子で笑った。

「じゃあ、お雛様?」
「…………」

雛が冷めた視線を送っても『かれ』は一人で笑っている。

「いいじゃない。ヒメはぼくのイメージする『おとぎ話のお姫様』そのものなんだ」
「……囚われて、ただ王子様を待ってるだけってこと?」

憮然とした表情で言い返した雛に、『かれ』は頭を振った。

「ううん。もっと賢しくて、したたか。じゃないとお姫様なんて務まらないでしょ」
「……」

くすくすと笑う『かれ』に、悪気や害意は感じられなかった。
そして、思ったよりも、『かれ』は雛を見ているようだった。そして、『おとぎ話』、『お姫様』という言葉の華やかさに隠されている彼女たちの強さを、『かれ』はちゃんと知っていた。
ただ流されているだけでは、自分の命は守れないし、幸せは掴めない。

「あとほら、カタカナの『ナ』をちょっと右に傾けると『メ』に見えるし」

手振りで何かを右に傾ける。字面は確かに似ている。不意を突かれた雛が思わず破顔すると、それを見た『かれ』も表情を崩した。

「あ、笑った。もっと笑って、ぼくのヒメ」

思わず笑ってしまった雛だったが、指摘されるとすぐに笑みが顔から消えてしまう。自分でも思う、かわいくない一言が口からこぼれてしまう。

「ヒメじゃないし、あんたのものでもない」

何となく、今まで沢口に繰り返してきた、『ピィじゃない』というフレーズに、今の言葉が重なった。
――また新しいあだ名が増えてしまう。
なぜかすこし、悲しくなった。

「呼ぶなら、雛ってちゃんと呼んでよ」

名前をちゃんと呼んで。
雛のまっすぐな視線を受け止めた『かれ』は、今度はまじめな顔をした。それから、その表情を崩さないまま、ゆっくりと頷いた。

「わかった。ごめんね、ヒナ」

どこかの誰かと違い、真摯な(あるいは紳士な)対応をする。何度も繰り返してきたやりとりが、あっけなくこちらでは終わってしまった。
ただし無条件で、というわけではなかったようだ。

「……じゃあヒナ、ぼくのこともちゃんと名前で呼んで?」

『かれ』は再び無邪気な笑みを見せた。くしゃっと笑むその顔はとても愛らしい。
断る道筋を失った雛は、仕方なしに頷いた。

「……わかった」

頷いた、納得しただけではもちろん許さない。

「……呼んで、ヒナ。もしかしてぼくの名前、忘れちゃったの?」

問いかけられ、ゆるゆると首を振る。ここに連れてこられて、初めて会ったときに告げられたかれの名前。

「ううん。……覚えてるよ、『ゲッコウ』」

名前を呼ばれた『かれ』は満足げに笑って頷いた。
雛はついでに『かれ』の名前にかんして疑問に思っていたことを訊ねた。

「……『ゲッコウ』って、月にヒカリって書くの?」
「ううん、月に虹」

なんだか詩的。雛がそう呟く。

「へん?」

自信なさげにそう言う月虹は、さっきまでの強引な態度が嘘のように、弱気な表情になっていた。
月虹。確かに、ヒトの名前としてはあまり聞かない。
しかし、最近では名前の付け方も多様化しているし、一概におかしいとも言い切れない。

――そして何より。
ウサギのドールに『セロテープ』、パンダのドールに『茶碗』、くまのドールに『キャベツ』、獅子のドールに『弁蔵』と名付ける雛には、他人のネーミングセンスにどうこういう感覚も持ち合わせてはいなかった。

「いいと思う」

頷いた雛に、月虹は心底安心したような表情で笑みを返した。



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「……大丈夫ですか?Ms.円条」
「……ええ、私は平気です」

雛が行方不明になって1週間と1日。弓から呼び出されたセスは、円条家の執務室を訪れていた。
弓はいつものようにフォーマルな服装をしていたが、その顔色は明らかに白く、青かった。
目元はやや萎れており、泣きはらしたのかもしれなかった。
鉄の仮面を被っていたかのような円条グループの次期会長も、素顔は人の親だった。

「雛さんに関して、新しい情報はありましたか?」
「……いいえ。何も……」

力なく、ゆるゆると頭を振る。声には覇気がなく、耳元に届いた瞬間に消えてしまいそうな音だった。

「あの子にもしものことがあったら……わたしは……どうすればいいのか……」
「…………」

そこまで呟いて我に返った弓は、もう一度頭を振り、口元を歪めた。

「……ごめんなさい。今日はこの話をするために呼んだわけではないの」

デイヴィド博士の行方について――。弓が告げたその名前に、セスの表情がこわばる。聞きたいけれど、聞きたくない。いつかの沢口の気持ちがわかるような気がした。
ふ、と小さく息をついて、弓は顔を上げた。

「彼はやはり、この国にいるようです。ただし、正確な位置情報は掴めていません」
「――…………」

3枚程度のA4の紙を、弓はセスに手渡す。調査報告書だった。父は10年以上も行方不明だというのに、その行方の痕跡がこの程度の情報量ということにセスは驚いていた。
有数の情報のネットワークを持っているであろう円条の力を持ってしても、父の行方は不明瞭にしかわからない。

セスは時折、父の存在そのものを疑いたくなるときがある。
人はこれほど、痕跡を残さずに生きていけるものなのだろうか。
透明人間になってしまった――そうでもなければ、どうやって『誰に過程を見られることもなく、目的地につく』ことができるというのだろう。
XXXX年XX月XX日XX時XX分――父がとある場所に現れたことが記されている。ただし、その後の目撃情報についての記述はまた日付が飛んでしまっている。しかも、時間や日付どころのずれではない。年単位で飛んでいる。
その存在を認識するために、フラグでもついているかのような、父の足取り。それらが紙三枚分続いていた。
想像通りといえば想像通りで、あまり実のある内容ではない。セスの表情から落胆を感じ取ったのか、弓は申し訳なさそうな表情になった。

「ごめんなさい。総力を挙げてはいると思うのですが……」
「……いえ」

セスはゆっくりと頭を振る。
円条のネットワークでどれだけのことができるのか、それを試したかった。これだけの情報が集められたのは、おそらくは上出来と言っていいのだろう。

「十分です。ありがとうございました。もうこれ以上は結構ですので」

セスは顔を上げ、弓を見据える。
円条に父の情報を集めてもらったのは、弓からセスへの希望をのむための条件だった。

「卒業後は、御社のためにお力添えさせていただきます」

セスのその言葉に、弓は安堵の息をついた後、微苦笑を浮かべた。

「わたしは、母親失格ね。……こんなときにまで、会社のため、グループのため……」
「……」

セスは、開きかけた口を噤んだ。
娘の友人としても、識者としても何を言うべきでもない、そう思ったから。
弓は、また連絡します。と言うと、ふらふらと立ち上がり、セスを執務室から退出させたが、自分は部屋から出ることはなかった。
これからまた彼女は、自分の行動ひとつひとつを後悔するのだろうか。――雛のことを思いながら。

「……生きていて、くれよ、雛君……」

祈ることしかできない自分が、悔しかった。



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「ねえヒナ、ヒナのこと話してよ」
「え?……何、いきなり」

ベッドの上で月虹がどこからか持ってきた漫画の本を読んでいた雛は、つくえに突っ伏していたかれが突然身を起こして言い出した提案に面食らっていた。

「聞きたい!超聞きたい、ヒナのこと」
「……だから意味がわからない」

テンションが上がっている月虹をよそに、雛は相変わらず冷静さを保っていた。

「だってタイクツじゃん!」
「誰のせいだっての」

呆れた顔で雛がそう言うと、月虹は「ぼくのせいじゃないしー」と嘯く。
確かに、『主犯』は『かれ』ではないのだが――。

「でも、月虹だって『あいつ』の仲間じゃない」
「えー?でも、ヒナはぼくのお姫様だよ?」

――だから、あんたの所有物じゃないってば。あと話がかみ合ってないってば。
ここにきてから何度振ったかわからない頭を振る雛に、月虹はつまらなさそうな表情をしていた。
雛は、自分が誘拐されているという感じがどんどんしなくなってきていた。それは、目の前でのんきなことを言い続ける、月虹の存在によるものが大きい。
『かれ』が意図して彼女をリラックスさせようとしているかどうかは不明だが、雛はさほど神経をすり減らすことなく過ごしていた。
誘拐された人間というのは、想像以上のストレスを受けており、大人になってから身体や精神・神経に異常を来す場合が多いのだとテレビか何かで聞いたことがあった。
だが、とりあえず今の雛は、そこまでのストレスを感じていなかった。数日間はたしかに、ピリピリとしていたことは否定できないが――。

「ぼくの今の役目は、ヒナを守ること。ヒナがタイクツしないように相手すること」

ぼくの役目は、ヒナを守ること。そうはっきり言われると、相手は誘拐犯のはずなのに、なぜか悪い気がしなくなってしまう。
雛は困惑していた。
くるくると表情を変える月虹は、とても不思議な存在だった。きれいなその顔のつくりが、めまぐるしく変わるその表情が、見ている人間の警戒心をはぎ取っていく。

「ヒナヒマヒマヒナ!」
「もう、わかったから、とりあえず人の名前をいろんな言葉と掛けるのはやめてよ」

へらっと満足げに笑う月虹の表情からは、誘拐という犯罪にたいする罪悪感など微塵も感じられなかった。
『かれ』はただ目の前にいる雛との会話を楽しんでいて、雛に危害を加えるものから雛を守ろうと本気で思っているようだった。
それが100%本気だと断言はできないまでも、嘘だとも思えない雰囲気を『かれ』は持っていた。

そして、月虹に乞われるまま、雛はぽつりぽつりと語りだした。生まれ、育ち、親、家、友達、学校、ドール……。それにたいして月虹は疑問に思ったことや感じたことを素直に口にし、雛もまたたくさんの感情を言葉にした。
覚えていることもあったし、覚えていないこともあった。改めて思い直したこともあった。

それから、食事、休憩等を差し挟み、何時間もかけて、雛は月虹に自分のことを話した。他人に自分のことをこんなに話したのは、生まれて初めてだった。
自分のことがよくわかったような、もっとわからなくなったような、不思議な気分だった。
月虹はといえば、雛が話しているのをただひたすら聞いていた。雛の話にたいしての相槌や感想、質問は口にしたが、自分のことは何一つ喋らなかった。

「……月虹は?月虹の話は、ないの?」

雛は話の最中に何度かそう訊いた。しかし、月虹が返すのは、「ない」と至極シンプルな返答。

「ぼくには何もない。ぼくには、ヒナだけ」

雛はそれ以上追及することができず、また自分の話に戻る。それを繰り返した。



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雛は、やがて話し疲れて眠ってしまった。
月虹はその細い外見には似つかわしくない力で雛を軽々と抱え上げ、ベッドに横たえ、それから眠る雛の表情をのぞき込む。
長い睫。白い肌。かたちの良い赤い唇。撫でればさらさらと流れる、色素の薄い髪。

――誰にも探されていないヒナ。かわいそうなお姫様。
ヒナはまだ、それを、知らない。

「ぼくがきみを守るよ」

眠る彼女の手を取り、その甲にキスを落とすと、ふわりとブランケットを掛け、出口も入口もない部屋を後にする。
否、実際は出口も入口もないわけではない。こうして月虹が出入りしている以上、口は開いているのだ。
ただ、雛にはその扉への『権限』がない。
権限を持たないものは、その扉を見ることも使うこともできない。
雛にはない。月虹にはある。
それだけだった。

「……ヒナ、自分が探されてないって知ったら、きっと悲しむよね」

雛が生きてきた世界には、雛が拠り所としてきた人がいた。
彼が、雛がいないことを喪失と捉えておらず、躍起になって探していないと知ったら。さぞかし雛は傷つくだろう。

彼が。
もし、彼が。
最初から『雛を探せない状態』だったとしたら。
そうなれば、雛も仕方がないと思うのではないだろうか?

探そうとした。でも、探せなかった。
だから雛を探していなかった。

――ほら、彼の『落ち度』を隠すことができる。
妙案を思いついた月虹は、ポンと手を打った。

「そっかー!『沢口コウ』を消せばいいじゃんねー!」

ぼく、あったまいい!
月虹は、さも嬉しそうにそう言い放ち、雛に見せていたのとは真逆の、凶悪な笑みを浮かべ、声を立てて笑った。

「じゃ、『出して』もらわないとね」

大きく伸びをしていつもの穏やかな表情に戻った月虹は、足音も軽やかに、廊下を颯爽と駆け抜けていった。
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