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弓と少年

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 幾日かが過ぎた。
 あれ以来、キースは不気味なほど沈黙していた。もっとも彼も宮仕えの身である。特にニバール太子にはいたく気に入られていたので、ロゥランにばかり構っているわけにもいかないのだろう。
 ロゥランも無為に時を過ごしていたわけではない。あらゆる伝手を使って王宮の様子を探ってはいる。だが、相変わらず何の情報も入ってこないのである。
 報われない日々は、ロゥランのような人物にとっても気の重いものであった。
 それでも、なんとか気力を立ち直らせてロゥランが屋敷から出かけようとすると、弓弦の鳴る音と矢が的に突き刺さる音とがどこからか聞こえた。
 耳を澄まして聞いてみれば、その音は屋敷の裏手からのものである。
 行って見れば十二、三歳ばかりの少年が、ぎこちない仕草で弓を引いているところだった。おそらく屋敷に仕えながら修行する、見習いの身分の者だろう。
――懐かしいな。
 ロゥランも弓を学び始めたのはちょうどあの頃からだった。
 察するに、この場所は弓術の修練場なのだろう。壁には的が掛けられていて、騎士たちの激しい修練の跡が見える。
 少年の放つ矢はほとんど的を射ずに、壁に新しい穴を作ってばかりであった。
 見かねたロゥランは少年に声をかけた。
「慣れないうちにから無理に的を狙う必要はない。まずは正しい姿勢で射ることを覚えるんだ」
 突然声をかけられた少年はおどろき、振り返ってさらに驚いた。
「先生、弓がおできになるのですか」
 身分を偽っているロゥランは多少嘘を交えて説明しなければならなかった。
「多少はな。学者だって武芸の心得のある者はいる。特に弓ならなおさらだ」
 弓は神聖な武器なのである。矢は魔を打ち砕き、弓弦の音色は悪霊を払うと言われている。功成り名を挙げて宰相に抜擢されたとして、式典で弓射を外しては笑い者である。学者として大成しようという志があるならば、弓術の心得はあって当然のことなのだった。
「射は最初が肝要なんだ。誰も教えてはくれないのか?」
「はい。私のような若輩には、まだ早いと言われて、誰にも相手にしてくれません。キース様はよくしてくださいますが、なにぶんお忙しい方ですし」
「そうか。では私が基本を教えよう。少年、名前は何と言う?」
「フェルです」
「ではフェル。よく見ておくんだ」
 ロゥランはフェルの弓を取ると少年が見やすいようにゆっくりと弓を引いた。さすがにローテ家のものだけあって、よく手入れのなされた良弓であったが、少年の体躯には大きすぎる。そのぶん、ロゥランには扱いやすかった。
 ロゥランの放った矢は、吸い込まれるようにして的の中心に突き刺さった。
「すごい! 先生、本当にお上手なんですね」
「さては信じていなかっただろう。だが、この程度なら、練習を積めば誰でもできる」
 ロゥランは小ぶりの弓を取ってきてフェルに与えると、彼の姿勢を正しながら、弓を引かせた。
「弓と一つになって、まっすぐに当てることだけを考えるんだ」
 ふと、昔の記憶が蘇った。
 故郷の森の中、ロゥランが自分で見つけた練習場で、かつての自分も同じように教わった。
――まっすぐよ、ロゥラン。当てることだけに集中するの。
 あの時、ロゥランの手を取ってくれたのは、ロゥランよりも少しだけ大きな、そしてどこか優しげな弾力をもつ女性の手だった。母を早くに亡くしたロゥランにとって、それは特別な意味を持っていたような気がする。
 フェルが弓を放った。矢は的の中央をやや逸れはしたものの、心地よい音色で当たった。
「先生、当たりました!」
 見ればわかるようなことを少年はあえて伝えてくる。その様子もまたかつての自分と同じだった。
――そう、あなたが真っ直ぐな心を持てば、矢は真っ直ぐに飛んでいくの。だからね、ロゥラン。矢が真っ直ぐに飛んで当たるようになったら、もうそれ以上上達を望んではいけないのよ。
 師の言葉が何を意味していたのか、今のロゥランにならわかる。
 輝くような瞳を向ける少年に、修羅の道を歩ませるようなことはしたくはなかった。
「やはり、先生は弓の達人でありましたか」
 その場に光明を差し込むような澄んだ声にロゥランは振り返った。そこにキースがいた。
 フェルはキースに駆け寄った。
「キース様の仰ったとおりです。先生は本当に弓がお上手でした」
「侯子。これは一体どういうことですか?」
 言いつつも、ロゥランは自らが迂闊だったことを悟った。この数日、キースは必死になってロゥランを探っていたに違いない。ロゥランの部屋に出入りする下働きの者に命じれば、ロゥランが剣の他に弓を持ってきていることなどすぐに判る。そして、どうすればロゥランが技を見せるかを計算し、子供を使うことを思いついたのだ。
「ぜひとも、わたしも先生にご指導願いたいものだ。どうだろうか、先生。技を見せてもらえませんでしょうか」
 断りきれるものでもなかった。
「……見せるだけなら」
「では、あれを」
 キースが指さしたものは柳の木だった。細い枝は冬に向けて茶色の細葉をわずかに揺らしている。
 何を射るか自由に決めろということだった。無言のうちにロゥランの矜持を挑発していると感じた。
 ロゥランは素っ気無く柳の木の方角を向いた。
――三十七歩といったところか。
 ロゥランは弓を構えると、ほとんど狙いもせずに矢を放った。矢は真っ直ぐ飛んでいって、柳の枝をわずかに揺らした。
 キースは目を見張った。
「当った!」
 フェルが叫び、主人といっしょに柳の木へと歩み寄った。手に取って見れば、一枚の葉に小さな穴が開いている。人間技とは思えなかった。
 キースは剣を抜くと若干おかしなことをした。わずかの間柳の葉を見つめ、剣を構えたかと思えば、急に身体の力を抜いて葉を切り落とした。
 フェルには知覚しえなかったことだが、遠くからその様子を眺めていたロゥランには何をしたのかがよく分かった。
 主従が戻ってきた。キースは常の冷徹さをどこかに忘れたように声を弾ませていた。
「先生は神技をお持ちでいらっしゃる。やはり、一度試合などをしてみたいものです」
「剣と弓で、どうして試合ができましょうか」
「……本当にそうお思いか」
 含みの存在する言葉だった。
 キースは張り詰めた何かを解くようにフェルの頭を撫で、ロゥランに笑顔を向けた。
「私はこれから所用があります。フェル、先生にご迷惑をおかけしないように」
「はい。いってらっしゃいませ」
 フェルは憧れの眼差しを交互に向けながら言った。
 キースが去ったあと、ロゥランはフェルに先ほどの柳の葉を見せた。
「ごらん。侯子のほうがよほど神技をお持ちだ」
 ロゥランが柳の葉を持ち上げると、それは二股に分かれた。キースは細い枝の中央を正確に突き割ったのである。
 フェルは目を皿のようにしてまじまじとその葉を眺めていた。主人の技の凄みを改めて感じているのだろう。
 ロゥランもにわかに血潮が灼熱するのを感じていた。
 キースはまだ本気を見せていない。
――私と侯子が戦えば、どちらが勝つであろう。
 ロゥランは小さくかぶりを振った。
 それは自分の求める強さではない。
 師はこのようなことをして強さを得たわけではないのだから。
 あの包まれるような感触、頬に触れた長かった髪。
 思い起こせば懐かしい森の風と砂の匂い。
 少年の頃の記憶を、自分はもう、忘れかけていることに気がついた。


 それからさらに数日後。
 修練場では、弩を構えた男が、怯えきったように叫んでいた。
「侯子、このようなことをなされて、万一のことがございましたら」
「良い。言われた通りに放て」
 男は恐る恐る引き金を引く。
 弩は機械の力で弦を引く弓のことで、その速度と威力は人間の引く弓とは比べ物にならないとされている。キースに向けて放たれた太矢の勢いは、その評価を裏切るものではなかった。
 恰と目を見開いたキースが、握っていた剣を一振りした。
 剣が鳴った。
 おそらくは矢を弾いた衝撃が剣に鋭い振動を伝わらせて音を響かせたのだろう。
 剣を振り上げたキースの頭上には、跳ね上げられた矢が、高々と天を目指して飛んでいた。
 このところ、キースは弓に対する修練ばかりしていた。
 最初は、鏃のところに小さな砂袋をつけた矢を掴む修練から始まった。簡単にそれを成し遂げてしまうと、今度は複数に同時に弾く訓練を始めた。
 どうにも矢の速度に不満があったらしいキースは、ついに弩を持ち出してきたのである。弩から放たれる矢の速度に目を慣らすと、現在のようなことをしてみせたのである。
「ふむ、まあまあか」
 キースもようやく満足したように剣を見つめた。剣は刀身が反り返って使い物にならなくなっていた。さすがに、弩の矢の手応えは、人の手によるものとは比較にならないらしい。
「侯子、お怪我はありませんか」
「ああ。だが剣を一振り駄目にしてしまったようだ」
 苦笑気味に笑うキースは、周囲を見渡して何かを探していた。
「ああ、あれにしよう」
 彼が見つけたのは戦斧である。鉄造りの剛斧で、馬上から鎧をまとった敵を一撃で葬るために用いるのが本来の用途である。棹からその刃を外すとただの鉄棒となる。長さも剣とほぼ変わりない。
 それを振って手応えを確かめてからキースは再び男に言った。
「では、もう一度やってみよう。剣より重いから少し難しいかな」
「こ、侯子……」
 むしろ危険を楽しんでいるようなキースを見て、男はもはや開いた口が塞がらない様子であった。
 その様子を遠目で見つめている男がいる。
 微動だにせず、いつまでもキースの様子を眺めている。
 キースは時々その男の様子を気にするように振り返る。
 視線が交差すると、その都度、粛々たる雰囲気があたりに漂う。そしてそれは濃くなる一方であった。
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