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朱色の夢、碧の記憶

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 さらに数日後。
 キースは弓の修練をやめた。
 かわりに一人きりで外出するようになった。
 すなわちそれは、誘っているのである。
 彼は郊外の閑地にやってくると、そこで黙然と時を過ごす。目を瞑ってじっとしている。
 そのうちに噂が広まって、武芸者が二人、三人とやってきて勝負を挑むことがあった。比類なき剣名を持つ侯子である。その首は万金、いやそれ以上に値するのだった。
 キースはそれをこともなげに退けた。相手に傷ひとつ負わせなかった。彼にとっては赤子をあやすようなものだった。
 そうして居所が知れると場所を変え、一人で瞑想を続けつつ、彼は男の到来を待っていた。


 キースが何をしているのか、ロゥランはよく知っていた。
 キースの技のすさまじさを見て以来、彼はじっとしていることができなくなっている。
 早朝、誰もいないような場所に行っては身体を動かし、弓を射る。
 体内に、灼熱する太陽を放り込まれたような衝動が駆け巡りつづけている。
 ありもしない血の匂いを嗅ぐことがある。
――凄まじい剣撃だが、矢が入り込むだけの隙はあるはずだ。
 考えるのはそのことばかりだった。
 遠矢ではキースを仕留めることは不可能だ。
 キースは、おそらく人間として限界に近い反射速度を身に付けている。さらには剣の天才。どれほど速い矢を射掛けても、遠ければ軌道を読まれて、避けられるか払われるか、当てることができないだろう。
――十歩、十歩だ。その距離なら、侯子とて避けることも剣で矢を払うできないはず。
 それを可能にするのは必殺の一撃。
 まさしく疾風迅雷の矢。
 師が一度だけ見せてくれた神技ならば可能だろう。
 だが、ロゥランの技を持ってしても、師があの矢をどういう術理で放ったかがわからない。
――おれはあの矢に匹敵する技を得ているだろうか。
 ロゥランはキースの剣を思い、師に及ばない自らに落胆しつつ、それでも自らの技を確かめていたのである。
 しばらくの修練の後、半信半疑ではあったものの、ロゥランは自分の技に自信を深めた。
 そして、ロゥランはついにキースが一人佇んでいる野原へと足を運んでしまった。
 血の色をした夢の中をさまよう心地であった。

 曇天の、風が強い日だった。
 やがて雨がくるだろうと思った。
 風上に立ったロゥランは、弓を手に、藪の中に姿を潜ませつつキースの様子を探った。
 まだ距離がある。
――三十歩といったところか。
 キースは瞳を閉じたまま、微動だにしない。手ごろな岩の上で悠然と座している。
 果たしてこちらに気付いているのか。それすらもはっきりとはしなかった。
――気付いているだろう。
 否、気付いていて欲しいのだ。
 それは倒錯の極地であったかもしれない。
 ロゥランは戦いを望んではいない。だが、あの侯子には自分を理解してほしいのだ。
 誰も知ることのなかった自分の技を知ってほしい。
 そして、お互いを高めあいたい。
 そのためには戦わねばならぬ。戦って、生命の遣り取りをせねばならぬ。
――侯子。たしかに私はけものだ。戦いという肉を食らう、一匹の貪欲なけものだ。
 ロゥランは矢をつがえた。彼と戦って、最初から自分の間合いを作らせてもらえるとは思えない。相手を牽制し、動きを制しつつ、必殺の距離までキースを導く。
 鏃と、金色の標的が重なった。
――侯子。見るがいい。これが私の……技だっ!
 烈風が吹き荒れた。草木が散って、ロゥランの意識を一瞬をいずこかへと跳ね上げた。
(駄目ね、ロゥランは……)
 胸が痛みに疼いた。
 唐突に、緑の情景を思い出した。
 そこは故郷の森。自分だけの練習場。久しぶりに会うことができた師に、彼は自分がどれほど上達したかを見せようとした。師はロゥランの弓射を一しきり見終えると、ロゥランを優しく叱りつけたのだった。
(真っ直ぐに当たるようになったら、そこでやめるようにと約束したのに……)
 そうだった。
 ロゥランはそこで夢から醒めた。
 どうして師が自分に戦いを禁じ、なぜ自分がそれに従っていたのか。
 忘れる筈もないものを、一体どうして忘れてしまったのか。
――不射の術!
 師がその存在を教えてくれた弓の奥義。
 矢を射たずに射るという不可思議な技。その矢にかつて自分は貫かれたことがあったではないか。
――あれは、私の中の内なるけものを射たのか。
 ロゥランは弓を投げ捨て、愕然と膝を折ってその場で竦んだ。
 射たずにすんで本当に良かった。師との誓いを破るところだった。この誓いより貴重な物をロゥランはひとつとして知らず、誓いを結んだ相手はロゥランにとってもっとも神聖な存在である。それを、ロゥランの中のけものは食い破ろうとしていたのだった。


 ロゥランがその技を最初に目撃したのは、国境をまたいで狼藉を働く盗賊の本拠地を、周辺の諸侯らが合同で討伐隊を組織して、討ち取ったときのことだった。そのときロゥランは父の白侯イブンの供として討伐対に参加し、初陣を踏んだ。
 諸侯といっても、辺境に住まう彼らは王都で遊び惚けている貴族とはわけが違う。それぞれに戦陣の経験が豊富にある者たちばかりで、討伐隊は万事につけ慎重であった。事前に斥候などを出して規模と陣容はおおよそ知れていた。その報告によれば数は二百人程度。小さな渓谷の下に流れる川べりに作った砦をねぐらに持ち、その背後には鍾乳洞が存在するという。
 それだけの情報を得た討伐隊の参加者たちは会議を開き、対策を練った。
「賊らもなかなかに思慮深いことだ。いざというときは洞窟に逃げ込み、彼らしか知らない道を通って山の別な斜面に出ることが出来るというわけだ」
 イブンはそう言って、諸侯らに意見を求めた。できれば賊を逃がすことなく一網打尽にしたいのだが、これといった意見が集まらない。
 末席に座し、それまで発言を控えていた女性がはじめて意見を述べた。
「よろしければ、わたくしにお任せ願えないでしょうか」
 諸侯らはいっせいに柔若な女性を見遣った。イブンが代表して発言を促した。
「夷侯。なにか良い策をお持ちか」
 夷という名前は、彼女の出身の族名から付けられた呼称だ。夷という文字は、大弓を引く人、という意味がある。名前はアムリタと言った。彼女は王国のもっとも西北で、主にギンガ人でもシヴァ人でもない人々を集めた邑(むら)の長を務めていた。諸侯としてはもっとも新参者で、なおかつ若い。まだ三十を幾つか過ぎた年頃であった。
 彼女がなぜそのような立場になったか、その頃のロゥランは知らなかった。
「策というほどのものではありませんが、要するに洞窟に入れないようにすれば良いのでしょう。それなら、わたくしが何とかいたします」
 会議に参加した諸侯のうちの一人が尋ねた。
「何とかと簡単に言われるが、具体的にどうするつもりですかな?」
「壊します」
 あっさりとアムリタは言い切った。
 ぽかんと諸侯らは驚きのあまり言葉を発しなかった。だが、この場に及んで冗談や虚言を弄するような人物ではない。結局、彼女の言を信じ、準備が整えられた。
 イブンは息子にアムリタの供を命じた。
「ロゥラン。夷侯をお助けせよ」
「はっ」
 陣を出たアムリタはロゥランを従えて渓谷の見晴らしの良い場所を探すと、大きめの矢を選んで弓につがえた。
「本当に、それで洞窟が壊せるのですか?」
 ロゥランはアムリタを見上げて聞いた。
 その時の表情を彼は忘れない。
 幼い彼には、アムリタの美醜は良く判らなかった。今にして思えば、美しいと形容できたような気がする。ただ印象的な人ではあった。
 武技を会得した女性といえば、いかつい骨ばった女性を想像しがちだが、そういう種類の容貌ではなかった。それよりは村の井戸で水を汲み、熟れた果実を摘み取る若妻だと説明されたほうがよほど納得できる。
 ロゥランを見下ろした彼女の眼差しは、空腹の少年に林檎を差し出すくらいの気安さしかなかった。
「さあ。でもロゥランがお祈りしてくれれば、きっと上手く行くわ」
 ロゥランはなぜだか判らず、何も言えなくなってしまった。
 アムリタは少し微笑んで、軽々と大弓を引いた。あとで触らせてもらったのだが、並の男では引く事もできない強弓だった。
 むしろそっと押し出すように、矢は放たれた。
 稲妻が鳴った。
 川べりの切り立った崖が轟音とともに崩れ、それを合図として討伐隊の兵士たちはいっせいに盗賊たちに襲い掛かった。盗賊たちはなにが起きたが判然としないうちに次々と討ち取られ、捕らえられていった。
 眼下の捕り物劇を眺めつつ、アムリタは満足げに頷いた。
「上手く行ったみたい。ロゥランのお祈りのおかげね」
 少年は、恥ずかしげに告白した。
「あの、まだお祈りしていなかったのですけど……」
 アムリタは少し驚いたように目を広げて、次には微笑んでロゥランの鼻をつついて言った。
「まあ。どうりで少し手加減が効かなかったわけね」
 少年が必死になって弟子入りを願ったのは、その帰り道のことだった。

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