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不射の術

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 討伐隊を解散したイブンは、アムリタを領邦である白邑へと招待した。息子のロゥランに弓を教えてもらうというのがその口実だが、これを機に夷邑と白邑のよしみを結ぶのが真の目的だった。
 夷邑は新しく出来た邑であり、また異民族の集まる邑ということで、今まで他邦との交流が敬遠されがちであった。それを心配したイブンは討伐隊にアムリタを誘い、他族とのよしみを結ぶための気を配ったのである。
 西方でもっとも歴史と権威を持つ白侯が夷侯を招待したということは、すなわちアムリタが西方諸侯の一員として正式に認められたようなものであり、夷邑としては面目を大いに施したということになる。
 むろんそういう政治情勢の機微は、少年であるロゥランには関係が無い。彼はアムリタから弓を教わることに必死だった。
 ロゥランは教えを素直に受け取り、みるみるうちに上達していった。彼がその時教わったのは基本ばかりであったが、その後、彼は独自の工夫によってさまざまな技を編み出していった。
 ロゥランはまさしく天才であったのだ。
 数年後、アムリタが再びやってきたとき、十五歳になっていたロゥランは既に弓においてはシヴァ族随一の使い手になっていた。
 ロゥランの技を見て、アムリタはため息をついた。
「やっぱり。ロゥラン、約束を破ったわね」
 アムリタは弓を教える条件として、真っ直ぐに当たるようになったら修練をやめるようにロゥランに命じたのである。彼女の見るところ、ロゥランには才能がありすぎて、なおかつその才能に己を没してしまうという危惧があった。ロゥランは一介の武芸者ではない。嗣子ではないにしろ、侯子のうちの一人として、命の遣り取りなどは厳に慎むべき存在だった。
「すみません。でも、どうしてもやめられなくて」
 アムリタは首を振った。
「いいわ。ロゥラン、お父様に少し旅に出る許可を得てきて」
「先生と旅ができるのですか?」
 少年はわけもなくときめいた。アムリタは微笑んだ。
「うん。あなたにはきっと、良い経験になると思う」


 アムリタはロゥランを一度連れて自領に戻ると、ウルタという娘を連れて再び旅に出た。まだ九つになったばかりの幼子だ。名前にタとつくのが、夷族の習慣であるらしい。
 ちょうど、ロゥランにも同い年の弟がいる。そのためウルタとはすぐに打ち解けることができた。
 アムリタは旅の行き先をロゥランに教えた。目指すは、北方の聖地、恒山である。異民族、とくに遊牧民たちにとって神聖な山であり、その山麓には深い森が広がっている。
 アムリタは森までやってくると、山頂には赴かずに、幾日か森の中をあてもなくさまよった。
 ロゥランはウルタの相手をしながらその理由を尋ねた。
「一体、何をしているのでしょう」
「あなたの弓を探しているの。そのうち山の精霊が道を教えて下さるわ」
 人には、自分を守る木が存在しているのだと夷族は考えている。その木を見つけて自分だけの弓を作るのが成人の儀式なのだ。
 その木を見つけたのは、それからさらに数日後だった。
 雄雄しく葉を繁らせる大木であった。
「さすがロゥランね。とても立派な木。威厳があって、強靭で、ふふ、すこし頑固者ね」
「これが、私の木なのでしょうか」
「触れてごらんなさい。あなたにもわかるはずよ」
 言われてロゥランはそっと幹に手をよせた。不思議と冷たい感触だった。まるで鋼を触れているような、落ち着きと静けさをその木は持っているような気がした。確かに、明らかに他の木とは異なって感じる。
――これが己の本性なのだろうか。
 少年は初めて自分の本質に触れた気がした。
「さ、ロゥラン。これからあなたに奥義を授けます」
 いつの間にか、アムリタは弓を取り出していた。声音がいつもよりも冷徹である。
「奥義とは、あの時先生が崖を崩したあの技ですか?」
「そうよ。でも、あれはほんの一部。あなたに教えたいのは不射の術です」
「不射の術、ですか?」
 今まで一度として聞いたことのない言葉にロゥランは戸惑いを覚える。
「矢をつがえずに射ること」
 アムリタは技と術の違いから説明した。一言で言えば、術には人知を超えた力が宿っている。たとえば、占術という言葉はあっても、占技とは言わない。
「弓には、邪悪を払う力があります。でも、どのように上手に矢を射ても、目に見えない邪悪や悪霊といった形無いものを払う事はできません。つまり、射るということには限りがある。有限なのです。形無いものを払うには無限の術が要る。わかりますか?」
「なんとなくですが」
「いまはそれで良いのです。ロゥラン、あなたには才能があります。きっと私以上の才能が。悪霊はそういう人間に好んで憑くのです。だからこそ、あなたには上達してほしくなかったのだけど、あなたがそれを望むなら、悪霊と戦う術を身につけなくてはなりません。それを身につけたとき、あなたは弓を自在に扱うことができるようになるでしょう。望めば、あらゆるものを破壊し、あるときは人の心を砕くこともできる。これをして奥義と呼び、極めたということになるのです」
「そのためには、不射の術を修めねばならないというわけですね」
「そう。ではロゥラン。木の向こうに回って、手を添えごらんなさい」
 ロゥランは幹を半周して言われた通りにした。視界は大木によって遮られている。その向こうには、アムリタが弓をつがえているはずだった。
 森の気配が変わった。
 ロゥランは急に恐くなった。アムリタの弓に気が集まって、大きく膨れ上がっていることが戦士として成長したロゥランにははっきりと近くできた。
 畏怖がロゥランを包み込んだ。自分がどうにかなってしまう気がする。
 弓弦の音がした。
 にわかに信じがたいことが起きた。ロゥランが手を添えていた木が強い芳香を放つと、急に四散したのだ。
 砕け散った木片のむこうに弓のみを持ったアムリタの姿を認めた瞬間、胸の奥が何かに刺し貫かれたように痛みだした。
 思わず目を瞑った。
 魂が沸き立つような灼熱が、胸の奥から搾り出されていく。それが首筋から天に昇っていったことを自覚すると、ようやく痛みが引いた。
 気付けば、彼は自分の身長ほどの大きさ木の棒を握っていた。
「それがあなたの弓。ロゥラン、あなたに命じます。今の術を得なさい。そしてそれまでは、あなたに戦うことを禁じます。もし禁を犯すようなことがあれば、あなたは術を得られないと思いなさい」
「先生、不射の術は一体どうすれば得られるのですか?」
「静かに心の内側に目を向けるのよ。そこに無限の蒼穹を見つけたとき、術は完成するでしょう」
 そう言うアムリタは、すでにいつもと変わらない慈愛に満ちた笑顔を向けていた。ウルタがロゥランを心配して水筒を差し出してくれた。
 甘露かと思えた。
 喉を潤すと、ようやく周囲の状況が変わっている理解できた。
 光に包まれた碧の森は、限りなく美しい。渓流から生まれたそよ風が心地良い。山鳥は美しく囀り、木々は一つ一つが声を発していることに気付いた。
――変わったのは、自分か。
 第三の目が開かれたような心地である。
「先生。私をここに連れてきて下さってありがとうございます。私は、必ず不射の術を会得してみせます。会得したときは、必ず先生にお見せすると約束します」
 少年は感動した面持ちのまま、生真面目に頭を下げた。
 アムリタはその頭の上に手を置いた。
 これが旅の全てだった。
 その約束は、やがて彼にとって神聖な誓いとなったのだ。


 キースがいつもの閑地にやってくると、ロゥランが待ち受けていた。
「おや、先生。ついにお気を変えられたのかな」
 キースは期待に声を弾ませた。
「侯子。今日はあなたに知ってほしい話があって参りました」
 キースは戦ってもらえないことには不満げであったが、ロゥランがわざわざ聞かせようという話には興味を覚えたようだった。
 ロゥランは不射の術と、それにまつわる神秘的な体験を話した。
 話を聞き終えたキースは、信じられぬという顔つきであった。
「射ずに射る術ですか。先生の話を疑うつもりはありませんが、それは無から有を生み出すようなことではありませんか。剣を振らずに斬るようなものだ。そんなこと、本当に可能だと思っているのですか?」
「しかし、師は実際に俺に向けてそれを放ったのです」
「私には、その話に裏があるようにしか思えない。たとえば、先生の師は別の意図があってあえてそういう不可思議な体験をさせたとか。異民族には我らの知らない魔術を使う者もいると聞いたこともあります。そういう術をあらかじめ仕込んでおいて、あなたに何かを気付かせようとしたとは考えられませんか?」
 戦場の人であるキースは、戦いに対して浪漫的性質を有していたが、現実主義の一線は決して超えない怜悧さも持ち合わせていた。その感性が、ロゥランの話にある種の欺瞞を感じたのである。
 ロゥランだって、実際に体験してみなければそう思っただろう。
「侯子。あなたに信じてもらうためにこの話をしたわけではない。あなたと対決することには私も武人として強い誘惑を感じる。だが、どんなに惹かれているとしても、あなたと戦うわけにはいかないという理由を知ってもらうために話したのだ」
 その証拠としてロゥランはあらゆる武器を置いてきていた。その決然たる意志はキースにもしっかりと伝わったようだった。
「そうですか」
 キースは落胆を隠さなかった。
 ロゥランは自分はこの人が好きなのだとこの時、痛感した。
 しかし、彼には果たさなければならない役割があった。
「侯子。私はそろそろ王都を離れます。侯子の身辺を騒がせたことをお詫びいたします」
 もはや年内にシュクセンと連絡を取るのは不可能のようである。王宮の様子が不穏であることも伝えなければならない。一度故郷の白邑に帰るべきであろう。
「いや。悪いのは私の方だ。子供のように駄々をこねてすまなかった。いや、戦いを願うなどということに駄々をこねるという表現は穏当ではないが」
「わかります」
 ロゥランも苦笑した。自分たちは、なんと子供じみたことをしていたのだろうか。
 この様子を師に見られたら、やはりたしなめられるだろう。
 キースは手を差し出した。
「先生、よろしければ今晩は私の晩餐にご招待させてください。せめて、一夜をともに語り明かしましょう」
「願ってもないことです」
 二人は固く手を握り合わせた。
 だが、この約束は果たされなかった。
 その夜、キースはニバール太子に急に呼び出された。

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