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act.9「この空に両手を広げて」

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 そのビデオが届けたのは、絶望。
そしてそれを目の当たりにした瞬間、まず抱いた感情は「怒り」であった。
 いつか来るのではないかと怯えていた事態が来ただけだ。等と現状を飲み込めるほど私は冷静な人物でもなければ冷酷でもない。
『この人質もそろそろ飽きてしまったよ』
 機械音の混じったその声は愉快そうに私に向けて告げると、それに応答するかのように液晶に映る黒子のように全身を黒に染めた者が我が“娘”をその台の上に跪かせ、そして頭だけを伸ばした姿勢を強要する。彼女はアイマスクによって視界を遮られており、どうやら今の状況を半分程度しか理解していないようである。
 いや、半分程度理解しているからこそのこの落ち着きなのかもしれない。
 私はその映像を齧りつくように見つめる。ぎりりと両の握り拳が強く締まり、爪が深々と掌の肉を選り分け、乱暴に侵入していく感覚―痛み―が私を襲う。だが、それでも爪の食い込みが止まる気配はなかった。
『おとうさ――』
 暗闇の中でつぶやいた娘の一言。
 だが、それが最後まで発されることはなかった。
 強大な力を持ったそれは、乱暴にもその力を彼女の真上に振り落としたのだ。華奢な体をした少女には一たまりもないほどの一撃を。迷いもなくまっすぐに。
「遼……」
 私がひねり出せたのはそのたった三文字だけであった。それ以外の言葉を発したとして、今の状況では何の意味も無い。
 無念さもない。
 悔しさもない。
 悲しみもない。
 怒りも消えた
 感情は灰燼と化し、表情は消え、掌から零れる真紅は粒となって床に滴る。
 そこでビデオは止まった。私の中に存在していた時間という概念も、止まった。

   Act.9「この空に両手を広げて」
   9-1-御陵聡介の場合-

 目が覚めた。日の光がやけに目に沁みる。ああそういえばつい最近まで穴蔵生活だったもんなと、久々に見た強烈な光に少し嬉しさを感じた。
 そして周囲を見回し、私が最も早くに起きたことを確認してから立ち上がる。いつから付いたのか分からないが義手を付けた赤髪の青年―インフェルノ―は普段の飄々とした風貌からは想像もつかないほどのアホ面を提げて寝入っている。こういうところを見れば普通の大学生に見えなくもないのだが……。まあ普段の姿からして彼が大量虐殺者だとは誰も思うまい。
「さて……」
 すっかり萎びてしまった煙草を口に含み、火を付ける。今日はやけに煙草が苦く感じる日だ。まあ元からそういうものであるのだが。
 多分、今日が決行日であって、そんな日に見た夢があの日の光景であったことが気分を最悪にしているというのもあるのだろう。
 娘が死んだ。妻に手をつけられてはいないが、あれは多分「お前の周辺も人質に変わりはない」という警告であったのだろう。つまり動けば動くほど私の周りの人間は殺されていく。
 彼らの凶行を止める気持ちに迷いはなかった。けれども人は弱いもので、親しい者が関してしまうとあっという間に崩れてしまうものだ。監視されながらの生活もよかったのかもしれない。だが、それでわたしの心が満足をするということなどあり得ない。
 だからこそ私は表の世界から姿を消した。誰にも何も言わず、妻にすら一言も言わずに……。彼らは私が何をしているかわからないだろう。いや、元より目敏かった蠅が一匹姿を消した程度にしか思っていないかもしれない。兎にも角にも、目につくような動きをしなくなった奴に用はないのだろう。私の身辺の人物が死んでいないところを見るとそう予測がつく。
 ここでもしも私が失敗したらどうなるだろうか。
 答えは一つだ。親しい者が全ていなくなると考えてもいい。
「さて、どうするかね……」
 じりじりと煙草の火が根元へと近づいてくる。それがなんだかとても寂しく思えてくる。私は懐に忍ばせてある心無い冷たい金属の塊を手にし、寂しさと緊張の入り混じる感情を必死に溶かしていた。
「今日で最後にしてやるさ」
 私は自身に言い聞かせるようにそう呟いたのだった。

   ―――――

「行動を起こすにはちょうど良い時間だろう」
 インフェルノはにやりと笑みを漏らすと義手ではない方の腕をぐるりと回す。気合いを入れているのかこれから始まる出来事に刺激と快楽を見出しているのか、本来彼を捕える立場にいた私にはわからないが、なにはともあれ、味方であることがこれほどまでに心強いと思える人物もそういないだろう。
「私達はもう出るべきなのよね……?」
 山下由佳は緊張の色を浮かべた表情を見せつつもその一言を口にした。
「ああ、良い頃合いだ。俺達はこれから“精いっぱいのあがき”を奴らに見せつけ、断罪者という厄介な存在の抹殺にかかる」
 抹殺。
 今までならけして使うことのなかった言葉。だが、今私には奴を殺害するに至る理由がある。ごくり、と生唾を飲み込むと、私は彼に呼応するように一度だけうなづいた。
「俺達は多分、奴との相手で精いっぱいだ。この男がどこで自らの命を散らしたいのかは知らないが、お前らが守るしかないということを覚えておけよ」
「……うん」
 唇をかみしめ、彼女は下を向いた。
「失敗なんてさせない」
 山下とは逆に、水島由紀は鋭い眼光でインフェルノにそう誓う。
「その様子なら平気だろう」
 彼はそう言っているが、果たして本当に任せることのできる心理状況であるのかは、彼女自身にしか分からない。
 駄目だな、と私は自虐的に笑う。
 既に私の目標は「断罪者を殺害する」という復讐のみで構成されているようであった。そこに救うとか、守るとかそういった文字が存在していないのだ。あれだけ誰かの為に尽くしてきた自分が、一つの町が壊滅しかけているというこんな時に限って“復讐”の二文字以外考えようとしない。
所詮は一人の人間か。と私はヒーローにはけしてなれないことを今、この場でやっと認めてしまったのだった。
「さて、もう無駄話はそこまででいいだろう」
 その言葉に誰もが口をつぐんだ。
「行こう」
 私の放った一言が、全てを統括し、そして全ての者の行動に火を付けた。

   ―――――

 相模は街中をぶらりと歩いていた。
 あの事件の後、山下と水島の二人は姿を消した。山下との約束のことから考えて、校舎内での爆破ゲームよりも更に死に近い物事にかかわっているのだろうと相模は予測していた。いや、予測するまでもない事実といっても過言ではないだろう。
――おかえりって言ってもらえないかな?
 ただ、あの発言があるということは彼女はちゃんと帰ってこようとしているということだ。死を予測しての対峙をしようとしていると受け取れる発言がされたのなら、相模は例え彼女に嫌われようとも無理やりにでも二人に着いていくつもりであった。
「なるべく早めに帰ってきてほしいもんだ」
 携帯に新たに登録された「山下由佳」の字を見つめながら彼は一度だけ溜息を吐く。その息の行方が分からないように、自身の行方も皆目見当もつかない状態であった。
「俺は何をするべきか……。受験勉強っつっても、もう学校閉鎖やらなんやらでしっちゃかめっちゃかだし……」
 そんな独り言を吐き出しながら人ごみの中を前屈みで歩くのであった。
 ふと、そんな足元を見る彼の目の前に小さな袋が現れた。
「試供品です。よろしければ受け取ってもらえますか?」
「ああ、どうも」
 相模は何気なく受け取るとすぐさまにその袋を開けて中身を取り出す。
 ずるりと引き出したとれは、長い赤色紐に黒い玉の付いたやけに試供品としては簡素に見える首飾りだった。
「これは?」
「磁気を使って肩こりとかを治すものらしいです」
 袋を抱える彼女はにっこりと笑いそう答えた。よく見ると後方にまだ開けられていないダンボール箱が数個、積んである。
「らしいって……配ってる君もよくわからないのか?」
 相模は彼女の発言の中にあった「らしい」という言葉が単純に気になって思わず問いかけてしまった。ここ最近探偵まがいの行動をしてしまったせいか、他人の発言をよく観察するようになってしまったようだ。と相模はバツの悪そうな顔を浮かべながら頭を掻いた。
 そんな渋い顔をする相模を見た彼女は、苦笑しながら口を開く。
「実は私もそう説明されただけで、よく分かってないんです。一日試供品配るだけなのに給料がすごかったんで募集締め切りギリギリで飛び込んだ感じなんです」
「それはいつから募集してたの?」
「ええと、三日前くらいだったと思います。結構殺到してるみたいだったけど、応募したほとんどの人が採用されたみたいで。おかげでそこらじゅうでこれ配ってる人がいるっていう状況なんです」
「意外と採るものなんだね」
「ですよね。私もびっくりしましたもん。で、何も知らずに今日来たらこの袋の沢山入った箱をどっかり渡されて「これをひたすらに配り続けてほしい」の一言で」
 あらかた会話を終えると相模はありがとうと彼女に一礼してその場を離れた。彼女は周囲を行き交う人々に袋を無差別に渡す作業に戻って行った。
 その場を離れてから相模は喫茶店に足を踏み入れると窓際の一席にどかりと座り込んだ。そしてやってきた店員に適当な注文を行った後、先程手に入れた首飾りを見据える。
――磁気、か……。
 試供品とはいえあまりにも配り過ぎてはいないだろうか。応募者をほとんど採用していたということにも疑問を感じる。
「気のせい、だよな」
 不意に山下の姿が頭をよぎる。
ただ単にここ最近自身の警戒が強くなっているだけで、疑心暗鬼だといいのだがと、相模は首飾りを窓の外の陽にかざしてみる。
 光の通らない、本当に真っ黒い玉はどこか奇妙に見えた。

   ―――――

 拳銃に込められた弾数は六発。それ以上支給されてはいないし、それ以上を求めるにしては時間があまりにも短かった。それだけ私の参入は予定外であったということで、一パーセントでも奴を斃せる可能性が増えたのなら彼らにとったら嬉しい誤算だろう。
 既にもう一組は計画を遂行すべくこの街の中央部へと向かった。
 そして……。
「よお、あいつらを追いかけようって考えなら、それはもう無理だと思え」
 彼らと同行していた途中に、獲物は現れた。
 禍々しい空気を放ち、人間離れした筋骨隆々とした姿は見た者に吐き気さえ覚えさせる。それくらい彼はこの世界中にとっては不純物。
つまりは「異常」なのだ。
 それを彼も理解しているし、そして利用されていることも理解済みだと私は予測している。
 ただ存在させてもらえることに対する感謝。
 それが彼が殺戮を続け、杉原、水島の両者に従う理由であるのだろう。
 私はゆっくりと拳銃を構える。他の者たちも身構えている。
 その存在理由によって死者が増えるのならば、そんな理由程度で娘が殺されたのならば、その命を紙屑のようにして消し去ってやろう。
「お前は人を殺し過ぎた。それ相応の死をお前にプレゼントしてやる」
 途端、断罪者の開かれた口から怒声とも悲鳴とも覚束ない声が奔った。
それはハンマーのような衝撃が飢えた獣のように鼓膜目がけて駆けてゆく。閃光の如く奔るそれに対し私の反射神経が「塞げ」と叫び、私は即座にそれに呼応しこの音の衝撃からわが耳を守るべく手で耳を覆う。
 だが、それが一瞬のミスであったことに、行動を起こしてから気づいた。
 距離がとれていたはずのヤツの巨体が、その怯んだ一瞬の出来事の間に私の前に存在していた。
 私は咄嗟に彼の頭部に銃口を突き付け、そして断罪者は右拳を振り上げる。

 引き金が、引かれた。
この世界はとても広くて、それでいて寂しかった。誰かが叫んだ声でさえも大した距離は響かないし、それを聞いた者が誰しも振り返るとは限らない。
「そんな寂しい世界がこれからも在り続ける意味はあるのだろうか?」
 彼は問う。
「それは個人の考え方次第だろう、少なくとも私は世界のことなんて知ったことではないわ」
 彼女は答えた。それは、彼女の本心からの言葉であり、そして彼女は世界を限定しているという証明でもあった。
 彼女にとって世界という括りは自らの手の伸びる範囲での出来事でしかない。これは例えとかそういったものではなく、本当に腕の伸びる範囲なのだ。彼女にその範囲について問いかけてみたらどうなるかといえば、目の前で起きてる事象も、匂いも、景色も、時間の経過も。自らの経験するものでなければ堂々と全て「外界での出来事」に他ならないと言い捨てるだけ。それだけの世界なのだ彼女にとっては。
 だからこそ彼女は自らの手の届く彼が恋しい。自らの中で育った彼がとても恋しい。
 それは、手から離れてしまった今でもけして変わらない。変わり果てた姿となってしまった今でも……。

   act.9「この手を大空に広げて」
   9-2―驟雨とインフェルノの場合―

 その弾丸の合図とともに、インフェルノが傾いた。
 その傾いた姿を残像とし、気がつけば彼は断罪者の隣にいた。彼は瞬時に判断して動いたのだ。
――弾は外れた。と……。
 それからの彼の行動はとても速かった。横で潰されかけている御陵を横目に見てから、瞬時にポケットのオイルライターを取り出し、ガチリと音を出して着火するとそれを操り断罪者を火だるまに仕上げた。
 この間、わずか五秒弱といったところだろうか。集中して見ていないと見逃すレベルでの事象に思わず私は唖然とする。彼はここまで性能の良い子であっただろうか。いやそうではなかったはずだ。むしろコンディションで見れば最悪だ。
 時限爆弾は進行し、隻腕となり片腕は思うように動かないのだから……。
 そこで、彼はこちらを見て笑みを浮かべた。
「インフェルノ……」
 その寂しげな笑みが私に全てを悟らせた。
 あの身体はどれだけヒートアップしているのだろうか。高負荷を与えることによって彼が自らの体の限界を極限にまで上げているとしたのならば……。
 限界寸前だからこそのその事象に、彼は一体いつから気づいていたのだろうか。そして自らの体がもう朽ちる寸前であると彼はいつ確信したのだろうか。
 それだけの、気が狂ってもおかしくない状況で何故彼は今も最前で死と隣り合わせの戦いを繰り返すのだろうか。
次々と打撃と炎による殺意まみれの連打を与えていくインフェルノ。それでも堪えると行った様子のない断罪者。すっかりくたびれて少し離れたところで倒れ込む御陵。
彼は知っているはずだ。あの化物との相性を。その差を。
 それでも彼は笑っていた。
 笑いながら彼は戦っていた。
「インフェ……」
 そしてその時が訪れた。

 めり。

 何かがひねりつぶされるような、そんな音がした。
 断罪者による非情なる拳の一撃が、確かにインフェルノの腹部を捕え、そして渾身の力で振り抜かれたのだ。今の音は、そんな打撃を受けたインフェルノの身体が悲鳴を上げ、潰れ、“肉”という身体を守る鎧が悲鳴を上げた音。
 彼はその腕に必死にしがみつき、そして大量の血を口から吐きながら、それでも彼の眼の光は消えない。
「……緋色っ」
 思わず叫んだその真名に、彼は果たして気付いただろうか、いや、気づく筈はないだろう。何せ彼にこの名を呼んだことがあるのは幼少の時期。そんな遥か昔の出来事を覚えているわけがない。
 けれど、彼は私へと視線を向けてくれた。血まみれの顔で、一度だけ微笑んだ。
 あの様子でまともに彼に言葉が届いているとは思えない。けれども、その笑顔が、まるで返事を返すかのようなその視線が、私の心をぐっと掴んだ。
 私は今、ここで何をすべきなのだろうか。ここに残った意味は、ここにいる意味は。
 私が緋色に何かすることができるのだろうか。
 考えろ。
 考えろ。
 考えろ。
 考えろ。
 そして私は小瓶を一つ取り出すとそれを片手に握りしめ、断罪者の許へと駆けだした。

   ―――――

 今の一撃は効いた。多分致命傷になることが確定した一撃だった。自分の中身がぐちゃぐちゃに砕け散っているのが感覚で分かる。多分体液と内臓の破片が混じって、スープのようにでもなってるのではないか。そんなイメージが頭に浮かぶような激痛だった。
 けれども、ここで吹き飛ばされてしまったら、多分立ち向かう気力は生まれないだろう。
 俺は必死にその鉄骨のように太い腕を両の腕でがっちりと掴む。何かがこみ上げてくるが、それを必死に飲みこみ尚も視線は断罪者に向ける。
 それでも我慢しきれなかった血が、断罪者の腕にかかり、そして残りが地面へとぼたりと流れ落ちる。
「――」
 どこかで呼ばれた気がした。俺は断罪者の腕を抱える両腕の力を持続させながらそちらに視線を向ける。
 驟雨がいた。
彼女がとても哀しげな視線でこちらを見ている。多分、外から見てこの状態は多分「助からない」ようなものなのだろう。それは自分自身で分かっている。が、それでもこうやって現実的な視線を向けられるとこちらとしても複雑な心境となる。
 とりあえず微笑んでみる。それが大丈夫だというニュアンスでのものなのか、はたまたもう助かりそうもないという諦めの念による笑顔なのかは自分でも分からない。
 確かに自分はここで死ぬと感じたのは事実だ。いや、これだけの重傷を受ける前からそれは確信していたことだ。身体を巡る熱は一向に上がり、その熱気で体中が悲鳴を上げていた。勿論それは俺の意識もむしばみ、今だって力を込めるのをやめて、地面に崩れ落ちでもしたらそこで終わりだろう。むしろこの一撃が良い気つけ薬になった。まだ俺はやれると、気持ちは折れずに踏みとどまれたのが良かった。
「まだやれる」
 それが自分への気負いなのか相手への威嚇なのかは分からないが、しかしそれで奴の意識は確実に俺へと向いた。
 そして、後方の“存在”に気付いているのは、多分俺だけ。
 俺はちらりと断罪者の方向を見る。震える腕で、しかし確実にこの化物の頭部へと向いた銃口があった。御陵も意識は途絶えかけのようで、多分この一撃がラストチャンスになるかもしれない。
「よお、怪物野郎」
 断罪者に笑みを見せ、そして右手で奴を指差す。

「死ね」

 刹那、一発の銃弾の音が響き渡った。

 それは残酷にも断罪者の“頭部を掠り”、そして彼方へと消えた。その絶望的な光景を目の当たりにした俺は思わず手の力を緩め、そしてずるりと断罪者の身体からずり落ちる。
 立ち上がる余力もない身体でゆっくりと御陵を見る。
 そこには、満足げな表情を浮かべ拳銃を握り締めた御陵の“亡骸”があった。

   ―――――

 神様はとても悪人に意地悪なのだと、その時気付いた。その思考の中に私が神を信じているといった意味合いが含まれているかといえばそれは皆無で、むしろ進行などという存在自体に興味は全くない。むしろ嫌いなくらいだ。
 けれども、その時私はふと思ってしまったのだ。“神様は意地悪だ”と……。きっとこの目の前で起こっている事象を認めたくなかったのだと思う。そして、具現的でない存在の責任にすることでこの状況を亡きものにしたかったのだと思う。だってそうでなければ私の頭の中の幾らもある言葉の中からわざわざ信じてもいない神というワードを引っ張り出すことなんてないのだ。
 銃弾が掠っただけ。
掠っただけなのだ。
可笑しいものだ。あれだけ死を覚悟して挑んでかすり傷を付ける程度で終わり、しかも片方は逝き、片方は最早死に体。五体満足のまま存在しているのは私と断罪者という状況で、私に高い戦闘能力があるのかといわれればそれは無きに等しいわけで。
 つまり、あれだ。絶体絶命という言葉が似合うのだ。この状況を一言で例えるとするならば。
 この瓶の中の液体をかければ数秒単位で断罪者の動きを止めることができるかもしれない。けれども、それが今更どうなるというのだ。決定的な一撃を与えられる可能性の残っていた御陵は死に、インフェルノも最早炎を出す気力なんてあるはずがないのだ。
 いや、拳銃があれば……しかしその拳銃もわざわざ断罪者の懐に飛び込まなければ撮りに行くことができない。それこそまさに自殺行為だ。
「まだ……やる……」
 不意に聞こえたインフェルノのひねり出すように出された言葉。
 そうやっていて、初めて自分が今「死なないためには」という考えのもとで動いていることに気づく。死ぬ覚悟という言葉を馬鹿みたいに出しておきながら、いざピンチとなればこれか。と私は自らの思考に対して嘲笑を送る。
 心音が落ち着く。
 思考が崩れ落ち、一本の道だけが残った。
 その中に、覚悟という言葉は最早必要とされていなかった。
私は断罪者の懐へと飛び込む。インフェルノへとトドメを刺すべくゆっくりと拳を構えていた彼は突然の闖入者である私の存在を見て多少戸惑いの眼を見せた。
 私は瓶のキャップを抜くと、その戸惑いの色の見える両の眼に迷いなくその中の液体をぶちまけてやる。

 途端、悲鳴。

 刹那、絶叫。

 耳を劈くようなその“騒音”を振りまく奴を尻目に私は御陵の亡骸へと滑り込むとその手から拳銃をむしり取り、そして間髪いれずに断罪者の頭部目がけて弾丸を射出。この間に一体何秒かかっているのかは分からないが、少なくとも“恐ろしく速い動作”であっただろうということだけは感じられた。
 そして射出された弾丸は断罪者のこめかみに的中した。
 したのだが、そこで奇妙な光景を私は目にした。
 “弾丸が見えて”いるのだ。突き抜けずに、やつの中に埋まるようにしてそこにそれは存在しているのだ。
 正直いってその光景はとても異様であったし、胸やけのするような感覚が身体を包んだのも確かだった。
 だが、断罪者の動きは鈍っていた。足元はふらついているし、視界は液体によって完全に潰れている。もう一発、もう一発で多分こいつは死ぬ。
「驟雨……」
 インフェルノが、私の名を呼んだ。
「……大丈夫?」
「はは、どこをどう見れば大丈夫だと?」
 彼はいつものように冗談を吐くが、それでもその言葉に余裕は感じられなかった。
「あと一発で、多分やつは死ぬわ」
 彼は分かってると呟き、そして私に“一番残酷な言葉”を吐いた。
「トドメは俺に刺させてくれ。ちゃんと俺があいつを連れていく」
 その連れて行くという言葉は、とても私には残酷なのだ。

   ―――――

 インフェルノという名を与えられてから、こいつに会うまでにそれほど時間はかからなかった気がする。というよりも、気づけばそこに存在していた。といった方がよいのだろうか。
 奴に知能というものは全くと言っていいほどなかった。それが俺と同じく改造されたからであるということも、大体予測がついていた。というよりも、これだけ図体のでかい人間がいるかといわれればそんなわけがない。人工的な大きさなのだ。やつは。
 ある時、俺はやつと二人きりになった時があった。珍しいことだ。普段なら笹島に連れられているやつが何故その時一人だったのかは知らない。だが、その滅多にない光景だけに俺はとても興味を惹かれた。
「なあ、お前、したいこととかないのか?」
 不意にその言葉を振ったのだが、やつは一点を見つめたまま動かない。反応なしか、と思い溜息を吐いた辺りで、奴の口が静かに開いた。
 多分、それは彼の本心で、でもそうなることが怖くて、それを知られることも怖くて、寄り添おうとしてもその相手がいないから今までずっとはけなかった言葉なんだと思った。

――解放されたい。

 何故その言葉を俺に行ったのかは分からないし、理由にも興味は特にない。
 けれども、その一言を聞いて、今現在のこの状況、俺が既に死に体で、寿命も短くて、助かる要素がない状況で、おそらく断罪者も重いダメージを追っている状態。それは多分チャンスであると思ったのだ。
 やつに主導権がなかったとしても、何かを殺し続けたキラーマシンであることには変わりない。いや、俺自身もまさにそうだ。
 そんな殺人を犯し続けてきた二人が、今その苦しみから解放されるのだ。ならば、せめて逝くときは一緒に逝ってやろうと思った。
 ただそれだけ。
「分かるんだ……もう身体が限界だってことが」
「……」
 驟雨は喋らない。ただ俺の言葉を聞き続けている。
「あいつと話した時に言ってた言葉を叶えてやりたいんだ」
「最後くらいなんだ。奴だってしたいことをさせてやりたい」
 俺の言っていることはとてもめちゃくちゃで、支離滅裂で、驟雨に伝わるかといえば多分答えはNOだろう。
 けれども、彼女は静かに頷くと、呻き、そして衰弱し始めている断罪者の目の前へと連れて行ってくれた。
「よう、化物」
 やつは喋らない。
「散々やってくれたおかげで、俺も一緒に死ぬみたいだ」
 やつは喋らない。
「だからさ……」




「もう、終わりにしようぜ。殺すのも、生きるのも……さ」



 断罪者の首が、縦に振られたのを、俺は確かに目で確認した。
62, 61

  

 多分その打撃は私の身体の全てを砕いた。
 断罪者の横にいながらも相手にすらされていないことから私という存在が最早「敵ではない」と判断されたのだろう。そんなこと、奴がこちらに向けた目を見て一瞬で分かった。ああ分かったさ。そしてそれが好機であることもちゃんと分かっている。
 激痛は意識をがりりと抉りとり、感覚を麻痺させ、むしろこのまま眠ってしまうべきなのではないかと思うくらい激しい刺激を生んだ。いや、本当に私は眠りたかったのかもしれない。
 虚ろな目はもうじき閉じるだろうし、この手もあと少ししたら力を込めることもままならなくなる。自分の身体だ。そんなこと考えなくても感じられた。ああ死ぬんだって、不思議と怖さもなく受け入れることができた。
――遼……。
 多分この一連の出来事の中で、最も輪の外にいたであろう私の娘。だがその存在は私がこの世界にのめり込めばのめり込むほど自動的に重要性を増し、そして最後には私自身の目の前で死ぬこととなった。いや、彼女からすれば誰にも見られず殺されるのだと思っていた可能性はある。だって、あれは“ビデオ”だったのだから。
 不意に視線を上へとぐりりと上げると、こちらを見て微笑む、しかし満身創痍といった姿のインフェルノがいた。そして彼は全力で奴に立ち向かっていた。
 分かっている。ここが好機なのだ。ここで全てを終わらせるための、小さな小さな火種を消すための大きな終止符が打てるのだ。やらないわけはないだろう。
 私は震える右手を上げ、わずかな力で、しかししっかりときつく握られた拳銃を掲げ、銃口を奴の頭部に向けてセッティングする。
 この引き金を引けば、弾丸は奴の頭部を抉りとり、そして奴の生命に打撃を与えることができるだろう。改造された人間とはいえ、その鋼鉄の肉体には当たり前だが限界があるはずだ。ましてや頭部。脳みそまで筋肉にでもなっていない限り大丈夫なはずだ。
 さて、そんな無駄な思考をする意識すらなくなってきたようだ。さっさと撃って、私は退場するとしようか。最早痛みという感覚すらなくなってきた。このまま腕の感覚もなくなれば、インフェルノの決死の囮が無駄になってしまう。
 私は娘の事を想う。
彼女は私を許してくれるだろうか。巻き込むだけ巻き込み、救うこともできなかった私を……。きっと許してくれるという自信が、何故だかあった。
 私は引き金に指をかけ、そして呻くように言葉を吐き出し、そしてガチリ、発砲音。

――くたばれ、化物。

 そこで私という感覚は、意識は、存在は、肉体は、終わりを迎えた。

   act.9「この空に両手を広げて」
   9-3―どこかで―

 終わりにしよう、の言葉に断罪者はその意思の読み取れない、いやある意味この世界で最も純粋ともいえるそのビーダマのような瞳(すっかり血に濡れてしまっているし、奴が見えているとはとうてい思えないのだが)でこちらをのぞき込み、そして静かに一度だけうなづいた。
頷いたのだ。
これには流石に驚かざるを得なかった。大した返答は期待していなかったし、声に気付いた奴が掴みかかってきたところでこの刻々と近づく時限爆弾と共に一緒に片づけてやろうと思っていたのだが……。
 少々、というか大分、この決着の付け方が俺にとって気持ちのいいものになったのかもしれない。
「俺、そろそろこの身体も限界なんだよな。多分お前もそんな感じだろ?」
「……」
 獣のような重低音しか放たなかった口が、ぱくぱくと動いていた。やっと、いやこれまでにそんなことをしたいと願ったことはないが、奴と意思疎通ができた気がした。気持ちを互いに把握し合うことができたのがまさかこんな場だとは、と俺は思わず笑ってしまう。
「面白いよなぁ。優れた存在を目指して造られた筈の俺らが欠陥だらけっていうね」
「……」
「ホント、面白いわ……」
 奴は黙って聞き続けていた。いや、聞いているのかどうかすら分からない。何せ視線を交わすこともできないし、奴には表情という者が存在しない。
それでもいいのだ。痛みに意識を失っているだけかもしれないし、先程の頷きだって意識が飛んだ時に身体の力が緩んだ証拠かもしれない。
 それでもいいのだ。
 それでもいい。
「インフェルノ……」
「驟雨もありがとうな。多分、あんたがいなきゃこんなことはできなかったさ。一方的に殺されるか、一方的に殺すか、そのどちらかだったと思う」
 そう言って身体を支えてくれる彼女に向けて笑みを浮かべた。不思議と彼女のことは嫌いになれないのだ。初めて会ったときから、ずっとずっと……。
この感覚はなんなのだろうか。愛とかそんな大したワードではないと思う。似た存在……でもないな。彼女はおそらく常人だ。もしかしたら人も殺したことはないのだろうかと思えるほどに純粋で、誠実な存在。
「俺という役割はここまでと決まってたんだ」
 それは多分別れの言葉。何故だか、彼女にはしっかりと別れを言うべきだと、この身体が限界に向けて加速して行くにつれて強く、強く思っていたのだった。
「俺をこうした張本人を殴りたいというのはあったけど」
 だから。
「まあそれはあいつらの問題だし」
 だから。
「俺の役割ではないんだ」
 だから……。

 さよならの言葉がどうしても出ないのだ。

 その考えが、俺の中で生まれた時、ああ俺はまだ人間だったんだとひどく安心できた。
 非常に滑稽だろう。今まで沢山の人間を燃え散らせて、別れを告げさせる間もなく殺してきた血塗れの俺が“さよなら”のたった四文字が口に出せないのだ。
 だから、俺は口をつぐみ、そして彼女を一度ちゃんと見てからゆっくりと断罪者へと視線を戻すことにした。
 端正な顔立ちで、とても綺麗だった。ここで何かしら特徴に色をつけるのもいいが、俺個人の意見としては綺麗という二文字でしめたい。
「さよならは言わなくていいよ」
 驟雨は突然そう口を開いたかと思うと、ゆっくりと俺に向けて微笑む。
「私も一緒に行くわインフェルノ、いえ……緋色」
 その誰も知らないはずの名が響いた瞬間、俺の存在が肯定されたような、そんな気がしたのだった。

   ―――――

 私が生んだ子は、私の知らないうちに消えて、私を知らないうちに育っていった。元々はそんなつもりで産む筈じゃなかったのに、気づけば捻じ曲げられた世界は私を敵として存在させ、そして蔑んだ。
 けれどもその出来事に思ったほど悲しみや苦しみを感じはしなくて、ただぽっかりと胸の中にあったはずの何かが抜き取られたような、そんな感覚だった。ああ私は実の子供を奪われても悲しみを感じることはないのか、とぼんやりとした頭で考えたものだった。
 気づけば夫は消えていた。
多分毎日生気のない私に愛想をつかしたのだと思う。当たり前だ。互いを見て欲しくて付き合いが始まったはずなのに、いつの間にか片方はそっぽを向いているのだ。何を言っても、何をしても反応がない。
そんな支えようとしてもするりと抜けていく恋人をそれでも支えられるほど人間は上手くできていない。子孫を残すべくして組み込まれているその一連の行動の“一つ”としてプログラミングされた思考の通りに夫は動いただけなのだ。

 しばらくして、私は製薬関係の仕事を始めてみた。何もせずに過ごすよりも気は紛れるのかもしれないと初めて見たのだが、意外と効果はあった。
あったが、それでも仕事が終わればまたぼんやりとした世界に一人戻ってしまう。生きたまま死んでいるような、そんな感覚。

 そんな時だった。
大通りで不意に通りがかった少年の姿を見たとき、不意にあの子が成長したらこんな子になってたのではと思い、そして次の瞬間にはその感覚に妙な現実感が伴っていることに気付いたのだ。
――緋色だ。
 一瞬だって覚えている。私が産んだ子供だと感じた。生まれたばかりの姿しか見ていないし、何故あの子が既にあそこまでの大きさになっているのかは分からなかったが、それでも不思議と充足感が心を埋め尽くした。
 あの子は生きている。
 それから私はあの子を追うようにして今現在の位置へと立った。薬に関する知識をフルに使って彼の許にもぐりこんだのだ。
 奪い返すわけでもなく、彼に私が母親だと言うつもりもなかった。
ただ傍にいたかったのだ……。

   ―――――

「その名前、何故?」
 力ない表情で緋色は私の顔を覗き込む。
「……私が名付けたんですもの」
 言うつもりのなかった真実を、私は静かに解き明かす。それは、何故だかとても柔らかくて、気持ちのよい感覚だった。ああ、打ち明けるということはこんなにも気持ちが良かったのかと思わず身を震わす。
「私が何故いつもあなたと行動を共にしていたか分かる?」
「……」
 彼の覚悟は揺らがない。だから、せめて――
「息子と一緒にいたい。それが私の目的だったからよ」
 言わずにおこうと思ったその言葉をはっきりと言った。
「俺の母さんはあんただった……のか」
 そうか、と彼は静かに微笑む。
「俺もあんたと一緒にいるのが嫌いじゃない理由が分かったよ」
 その言葉が本心なのか、それとも形式上の言葉だったのか分からないが、それでも私は笑った。
「けれども、たとえあんたが何を言おうとも俺は――」
 多分彼は自らの炎に身を焼かれるだろう。そして同時に断罪者という存在も共に連れて行こうとしている。そうしなければならなくて、それ以外の道もないということは私だって分かっている。
 だから、私は彼の口をさえぎり、そして抱きしめ耳元で囁く。
「分かってる。でも、一人で行くことないじゃない」
 多分それは私の最高の幸福。

「これからはいつも一緒だから、ね?」



 暫くして静寂が訪れた。遥か向こうで聞こえる騒ぎとは間逆の世界が、ここにはできていた。
 笑いながら目を閉じた警官。
 墨と化したもはや人間とは呼べぬ巨大な塊。
 そして――

 その巨体の傍に、抱き合ったまま転がる二人の黒いシルエット。

 世界は静寂に包まれていた。

Act.9 END
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