第五章
ノリさんを殺害し、歴史を消し去る─。
礼儀正しく、頭脳明晰、人当たり良好にして、挙措端正、およそ人倫の観点において僕の対角線上に位置する彼女の口から、「殺害」という凶暴な言葉が飛び出して来るとは、想像の埒外であった。この凶暴な力が傷つけようとするのはノリさんであり、彼女自身を含む未来の日本なのだ。綺麗なバラには棘があると言うが、彼女の持つ棘は、自分自身をも刺し貫こうとしている。その痛みと引き換えにして、世界の可能性の一つに終止符を打つ積りなのだ。
掛け布団に半分以上、顔をうずめている彼女は、眼をつむり、感情の光を閉ざしている。体の具合がすぐれないため、眼を開けるのがシンドイのだろう。そうして眼を閉じていると、今しがたの強い言葉が嘘のように、穏やかに見えた。彼女が口にした言葉だけが、宙に浮いてさまよっているようだった。
この状況で、どんな言葉を彼女にかけたらいいのか、適当なセリフが思い浮かばない。僕はこういう状況に対して、とことん機転が利かない。病気で寝込んだ奥さんを看病しようとして、逆に奥さんを怒らせてしまう旦那は、きっと僕みたいなタイプだろう。
しかし、始めてしまった会話は着地させねばならないし、そもそも話を振ったのは僕だ。聞かなかったことにする訳にもいかない。僕は訥々と言った。
「もし・・ノリさんが今死んでしまったら、未来の日本はどうなるのかな・・。首謀者がいなければクーデターは起きないし、帝国なんてものも出現しないのかな。でも、ノリさんが日本の首相に上り詰めたのは、もとはと言えば、恐慌を乗り切った手腕が評価されたためだよね?ノリさんがいなくなっても、やっぱり恐慌は起こるんだよね?だったら、きっとノリさん以外の誰かが、やっぱり同じように・・」
僕が言いよどむと、サカキ・マナミが後を継いだ。
「ノリ帝国が消えたとしても、同じような人物が同じような行動を起こす可能性は、もちろんあります。私が知っている2043年は、歴史のあらゆる可能性の、たった一つの結果でしかないことも分かっています。別の道筋を辿ったときに、どんな結果が出るかは、分かりません」
「良くなるかも知れないし、悪くなるかも知れない、と」
「少なくとも今選ばれている・・選ばれようとしている結果は、間違いです」
彼女はそう断言した。
ものごとの価値は、相対的なものだと思う。ある状態を悪と見なすのは、それよりも良い状態があっての話だ。比較対象が存在しなければ、良いも悪いもない。サカキ・マナミの言い分は、比較対象とするべき別の未来がまだ分からないのに、今実現している未来を悪だと決めつけている。もし、ノリさんの代わりに、より独裁的で冷酷な指導者が権力の座に着いてしまったら?ノリさんが権力を握る今の未来の方が、よっぽどマシだと感じるのではないか?
だがこれも、僕のような立場での一方的な言い分である。僕にとっての未来は、まだ空想上の出来事に過ぎない。どう転んでも机上の空論以上の話にはならない。デパートの地下街で陳列棚に並んだケーキを、どれが一番美味しそうか吟味しているだけの立場だ。決断がつかないなら、選ばずに済ます事だって出来る。デパートの営業時間が続く限り、いつまでだって考えていられる。一方、サカキ・マナミは、すでに一つの未来を現実として生きてしまっているのだ。もう“選んでしまっている”。選ぶ前に吟味することと、選んでしまったものを矯めつ眇めつ眺めることでは、質がまるで違う。彼女がその現実を悪しきものと感じるなら、少なくとも彼女にとっては確実に悪しきものなのだ。
真正面から議論を交わしても、きっと平行線を辿るだけだろう。むしろ、こういう議論の不毛さなんて、彼女はとっくに承知しているのかも知れない。重力制御装置や時間制御装置については懇切丁寧に説明してくれた彼女も、この話題については多言を費やそうとしない。決断したら粛々と行動するだけという事か。その強靭な意志に敬服しつつも、たった一人で決断せざるを得なかった彼女を、なんだか切なく思った。
そうは言っても、彼女はまだノリさんに接触していない。このまま思い留まってくれれば、彼女は殺人の罪を犯さずに済むし、ノリさんも来シーズンに向けて順調な仕上がりを見せるだろう。僕にとってはそういう未来こそが、差し当たっては望ましい。もっと別な方法で日本の未来を変え、彼女の父親を救うことは出来ないだろうか。殺人を断念させつつ、別のやり方を模索すること。
僕は口を開いた。
「もし・・僕がキミと会った時に、そのまま名古屋ドームの観戦チケットを渡していたら、どうなっていたかな。仮にキミが名古屋ドームへ入場できたとしても、外野席だし、ノリさんに接触することは出来なかったんじゃないかな・・」
そう問い掛けた直後に、そうじゃない、と僕は自答した。
彼女は重力と時間を自由に操るための、稀有な能力を携帯している。
不可能事などがあろうか。
案の定、彼女は少し間をおいて答えた。
「もしノリ選手と遠く離れていても、居場所が目視できるなら、問題はないんです。時間制御装置で時の流れを止めて、重力制御装置で空中を移動すれば、見咎められずに、すぐ近くへ移動することが出来ます。手が届く範囲まで近づければ、後は・・」
と、彼女はそこで言葉を切った。
最後に出現するはずの血なまぐさい一言は、決意を固めていたとしても、頻繁に口にできるものではないのだろう。
しかし、と僕は考える。それだけ万能な装置を所有しているなら、2043年の日本でノリ皇帝を殺害することも、不可能ではないはずだ。それどころか、テロ行為に走らずとも、時間を止めている隙に父親を監獄から脱出させるぐらいのことは、出来るのではないか。
「その装置を使って、お父さんを監獄から助け出すことだって・・」
僕が話し出そうとした時、それを打ち消すように彼女は言った。
「私は1年間、秘密警察の手を逃れながら、時間制御装置と重力制御装置を作り続けました。でもその間、帝国評議会も同じように、押収した父の発明品を分析して、同じ装置を完成させて行ったはずです。彼らが父を捕らえた理由の一つは、この装置の設計概念を父から聞き出すことが目的だったのだと思います。仮に、父が一切の協力を拒んだとしても、装置の設計図面は秘密警察に押収されていますし、実際の装置も押収されています。だから、それらを分析してそっくりコピーすれば、原理が理解できなくとも、装置を大量生産することは可能だったと思います。帝国の連中は抜け目なく、この装置を国内の治安維持や国家的な安全保障・・戦争行為にさえ利用しようと考えているでしょう」
そしてもちろん、テロ行為にだって利用できる、と僕は心の中で独りごちた。
彼女は話を続ける。
「もし帝国が、時間制御装置や重力制御装置を実用化しているとしたら・・それも何台も大量生産した上で、秘密警察のエージェントに配布していたとしたら、私がこの装置を持っているアドバンテージは何も無いんです。2043年において、私だけがこの装置を持っていたなら、父を救うことは可能かも知れません。でも、恐らくそうではないんです。私が時間を止めたところで、彼ら秘密警察も時間制御装置を用いるでしょう。私が停止した時間に彼らの装置を同期することで、時間停止は無効化されるはずです」
つまり、これがイタチゴッコだという事を、彼女は最初から見通していた訳だ。だからこそ時間遡行して、この特別な装置が他に存在しない状況で、一気にケリをつける積りなのだろう。こういう先手の打ち方ができなければ、命の蝋燭はあっさり吹き消される。それが彼女の暮らしていた世界なのだ。シビアな駆け引きを1年間続けるだけの有能さは、やはり特筆すべきものだと思う。天晴れ。と、特筆すべき間抜けさに苛まれる僕が言っておこう。
その時、ある不穏な点に気づいた。
「その・・秘密警察が時間制御装置と重力制御装置を持っているとしたら、彼らも、時間遡行できるということ・・だよね?」
「おそらく」
「じゃあ、もしかすると、キミの後を追って・・」
「秘密警察のエージェントが、私を追ってこの時代に潜入している可能性は、十分にあります。時間遡行は危険な行為ですが、秘密警察なら躊躇しないでしょう。成功率が低いとしても、何度も繰り返せばいずれは成功するでしょうし。だから、急ぐ必要があるんです。彼らに見つかる前に、全てを終わらせなければ・・」
彼女の言葉には焦燥感が滲んでいた。その気持ちとは裏腹に、床から起き上がることさえままならない今の状況は、歯がゆい限りだろう。それが逆に彼女をテロ行為から遠ざけている事実は、僕からすれば不幸中の幸いと思えた。
だが、しかし。
秘密警察が、彼女の後をヒタヒタと付け狙っている事実は変わらない。もしその連中と遭遇することになれば、タダでは済まないだろう。残りの人生を一瞬で失うか、死ぬまで後悔し続ける生活を強いられるに決まっている。正直、時間遡行に身を投じただけでも、彼女の肝の座りっぷりには驚かされたが、その上、別の危険とも背中合わせとは全く恐れ入る。爪の垢でも煎じて飲ませて欲しいぐらいだ。プレイとかじゃなしに。
その時だった。
玄関の訪問ブザーが、「ビー」という不躾な音を鳴らした。
安っぽい電子音に、僕はビクっと体をこわばらせた。
恐る恐る玄関を振りかえると、もう一度ブザーが短く鳴った。
僕は玄関ドアをじっと見据えて、その向こうに佇んでいるはずの訪問者を想像した。
来月の家賃はもう支払ったから、アパートの管理人ではないはずだ。新聞の集金は年に数回しかやって来ない。宅急便の配達なら、僕の名前を大声で呼びかけて来るだろう。怪しいところでは宗教の勧誘員、もしくは、羽毛布団、浄水器、輸入掃除機といった生活不必需品の販売員。どの道、真昼間からこんな安アパートを訪ねてくる人間なんて、胡散臭い輩と相場が決まっている。しかし、あるいは・・。
布団にくるまったまま身動きしないサカキ・マナミに、僕はちらっと視線を漂わせた。
あるいは・・秘密警察・・。
僕はゴクリと唾を飲み込んだ。
礼儀正しく、頭脳明晰、人当たり良好にして、挙措端正、およそ人倫の観点において僕の対角線上に位置する彼女の口から、「殺害」という凶暴な言葉が飛び出して来るとは、想像の埒外であった。この凶暴な力が傷つけようとするのはノリさんであり、彼女自身を含む未来の日本なのだ。綺麗なバラには棘があると言うが、彼女の持つ棘は、自分自身をも刺し貫こうとしている。その痛みと引き換えにして、世界の可能性の一つに終止符を打つ積りなのだ。
掛け布団に半分以上、顔をうずめている彼女は、眼をつむり、感情の光を閉ざしている。体の具合がすぐれないため、眼を開けるのがシンドイのだろう。そうして眼を閉じていると、今しがたの強い言葉が嘘のように、穏やかに見えた。彼女が口にした言葉だけが、宙に浮いてさまよっているようだった。
この状況で、どんな言葉を彼女にかけたらいいのか、適当なセリフが思い浮かばない。僕はこういう状況に対して、とことん機転が利かない。病気で寝込んだ奥さんを看病しようとして、逆に奥さんを怒らせてしまう旦那は、きっと僕みたいなタイプだろう。
しかし、始めてしまった会話は着地させねばならないし、そもそも話を振ったのは僕だ。聞かなかったことにする訳にもいかない。僕は訥々と言った。
「もし・・ノリさんが今死んでしまったら、未来の日本はどうなるのかな・・。首謀者がいなければクーデターは起きないし、帝国なんてものも出現しないのかな。でも、ノリさんが日本の首相に上り詰めたのは、もとはと言えば、恐慌を乗り切った手腕が評価されたためだよね?ノリさんがいなくなっても、やっぱり恐慌は起こるんだよね?だったら、きっとノリさん以外の誰かが、やっぱり同じように・・」
僕が言いよどむと、サカキ・マナミが後を継いだ。
「ノリ帝国が消えたとしても、同じような人物が同じような行動を起こす可能性は、もちろんあります。私が知っている2043年は、歴史のあらゆる可能性の、たった一つの結果でしかないことも分かっています。別の道筋を辿ったときに、どんな結果が出るかは、分かりません」
「良くなるかも知れないし、悪くなるかも知れない、と」
「少なくとも今選ばれている・・選ばれようとしている結果は、間違いです」
彼女はそう断言した。
ものごとの価値は、相対的なものだと思う。ある状態を悪と見なすのは、それよりも良い状態があっての話だ。比較対象が存在しなければ、良いも悪いもない。サカキ・マナミの言い分は、比較対象とするべき別の未来がまだ分からないのに、今実現している未来を悪だと決めつけている。もし、ノリさんの代わりに、より独裁的で冷酷な指導者が権力の座に着いてしまったら?ノリさんが権力を握る今の未来の方が、よっぽどマシだと感じるのではないか?
だがこれも、僕のような立場での一方的な言い分である。僕にとっての未来は、まだ空想上の出来事に過ぎない。どう転んでも机上の空論以上の話にはならない。デパートの地下街で陳列棚に並んだケーキを、どれが一番美味しそうか吟味しているだけの立場だ。決断がつかないなら、選ばずに済ます事だって出来る。デパートの営業時間が続く限り、いつまでだって考えていられる。一方、サカキ・マナミは、すでに一つの未来を現実として生きてしまっているのだ。もう“選んでしまっている”。選ぶ前に吟味することと、選んでしまったものを矯めつ眇めつ眺めることでは、質がまるで違う。彼女がその現実を悪しきものと感じるなら、少なくとも彼女にとっては確実に悪しきものなのだ。
真正面から議論を交わしても、きっと平行線を辿るだけだろう。むしろ、こういう議論の不毛さなんて、彼女はとっくに承知しているのかも知れない。重力制御装置や時間制御装置については懇切丁寧に説明してくれた彼女も、この話題については多言を費やそうとしない。決断したら粛々と行動するだけという事か。その強靭な意志に敬服しつつも、たった一人で決断せざるを得なかった彼女を、なんだか切なく思った。
そうは言っても、彼女はまだノリさんに接触していない。このまま思い留まってくれれば、彼女は殺人の罪を犯さずに済むし、ノリさんも来シーズンに向けて順調な仕上がりを見せるだろう。僕にとってはそういう未来こそが、差し当たっては望ましい。もっと別な方法で日本の未来を変え、彼女の父親を救うことは出来ないだろうか。殺人を断念させつつ、別のやり方を模索すること。
僕は口を開いた。
「もし・・僕がキミと会った時に、そのまま名古屋ドームの観戦チケットを渡していたら、どうなっていたかな。仮にキミが名古屋ドームへ入場できたとしても、外野席だし、ノリさんに接触することは出来なかったんじゃないかな・・」
そう問い掛けた直後に、そうじゃない、と僕は自答した。
彼女は重力と時間を自由に操るための、稀有な能力を携帯している。
不可能事などがあろうか。
案の定、彼女は少し間をおいて答えた。
「もしノリ選手と遠く離れていても、居場所が目視できるなら、問題はないんです。時間制御装置で時の流れを止めて、重力制御装置で空中を移動すれば、見咎められずに、すぐ近くへ移動することが出来ます。手が届く範囲まで近づければ、後は・・」
と、彼女はそこで言葉を切った。
最後に出現するはずの血なまぐさい一言は、決意を固めていたとしても、頻繁に口にできるものではないのだろう。
しかし、と僕は考える。それだけ万能な装置を所有しているなら、2043年の日本でノリ皇帝を殺害することも、不可能ではないはずだ。それどころか、テロ行為に走らずとも、時間を止めている隙に父親を監獄から脱出させるぐらいのことは、出来るのではないか。
「その装置を使って、お父さんを監獄から助け出すことだって・・」
僕が話し出そうとした時、それを打ち消すように彼女は言った。
「私は1年間、秘密警察の手を逃れながら、時間制御装置と重力制御装置を作り続けました。でもその間、帝国評議会も同じように、押収した父の発明品を分析して、同じ装置を完成させて行ったはずです。彼らが父を捕らえた理由の一つは、この装置の設計概念を父から聞き出すことが目的だったのだと思います。仮に、父が一切の協力を拒んだとしても、装置の設計図面は秘密警察に押収されていますし、実際の装置も押収されています。だから、それらを分析してそっくりコピーすれば、原理が理解できなくとも、装置を大量生産することは可能だったと思います。帝国の連中は抜け目なく、この装置を国内の治安維持や国家的な安全保障・・戦争行為にさえ利用しようと考えているでしょう」
そしてもちろん、テロ行為にだって利用できる、と僕は心の中で独りごちた。
彼女は話を続ける。
「もし帝国が、時間制御装置や重力制御装置を実用化しているとしたら・・それも何台も大量生産した上で、秘密警察のエージェントに配布していたとしたら、私がこの装置を持っているアドバンテージは何も無いんです。2043年において、私だけがこの装置を持っていたなら、父を救うことは可能かも知れません。でも、恐らくそうではないんです。私が時間を止めたところで、彼ら秘密警察も時間制御装置を用いるでしょう。私が停止した時間に彼らの装置を同期することで、時間停止は無効化されるはずです」
つまり、これがイタチゴッコだという事を、彼女は最初から見通していた訳だ。だからこそ時間遡行して、この特別な装置が他に存在しない状況で、一気にケリをつける積りなのだろう。こういう先手の打ち方ができなければ、命の蝋燭はあっさり吹き消される。それが彼女の暮らしていた世界なのだ。シビアな駆け引きを1年間続けるだけの有能さは、やはり特筆すべきものだと思う。天晴れ。と、特筆すべき間抜けさに苛まれる僕が言っておこう。
その時、ある不穏な点に気づいた。
「その・・秘密警察が時間制御装置と重力制御装置を持っているとしたら、彼らも、時間遡行できるということ・・だよね?」
「おそらく」
「じゃあ、もしかすると、キミの後を追って・・」
「秘密警察のエージェントが、私を追ってこの時代に潜入している可能性は、十分にあります。時間遡行は危険な行為ですが、秘密警察なら躊躇しないでしょう。成功率が低いとしても、何度も繰り返せばいずれは成功するでしょうし。だから、急ぐ必要があるんです。彼らに見つかる前に、全てを終わらせなければ・・」
彼女の言葉には焦燥感が滲んでいた。その気持ちとは裏腹に、床から起き上がることさえままならない今の状況は、歯がゆい限りだろう。それが逆に彼女をテロ行為から遠ざけている事実は、僕からすれば不幸中の幸いと思えた。
だが、しかし。
秘密警察が、彼女の後をヒタヒタと付け狙っている事実は変わらない。もしその連中と遭遇することになれば、タダでは済まないだろう。残りの人生を一瞬で失うか、死ぬまで後悔し続ける生活を強いられるに決まっている。正直、時間遡行に身を投じただけでも、彼女の肝の座りっぷりには驚かされたが、その上、別の危険とも背中合わせとは全く恐れ入る。爪の垢でも煎じて飲ませて欲しいぐらいだ。プレイとかじゃなしに。
その時だった。
玄関の訪問ブザーが、「ビー」という不躾な音を鳴らした。
安っぽい電子音に、僕はビクっと体をこわばらせた。
恐る恐る玄関を振りかえると、もう一度ブザーが短く鳴った。
僕は玄関ドアをじっと見据えて、その向こうに佇んでいるはずの訪問者を想像した。
来月の家賃はもう支払ったから、アパートの管理人ではないはずだ。新聞の集金は年に数回しかやって来ない。宅急便の配達なら、僕の名前を大声で呼びかけて来るだろう。怪しいところでは宗教の勧誘員、もしくは、羽毛布団、浄水器、輸入掃除機といった生活不必需品の販売員。どの道、真昼間からこんな安アパートを訪ねてくる人間なんて、胡散臭い輩と相場が決まっている。しかし、あるいは・・。
布団にくるまったまま身動きしないサカキ・マナミに、僕はちらっと視線を漂わせた。
あるいは・・秘密警察・・。
僕はゴクリと唾を飲み込んだ。
6畳間は、水をうったように静まりかえっていた。ブザーの余韻が重苦しく漂っている。
サカキ・マナミは先般より、口を閉ざして一言も発しない。急に睡魔に襲われたのでなければ、僕と同様、あのブザーに対して神経を尖らせているに違いなかった。
余白のような沈黙が長引くほど、僕の悪い予感が確信へと近づいていく。頭の中では「秘密警察」という四文字が亡霊のように浮かび上がり、暴飲暴食で弱り切った胃袋へチクチクと突き刺さってくる。これからは胃に優しいものを食べよう、と食習慣に対する反省の念を抱いたりした。
僕は意を決して立ち上がり、抜き足差し足で玄関へと近づいた。高鳴る動悸をおさえつつ、玄関ドアの覗き穴から、外の様子をうかがってみる。人間が不信感という観念に取り憑かれるゆえ、この直径5ミリの穴は存在する。僕もまた、拭いがたい不信感から、魚眼レンズの120度角の視野に我が身を託すのだった。
いま、僕の右目には、玄関前の様子がありありと映しだされていた。その風景に点在するものを数え上げてみよう。一つ、渡り廊下にこびりついた鳩のフン。二つ、寒風に舞うファミリーマートのコンビニ袋。以上。人っ子一人いない。風景というより殺風景と言った方がいい。幽霊の、正体見たり、枯れ尾花。
高揚した気持ちが肩透かしを食ったためか、妙な寂しさも多少は感じないでもない。道を歩いていたら5メートル先に写真雑誌のグラビアとおぼしき肌色の紙切れを見つけて、ドキドキしながら近づいたら、全日本プロレスの総力特集だった時のような寂しさ。・・まあ別に、秘密警察と出くわしたかった訳ではないが、高揚感の代償を求めたくなるのが人間の悲しい性である。
そうして、ちょっとした虚脱感に浸っていた矢先、視界の右端を、こげ茶色のふくよかな物体がよぎった。そのしなやかな動作は、田中康夫を髣髴とさせるぐらいしなやかであった。立派なヒゲをたくわえ、手入れの行き届かない毛並みをモソモソと揺らし、四つ足で大地をガッシリと踏みしめている。僕はその姿に見覚えがあった。近所に住みついているオスの野良猫(推定3歳)に間違いなかった。
休日にコンビニまで出かけると、途中で薄暗い路地を横切る。その路地の片隅に電信柱が一本立っていて、薄暗い路地をいっそう暗くする影を落としている。その影に寄り添うように、野良猫がじっとうずくまっている光景を、僕は何度か見たことがある。猫は夜行性だから暗い場所が好きなんだな、などと根拠のない感想を浮かべて5分で忘れてしまうのが、僕と彼との関係の全てであった。
だが今の彼は、ノラのわりに堂々たる体躯を陽の光にさらし、アパートの渡り廊下をノシノシ踏みしめていく。その足取りには、およそ遠慮というものが感じられない。己のために敷かれた道を、もったいぶって歩む、王者の風格を漂わせている。世界史の資料集に載っていた、赤絨毯を踏みしめて皇帝の椅子へ進み行くナポレオン・ボナパルトを思い出させた。
この態度から察するに、きっと近隣の野良猫をアゴでこき使える程度のポストを占めているに違いない。コソコソしていない。女の子にモテるタイプだ。もし彼がウチの会社で働いていたら、僕より確実に出世しているだろうし、コンパとかもしまくりだろう。仕事の合間に洗面所の脇でOLたちと談笑してても「仕事をサボってる」とかチクられない存在。彼のことは信頼してますから、みたいな。ああイヤラシイ。羨ましい。僕は、激しい嫉妬からくる悲嘆に嗚咽を洩らしそうだったが、比較相手が畜生類であることを思い出して、すんでのところで思い留まった。
それはさておき、この野良猫の優雅な散歩を前にして、僕はある重要なファクターに気づいた。一般的に、野良猫のような野生動物は、警戒心が強いものである。滅多に人前には姿を現さない。その動物が、今、何の気兼ねもなく呑気に渡り廊下をテクテク歩いているという事実。この事実が示唆するのは、いまこの付近に、彼を警戒させるような生物・・つまり見ず知らずの怪しげな人間は潜んでいない、という真理である。
仮に、サカキ・マナミを付け狙う秘密警察が、この付近に潜伏しているとする。先ほどブザーを鳴らした人物がその一味である可能性は否定できない。けれども、その危険人物が今も玄関前に潜んでいたり、近くに身を隠していたら、野良猫はこんなに無防備な姿を晒さないだろう。見慣れた近隣住人か、どこから見ても安全そうな人物・・年寄りや子供の類であれば、気を許すこともあり得る。だが、人の命を付け狙うような輩は、尋常ならざる殺気を帯びているだろうから、野良猫とて迂闊に近づくまい。
これは、僕にしては珍しい、完璧に近い推理であった。仕事でもこの力量が発揮できれば・・と悔やまれてしょうがない。今だったらクイズ番組で大桃美代子と五分に渡り合えるだろう。早押し三択とかで。
その晴れ晴れとした爽快さが、僕にある悪戯心を抱かせた。秘密警察と鉢合わせする事態は当面、目の前から去ったわけで、僕としてはちょっとした気晴らしがしたかった。どんな気晴らしかといえば、魚眼レンズの向こうで悠々と散歩を楽しんでいる野良猫をビックリさせて、ニャーニャー言わせてやる、というものだ。僕の深層心理は、小学校低学年から一向に進化していない。「少年の心を持ってる人が好きです」とコンパで発言したことのある女性のみなさんは、責任とってください。
僕は、野良猫がビクっとする顔を思い浮かべて、一人でニヤニヤしながら、玄関ドアのノブを握り締めた。計画はいたってシンプルだ。ドアの真正面に来た瞬間、ちょっとの遠慮もせず、ためらいなく、ものすごい勢いでドアを開いてやるのだ。これはいける。何がいけるかはよく分からない。とにかくいける。高鳴る鼓動。僕は覗き穴から野良猫の位置を確認しつつ、その時をじっくりと待った。やがて野良猫は、ヒタヒタと呑気な足取りで、玄関の前まで通りかかった。僕はここぞとばかり、渾身の力を込めて、ドアを開け放った。
野良猫は・・しかし、ビクっとしなかった。ニャーとも鳴かない。驚かない。振り向かない。焦らない。迷ったりしない。予想とは裏腹に、開いたドアの事などまるで気にもとめない表情で、マイペースに散歩を続けている。少しヒゲが揺れたけど風でも吹いたかなあ?と言わんばかりの、涼やかな目元。無念無想、あるいは泰然自若とは、まさにこのような境地であろうか。より端的に表現するならば、完全無視。空気扱い。僕はやり場のない虚しさに襲われた。
あてどない気分で立ちすくんでいると、ファミリーマートのレジ袋が風で舞い上がって、僕の顔にベタリと張り付いた。避ける間もなかった。その時、野良猫が初めて僕を振り返り、「そのゴミ、拾っとけよ」とでも言うように、ニャーと短く鳴いた。僕は自分の敗北をかみ締めざるを得なかった。だが、この敗北は、単なる序章に過ぎなかったのである。
「あらあら?お部屋にいたのなら、返事ぐらいしてくれればいいのに。ブザーが聞こえなかったのかな?それとも、返事が出来ないようなやましい事でもしてたのかしらね?」
どこか責めるようなその言い回しは、吹きつける寒風にのって、僕の耳元へ飛び込んできた。一瞬、野良猫が喋ったのかと思って、ピンとヒゲの伸びた丸い顔を、僕はじっと見つめた。しかし野良猫は迷惑そうに首を横に振るだけだった。うん、それはないよね。ということは・・。
僕はドアから身を乗り出し、声のした方角を覗き込んだ。渡り廊下の端っこには鉄筋の非常階段が横付けされていて、アパートの地上から屋上まで、垂直に延びている。その非常階段の陰に、華奢な女性のシルエットが確認できた。その人物が誰なのか、考えるまでもなかった。透き通った声と妙に刺々しい言い回し。僕の表情はゆっくりと苦いものに変わっていく。そこに立っていたのは、紛うことなき、増田翔子であった。
「風邪をひいてるわりには、随分と元気そうに見えるわね?」
「あ・・ええ・・」
落ち着いた口調の増田翔子に対し、僕はいつものようにモゴモゴと口ごもる。日陰の中にたたずむ彼女は、微笑んでいるのか不機嫌なのか、判然としない表情だ。僕の個人的な統計に従えば、彼女が微笑んでいる可能性は限りなく低いので、不機嫌に違いないと考えることにした。何事もマイナスから入れば、本当にマイナスだった時のショックを軽減できるからだ。坂道の途中に置かれた石は、風が吹けば転げ落ちるかも知れないが、一度坂道の下まで転げ落ちた石は、それ以上転がる心配がない。乞食に貧乏無しとも言う。ダメ人間が身につけるべき処世術である。ただし、坂道の一番下の石も、通りがかりの犬猫に蹴飛ばされて、さらに深い沼へ転げ落ちる可能性は否定はできない。
「ニャー」
と僕の足元で野良猫が鳴いた。すると、非常階段の脇にたたずむ増田翔子が「ありがとう」とでも言うように、野良猫に向かって小さく手を振った。野良猫は「あばよ」と言わんばかりにシッポをクルリと回し、一仕事終えた満足げな顔で、スタスタと渡り廊下の散歩を再開させた。なんだこれ。男前な立ち去り方をする野良猫と、増田翔子の間で、僕はおぼつかない視線を右往左往させた。
しばらく考えて、ようやく気づいた。こいつら、グルに違いない・・。
ブザーを鳴らしても僕が表へ出てこなかったため、増田翔子はわざと野良猫を玄関前に配置して、僕をおびき出したのではあるまいか。今、二者間で交わされた親密な合図は、その作戦がまんまと成功したことを互いに讃えあった挨拶に他ならない。しかし、一体どうやって増田翔子は、初対面の野良猫をたらしこんだのか?僕にはおよそ見当もつかないが、女が先天的にそなえる権謀術数の能力は、ときに人間と動物の垣根を超えるのかも知れない。相手がヒトだろうとケモノだろうと、♂をたらしこむのが♀の役割だと古来から決まっている。女はみんなモノノケ姫なのである。
女に買収された野良猫のダラシなさや、ついうっかり釣り出されてしまった僕のダラシなさを、ここであげつらうには及ばない。くだんの野良猫はもう廊下を渡り終えて姿を消し、その場に残されたのは、僕と増田翔子の二人だけなのだから・・。
10メートルほどの距離を挟んで増田翔子と向き合った僕は、これから起きるであろう不測の事態に対する言い訳を、必死に頭の中でめぐらせ始めていた。
サカキ・マナミは先般より、口を閉ざして一言も発しない。急に睡魔に襲われたのでなければ、僕と同様、あのブザーに対して神経を尖らせているに違いなかった。
余白のような沈黙が長引くほど、僕の悪い予感が確信へと近づいていく。頭の中では「秘密警察」という四文字が亡霊のように浮かび上がり、暴飲暴食で弱り切った胃袋へチクチクと突き刺さってくる。これからは胃に優しいものを食べよう、と食習慣に対する反省の念を抱いたりした。
僕は意を決して立ち上がり、抜き足差し足で玄関へと近づいた。高鳴る動悸をおさえつつ、玄関ドアの覗き穴から、外の様子をうかがってみる。人間が不信感という観念に取り憑かれるゆえ、この直径5ミリの穴は存在する。僕もまた、拭いがたい不信感から、魚眼レンズの120度角の視野に我が身を託すのだった。
いま、僕の右目には、玄関前の様子がありありと映しだされていた。その風景に点在するものを数え上げてみよう。一つ、渡り廊下にこびりついた鳩のフン。二つ、寒風に舞うファミリーマートのコンビニ袋。以上。人っ子一人いない。風景というより殺風景と言った方がいい。幽霊の、正体見たり、枯れ尾花。
高揚した気持ちが肩透かしを食ったためか、妙な寂しさも多少は感じないでもない。道を歩いていたら5メートル先に写真雑誌のグラビアとおぼしき肌色の紙切れを見つけて、ドキドキしながら近づいたら、全日本プロレスの総力特集だった時のような寂しさ。・・まあ別に、秘密警察と出くわしたかった訳ではないが、高揚感の代償を求めたくなるのが人間の悲しい性である。
そうして、ちょっとした虚脱感に浸っていた矢先、視界の右端を、こげ茶色のふくよかな物体がよぎった。そのしなやかな動作は、田中康夫を髣髴とさせるぐらいしなやかであった。立派なヒゲをたくわえ、手入れの行き届かない毛並みをモソモソと揺らし、四つ足で大地をガッシリと踏みしめている。僕はその姿に見覚えがあった。近所に住みついているオスの野良猫(推定3歳)に間違いなかった。
休日にコンビニまで出かけると、途中で薄暗い路地を横切る。その路地の片隅に電信柱が一本立っていて、薄暗い路地をいっそう暗くする影を落としている。その影に寄り添うように、野良猫がじっとうずくまっている光景を、僕は何度か見たことがある。猫は夜行性だから暗い場所が好きなんだな、などと根拠のない感想を浮かべて5分で忘れてしまうのが、僕と彼との関係の全てであった。
だが今の彼は、ノラのわりに堂々たる体躯を陽の光にさらし、アパートの渡り廊下をノシノシ踏みしめていく。その足取りには、およそ遠慮というものが感じられない。己のために敷かれた道を、もったいぶって歩む、王者の風格を漂わせている。世界史の資料集に載っていた、赤絨毯を踏みしめて皇帝の椅子へ進み行くナポレオン・ボナパルトを思い出させた。
この態度から察するに、きっと近隣の野良猫をアゴでこき使える程度のポストを占めているに違いない。コソコソしていない。女の子にモテるタイプだ。もし彼がウチの会社で働いていたら、僕より確実に出世しているだろうし、コンパとかもしまくりだろう。仕事の合間に洗面所の脇でOLたちと談笑してても「仕事をサボってる」とかチクられない存在。彼のことは信頼してますから、みたいな。ああイヤラシイ。羨ましい。僕は、激しい嫉妬からくる悲嘆に嗚咽を洩らしそうだったが、比較相手が畜生類であることを思い出して、すんでのところで思い留まった。
それはさておき、この野良猫の優雅な散歩を前にして、僕はある重要なファクターに気づいた。一般的に、野良猫のような野生動物は、警戒心が強いものである。滅多に人前には姿を現さない。その動物が、今、何の気兼ねもなく呑気に渡り廊下をテクテク歩いているという事実。この事実が示唆するのは、いまこの付近に、彼を警戒させるような生物・・つまり見ず知らずの怪しげな人間は潜んでいない、という真理である。
仮に、サカキ・マナミを付け狙う秘密警察が、この付近に潜伏しているとする。先ほどブザーを鳴らした人物がその一味である可能性は否定できない。けれども、その危険人物が今も玄関前に潜んでいたり、近くに身を隠していたら、野良猫はこんなに無防備な姿を晒さないだろう。見慣れた近隣住人か、どこから見ても安全そうな人物・・年寄りや子供の類であれば、気を許すこともあり得る。だが、人の命を付け狙うような輩は、尋常ならざる殺気を帯びているだろうから、野良猫とて迂闊に近づくまい。
これは、僕にしては珍しい、完璧に近い推理であった。仕事でもこの力量が発揮できれば・・と悔やまれてしょうがない。今だったらクイズ番組で大桃美代子と五分に渡り合えるだろう。早押し三択とかで。
その晴れ晴れとした爽快さが、僕にある悪戯心を抱かせた。秘密警察と鉢合わせする事態は当面、目の前から去ったわけで、僕としてはちょっとした気晴らしがしたかった。どんな気晴らしかといえば、魚眼レンズの向こうで悠々と散歩を楽しんでいる野良猫をビックリさせて、ニャーニャー言わせてやる、というものだ。僕の深層心理は、小学校低学年から一向に進化していない。「少年の心を持ってる人が好きです」とコンパで発言したことのある女性のみなさんは、責任とってください。
僕は、野良猫がビクっとする顔を思い浮かべて、一人でニヤニヤしながら、玄関ドアのノブを握り締めた。計画はいたってシンプルだ。ドアの真正面に来た瞬間、ちょっとの遠慮もせず、ためらいなく、ものすごい勢いでドアを開いてやるのだ。これはいける。何がいけるかはよく分からない。とにかくいける。高鳴る鼓動。僕は覗き穴から野良猫の位置を確認しつつ、その時をじっくりと待った。やがて野良猫は、ヒタヒタと呑気な足取りで、玄関の前まで通りかかった。僕はここぞとばかり、渾身の力を込めて、ドアを開け放った。
野良猫は・・しかし、ビクっとしなかった。ニャーとも鳴かない。驚かない。振り向かない。焦らない。迷ったりしない。予想とは裏腹に、開いたドアの事などまるで気にもとめない表情で、マイペースに散歩を続けている。少しヒゲが揺れたけど風でも吹いたかなあ?と言わんばかりの、涼やかな目元。無念無想、あるいは泰然自若とは、まさにこのような境地であろうか。より端的に表現するならば、完全無視。空気扱い。僕はやり場のない虚しさに襲われた。
あてどない気分で立ちすくんでいると、ファミリーマートのレジ袋が風で舞い上がって、僕の顔にベタリと張り付いた。避ける間もなかった。その時、野良猫が初めて僕を振り返り、「そのゴミ、拾っとけよ」とでも言うように、ニャーと短く鳴いた。僕は自分の敗北をかみ締めざるを得なかった。だが、この敗北は、単なる序章に過ぎなかったのである。
「あらあら?お部屋にいたのなら、返事ぐらいしてくれればいいのに。ブザーが聞こえなかったのかな?それとも、返事が出来ないようなやましい事でもしてたのかしらね?」
どこか責めるようなその言い回しは、吹きつける寒風にのって、僕の耳元へ飛び込んできた。一瞬、野良猫が喋ったのかと思って、ピンとヒゲの伸びた丸い顔を、僕はじっと見つめた。しかし野良猫は迷惑そうに首を横に振るだけだった。うん、それはないよね。ということは・・。
僕はドアから身を乗り出し、声のした方角を覗き込んだ。渡り廊下の端っこには鉄筋の非常階段が横付けされていて、アパートの地上から屋上まで、垂直に延びている。その非常階段の陰に、華奢な女性のシルエットが確認できた。その人物が誰なのか、考えるまでもなかった。透き通った声と妙に刺々しい言い回し。僕の表情はゆっくりと苦いものに変わっていく。そこに立っていたのは、紛うことなき、増田翔子であった。
「風邪をひいてるわりには、随分と元気そうに見えるわね?」
「あ・・ええ・・」
落ち着いた口調の増田翔子に対し、僕はいつものようにモゴモゴと口ごもる。日陰の中にたたずむ彼女は、微笑んでいるのか不機嫌なのか、判然としない表情だ。僕の個人的な統計に従えば、彼女が微笑んでいる可能性は限りなく低いので、不機嫌に違いないと考えることにした。何事もマイナスから入れば、本当にマイナスだった時のショックを軽減できるからだ。坂道の途中に置かれた石は、風が吹けば転げ落ちるかも知れないが、一度坂道の下まで転げ落ちた石は、それ以上転がる心配がない。乞食に貧乏無しとも言う。ダメ人間が身につけるべき処世術である。ただし、坂道の一番下の石も、通りがかりの犬猫に蹴飛ばされて、さらに深い沼へ転げ落ちる可能性は否定はできない。
「ニャー」
と僕の足元で野良猫が鳴いた。すると、非常階段の脇にたたずむ増田翔子が「ありがとう」とでも言うように、野良猫に向かって小さく手を振った。野良猫は「あばよ」と言わんばかりにシッポをクルリと回し、一仕事終えた満足げな顔で、スタスタと渡り廊下の散歩を再開させた。なんだこれ。男前な立ち去り方をする野良猫と、増田翔子の間で、僕はおぼつかない視線を右往左往させた。
しばらく考えて、ようやく気づいた。こいつら、グルに違いない・・。
ブザーを鳴らしても僕が表へ出てこなかったため、増田翔子はわざと野良猫を玄関前に配置して、僕をおびき出したのではあるまいか。今、二者間で交わされた親密な合図は、その作戦がまんまと成功したことを互いに讃えあった挨拶に他ならない。しかし、一体どうやって増田翔子は、初対面の野良猫をたらしこんだのか?僕にはおよそ見当もつかないが、女が先天的にそなえる権謀術数の能力は、ときに人間と動物の垣根を超えるのかも知れない。相手がヒトだろうとケモノだろうと、♂をたらしこむのが♀の役割だと古来から決まっている。女はみんなモノノケ姫なのである。
女に買収された野良猫のダラシなさや、ついうっかり釣り出されてしまった僕のダラシなさを、ここであげつらうには及ばない。くだんの野良猫はもう廊下を渡り終えて姿を消し、その場に残されたのは、僕と増田翔子の二人だけなのだから・・。
10メートルほどの距離を挟んで増田翔子と向き合った僕は、これから起きるであろう不測の事態に対する言い訳を、必死に頭の中でめぐらせ始めていた。
「電話では伝えたけど、明日の朝、上長に提出する書類があるの。急ぎの書類。今日中に作成を終えたいわけ。あなたが風邪で欠勤だから、今日中の書類作成は諦めてたんだけど、そもそも明日だって確実に風邪から回復するとは限らないでしょう?特にあなたの場合、電話一本ですむ欠勤連絡すらして来ないし、黙ってれば誰かが何とかしてくれると思い込んでる節があるしね。それに一度でも無断欠勤の味をしめると、何度も繰り返す人がいるのよ・・あ、別にあなたのこと言ってるんじゃなくてね。そういう人の特徴をかいつまんで言うと、いつも覇気がなくて、生活全般がだらしなくて、人の目を見て話ができなくて、何をするにも一人で行動して、犬や猫を見ると無性にはしゃいで、子供にはやたら強気で、大人相手には常にオドオドしてて、20代の女の子を見ると胸元ばっかり意識して、フトモモを最低10回はチラ見して、時にはガン見して、喋れば声が小さくて、論理的に話ができなくて、聞き返されると不機嫌になって、決断を迫られると全部他人任せにして、でも決められた事は一つも守れないし、叱られても反省しないし、そもそも何を叱られてるのか理解できてないし、暇があれば非現実的な空想ばかりしていて、TPOをわきまえずに思い出し笑いをして、挨拶を交わした程度の女の子にストーカーじみた恋愛感情を抱いたりして、恋愛経験に乏しくて、そもそも女の子と付き合った経験も無くて、三十路を迎えても浮いた話が一つもなくて、少子化問題のニュースが流れると急に席を立つような・・そんな感じの人が無断欠勤を繰り返しがちなのよね。あれ?なに泣きそうな顔してるの?まあ、そういう訳で、今日中に書類を書いてもらいたいので、上がらせてもらいますね」
早口でまくし立てて、増田翔子は一直線に僕の方へ近づいてきた。彼女の履くローヒールが地面と接するたび、静かな渡り廊下にカツカツと硬い足音が響く。その颯爽とした歩みは『疾きこと風のごとく、侵略すること火のごとし』を体現しているようであった。乾いた草原に出現した野火が、風にあおられて一直線に燃え進んでくるような勢い。ローヒールの音が、威圧的に僕の耳朶を震わせた。
ここで「止まれ外道」と一喝すれば、あるいは増田翔子は足を止めるかも知れない。だがその代償として、明日から会社へ行けなくなる可能性があるので、その選択肢は却下することにした。なるべく遠まわしな言い方で僕の気持ちをうまく察してもらうえないだろうか・・と、祈るような気持ちで、ムシのいい解決方法を模索してみる。だが現実はそう都合よく行かないもので、奇跡は簡単に起きないから奇跡なのである。教室の窓辺から片想いの男子を見つめるだけの内気なメガネっ子が、ある日その男子から熱烈なキスを奪われてあれよあれよと言う間に肉体関係へ発展してしまう奇跡は、小学館の少女コミックだけに許された特権である。
僕があーでもないこーでもないと呻吟していると、増田翔子のキレイなおみ足が不意に、横並びに整列した。玄関まであとわずか、僕との距離を1メートルほど残した微妙な位置どりで、彼女の進軍が停止したのだった。進軍ラッパが鳴り止んだ理由は、急な作戦変更かも知れず、単にラッパ手が息切れを起こしただけかも知れない。しかしいずれにせよ、僕としてはこのご都合主義的な展開を心から歓迎するにヤブサカではない。僕は気が緩み、ホッとした気持ちで、深く息を吸い込んだ。すると、甘く清潔な匂いに鼻腔がくすぐられた。
ついぞ嗅いだことのない甘い香り、それは増田翔子の身に付着した、香水の匂いに他ならなかった。ここで「素敵なフレグランスですね」と呟いたら、どうなるだろうか。セクハラだろうか。どの道、僕は香水のブランド名なんて一つも知らないので、それ以上にシャレた会話はできそうにない。「どんな香水か分かります?ライムが素材なの」と訊かれて「ははあ。チャーミーグリーンですね」と寒々しい返答をしてしまうぐらいなら、最初から黙っていた方がマシだ。
けれども、僕の鈍感な嗅覚にも、その香水が決して不愉快な匂いではないことは分かる。ずっとその匂いに触れていると、まどろむような心地よさを感じるのである。もしかすると、牡の野良猫をまんまと操った手口も、このマタタビめいた香水の催眠効果だったりするのかも知れない・・そんな推測が頭をよぎったりした。だが、それが落とし穴だったわけだ。考えるという行為は、たとえ一瞬であっても、目の前の出来事から注意力を奪い去る。それに気づいた時は、後の祭りだ。
まさしく増田翔子は、僕が不注意となった瞬間を見逃さなかった。狙い済ましたように静から動へ切り返し、僕の死角へと大胆に切り込んできた。敵陣ゴールへ突入せんとする美しきファンタジスタは、見とれるほど華麗なボディコントロールで、仁王立ちする僕をスルリとかわした。そして、ゴール。
「あ・・」
「お邪魔しまーす」
僕があたふたと振り返ると、ローヒールのサンダルはもう玄関先に脱ぎ捨てられていた。上がり口に立つ増田翔子の足元を見れば、艶やかな黒ストッキングの爪先に、スリッパを引っ掛けようとモゾモゾしている。本格的に部屋へ上がる気だ・・。僕は軽い頭痛を覚えた。精一杯の抵抗として、僕は玄関に立てかけてあった箒を逆立てておくのだった。
「このスリッパ、随分くたびれてるわよ?新しいスリッパ買った方がいいんじゃない?」
勝手にスリッパを履いた上に余計な一言まで残して、増田翔子は台所の方へ気まぐれに歩いていった。室内への不法侵入はギリギリ認めるとしても、好き勝手に散策されてはたまらない。僕は玄関ドアを手早く閉めて、急いで彼女の後を追った。
台所には、昨日の夕食の痕跡が残されている。電子ジャーの中には、まだ茶碗1杯分ほどの白米が余っているし、オカズの残りも皿に盛ったままラップに包んで、キッチンテーブルの上に放置してある。その他の食器類は、今朝方、玉子酒を作りつつ洗ってしまったので、ほぼ片付いている。玉子酒を煮立てた鍋だけが、まだガスコンロ上にあって、微かな湯気を立てていた。僕が台所へ入って行くと、増田翔子は興味深げに台所の光景を眺めていた。
僕が追いついて来たのを確認して、彼女は言った。
「ちゃんと自炊してるのね・・ちょっと驚き、かな」
その口ぶりは、ただ驚いたという以上に、どこか嬉しそうな感じでもあった。社内の風紀に目を光らせる社長が、自社の支店をみずから視察に訪れ、規律が行き届いている事に満足げな表情を浮かべる・・喩えて言えばそんな感じだ。いつの間に僕の部屋が、増田翔子社長の下に経営統合されたのか、寡聞にして僕は知らない。レバレッジもなしにバイアウトですか。行き過ぎた自由主義経済は、弱者を不幸にするばかりである。
それにそもそも、増田翔子の洩らした感想は間違っている。台所に干してある食器類を洗ったのは僕だけれど、ご飯を炊いたりオカズをあつらえたりしたのは、すべてサカキ・マナミの骨折りによるのだ。もしサカキ・マナミが夕べ、風邪で寝込まなかったら、後片付けまで任せっきりだったと思う。僕は断じて自炊など行っておらず、賞賛されるべきはサカキ・マナミをおいて他にない。
思い起こせば、サカキ・マナミは、この時代へ時間遡行してきた時点で、かなりの疲労困憊だったはずである。にもかかわらず、僕が電車に轢かれそうになれば救助を厭わず、翌日には早起きして三色そぼろ弁当を準備し、帰宅すれば晩ご飯の用意までしてくれた。僕にとっては至れり尽くせりの一日だったが、そのために彼女は余計な労力を使い、体力と気力をすり減らしたに違いない。そう思えば、いま彼女が寝込んでいる原因の一端は、僕にあるのかも知れない。
サカキ・マナミにとってみれば、僕の部屋へ転がり込むことで秘密警察の目を逃れ、身の安全を確保できたわけだ。それに対するギブアンドテイクと言うか、恩返しとして、色々と世話を焼いてくれたのかも知れない。たとえ僕がそんな事情を知らず、半分は若い女の子に対するスケベ心があったとしても、事実として彼女自身がテイクしたなら、黙ってギブするのが彼女流の礼儀作法なのだろう。こういう義理堅さを思うにつけ、罪滅ぼしではないけれど、病気の看病ぐらいはちゃんとしなければ・・と思う。
僕はそのように独りごちて、看病の決意を新たにしたのだが、暗雲はすぐに押し寄せてくるのだった。先ほどまで、僕の右隣に立って台所まわりを眺めていた増田翔子が、忽然とその姿を消していたのである。・・いずこへ?と背後を振り返ると、スリッパが板の間の端っこに脱ぎ捨ててあった。板の間の続きにある6畳間に目を移すと、増田翔子の後姿を確認することができた。TVのリモコンを見つけたらしく、チャンネルをせわしなく切り替えて番組チェックをしている。何しに来たんだと問い詰めたい。
だがそれよりも危ういのは、TVの設置場所とは反対側・・つまり増田翔子が背にしている側のフスマが、30センチほど空いていることだった。フスマの向こうには、熱にうなされたサカキ・マナミが病の床についているのである。幸い、増田翔子はTV番組のチェックに夢中であり、背後を気にしたそぶりはない。だが、放っておけばいずれ後ろを振り返り、フスマの隙間に興味を抱いて無断侵入するに決まっている。
僕としては、なんらヤラしい・・もとい、やましい行為はしていないので、サカキ・マナミのことを隠す必要は無いかも知れない。だが、彼女の素性・・つまり未来の日本からやってきたタイムトラベラーだという事を馬鹿正直に説明したとして、増田翔子が納得するとも思えない。納得しなかった場合、僕とサカキ・マナミの間柄について、増田翔子がどのように勝手な想像を巡らすのか、考えただけでも恐ろしいものがある。「真昼間からお盛んですこと。ホホホ」などと言われた翌日には、会社の部署内で「仮病で欠勤した挙句、ピザじゃない種類のデリバリーものを真昼間から注文してた男」というレッテルを貼られたりして、針のムシロに座らされるかも知れない。
とにかくここは、隠し通すに限る・・。何食わぬ顔で書類を1枚か2枚、さっさと書き上げて、気づかれぬうちに増田翔子を体よく追い出すのだ。
そう決心した僕は、TVに集中している増田翔子に気取られぬよう、抜き足差し足で畳部屋へ近づいていった。真っ先に為すべきことは、30センチほど開いているフスマを手際よく閉める、という一事だ。フスマさえ閉めてしまえば、あとは多少の物音がしたって、ゴマカせない事はない。僕はヤブ睨みながら鋭く目を光らせて、目標地点へと忍び足を進めて行った。
なるべく音を立てないように・・と精神を集中するほど、畳を踏み込む時のわずかな軋み音にビクついてしまう。姿勢を低く保ち、背中を丸めて、前のめりにソロリソロリと大股で進んだ。その姿は、スマトラ島のジャングルに棲息する類人猿オランウータンに酷似していたかも知れない。
もう少し、あと少し・・まだ距離はあるものの、僕は先走った気持ちで、ゆっくりとフスマへ手を伸ばした。あと2、3センチで手が届きそうだ・・と、思った矢先であった。増田翔子がやおら、TVの電源をブチンと切った。ブラウン管に焼きついた残像が儚くも消え去り、完全にブラックアウトする。
「この時間帯のTVって、あんまり面白くないわよね」
そう呟いて、増田翔子は僕の方へ迷うことなく振り向いた。その時の僕の姿勢は、不幸そのものであった。スマトラ島のオランウータンだったのはもう過去の話、進化の系統樹をさらに遡って、二足歩行の痕跡すらとどめていない姿勢。四つんばいで部屋の隅に這いつくばり、肘をプルプル震わせながら、フスマへ手を伸ばしている無様な姿。
増田翔子は僕の不自然な体勢を見て、最初はあっけにとられた様子だった。しかしすぐにフスマへと目が吸い寄せられ、30センチほど開いた隙間の奥の方へ、眼差しを移動させていく。そのまま、しばし無言であったが、表情が段々と険しくなるのが見て取れた。
「・・そこに、誰かいるの?」
僕に尋ねたのか、フスマの向こう側の人物に問い掛けたのか、どちらとも取れる言い方だった。不信感に満ちた声色である。マズイ。僕はゴクリと唾を飲み込んだ。
だがその時、もっとマズイことが起きた。あろうことか、30センチほど開いていたフスマが、いきなり全開に開け放たれたのである。勢いよく左右に開かれたフスマの向こう側で、もう一つの6畳間が白日の下に晒される。
そこに、サカキ・マナミが立っていた。真っ赤に火照らせた顔をボーっと浮かべて、寝汗にグッショリ濡れたシャツの上に、薄い毛布を羽織っている。額に張り付いた前髪を指先でかきわけると、初対面の増田翔子を、正面からじっと見つめるのだった。リンゴのように赤く染まった頬っぺたが、地肌の青白さと対比をなして、あでやかな化粧のごとく映えていた。妙に色っぽい感じがして、僕はこんな状況にも関わらず、少しだけ見とれてしまった。
一方、サカキ・マナミと向き合うことになった増田翔子は、片側の頬をピクピクと引きつらせて、石像のように固まっていた。しかしこの状況に気圧されてはおらず、上から押さえ込むような力ずくの眼差しをサカキ・マナミへ送りつけているように見える。ああダメだ。猛烈なスピードで勘違いが進行している気がする。
僕は半ば死んだような目でこの状況に対峙しつつ、「見ちゃならねえもんがこの世にはあるでよ」というお祖母ちゃんの遺言を思い出したりしているのだった。
早口でまくし立てて、増田翔子は一直線に僕の方へ近づいてきた。彼女の履くローヒールが地面と接するたび、静かな渡り廊下にカツカツと硬い足音が響く。その颯爽とした歩みは『疾きこと風のごとく、侵略すること火のごとし』を体現しているようであった。乾いた草原に出現した野火が、風にあおられて一直線に燃え進んでくるような勢い。ローヒールの音が、威圧的に僕の耳朶を震わせた。
ここで「止まれ外道」と一喝すれば、あるいは増田翔子は足を止めるかも知れない。だがその代償として、明日から会社へ行けなくなる可能性があるので、その選択肢は却下することにした。なるべく遠まわしな言い方で僕の気持ちをうまく察してもらうえないだろうか・・と、祈るような気持ちで、ムシのいい解決方法を模索してみる。だが現実はそう都合よく行かないもので、奇跡は簡単に起きないから奇跡なのである。教室の窓辺から片想いの男子を見つめるだけの内気なメガネっ子が、ある日その男子から熱烈なキスを奪われてあれよあれよと言う間に肉体関係へ発展してしまう奇跡は、小学館の少女コミックだけに許された特権である。
僕があーでもないこーでもないと呻吟していると、増田翔子のキレイなおみ足が不意に、横並びに整列した。玄関まであとわずか、僕との距離を1メートルほど残した微妙な位置どりで、彼女の進軍が停止したのだった。進軍ラッパが鳴り止んだ理由は、急な作戦変更かも知れず、単にラッパ手が息切れを起こしただけかも知れない。しかしいずれにせよ、僕としてはこのご都合主義的な展開を心から歓迎するにヤブサカではない。僕は気が緩み、ホッとした気持ちで、深く息を吸い込んだ。すると、甘く清潔な匂いに鼻腔がくすぐられた。
ついぞ嗅いだことのない甘い香り、それは増田翔子の身に付着した、香水の匂いに他ならなかった。ここで「素敵なフレグランスですね」と呟いたら、どうなるだろうか。セクハラだろうか。どの道、僕は香水のブランド名なんて一つも知らないので、それ以上にシャレた会話はできそうにない。「どんな香水か分かります?ライムが素材なの」と訊かれて「ははあ。チャーミーグリーンですね」と寒々しい返答をしてしまうぐらいなら、最初から黙っていた方がマシだ。
けれども、僕の鈍感な嗅覚にも、その香水が決して不愉快な匂いではないことは分かる。ずっとその匂いに触れていると、まどろむような心地よさを感じるのである。もしかすると、牡の野良猫をまんまと操った手口も、このマタタビめいた香水の催眠効果だったりするのかも知れない・・そんな推測が頭をよぎったりした。だが、それが落とし穴だったわけだ。考えるという行為は、たとえ一瞬であっても、目の前の出来事から注意力を奪い去る。それに気づいた時は、後の祭りだ。
まさしく増田翔子は、僕が不注意となった瞬間を見逃さなかった。狙い済ましたように静から動へ切り返し、僕の死角へと大胆に切り込んできた。敵陣ゴールへ突入せんとする美しきファンタジスタは、見とれるほど華麗なボディコントロールで、仁王立ちする僕をスルリとかわした。そして、ゴール。
「あ・・」
「お邪魔しまーす」
僕があたふたと振り返ると、ローヒールのサンダルはもう玄関先に脱ぎ捨てられていた。上がり口に立つ増田翔子の足元を見れば、艶やかな黒ストッキングの爪先に、スリッパを引っ掛けようとモゾモゾしている。本格的に部屋へ上がる気だ・・。僕は軽い頭痛を覚えた。精一杯の抵抗として、僕は玄関に立てかけてあった箒を逆立てておくのだった。
「このスリッパ、随分くたびれてるわよ?新しいスリッパ買った方がいいんじゃない?」
勝手にスリッパを履いた上に余計な一言まで残して、増田翔子は台所の方へ気まぐれに歩いていった。室内への不法侵入はギリギリ認めるとしても、好き勝手に散策されてはたまらない。僕は玄関ドアを手早く閉めて、急いで彼女の後を追った。
台所には、昨日の夕食の痕跡が残されている。電子ジャーの中には、まだ茶碗1杯分ほどの白米が余っているし、オカズの残りも皿に盛ったままラップに包んで、キッチンテーブルの上に放置してある。その他の食器類は、今朝方、玉子酒を作りつつ洗ってしまったので、ほぼ片付いている。玉子酒を煮立てた鍋だけが、まだガスコンロ上にあって、微かな湯気を立てていた。僕が台所へ入って行くと、増田翔子は興味深げに台所の光景を眺めていた。
僕が追いついて来たのを確認して、彼女は言った。
「ちゃんと自炊してるのね・・ちょっと驚き、かな」
その口ぶりは、ただ驚いたという以上に、どこか嬉しそうな感じでもあった。社内の風紀に目を光らせる社長が、自社の支店をみずから視察に訪れ、規律が行き届いている事に満足げな表情を浮かべる・・喩えて言えばそんな感じだ。いつの間に僕の部屋が、増田翔子社長の下に経営統合されたのか、寡聞にして僕は知らない。レバレッジもなしにバイアウトですか。行き過ぎた自由主義経済は、弱者を不幸にするばかりである。
それにそもそも、増田翔子の洩らした感想は間違っている。台所に干してある食器類を洗ったのは僕だけれど、ご飯を炊いたりオカズをあつらえたりしたのは、すべてサカキ・マナミの骨折りによるのだ。もしサカキ・マナミが夕べ、風邪で寝込まなかったら、後片付けまで任せっきりだったと思う。僕は断じて自炊など行っておらず、賞賛されるべきはサカキ・マナミをおいて他にない。
思い起こせば、サカキ・マナミは、この時代へ時間遡行してきた時点で、かなりの疲労困憊だったはずである。にもかかわらず、僕が電車に轢かれそうになれば救助を厭わず、翌日には早起きして三色そぼろ弁当を準備し、帰宅すれば晩ご飯の用意までしてくれた。僕にとっては至れり尽くせりの一日だったが、そのために彼女は余計な労力を使い、体力と気力をすり減らしたに違いない。そう思えば、いま彼女が寝込んでいる原因の一端は、僕にあるのかも知れない。
サカキ・マナミにとってみれば、僕の部屋へ転がり込むことで秘密警察の目を逃れ、身の安全を確保できたわけだ。それに対するギブアンドテイクと言うか、恩返しとして、色々と世話を焼いてくれたのかも知れない。たとえ僕がそんな事情を知らず、半分は若い女の子に対するスケベ心があったとしても、事実として彼女自身がテイクしたなら、黙ってギブするのが彼女流の礼儀作法なのだろう。こういう義理堅さを思うにつけ、罪滅ぼしではないけれど、病気の看病ぐらいはちゃんとしなければ・・と思う。
僕はそのように独りごちて、看病の決意を新たにしたのだが、暗雲はすぐに押し寄せてくるのだった。先ほどまで、僕の右隣に立って台所まわりを眺めていた増田翔子が、忽然とその姿を消していたのである。・・いずこへ?と背後を振り返ると、スリッパが板の間の端っこに脱ぎ捨ててあった。板の間の続きにある6畳間に目を移すと、増田翔子の後姿を確認することができた。TVのリモコンを見つけたらしく、チャンネルをせわしなく切り替えて番組チェックをしている。何しに来たんだと問い詰めたい。
だがそれよりも危ういのは、TVの設置場所とは反対側・・つまり増田翔子が背にしている側のフスマが、30センチほど空いていることだった。フスマの向こうには、熱にうなされたサカキ・マナミが病の床についているのである。幸い、増田翔子はTV番組のチェックに夢中であり、背後を気にしたそぶりはない。だが、放っておけばいずれ後ろを振り返り、フスマの隙間に興味を抱いて無断侵入するに決まっている。
僕としては、なんらヤラしい・・もとい、やましい行為はしていないので、サカキ・マナミのことを隠す必要は無いかも知れない。だが、彼女の素性・・つまり未来の日本からやってきたタイムトラベラーだという事を馬鹿正直に説明したとして、増田翔子が納得するとも思えない。納得しなかった場合、僕とサカキ・マナミの間柄について、増田翔子がどのように勝手な想像を巡らすのか、考えただけでも恐ろしいものがある。「真昼間からお盛んですこと。ホホホ」などと言われた翌日には、会社の部署内で「仮病で欠勤した挙句、ピザじゃない種類のデリバリーものを真昼間から注文してた男」というレッテルを貼られたりして、針のムシロに座らされるかも知れない。
とにかくここは、隠し通すに限る・・。何食わぬ顔で書類を1枚か2枚、さっさと書き上げて、気づかれぬうちに増田翔子を体よく追い出すのだ。
そう決心した僕は、TVに集中している増田翔子に気取られぬよう、抜き足差し足で畳部屋へ近づいていった。真っ先に為すべきことは、30センチほど開いているフスマを手際よく閉める、という一事だ。フスマさえ閉めてしまえば、あとは多少の物音がしたって、ゴマカせない事はない。僕はヤブ睨みながら鋭く目を光らせて、目標地点へと忍び足を進めて行った。
なるべく音を立てないように・・と精神を集中するほど、畳を踏み込む時のわずかな軋み音にビクついてしまう。姿勢を低く保ち、背中を丸めて、前のめりにソロリソロリと大股で進んだ。その姿は、スマトラ島のジャングルに棲息する類人猿オランウータンに酷似していたかも知れない。
もう少し、あと少し・・まだ距離はあるものの、僕は先走った気持ちで、ゆっくりとフスマへ手を伸ばした。あと2、3センチで手が届きそうだ・・と、思った矢先であった。増田翔子がやおら、TVの電源をブチンと切った。ブラウン管に焼きついた残像が儚くも消え去り、完全にブラックアウトする。
「この時間帯のTVって、あんまり面白くないわよね」
そう呟いて、増田翔子は僕の方へ迷うことなく振り向いた。その時の僕の姿勢は、不幸そのものであった。スマトラ島のオランウータンだったのはもう過去の話、進化の系統樹をさらに遡って、二足歩行の痕跡すらとどめていない姿勢。四つんばいで部屋の隅に這いつくばり、肘をプルプル震わせながら、フスマへ手を伸ばしている無様な姿。
増田翔子は僕の不自然な体勢を見て、最初はあっけにとられた様子だった。しかしすぐにフスマへと目が吸い寄せられ、30センチほど開いた隙間の奥の方へ、眼差しを移動させていく。そのまま、しばし無言であったが、表情が段々と険しくなるのが見て取れた。
「・・そこに、誰かいるの?」
僕に尋ねたのか、フスマの向こう側の人物に問い掛けたのか、どちらとも取れる言い方だった。不信感に満ちた声色である。マズイ。僕はゴクリと唾を飲み込んだ。
だがその時、もっとマズイことが起きた。あろうことか、30センチほど開いていたフスマが、いきなり全開に開け放たれたのである。勢いよく左右に開かれたフスマの向こう側で、もう一つの6畳間が白日の下に晒される。
そこに、サカキ・マナミが立っていた。真っ赤に火照らせた顔をボーっと浮かべて、寝汗にグッショリ濡れたシャツの上に、薄い毛布を羽織っている。額に張り付いた前髪を指先でかきわけると、初対面の増田翔子を、正面からじっと見つめるのだった。リンゴのように赤く染まった頬っぺたが、地肌の青白さと対比をなして、あでやかな化粧のごとく映えていた。妙に色っぽい感じがして、僕はこんな状況にも関わらず、少しだけ見とれてしまった。
一方、サカキ・マナミと向き合うことになった増田翔子は、片側の頬をピクピクと引きつらせて、石像のように固まっていた。しかしこの状況に気圧されてはおらず、上から押さえ込むような力ずくの眼差しをサカキ・マナミへ送りつけているように見える。ああダメだ。猛烈なスピードで勘違いが進行している気がする。
僕は半ば死んだような目でこの状況に対峙しつつ、「見ちゃならねえもんがこの世にはあるでよ」というお祖母ちゃんの遺言を思い出したりしているのだった。