少年の夏の日
●少年の夏の日
「兄ちゃん!」
「聞こえねーよ、何だ」
季節は蒸し暑い夏。異様に喉が渇く日。時刻は午後二時。夏休み真っ盛りだ。
僕は兄ちゃんの背中にひっついて自転車に二人乗りをしていた。すごいスピードで走っているせいで、空気を切る音が耳元で聞こえる。ビュンビュン―。風が向かいからくるけど、兄ちゃんが盾になって全くこっちにこない。暑い。でも兄ちゃんから離れれば間違いなくバランスを崩して僕は道に放り出される。仕方なくこの状態でいることにする。
「どこいくのっ」
「どこでもいいだろ!」
自転車の前についているカゴには兄ちゃんと僕のお金(主にお年玉の残り)が一万六千円、家の鍵、僕と兄ちゃんの携帯(ソフトバンク)が入ったナップサックが入っていた。
…なんで僕がこんなところにいるんだろう…。
時は三時間前にさかのぼる―。
「浩二!浩二っ!」
「なんだよ母さん」
兄ちゃんは母さんに呼び出されるやいなや、ぱしーんと右頬を平手打ちされた。
「アンタってやつは!!」
「俺が何をしたってんだ!」
僕は驚いて冷蔵庫の影にさっと隠れて二人を見た。
「こっちへ来なさい!」
兄ちゃんは母さんにひきずられて居間へいった。こっそり僕もついていく。
そこには綺麗な女の子が座っていた。綺麗―なんて言葉、彼女には足元にも及ばないかもしれない。髪の毛の一本一本が細くて輝いていて、少し長めの髪が真っ白なワンピースによく映えている。真っ白な肌、形の綺麗な顎。ふっくらとした唇に大きい瞳―。人間なのか。これは本当に僕らと同じ地球で、同じ空気を吸って生きてきた、僕らと同じ人間なのか。
きっと笑ったらもっと可愛いんだろうけど、あいにく、彼女は泣いていた。大きな瞳から透明な真珠を零して(言い過ぎかもしれないけど、僕にはそう見えた)小さく震えていた。
「…っ」
兄ちゃんが小さく息を呑んだのが聞こえた。
「常川…くん…」
彼女はそう言うとまたボロボロと涙を零した。
「あんた…こんな可愛い子を困らせたりして…そんな風に育てた覚えはありませんッ!」
「及川…」兄ちゃんは小さく言った。
「本当にごめんなさいね…謝ったくらいで許されることじゃないって解ってるけど…浩二、あんたも頭下げなさい」
「…」
兄ちゃんは七味を噛み締めたような顔をして、足元を見つめていた。
「もう今年は高校受験なのよ?!こんなことしてる場合じゃ…」
母さんが言い終わる前に兄ちゃんは僕に合図をよこした。母さんとドアの僅かな隙間から中の様子を伺っていた僕に、ちらっと目線をよこすと、左手をぎゅっと握って開いたのだ。それから、その左手を体に平行に揺らし始めた。
これは、兄ちゃんと僕で決めた合図だ。意味は、部屋の鞄を持って自転車で…逃げる!
僕は部屋に走り出した。それから、机と壁の隙間に隠してあった鞄(一万六千円、家の鍵、携帯入り)を抱えて玄関に走る。サンダルをつっかけて、兄ちゃんのサンダルを持って―自転車を居間の窓の前に移動する。準備完了だ!
居間の中を見ると、さっきと変わらないままの状態が視界に広がった。違うのは―兄ちゃんが窓にむかって走り出していること。
「兄ちゃん、はやく!」
兄ちゃんは手早く窓をあけると、そこから自転車の前に飛び出した。着地が決まった!
「祐!浩二!」
母さんがヒステリーになって窓から手をのばすけど、届かない場所に僕が自転車を置いたので、母さんの行動は無駄になった。
「ごめんね母さん!帰ってきたらちゃんとお手伝いするからね!」
僕は叫んだ。もう兄ちゃんは自転車にまたがっていた。僕も慌てて兄ちゃんの後ろに乗り込む。
「祐、つかまれ!」
兄ちゃんの声がやけに大きく聞こえた。
「うん!」
自転車は走り出した。
まぁそんな具合で、僕らは自転車を漕ぎ続けていた。
僕らの住む町はすごく田舎なんだけど、今周りを見るとビルビルビルビルビルばっかり。見たことのない町が広がっていた。
「…兄ちゃん」
兄ちゃんはなにも答えなかった。
「兄ちゃん」
僕は腹が立ってきた。折角の夏休み…今日は夏休みの友(学校の宿題)を五頁進めるつもりだったのに。それからホエルコを四十レベルに上げてホエルオーに進化させてポケモンジムでバッチをゲットして…ささやかなポケモンゲームを楽しむ時間を送ろうと思ったのに。
よく分からない理由で知らないところに連れてこられて、喉は渇くし暑いし…ああもう!
「祐」
兄ちゃんの声。最初自分の名前だと気付かなくてはっとする。
「付き合ってくれてありがとな」
「…うん」
僕は思い切って言った。
「それは良いんだけど、こうなった理由も分からずに連れまわされるのは嫌だよ」
「…」
「話せないようなこと?」
「いや」
数秒考えて―もしくは、考えたフリをして、兄ちゃんは自転車を止めた。そして自転車から降りて川原へ降りた。僕もついていく。兄ちゃんが緑の草の上に寝そべったので僕もその隣に転がった。
もう川の向こうの地平線では日が沈み始めていた。さっき家を出たとき太陽は頭の上にあったのにな。
「…彼女は及川華さんという」
兄ちゃんが突然口を開いた。
「うん」
「兄ちゃん、及川を中一のときから憧れててだな、」
「…兄ちゃんでも恋愛するんだね」僕は小さくつぶやいた。
「ああ?」
「いやいや何でもない、続けてどうぞ」
「…この前、ずっとすきだったって告白したんだ」
適当に相槌を打ちながら聞いていた僕だったけど、その言葉には驚いた。兄ちゃんもそんなことするんだ…意外すぎてしようがなかった。
「…うん、それで?」
「それが…しくじった」
「え?」
兄ちゃんはがばっと起き上がった。そして頭を抱えるような格好になった。
「告白する場所をよく考えなかったんだ」
僕はよく意味が解からなくて、首を傾げた。「どういう意味?」
「…今思い出すと本当に馬鹿だったと思う、くそ、恥ずかしい」
「だからどういう意味」
「…運動会だったんだが」
兄ちゃんは更に背中を丸くした。
「及川は全校リレーの選手で…俺はそのときちょうど放送委員会の実況中だったんだな」
「はぁ…」
「その最中に…告白してしまったんだ」
「…」
「『及川早い、早い、早い…ずっとすきだったーっ』みたいな」
兄ちゃんはやっぱり馬鹿だった。それはどんなノリなんだ。
「及川驚いてさ、当然皆に冷やかされるだろ。運動会終わってからこれでもかって位泣いててさ、いや俺が泣きてえよって感じだったんだけども」
兄よ…。
「あいつプライド高いから、家に乗り込んできたりして…もう合わせる顔ないや。あーあ」
兄ちゃんは体育座りになって、更に体をちぢこまらせた。
「なんですきになったりしたんだろ」
「兄ちゃん」
僕は小さく言った。
「それは及川さんに失礼だと思うけど…」
「…」
「解らなくもないよ。恋愛をすると考え方とかもすごい変わっちゃうし、自分がコントロール出来なくなったり、するよね」
兄ちゃんは答えなかった。
「僕も経験あるからさ。一日中頭から離れなくて、考えれば考えるだけ切なくなったりして」
何言ってるんだろう僕は。言葉を発しながら頭はぽうっとしていた。
「でもやれるだけやったんでしょ、それが及川さんの返事なんだったら、もうそれはそれで事実なんだから、もういいじゃん」
「…」
「兄ちゃんは格好いいよ!告白するなんて普通出来ないよ、僕びっくりしちゃったもん!結果はどうであれ、兄ちゃんは格好いいよ」
「…そうかぁ」
兄ちゃんはやっと口を開いた。
「兄ちゃん格好いいかぁ、へへ」
声がどこかいつもと違うような気がして、ちょっと兄ちゃんをみると、肩が小刻みに震えているのが解った。
「でもなぁ、祐」
「うん」
「すきだったんだよ…」
「…うん」
川原から見えた夕日が、僕らをオレンジに染めていく。
僕は兄ちゃんの横で何も言わずにただ座って、夕日が視界から消えるのを見つめていた。
「ただ~いま~…」
恐る恐る玄関のドアを開ける。腕の時計は午後七時を指していた。
「常川くんっ!」
母さんが飛び出してきたと思って身を強ばらせた僕らだが、予想は大幅に外れた。リビングのドアからスーパーボールのごとく素早く飛び出してきたのは、紛れもなく及川さんそのものだった。
「…及川?」
兄ちゃんは複雑な顔をした。
「常川くん、ごめんねっ」
及川さんはまたしても泣いていた。それでもやっぱり麗しい。
「わたし、わたしね、ずっとすきだったの、常川くんのこと」
し…ん。長いようで短い沈黙。僕は目を見開いた。
「今日常川くんちにきたのは…今までちゃんとした答え、運動会のときから言ってなかったから、ちゃんと言おうとおもって…でも、常川くん、窓から…びゅーんて…いっちゃったから…わたし…」
ぼろぼろっと涙をこぼして、及川さんは嗚咽を漏らし始めた。うぁっ、えっ、うぇっ、ひいぃん。
兄ちゃんは戸惑っていた。どうして良いものか分からないらしい。兄ちゃんは僕のほうを見ておろおろしている。僕は兄ちゃんの腕を引っ張って、耳元に口を近づけると、囁いた。
「男を決めろ!」
―兄ちゃんは細い肩を抱きしめた。