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管理人が鍵を抜き、ドアを開ける。ばり、という音がした。
その時に流子は、このアパートの部屋はとても密封性に優れている事に気付く。
ドアを開けた瞬間に、先程までは微量しか感じられなかった匂いが、塊になって顔にぶち当たってくるような印象を受けたからだ。
室内の状況を把握するのに、二秒ほど要した。
日が短いせいもあり、カーテンが閉め切られているせいもあり、薄暗い。
キッチンが優奈の部屋と同じ位置にあり、大きな家具は少なく整理整頓が行き届いている。
ドア側から見て正面にカーテンの閉まっている窓、左手にキッチン、右手に壁がある。
その壁際に、有機的な塊が横たわっている。
恐らく、少し前までは人間だったものだろう。
その有機体が活動をしている時に目にしていれば、二人と数えられていただろう。
しかし今ではひとつの塊にしか見えない。
突然、横から衝撃が加わる。
優奈から体当たりをされたのかと思ったが、違った。
貧血か何かを起こしたらしい。
優奈を支えながら、流子は世界がゆっくり動いているような錯覚にとらわれている事に気付く。
きっと、他の人間に分泌される分のアドレナリンが、手違いで自分に分泌されているのだろう、と流子は解釈した。
全く、困ったものだ。こんな時に。
管理人の女性に視線を向ける。
電話も出来ないほどに動揺していはいないように見える。
「警察への連絡は、あなたがするほうがいい」
意識せずに偉そうな言い方をしてしまう。
流子自身、この非常事態に大いに困惑しているらしい。
管理人の女性は、軽く頷くと急いで階段を降りてゆく。
これが緊急を要するような事態だったら、引き止めて自分の携帯電話を貸していたところだが、被害者が助かる見込みが無いということは一目瞭然だ。
あれだけ腐っているんだから、今更急いでも何もなるまい、と流子の中の一部分が考える。
こんな考えを抱くとは、自分の脳も腐っているのではないか、と流子は軽く心配する。
302号室のドアを閉め、優奈の様子を伺う。
真っ白な顔をしているが、呼吸はしっかりとしている。
少なくとも、このまま腐ってしまう事はないだろう。
どのようにして彼女の部屋まで運ぶか考え、結果、横抱き――俗に言うお姫様抱っこだ――をすることにする。
彼女を抱えながらドアを開ける作業には多少てこずったが、無事に運び終える事が出来た。
とりあえず頭の下に座布団を敷いて寝かせると、優奈が薄く目を開いているのに気付く。
無理に喋らせることはないと思い黙っていると、優奈が急に上体を起こして手を口に当てる。
指の間からポタポタと黄色い液体が流れ落ち、優奈の制服に染みを作った。
流子はポケットティッシュを取り出し、優奈の口を拭く。
「大丈夫?」
流子が聞くと、寝ぼけたような調子で優奈が答える。
「うーん・・・私の顔に大丈夫、って書いてあったら大丈夫だと思う・・・」
つまり彼女は、自分は大丈夫でない、と言いたいらしい。
「そう、安心した」
少なくとも下手に大丈夫、と強がるよりは、よっぽど大丈夫らしい。
流子は優奈の制服の染みもティッシュで拭く。
「さっきの、死体だったよね」
少し落ち着いたらしく、優奈が聞いてきた。
「うん」
流子は答える。
少なくとも、放置していてあのような匂いを発するものは、死体以外にあまり考えられない。
牛も死ねば死体だ。魚だって死ねば死体になる。植物はどうなのだろう?
「一人は知らない人だけど、もう一人の方は302号室に住んでた人だったと思う・・・一瞬しか見てないから曖昧だけど・・・」
「・・・そう」
流子は優奈にある事を尋ねようと思っていた。しかし、やめた。
優奈は泣きそうな顔をしている。
そんな彼女に尋ねられるようなことではなかった。
隣に死体がある事を、どのようにして事前に察知したのか、などという事を、どうして尋ねられるだろう。