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第十話『苦悩は止め処ない泉』

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 走って、走って、走って、走った。
 光一の家から知らない道を、とにかくがむしゃらに駆け抜けて、気がつけば譲はどこかの公園のベンチに腰かけていた。
 普段から筋トレ、柔軟はそれなりにしてきたはずの譲だったが、無理で乱暴な激走はそうとう体にこたえたらしい。脚がパンパンに張ったように感じ、さっきまでとは逆に一歩も動く気になれない。
 周囲はすでに真っ暗だった。暗天に覆われた児童公園に子供の姿などあるわけもなく、辺りはしんと静まり返っている。一軒家が立ち並ぶ住宅街は、耳を澄ませば家から漏れる家族団らんの声を聞くことさえできた。
 そんな中で譲は一人、空を見上げた。
 月も見えない、夜でもはっきりと分かる曇り空。いっそ、雨でも降りだしてくれればいいのにと譲は思う。
 光一との会話が、頭の中で何度も蘇った。
 なんのことはない、思い返してみれば、それは全て譲のやつ当たりなのだ。
 光一と健が寝るほどの関係だったこと、自分との関係を軽視するような光一の発言、確かにそれは責められてしかるべきものだったのかもしれない。
 しかし我が身を振り返れば、とてもそんなことをできる立場にいないことも譲は自覚していたはずなのだ。
 男と男が『そういう』関係になること、それを始めに拒絶したのは自分だ。後悔するくらいなら最初に健が譲を求めた時、素直に受け入れていれば良かったのだ。そこで拒絶したのなら、その態度を貫いて光一と関係を持つことなどしなければ。今のような事態には絶対にならなかったはずなのだ。
 偏った言い方をしてしまえば、今の関係を作ってしまった原因の一端は間違いなく譲が握っていた。そんなことは分かっていたはずだ。
 それになにより、健の家に期待を込めて足を運んだのは、一体誰だっただろうか。
 もしそこで自分の思い通りにいったのなら、さっき責められるべきだったのはどちらだったのだろうか。
 そこまで考えて、譲の顔色はさらに酷くなる。血の気の引き過ぎた顔はまるで、不治の病を医師に宣告されたばかりの重病人のようだ。
 光一に感じたのは、裏切りに対する怒りなどではなく嫉妬だ。自分には指一本触れることのなかった健に彼女がいた事実。そこで受けたショックから立ち直れなていないうちに、光一までが彼と深く触れ合えているということ。それを知って、感情が暴走してしまった。
 一瞬だけ、「謝らなければ」という思考が譲の脳裏に浮かんで消えた。
 健の家から逃げ出した時と同じだ。再び顔を合わせても、一体何を話すというのか。謝るといったって、自分の事情を一から説明でもするつもりか?
 健のことがずっと忘れられなくて、逃避の対象としてずっと光一と付き合っていて、健に抱かれた光一が羨ましくて――。だから、殴ってしまったのだ、ごめんなさいと言えるのか?
 それを言ったとして、関係が元通りになると思うのか?
 答えは全て、NOだ。
 譲はまるで幽霊のようにゆっくりと立ち上がると、死人のような顔で歩きだす。
(本当に光一とも健とも、これで終わりになったのかな……)
 今まで心の支えにしていたものを一気に失い、譲の心は大きな穴が開いたような――いや、穴が大きすぎて、まるで自分自身がなくなってしまったように空虚に感じた。
 いくら考えても、どうしたって健は自分には届かない。拒絶したのは自分だから。
 今までは分からなかった。なぜ、告白されたのが自分だったのか。ずっと考えて、答えが欲しかった問いだった。自分が特別だという理由があれば、少しでも救われる気がするのに。まだ、チャンスがあるかもとすがれるかも知れなかったのに。
 光一との一件があったせいで、譲はその答えに気付いてしまった。
 そんな理由など、最初からなかったのだ。
 健はあっけなく女と付き合いだし、そして光一とも関係をもった。譲は二人にとって特別などではなく、要するにそれは――
(誰でも……よかったんだ……)
 以前に考えた譲の認識は正しかった。大勢いる、仲のいい友達のうちの一人。その中なら誰でもよかった。無理やりに結果から理由をつけるなら、譲が一番『そういう』素質を持っていたということを健は見抜いていたのかもしれない。
(俺には、何もなかった)
 悔しさや寂しさより、空しさが心を埋めていった。
 過去の希望に裏切られ、現在の支えも失った。そんな状態で、どうやって未来を生きていけばいいというのか。
 涙は出ない。むしろ、泣けたなら少しは楽になれただろう。
 そんな譲の心象を代弁するかのように、パラパラと小雨が降り出した。酷く体が濡れるほどでもないが、普通に歩くには煩わしい。しっかりと体温を奪っていく、冷たい雨だった。
 傘も差さずに知らない街中を歩き、なんとかたどり着いた駅から電車に乗った。今までは、この街で何をするにも光一と一緒に行動していればよかった。道に迷ったこともなかったし、何をするかも自然と決められていた。それが今、独りで歩くことさえ満足にいかない。
 電車の中で奇異の視線を向けられても、雨の中で手足が冷え切っても、何もかも気に留めず歩き続けて、ようやく実家のマンションの前に着いた時、譲は目も当てられないほどの表情になっていた。
 一瞬、この姿を親に見られて何か言われるかという考えが頭をかすめる。しかし、そんなことさえどうでもいい。
 相変わらず亡者のような足取りで、エントランスへと踏み出した。その時だった。
「よう、遅かったな。道にでも迷ってたのか?」
 今までゆっくりとしか動けていなかった譲が、その声を追って凄い勢いで振り返る。
 耳を疑った。幻聴ではないかと。
 目を見開いた。人違いではないか確かめようと。
「おいおい、ひどいカッコだな。まったく……」
 しかし再び届いた声も、出入り口脇に傘を持って立つその姿も、どうしたって見間違えようもなくて。
「え……。あ、う……あ」
 言いたいこと、聞きたいことがたくさんあった。謝らなければならないこと、怒ろうと思っていたことすらあった。でも、そんなものはもっと大きな目的の前に全てかき消えてしまって、喉から漏れるのは情けない呻き声。

「う……うあああああああああああああ――――――!!!!」

 いくら考えても、実際会ってみれば出る答えは一つだけ。
 ただ、会って、触れたかった。
 彼が……村上健が、自分に会いに来てくれた。その事実があるだけで良かったのだ。
「ったく……よーしよし」
 背中を撫でてくれる手は、凍ってしまった心と体に沁み入るように暖かい。
(この手に、甘えてもいいのかな? 信じてしまってもいいのかな……?)
 健の胸の中で泣きじゃくりながら、譲はただこの時だけはと、無心で背中をかき抱く手に力を込めた。
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