相川の依頼があってから、二日が経った。
クラスは騒がしいままの様子で、相川も孤高ながらそこにいた。
連中が、相川をここぞとけしかけるわけでもなかった。
彼らも相川も、互いに関わろうとしていなかったし、その間には深奥な溝があった。
超えられそうもない溝だったが、超える必要もない。そんな、暗黙の内の関係性。
そのせいかクラスでは、相川の話題も、コスモスの話題さえも、のぼらなくなった。
意図的に避けられていたのかは定かではないが、いずれにせよ教室内には、
騒がしさとともに、やり切れないぎこちなさが髣髴としていた。
そして・・やり切れないのは・・俺も、同じだった。
あれから相川とも、黒峰とも、委員長とも会話をしていない。
内二人は、機関のことが絡まなければ、普段から会話をしない相手だったし、
むしろ余計にコンタクトをとるほうが、芳しくなかったのも事実だ。
しかし委員長においては、少し事情が違った。
彼女が話しかけてきても、うまく返事ができないでいた。
顔も合わせられなくて、「どうしたのか」と尋ねられたこともあった。
打ち明けてしまおうかと思った。彼女の言った通りに、彼女に頼ろうかとも思った。
でもそれは、逆に彼女をコスモスに巻き込む事態に帰結しかねない。
一人で解決するしかないのだ、と思って、その度に思いとどまっていた。
「俺は・・・」
自分を誰より買いかぶっていたのは、自分だった。
「何を・・」
自分の弱さを認めていたのに、まだ強がっていた。
「何をしていたんだっ!」
屋上の鉄柵に蹴りを入れる。
足に響いてくる鈍痛。それも承知の上だ。
「痛み」が欲しかった。誰かに痛めつけてほしかった。
「・・・・・」
誰かに笑ってほしかった。「情けない」と嘲笑ってほしかった。
「・・・くそ」
情けない。「罰」を受ければ、全てが帳消しになると思っている。
まだ終わったわけじゃないだろう。委員長を助けるには、まだ間に合うのに。
「くそっ!くそっ!」
ここで、あきらめては・・・また姉さんと同じことに・・・
「・・・・」
青空を見上げても、何をしても、
「今日は・・もう、帰るか・・」
学校にいたところで、発想が好転しない。
ネガティブに逡巡するくらいなら、いっそここじゃないどこかにいたほうがいい。
どこかへ消えてしまいたい。
「・・・くだらない」
そうだ。消えることなんて、できるわけがないのに・・。
下駄箱に手を入れると、手に何か紙切れのようなものが当たった。
取り出してみると、ノートの切れ端だった。そこには無機質に、こう記されていた。
「夜八時。屋上にて」
紙に汗が滲む。それほどまでに、威力のある文字群だった。
「黒峰かっ・・・」
おそらくその場で、相川の依頼に関する算段を決めるつもりだろう。
委員長に、どう「罰」を下すか・・。
「どうする・・・いや」
答えは、最初から出ている。
「行くしかないだろ・・」
行って、立ち向かうしかない。なんとか軌道を修正できるように。
黒峰をあしらえるとは到底思えない。だがこの程度、乗り越えなければ・・
「俺が・・潰される」
あの部屋を出る前の、霧野のことを思い出していた。
「入谷君」
淵に佇んだ俺を、さっと現実に引き戻すような、呼びかけだった。
「初依頼ですね。がんばりどころじゃないですか?」
「・・・・」
黙る俺をよそに、霧野は飄々と続けた。
「同じクラスの方だというのが、いたたまれませんね・・」
嘘をつけ。オマエも黒峰も、演技のレベルはどんぐりの背比べだ、そう思っていた。
「・・・なんて、言うと思いましたか?」
「・・!?」
霧野は、それまでの空気を、颯爽と裏返した。
「言っておきますが、同情の余地なんて、それこそ毛ほどもありませんよ」
今度は、身に刺さるような、研磨された冷気。
「同情・・だと?そんなもの、買うつもりもない!」
「そうでしょうね。そうでなくては、役目も務まりませんからね」
やはり、食えない男だ。実感した。
「せいぜい、がんばってみて下さい。さもなくば」
錐で穿たれるような、刺々しい空気だ・・。
「入谷君が・・潰されてしまいますよ・・・」
戸が開く音がして、
「最近は・・野蛮な輩も、多いようですからね・・」
そのまま、静かに、閉まった。
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夜。
それが示唆する心象は、人によって千差万別だろう。
暗黒、重力、闇、深淵、絶望、悲哀。
今の俺にある感情は、そのどれをも想起させなかった。
もう一度、自分を奮い立たせようと努めていた。
反乱の口火を灯して、その明かりで、この闇夜から闇を奪えるようでなければ。
潰されるのは、俺だ。いいや、俺だけではすまないんだ。
その決意を確かめるように、一つ一つ、階段を踏みしめて、彼の地へ向かう。
いつも登り慣れているこの階段が、俺を振り落とそうとしている気がした。
足元がふらつくのは、暗がりのせいだけではなかった。
「くっ・・」
やっとのことで、屋上の戸までたどり着く。
施錠されているはずだが、当然のごとく、開いていた。
夏でも夜になれば、屋上は寒いほどだ。まさに、世界が暗転したかのごとく。
世界が俺に向けて、別の表情を作ったかのように。
屋上に踏み入れると、夜風が俺を突く。
「・・・?」
足元に、奇妙な感触があった。何かを踏んでいるようだった。
「!」
いや、待て!これは・・人!?人が倒れているのか!?
「何・・」
飛びのくように、そこから身を退けると、辺りが月明かりに照らされてよく見えた。
倒れているのは、一人だけじゃない。
「何だよ・・これ・・」
寒気とも違う。そんな感覚が、電流のように背筋を伝わる。
ざっと数えても七、八人はいる。それだけの人数が、屋上の床に伏して倒れていた。
まさか死んではいないだろう。それでも、恐怖感を増幅させるには十分だった。
「う・・」
いくら不審事件が連発しているといっても、現場に遭遇したのは、初めてだった。
これは、コスモスの仕業なのか?何故俺は、ここに呼ばれたんだ・・?
「黒峰・・?」
よもや彼女にこんなことができるわけが・・違う奴らか・・?
「ぐぅ・・・お・・」
自分でも驚いた。背筋の悪寒を追い越して、吐き気がやってきたのだ。
嫌悪。今までのそれとは比類ない、凄まじい嫌悪。
どんな考えや憶測を並べても、無条件で駆逐されるような、事態の混沌さ。
理屈を排して、神経に訴えてくるような、異様なまでの恐怖。
「はぁ・・・はぁ・・・」
逃れられるなら、逃れたい。
立ち向かわなくてはと思っても、こんなことに予測など追いつかなかった。
自分の情けなさに痛み入る暇もない。
きっと、戦場に取り残された兵士というのは、こんな気分なんだろう。
後にも先にも、こんな絶望感に触れることはない。決意なんて、どこ吹く風だ。
「・・はぁ・・・」
俺が望んだ日常なんて、矮小すぎる。そもそも俺に、日常なんてあったのだろうか。
どこか遠くで起きていることだと思っていた。ちっぽけな遠雷を眺める気分でいた。
それなのに、コスモスと出会った途端、こうだ。
「ぐ・・」
世界が、俺に身を背けていただけだ。俺が世界の裏側を、見ようとしなかっただけ。
俺は、世界から・・取り残されていた・・・
「来てくれた・・・のね」
声のする方に振り向くと、そこにいたのは、最も逆説的な存在。
「ゆ・・・」
呂律がうまく回らない。訥弁ながら、それでも声を振り絞った。
「雪村・・?」
彼女は、倒れている人の山を縫って、こちらへやってくる。
なんだかその光景は超現実的すぎて、理解に苦しんだ。
「あれ・・読んでくれた・・だから・・来てくれた」
「オマエ・・」
もう、本当に何がなんだか・・考える気力も失せる。
仮説なんて立てたって、あらぬ方向から崩されるだけ。その連続。
「待っていた・・物理的にも・・精神的にも・・」
だから、彼女が説明するまで、俺は何もしない。それが一番、力を消費しなくて済んだ。
「あなたを・・あなたのような人を・・ずっと」
そう言うと、彼女は特に話をするわけでもなく、口をつぐんでしまった。
手厳しい措置だ。その間にどれほどの問いが、浮かんでは消えたことか。
「これを・・見たでしょ・・?」
「見えてなきゃ、目に節穴どころの騒ぎじゃないだろ・・・」
喋り始めたのは、次に風が吹いてきてからだった。
「あなたも・・もう知っているのだろうけれど・・・」
そこでやっと、中枢に言及する。
「これが・・コスモスのやり口・・・」
そのキーワードさえ出れば、あとはこちらの攻勢。
まくしたてずに、待っていた甲斐があった。やりとりに、慣れてきたのかもしれない。
・・慣れたくもなかったのだが。
「オマエも・・コスモスなのか・・?」
だからといって、これをやったのは雪村じゃないだろう。そんなの笑えない。
とにかく、今はコイツと向かい合うだけだ。
「半分ダウト・・」
ダウトって・・
「もっと・・論理的になって・・」
わかってるよ。いや、わかってないのはオマエだよ。
俺を論理的にさせないのは、誰が登場したせいだと思っているんだ。
「じゃあ、何でこんなところに・・いや、俺を呼んだのはオマエか」
「もっと・・論理的に・・」
相川の気持ちがわからないでもない。コイツを虐げてやりたくなってきた。
「・・・」
また風が、俺たちの間をすり抜けたあと、
雪村からは、話そうとしなくなった。俺に何を期待しているのか。
「じゃあ、何で俺を呼んだんだよ・・俺は今、こんなことしてる場合じゃ・・」
してる場合じゃあ・・ないんだよ・・
「それ」
不意に、雪村が俺を指差す。
「は?」
「それ・・あなたが焦っている・・そのこと・・」
委員長の・・こと?いや、きっと違う。もっと・・もっと、本質的な・・
「私が・・あなたを呼んだのは・・・あなたに、協力するため・・」
そう・・もっと本質的なこと。
「報復。コスモスへの・・報復」
それは、エースなのか、ジョーカーなのか。
いずれにせよ、俺の手札に、予期せぬカードが加わることになった。
多分・・どちらも正解だろう。今は、想像したくなかった。