ほんの数分前との落差もあって、そう感じられるのだろう。
現在の心理状態は、驚嘆に値するほど、クリアである。
屋上の凄惨たる光景を目の当たりにした時とは、とにかく比べものにならない。
「・・・落ち着いた?」
それというのも、やはりこの女が手伝っているのだろう。
屋上から戻ってきて、クラスの教室に来ていた。
明日の朝になれば、学校に知れ渡るだろうか・・あの屋上のことは。
「ああ」
俺が質問に駆られるより前に、
ゆっくりと、おもむろに、俺から質問を一つずつ「引き出して」いくかのような、語り口。
こんな手腕は、他の誰にもない。無論、俺がかつて出会った、コスモスのメンバーにも。
「本当は・・ゆっくり・・していられないの」
相川にいじめられていた頃の、彼女とは違う。あれは、かりそめに過ぎなかったのだろうか。
「でも・・確証が、無いと・・動けないし・・これが、最短距離だと、思うから・・」
何について言及しているのかは不明だった。
だから、俺が沈着さを奪回したことを示す意味でも、少し路線を変えた。
「オマエはさっき・・俺に協力すると、そう言ったよな?」
「・・・言った」
注意して聞き取らないと、夜の漆黒にかすめ取られそうな、雪村の声。
「それは、俺がその協力に応じるという前提で、進んでいるな?」
「・・・違うの?」
ふざけろ。自分がどれほど横暴なマネをしているか、認識させてやろうか?
「俺に関しては筒抜けのようだが、俺は素性の知れない奴と、組んだりしない」
「・・・」
俺の方が筒抜けなのは、この際気にしていたら埒が明かない。
「妙に・・用心深い・・」
そういう姿勢が、相川に対しては欠けていたからな。その反動なんだろ、きっと。
そしてオマエのせいでもあることに気付け。
「・・・あなたのことは」
雪村が、窓側に歩み寄った。
「霧野から聞いた」
その台詞を、夜風に乗せるため?乗せてから、どこへ伝えようとしているんだ?
「・・・霧野?」
霧野?霧野だと・・?
どう考えてもそれは、コスモスとの「脈」を表しているに他ならない。
先刻の、「半分ダウト」の内容だ。彼女は、機械的に続ける。
「私は昔・・コスモスだった」
つまり、元コスモス。確かに、半分は正解していたんだな。
しかしそうなると・・
「昔、というのは、去年のこと」
何か・・それこそ、大事な前提が・・欠落しているような・・
「去年、私は・・いじめに、あっていた・・」
去年も、の間違いじゃないか?
「その時・・コスモスの存在を・・知った」
「言い換えれば・・その時から、コスモスはあったんだな」
もはや否定できない程に膨れ上がってしまった、姉さんとコスモスの関係性。
そうだろうな・・鍵をくれたのは、他ならぬ彼女だ。
姉さんが死んだ後にコスモスが組織されたのなら、鍵を持っているはずが・・
「・・・・」
雪村との対話から乖離して、思考を重ねてしまっていた俺は、
「私は・・依頼してしまったの・・私を、いじめていた人たちを・・」
彼女の声に、引き戻された。
「裁くように・・か」
急いで会話を取り繕う。
「・・・そう」
コイツとの話は、どこか疲れる。
か細い声の上に、こちらで内容を補いながら、耳を傾けねばならないからだ。
「でも・・手元に、与えられる報酬なんて、無かったから・・引き換えに・・
コスモスに、入ることに、なったの・・」
委員長と同様のケース。やり口は変わっていないらしい。
「私の依頼を受けたのは・・霧野。
機関に入ってから・・彼と一緒に、依頼をこなすことも・・あった」
霧野との面識はそこからか。
「それで今でも、コンタクトをとっているのか」
だが何故霧野は、雪村に俺のことを話す必要がある?掟に反するんじゃないのか?
俺だって、危ない橋を渡っている分にはお互い様だが。
「・・・・せっかち」
オマエが流暢じゃないからだろ・・。どこが早とちりなんだよ・・
「さっさと続けろ・・・」
俺は、仕方なしに、という態を装って促した。本来は、逆に早く情報が欲しくて仕方がない。
「そして・・・依頼をこなすうちに・・・・嫌になって・・」
「・・・」
情報が・・欲しくて、仕方がない。
「コスモスを・・抜けたいと思った・・」
なぜなら、過去の彼女は・・
「罪の意識に・・苛まれ続けた・・」
今の俺と・・オーバーラップしてしまうから・・
「・・・でも」
「ああ・・」
そうだ。さっき感じた違和は、ここにあったんだ。
「それだと、“おしおき”を喰らうことに・・なるな」
元コスモス。ならば彼女は・・・
「喰らったの」
「!?」
“おしおき”を、喰らった・・!?
「正確にいえば・・喰らっていた・・」
喰らって・・「いた」?彼女に振りかかっていた、過去進行形の・・
「まさか」
「霧野も・・私と、同じ考えを・・持っていた」
・・まただ。
工程をいくつか飛び超えた、つぎはぎの会話。文脈も何も、あったもんじゃない。
元通りに縫合するのは、聞き手の役目らしい。今さら呆れたりは、しない。
「だから・・私が、機関から、抜けるのを、手伝ってくれて・・
“おしおき”も、最低限のものに、なるように・・・手配、してくれた・・」
「それが・・」
おそらく、霧野が黒峰を仕向け、そして黒峰が・・
「あの・・いじめか・・」
相川を、けしかけた。
あれが「最低限」なら、通常のそれはどんなに悪質になるのか。
それよりも・・・
「霧野が?オマエと、同じ思想を・・?」
ありえない。
だが、まあ・・俺の謀反の話に最初に食いついてきたのも、あの男か・・
キナ臭いことに変わりはないが・・否定もしきれないか・・?
「私が・・コスモスへの、反乱の意思を・・潜在的に有していたことを・・
あの男は、知っていたから・・・」
雪村は、独特の話調を整えてから、言った。
「あの男は・・私に、伝えた・・そういう人物が、現れたって・・」
そういう人物。共に、同じ旗を、かざせそうな人物。
そこまで言うと、雪村は、教室の戸へと踵を返した。
「そろそろ・・動いたほうがいい・・」
まだ全貌も見えていないというのに、更にまざまざと、不穏を打ち付けるような一言。
「・・間に合わなく・・なる」
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「あれをやったのは・・・コスモスのタカ派・・」
廊下をつたいながら、雪村が告げる。
夜の帳のせいで、足音が不気味にこもり、辺りに反響していく。
「屋上のやつのことか」
タカ派・・コスモスの中には、もう派閥ができていた・・
となると、俺がコスモスを潰すには、あんな輩まで掌握しなければ・・
「荷が重いな・・」
その先への連想が億劫になって、俺は首を振った。
「そう」
コツン・・と足音が止まった。同時に、夜さえも、止んでしまったような気がした。
「あなたが背負ったものは・・あなたが、思うよりも・・大きい」
雪村は、熱を持った剣幕で、こちらを見据えていた。
大気も、静寂も、闇も、全てを味方につけて、俺に注いでくる。
「ああ」
わかってるから・・続けろ、というニュアンスで、返事をする。
この廊下を行けば、何があるのかは知らない。しかし、彼女の後に従うほかなかった。
例えば、そう、運命の奴隷になった気分だ。こんなに気障でも、格好のつかない状態だが。
「ん?」
「タカ派は・・正義を、取り違えて・・暴力ばかり振るう・・悪党」
「今・・何か、音がしなかったか?」
「ここ最近の事件を・・見ていれば、わかる」
彼女が話すのを止めないのは、暗に「聞き手に徹しろ」と命じているのだろう。
ひどく、我が儘だ。いや、我が儘というよりは、何かを急いているようにも見える。
「成程・・タカ派か」
霧野が、いかにも自分は関係ないというように振舞っていたのは、本当だった。
「・・・・」
そこで彼女は、また黙る。彼女の我が儘に付き合う意地を、俺が表明したにもかかわらず。
「・・・」
何かを思いつめた後で、ゆらりと彼女の手が動く。操り人形のような軌道だった。
「・・・よければ・・」
「・・?」
その手が、俺の正面で静止する。
「鍵を・・見せてくれない・・?」
「鍵?俺のか?」
コクンと顔をうな垂れる。一挙手一投足まで、精気がこもっていない。
「そんなものを見て・・」
再び、仕方なしに、という素振りで手渡す。
「・・・・」
雪村は受け取ってから歩みを止めて、それを、じっと眺めた。
「・・おい、急ぐんじゃないのか?」
骨董品の品定めより、もっと余念のない目つきだった。
全く、解せない。ここにきて、何でその鍵が重要なんだ・・
「おい」
「・・ヒーロー」
全く、解せない。会話をぶつ切りにする発言。バグのような、不整脈のような。
「・・・は?」
「ヒーロー・・・って何?」
雪村は、鍵を見つめたまま、動かない。その目は、曇るところを知らない。
その「ヒーロー」という言葉でさえ、虚空にあずけられたまま。
あまりに突拍子もなさすぎて、俺の言語中枢が受け付けない・・かに思われた。
「ヒー・・ローって・・雪村?」
受け付けないのではなく、受け付けたくなかったのかもしれない。
「ヒーロー」という単語は、俺の古傷をえぐる威力を持っていたから。
「ヒーロー」という単語は、俺の古傷を消毒する、懐かしい手つきをしていたから。
何故そんな単語が、雪村の口をついて出たのか、わからない。
わからないから、その単語を「あの人」と重ねてしまうのも、おこがましいと思った。
「私・・」
・・おこがましいと・・思ったのに・・
「あなたの、お姉さんと・・」
オマエのせいで・・重ねざるをえないじゃないか・・・
「入谷真奈美と・・会ったこと・・・あるの」
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それは憧憬にも似ていた。探し当てたかったのも事実だ。
懐かしい・・俺の脳内にある瓦礫の・・最下層に埋もれていたような・・
懐かしい・・ほこりをかぶった・・記憶。
「京介っ」
「・・・何だよ」
俺は、鬱陶しそうに答える。でも、本当は、嬉しかった。たまらなく。
そういう振りしかできないのも、悔しかった。たまらなく。
「正義の味方って、信じる?」
彼女は、臆面も無く、そう聞いた。
年柄に合わない質問で、俺の方は虚をつかれた様子だったか。
「・・・正義の・・味方?」
「そう」
大きく、息を吸って、吐かれた言葉。
「・・ヒーローだよ・・ヒーロー!」