第二話『君は笑わず私が奔走し』
朝。私の目覚めは日が昇ると同時に始まる。
少し乾燥してしまった肌を粘液が分泌される“腕”で撫ぜ、少し広がってしまっている“腕”をこちらに寄せ――恥ずかしい限りなのだが、私の寝相はお世辞にも良いとは言えない――て、ぷらすてっくとやらで出来ている今の寝床から這い出る。ちなみにこの寝床は陽子さんが私に用意してくれた物で、中々に耐久性の優れる代物だ。
一定間隔で時を刻むという円形の物体、短い針は五を指しており、この家の者が目覚めるには少し早い時間だと認識する。森に住んでいた頃ならば柔らかな草の上で再度惰眠を貪るという選択肢もあるのだが、如何せん今は居候の身。私のような生き物が部屋の中心で惰眠を貪っていようなら、悪印象を与えるに相違ない。……ならば、と。
私は朝食を作ることにした。とは言え、背後から見ているだけで出来るようになるほど料理は甘くないと記憶している。陽子さん然り、彼女は壊滅的に料理が出来ないのだと結から聞いている。
確かに敷居が高く感じる。なんでも、この家では火を使わずに電気で物が焼けるんだそうな。一見すれば平面。しかし、円形に線が惹かれている内側に熱が集まり、物を焼けるようになるのだと言う。理解出来ているわけではないのだが、やり方は記憶している。
“腕”を限界まで伸ばし、調理するに困らない程度に私は立つ。作るものは、鶏の卵を焼くという料理。私の場合は丸呑み出来るのだが、人間は殻を嫌うらしく、殻を割ってから食すようだ。自分で言うのもなんだが、器用に“腕”で殻を割り、銀色の大きい皿に入れる。ここで黄身を割るか割らないかによって出来るものが違う。私は割らずに、そのまま鉄の皿に入れることにした。
人間で言う腰の辺りに位置する突起物を押し、熱が伝わり始める。記憶どおりならば、これで“目玉焼き”が出来るはずなのだ。なんとも食欲の失せる名称だが、陽子さんが言うに、これが朝食の基本らしい。人間の感性はよくわからない。
徐々に透明だった白身が白くなり、焦げ臭さが臭覚を刺激する。……こんなものだろうか? 少しばかりの熱さを感じながら、私は“腕”で目玉焼きを掴むと、白い皿に置く。
「……ちょっと、何やってんの?」
そこで、背後から声が聞こえてくる。
緩々と振り向けば、仕事に向かう時とは少し違う容姿――髪が跳ね、寝る時に着る服装――の陽子さんが驚いた顔をして立っていた。
「朝食を作っているのだ。何もやらずに住まわせてもらうわけにはいかないからな。……何か不都合があっただろうか?」
「いや、不都合というか……料理できたんだ……」
陽子さんは数回目を服の袖で擦ると、納得の行かない顔で洗面所に向かって行った。
何かまずいことでもしてしまったのだろうか。ここに住み始めて一週間近く経つが、如何せん人間との会話は難しい。私自身、いつ不快な印象を与えるかと思うと、気が気でならない。
一つ目の要領で目玉焼きを三つ作る頃には、結も眠たそうな顔をして歩いてきた。私が調理していることに驚いていたが、さすがは私を見て恐怖しなかった人間。少しばかり私の心境を話すだけで納得してしまった。
ここまで疑うことのない人間を見たのは初めてで、逆に心配したくなってしまう。
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「……焦げた味がする」
「す、すまない。結が調理している際の時間を意識したつもりなのだが、如何せん私には経験が無い。至らない点があったことを許して欲しい」
朝食時。二人と一匹――私を人として認識するには些か難しい――で食卓を囲む中、形容しがたい空気が流れる。それというのも、私が作った目玉焼きとパンにある。
視覚的、嗅覚的に見ても“焦げている”としか判断できないものが皿の上に乗っているからである。
「ま、まあ、料理は誰でも上手く出来るわけではないからね。むしろ、私の方がひどかったわよ」
自身のことを卑下してまでも擁護してくれる陽子さんの親切が苦しい。加えて、毎日の食卓を任されている者として、結の意見はさすがに厳しい。
地面に落ちている物をただ食べてきた私にとって、料理とはただただ険しい壁であった。
「たぶん、油や水を忘れてたんだと思う。食べれないレベルじゃないけど……明日からはわたしが作るよ、触手さん。料理は……教えるから」
……そう、結はとてもいい子なのだ。
だと言うのに、結は人を嫌っている節がある。この場も“私”という生き物がいるからこそ会話が成り立っているものの、陽子さんと結の直接的な会話は無い。……何故、結は人を嫌うのだろうか。
この一週間、私は見てきた。
陽子さんは結を養うため、この生活を維持するために仕事をしている。だが、相反するように結との会話が無い。対して、結もそれを当然と思っている。いや、避けているといっても過言ではないだろう。血の繋がっている姉妹だというのに。……姉妹でこれなのだ、思うに、学び舎に居る間は陽子さん以上に会話する機会が少ないのだろう。
初めて出会った時の、あの危うさというのか。同じ人間だというのに、結はまるで自分を人間じゃないと思っているかのような……。
私を一目見ただけで信じてしまえるというのは、確かに嬉しい。だが、反対にそれは結の根本的な価値観、考え方が常識と外れているということではないのだろうか。群れで行動している以上、人間は常識を意識しなければならない。会話、横文字で言うコミュニケーションとでも言うのか。それを捨ててしまっている結は、あまりにも危うい。
……出会ってしまったのだ。私に出来ることがあるならば、それをやるしかない。
『君は笑わず私が奔走し』
「なあ、結。今日は私も学び舎について行ってもいいだろうか」
「……いいけど。退屈だよ」
朝食が済み、私は一つの提案を結に話した。今日一日結について行くことで、周りの環境を観察する。一週間傍に居たが、結は“友達”と遊ぶという行為をする素振りを見せなかったからだ。原因となっている一因が学び舎にもあるのかもしれない。無かったとしても、普段の結を観察することで、何かがわかるかもしれない。
せめて毎朝、食卓の中にこの少女の笑顔を見たいだけなのだ。他意はない。あるとすれば恩返し、見ず知らずの触手を家に上げてくれた結への感謝だけだ。
結が迷惑だと思うのなら、私はすぐにでもこの家を出て行くだろう。
「私が行ってみたいんだ。結が迷惑なら家で留守番している」
「……いいけど」
考えているのか、単に呆けているだけなのか。のらりくらりとした返事に私は意図を測りかねるが、肯定の意として結の言葉を受け取る。
なにやら台所の方で物を探し始めた結の背中に向かって、私は御礼を言った。
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私は体が乾燥しないよう、一定間隔で粘液が“腕”から分泌されている。このままだと結の鞄を汚してしまうため、“びにいる”という私が人間社会に触れていた頃には無かった袋に入れられている。この袋の中は空気が著しく希薄なのだが、私は時計で言う十二時間、空気が無くとも生命活動を維持できるのだ。
私はさながら優男のように、空気穴を開けようとしていた結に“問題無い”と片腕で制止する。
「苦しくない?」
「大丈夫だ。実に快適である」
「よかった」
朝。黙って家を出た結は、ゆっくりと町を歩いていた。
時々鞄の隙間から聞こえる気遣いの声は、私の気持ちを温かくしてくれる。それほど気持ちのいい子なのに、何故人を嫌うのだろうか。
私はその理由を問おうとするが、寸での所で思いとどまる。自分のことを根掘り葉掘り聞かれることは、私だって不快に思う。それは“思考”する人間にとっても同じだろう。……こうして結の後を付回すようなことをしている時点で、私が何を言っても言い訳にしかならないのだが。
「金木犀の匂いがする」
不意に、結が立ち止まる。確かに意識すれば私にとっても馴染みのある甘い匂いが嗅覚を刺激していた。
森の中にある風化しかけている小屋、その中で毎日のように嗅いでいた匂い。
「結はこの匂いが好きなのか? なら、私と同じだ。この匂いはこの前まで住んでいた家と同じ匂いがする」
「……わたしは嫌い」
そう言って。結は何かを振り切るように首を左右に振ると、再度歩き出した。……嫌いだったのか。
私が軽はずみな同調を求めたことに恥じていた頃、しばらく無言で歩いていた結が急に歩を速めた。何故急ぐのか気になったので聞くと、“遅れるとFTOにいやみを言われる”から、だそうだ。
今までの人生の中であまり感じたことの無い揺れが私を襲う。正直に告白すれば、とても気持ちが悪い。……私は人間と違い排泄と言う行為をしない。摂取した栄養は全て血肉に昇華することが出来る。しかし、何故か“もどす”ことは出来る。
とどのつまり、今、非常に“もどしたい”衝動を我慢している。
「……結、急いでいるところ申し訳ないのだが、もう少し揺れを抑えることは出来ないだろうか」
返事が無い。それどころか、揺れが増している。
私は汗とも分泌液ともわからない液体をびにいる袋に撒き散らしながら、揺れが収まることを切に願う。でなければ、あと少しもしないで私は“もどして”しまう。
「いかん……意識が……」
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「――はっ」
朦朧とする意識が、徐々に現実を捉え始める。……どうやら私は本当に意識を失ってしまっていたらしい。自分で見て嫌になるほど絡まってしまっている腕をゆっくりとほどきながら、暗闇で視界が確保できないため、周りの音を拾う。大勢の人間の声がする辺り、結は無事に学び舎に着いたようだ。
腕から分泌された粘液をちゃんと受け止めているびにいる袋に感心しながらも、私は外に出たい衝動に駆られる。狭くて暗い所は“最初”に居た場所を思い出すので、あまり好きではない。正直な本心を言えば、今すぐにでもここから出て風を感じていたい。……しかし、人間にとって私と言う存在は“奇怪”以外の何物でもないことを考えると、その気持ちも段々と薄れてゆく。
さて、どうしたものだろうか。自分からついていくと言ったにしては、具体的なことを一切考えていなかった。このままここでぬるぬるとしているだけでは、来た意味が無い。と、悩み始めたところで上から聞きなれた声が聞こえてくる。
「触手さん……大丈夫?」
「結か。多少の気持ち悪さは残っているが、別段気にするほどのことでもない。いたって普通だ」
「そう、よかった」
私が気がついたのを察したのか、結が気遣いの言葉を投げかけてくれた。細かい気配りに心が温まるのを感じる。
結も私が無事だと知って安心したのだろう、くすりと可愛らしい笑い声が聞こえたかと思うと、“もうすぐお昼だから、もう少し我慢していてね”と言って鞄を少し開けてくれた。あまり目にすることが無かった電気の光が、鞄の中を照らす。
依然として騒がしい声が聞こえる中、結は黙っていた。予想していた通り、悲しいことにも結は積極的に会話をしているわけではないらしい。と言うよりは、話しかけてくる者もいない。
「結、今は話をしても大丈夫なのだろうか」
「うん。休み時間だから、大きな声を出さなきゃいいよ」
「……その、結は友達はいないのか? 答えたくないのなら、別にいいのだが」
「いないよ」
たった一言、それでこの会話は終わってしまった。有無を言わさぬ勢いで言われた一つの言葉は、それだけで私の問いに十分応えている。私は全てを否定するような響きに胸を抉られながら、黙るしかなかった。
やけに時間が長く感じる。まだ“休み時間”は終わらないのだろうか。……今になって、私は軽はずみについていくと言ったことを後悔し始める。やはり私には何も出来ないのだろう。所詮私は一個の触手、結は一人の人間。唯一同じだと思えた“心”も、人間は私以上に複雑な物なのだと認識させられる。
「……なんでまた来てるのよ」
不意に、結とは違う人間の声が聞こえてきた。どことなく敵意のこもった声。それでも私は結に話しかける者が居るのだと喜ぶ。
「悪い?」
「悪い、って。昨日あれだけ言ったのにわかってないわけ」
「わかんない」
だが、その喜びも一瞬にして消えてしまう。悪いと思いつつも聞き耳を立てれば、なにやら険悪な雰囲気を感じ取ることが出来る。あんなに優しい結も、相手と同じように敵意のこもった声で応対している。……人間は昔から争いを絶やさない生き物だ。こんなに小さな子供でも、喧嘩をするのだろう。私からすれば信じられないが、ああ、やはりこれは喧嘩なのだろう。
「あんたの態度が気に入らないのよ。あんたがいると教室の空気が悪くなるから、もう来ないでって言ってるの」
「わたしがいつ学校に来てもあなたには関係ない。気に入らないなら無視してくれても構わないよ」
「だから、そういう態度がむかつくって言ってるのよ!」
「うるさい」
傍から聞いているだけでは平行線。年齢に相応しい、自分の意見を譲らない様は、場違いながらも結が歳相応なのだと思い出させてくれる。結は何百年も生きている私から見ても、考え方が早熟すぎる。こういった些細な部分でまだ幼いことがわかるのは嬉しい。
段々と激化してゆくなじり合いに耳を傾けながら、場違いな喜びを振り去り、自分に何が出来るのかを考える。結構な声量で喧嘩をしていると思うのだが、周りの人間が止めるようなことはない。止めないことが人間として普通なのか、それともこれが日常だから止めないのか。人間が嫌いではない私は、後者だと思いたい。……周りの人間が止めないとなると、あとは自分しか頼れるものはいない。しかし、私は触手だ。この場に出たところで、周りを混乱させるどころか結にまで迷惑をかけることになってしまう。
「大体、わたしは話したくない。勝手に話しかけてきてるのはあなた。あなたはわたしが来ると迷惑だって言うけど、わたしも話しかけられると迷惑なの」
「あたしだって話したくないけど、あんたの顔を見るだけで気分が悪くなるのよ。朝からそんな憂鬱な顔されたら、せっかくのいい天気も台無しというものだわ」
「じゃあ見ないでよ」
「隣の席なんだから見てしまうわよ!」
柔らかな体を捻っても、腕を伸び縮みさせても、結局のところ私にはこの場を鎮める考えなど浮かぶはずがなかった。そんな自分を擁護するのならば、人間とまともな会話すらしたことのない私が場の空気を左右することなど無理に等しい。陰鬱とした考えを隠すように、私は聴覚を閉ざす。……このまま誰かが収めてくれるだろう、そんな卑屈じみた思い故に。
暗く狭い中、私は考えることを止めた。
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小さくもなく大きくもない、中途半端な山の向こうに夕陽が落ちる中、カアカアと烏が鳴いている。どこか懐かしく思える――触手である私に郷愁などという気持ちがあるかどうかは別として――風景の中で、やっとのことで体を外気に触れさせることの出来た私は、少し汚れた空気を吸いながら結を見上げる。感情の起伏が見られない、普段通りと言えば普段通りの結。目などついていない私だが、それでも“視線”というものはあるのだろう、無言で見つめていた私に結が気付いたのか、ゆっくりと口を動かし始める。
「別に、楽しいところじゃなかったでしょ」
結は先程まで通っていた学び舎……学校のことを言う。特に楽しいわけでもなく、むしろ不快感をも覚える場所だと。私はそんな結の言葉に返事をすることが出来なかった。
単純な自分への嫌悪感。今朝の気概はどこへ消えてしまったのか、私は自身の存在意義までをも考えてしまうほど気分を落ち込ませている。結が少しでも明るくなればと、少しでも自分に出来ることがあればと、ついて行っても何もすることが出来なかったからだ。していたとすれば、聞き耳を立てるという程度の低い行動。それどころか、その後の結の問いかけにすら反応しなかった。……せめて私が人間だったら、少しは役に立てたのかもしれない。そんな夢物語を妄想してしまう。
「やっぱり人は嫌い。みんな言ってることとやってることが違う。誰も本心で話そうとしない」
今朝の私を見てなのか、鞄の揺れは今朝に比べて少ない。ゆったりとした波のような動きにさらされながら、私は黙って結の言葉を聞く。私の態度に不満があるわけではないようで、結も少しの間を置きながらぽつぽつと話し続ける。
「お姉ちゃんだって……」
結の表情が陰る。それは単純に嫌悪しているだけなのか、肉親に対しての思いに苦しんでいるのか。私はそんな結を見ていると居た堪れなくなり、初めて、帰り道で声をかける。
「陽子さんは本心で話していると思う。それこそ一緒に住んでいる家族なのだから、結が一番わかることじゃないのか」
「でも、お姉ちゃんだって、たぶん私に隠し事をしてるよ。優しくしてくれてても、いつかお父さん達みたいにわたしを置いて行っちゃうんだ」
結の表情が、陰りから険しいものへ変わる。親に対して憎しみに近いものがあるのだろう、ゆったりとしていた空気が一瞬にして硬くなる。……今朝までの私ならば、ここで親御さんを悪く言ってはいけないと、軽はずみに発言していただろう。しかし、私はまたも黙ることしか出来なかった。たった二人の人間と会話しただけで、私は“わかった”つもりになっていた。でも、私は触手だ。所詮は成れても愛玩動物、こんな深い問題を解決できるほどの力はない。
そのままお互いが沈黙し、やがて結が住む大きな家へと到着した。
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「ただいま」
重そうな金属の扉を開けて、結が誰もいないだろう家の中に挨拶をする。少し重たそうに私の入っている鞄を床の降ろすと、結は靴を脱ぎ始めた。遅れて、扉の閉まる音。私は動き回りたい衝動を抑え――私の粘液が床を汚すため――ながら靴を脱ぎ終わるまで結を待つ。
「――おかえり、結」
結のゆっくりとした動作が急に止まる。背後から声がしたので私は振り返ると、すぐ傍に陽子さんが立っていた。陽子さんが帰ってくるには少し早いな、と思いながら結に視線を戻す。……陽子さんに挨拶されたにもかかわらず、結は黙って脱ぎかけの靴を脱ぎ、靴箱にしまう。
「もう、黙らなくてもいいじゃない。今日は久しぶりに私が晩御飯を作ったから、早く手を洗ってきてね」
私が晩御飯を作ったから。その言葉を聞いて興味が無いといった風だった結の顔色が、焦りが見える表情に変わった。疑問の含まれた目で陽子さんを見ながら、結が口を開く。
「お姉ちゃんが作ったの?」
「ええ。久しぶりだったから、ちょっと失敗しちゃったけど。そうだ触手さん、よかったら手伝ってくださいな」
「……む、私でよければもちろん手伝うが、その、床が」
「いいのよ気にしなくて。ささ、早く早く」
遠慮がちに鞄から這い出た私は、手招きをする陽子さんの後に続く。玄関から去る前に一瞬結を見るが、依然として“信じられない”といった顔をしていた。
陽子さんの料理はひどいものだと結に聞かされていたため、惨状と化している台所を想像していたのだが、その想像に反して食欲をそそるいい匂いが嗅覚を刺激する。腕を伸ばして机に並べられている料理を見てみれば、なんてことはない、豪勢とは言い難いがそれでも十分すぎるものが並んでいた。さらに、私が手伝う余地はありそうにない。
「すまないが陽子さん、私に手伝えることは無さそうに見えるのだが気のせいだろうか」
「いえその……ね。実は聞きたいことがあって」
スーツの上から付けていた割烹着を脱ぎながら、陽子さんは気まずそうな声でそんなことを言った。私に答えられることなら、と返事をして、陽子さんがそばに来るのを待つ。
「今日、結の学校について行ったのでしょう? それで、結が学校でどんな風にしていたのか聞きたくて」
「そういうことだったか」
「私っていつも朝から夜まで仕事じゃない? だから、どうしても結を一人にしてしまってるのが心残りで。少しでも結がどう過ごしているのか聞きたいのよ」
まだ湯気が立ち上る料理を囲むように、私と陽子さんは椅子に座る――私の場合は乗ると表現した方が正しいか――。浮かない顔で言われた陽子さんの問いに対し、私は応えあぐねる。そもそも私は“聞いていた”だけで、実際に結の行動を見ていたわけではない。その辺りは屁理屈じみたものだが、なによりも自分が何も出来なかったことをまだ私は引きずっている。聞いたままを全て話すか、それとも知らないで突き通すか。そんな風に悩んでいる内に、手を洗ってきたのだろう結が姿を現した。
「珍しいね、お姉ちゃんが触手さんとお話してるなんて」
「まあまあ、そんなことより、ほら、座って座って。結の口に合うかはわからないけど、一応腕によりをかけた料理よ」
「わ、わかったから押さないでよ……」
あまり結に聞かれたくなかったのだろう、少々白々しく話題を変えた陽子さんは、席を立って結を急かす。戸惑う結は“なにかあったの”、といった目で私を見ているが、当の私も陽子さんに何があったのかはわからないので、沈黙を守る。そのまま結が席に着いたのを確認すると、陽子さんも自分の席に戻り、いただきますの号令をかける。
「さあさあ、食べてくださいな」
普段疲れた表情をよく見せる陽子さんだが、今日はとても笑顔だ。そんな陽子さんに違和感を感じているのだろう、結は怪訝な表情を浮かべながらも箸で料理を摘む。よほど以前作られたかと思われる陽子さんの手料理がひどかったのか、結は目を瞑り、思い切って口に運ぶ。私と陽子さんは息を飲んでもぐもぐと口を動かす結を見つめる。そして結はゆっくりと目を開けると、口を開いた。
「おいしい」
「――そ、そう! よかった、どんどん食べてね」
よほど嬉しかったのだろう、陽子さんはあれもこれもと結の取り皿に料理を運び続ける。自分でやるよと結が言うが、お構いなしに笑いながら取り分ける陽子さん。私はそんな二人を見つめながら、あたたかな気持ちが込み上げてくるのを感じていた。私を介さずとも、二人はちゃんと会話をしている。傍から見れば微笑ましい会話を。やはり、触手風情の私が何かをするよりも、肉親である者が少し優しくするだけで、結も笑顔を浮かべるのだ。迷惑そうにしながらも微かな笑顔を浮かべている結を見ながら、私は先程までの暗い気持ちが晴れるのを感じながら食事を始めた。
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カチャカチャと音を立てながら、陽子さんが皿を洗っている。明るい食卓は既に終わりを告げていて、一足先に寝室に戻った結を思いながら、私は呆けていた。不規則に鳴る高い音を感じつつ、先程までのあたたかな気持ち、その余興を楽しむ。
元来、私には家族がいない。家族どころか、同種がいるのかも疑わしい。最初は同種とは言わなくとも、ただ笑って話の出来る相手が欲しかった。しかし、“言葉”を持つ唯一の相手は人間しかおらず、その人間は私を拒絶した。殺されかけたこともあった。……その内、私は“あたたかな場”そのものを求めるようになった。七日前まで住んでいた古い家は、私が初めて感じることが出来たあたたかな場所。仲の良い人間の家族が、毎日楽しそうに笑いながら暮らしていた場所だった。見ているだけでも十分だと思った私は、飽きもせず何年も見つめ続けていた。小さかった子供が大きくなり、家を出て行くまで。若々しかった夫婦が、息を引き取るまで。もう満足したと、私自身感じていた。
そこに結が現れた。初めての会話をすることが出来ただけでも感動だというのに、私を拾ってくれたのだ。……その結が笑って過ごしている姿を見続けられたとしたら、どんなに幸せなことだろうか。
「――あら、触手さん、まだ起きてました?」
昔に思いを馳せていた頃、皿洗いを終えたのか、陽子さんが手を拭きながら声をかけてきた。そこで私は陽子さんの問いに応えていないことを思い出し、陽子さんに椅子に座るよう促す。向こうもそれを聞きたかったのだろう、はいはいとまだ嬉しかったことを引きずっているのか、笑顔で椅子に座る。私はそれを確認すると、包み隠さず話すことを決めた。
「学校での結だが、その、やはり友達と呼べるような者はいるように見えなかった。人間との協調性は無いに等しいが、それ以外は別段変わったことなく過ごしていたと思う」
「そう……やっぱり、そうなっちゃってるんだ」
“やっぱり”。陽子さんは先程までの笑顔に陰りを見せながら、納得した様子で頷いている。おおよその予想はついていたのだろう、私も同じようなことを思ったため、これ以上説明することは避けた。
はあ、と陽子さんが溜め息をつく。そのままふらりと台所に言ったかと思えば、“ぎやまん”で出来ている瓶と氷の入った湯飲みを片手に、机まで戻ってくる。とくとくと茶色の液体が湯飲みに注がれ、陽子さんはそれを一気に飲み干した。続いて、またも大きな溜め息。
「――私のせい、なんだろうなぁ」
「え?」
カラン、と。湯飲みの中で氷が鳴る。酒の一種なのか、焦点の定まらない目で遠くを見つめながら、陽子さんはまたも一気に酒を飲み、口を開く。
「私達の親、結から聞いたと思うけど、姿を消してるでしょ?」
「ああ、それは聞いた」
「それね、私のついた嘘なのよ」
陽子さんは一旦話を止めて、瓶の蓋を開け、再度酒を湯飲みに注ぐ。パキパキと氷が割れる音を聞きながら、陽子さんが喋り始めるのを待つ。
「両親はね、七年くらい前かなあ。親戚の叔母さんが死んじゃって、その葬儀に行くことになったの。北海道でね、飛行機が墜落した。ちょうどその飛行機に二人とも乗ってて、あっけなく死んじゃったのよ」
既に亡くなっていたのか。
「当時、結は六歳。私は十六歳。今じゃ考えられないけど、結は根っからのお父さんっ子でねー。……帰りを心待ちにしていた結に、私は“死んだ”と言わず“どこかに行ってしまった”と嘘をついたの。今から考えれば、私の願望もあったかもしれないわね」
「そのことは、やはり結は」
「知らないわ。まさかその所為で、結がこんなに人を嫌っちゃうとは思わなかったけどね。どうにもそれを考えると、やるせなくなっちゃって」
何杯目になるのか、氷が溶けきってしまった湯飲みに酒を注ぎ、そのまま飲み干す陽子さん。酔ってきているのか、一つ一つの動作がおぼつかない。私はそんな陽子さんを見ながら、誰も責めることの出来ない現状を嘆いていた。結も、結の両親も、陽子さんも悪くない。悪くないのに、なぜこんなに悲しいのか。
止まらず飲み続ける陽子さんの体が心配になり、私は腕を伸ばしてぎやまん製の瓶を陽子さんから遠ざける。
「なによ」
「明日も仕事があるのならば、これ以上の飲酒は体に悪いだろう。酒は薬になることを知っているが、必要以上に飲むのはおすすめしない」
「ふ、ふふ。はあ、まさか触手に説教されるなんてね。わかりましたよ、もう止めます。……もう、お父さんみたいなこと言っちゃって」
陽子さんは大げさに両手を上げて、なぜか笑顔になりながら私の体を撫ぜる。そのまま既に何も入ってない湯飲みを台所に持っていくと、おやすみの挨拶と共に自室へ戻っていった。
お父さんみたい、か。その言葉を言われて、今まで感じたことのない気持ちが込み上げてくる。不思議な気持ちだ。私は誰もいなくなった部屋を見渡しながら、自分でも理解できない気持ちを抑えて、ぷらすてっくで出来ている寝床へと戻った。
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つづく