第三章 『童貞に憧憬 〜インカムの物語〜』
そのドアを乱暴に空けた少女がまるで、俺の中にある『孤独』に見えたから―――――
少女の、人格の根幹に、俺と同じ『孤独』が一瞬垣間見えたから――――――――――
俺は思い出さずには、いられなかった。
仲の良かった、そして、もう動かないクラスメイトの事を。
―――あるクリスマスの夜に、俺は施設を抜け出したことがあった。
あの日、楽しい楽しい特別な日のパーティの後でも、消灯時間はいつも通りの厳格さで訪れた。
ただ夕食は少しだけ豪華だったんだよな……。
七面鳥、なんてのじゃなく、一本のローストチキンと仰角30°もないくらいの細っそいケーキがついてた。それだけだ。でも、その頃、日々、決まり事の多い生活をしていた幼い俺には、今日が特別な日だって思える魔法に見えた。
俺にかかったその魔法は、消灯時間を過ぎても解けることなく、俺に絡みついて離れなかった。
―――サンタさんへ まま ください
今思えば、困ったことを書いたものだ。
いや、困らせること、かな。
とにかく、不可能な要求、無い物ねだりの欲求、それでもあの日、俺は信じてしまっていた。
俺には魔法がかかっていたから、街に溢れていたイルミネーションが非日常的過ぎたから、なんだって叶え得る。舌の上に思い出されるケーキの味。何ヶ月ぶりかの、だ。夢に溺れるのにだって十分過ぎた。
ただ、魔法というモノについて、遙かな昔から相場は決まっているだろ?
俺の場合も御多分に漏れなかった訳で、幸せな魔法は0時には、嘘のように解けてしまった。
見慣れた、園長先生の顔。
夜中、偶然目を覚ました時、見えてしまったのが靴下にお菓子袋を突っ込むその顔だった。
俺はそこで、夢を壊された、なんて心無い事を言う人間じゃない。まぁむしろ人間でもないが。
とにかく、俺はその後、生まれて初めて申し訳なさ過ぎて泣いた。俺はなんて恥知らずで、自分を思いやってくれる人間を傷つけてしまったかもしれない、と……。
そんな事が子供心にも何となく理解は出来たらしい、布団の中でそっと、しばらくは泣き続けた。
……でも、そこはコドモの浅はかさ。
迷惑がかかるような望みなら、園長先生じゃなくて本当のサンタさんに叶えて貰えばいい、魔法が使えるサンタさんなら俺にだってきっと……。
ふっと、泣くことが無性に無駄に思えて、そして、それを叶えることが先生に対する罪滅ぼしのように思えて、俺はそっと静かに、誰にもバレないように、布団から抜け出た。抜き足差し足で、トイレへ忍び込むと高い位置にある窓から、真っ暗な外の世界へとジャンプした――
俺は多分、優しすぎた。
俺が望みを持つことが他人の迷惑になる、と考えていたから友達も少なかったけど、魔法がそれを改善してくれると信じていられるほど子供だったおかげで、平静でもいられた。ただ、間違いを正してくれそう人は誰もいなかった。
街は電飾でキラキラ。
夜が夜でないみたいだ、と思うとすごく楽しくなった。
だって非日常の夜には、奇跡が起こったって、いい。
足の裏が冷たくて冷たくて、スキップするように歩きながら、明るい街の中に、一個ぐらいありそうな奇跡を探し続けた。
明るい夜の雑踏には、大人達がたくさんいて、たまに俺を見ると、驚いたような目を向けていた。
その時の俺には、驚嘆の眼差しの意味が分からなかったが、すぐに「俺が一人だから」なのだ、と気付いた。
街を往く大人達はみな、男と女、連れだって仲睦ましげに歩いていたから。男一人で歩いているのは、俺だけだったから、皆驚いてこっちを向くんだろう、そういうルールなんだ、知らなかったな。
勘違いも甚だしいが、とはいえ、タブーを犯している事態に俺は興奮していた。
なかば、サンタさんを探す、という目的だって忘れてしまっていたくらいだ。
心も体もワクワクして止まらなかったから、いつのまにか体が危ういところまで冷えている事にも、気付かなかった。
明るい街の中をしばらく歩いてはみたものの、一向に赤い服の魔法使いの気配はなく、反比例するように段々と恐怖が鎌首を擡げてきた。熱が醒めてくると、自覚出来なかった寒さも、つのる。
ところが、急いで戻ってみると、施設の入り口には鍵がかかっていたんだ。まぁ、当たり前だが。
出て来たトイレの窓は、高くて背が届かない。
一生懸命に、いろんな窓を開けようとして、しっかり鍵がかかっていることを確かめた。その後、俺に残ったのは、寒さと絶望感だけだった。窓を割る、っていう選択肢が出ないあたり、まだ子供だったんだな。
とぼとぼと向かった公園のベンチで、俺は”何かを望む”事の意味を考えていた。
その時はもう既に、体が、いうことを聞かなくなっていた。
ふるえが止まらず、本当にヤバい時は、「本当にヤバい」、ってわかるんだな、と考えながら、それでも立ち上がることはもう出来なくなっていた。
サンタさん、ままはもう、いないんですか。
ある日、突然遠くにいかなければならなくなった、辛いけどどうしても連れていけなくて預けられた、と。そう教えこまれた。
俺の母親は、絵本の中だけで見た、優しい母親に重ね合わせた虚構の偶像で、未だ写真さえ見たことがない。
それに、自分の置かれた立場が分かってくる年齢になっても、はっきり望みを言っていた為に周りからは避けられた。幼稚園の頃、友達が持ってるおもちゃを欲しい、というと、少し我慢しようね、と言われたが具体的な期限が明示されたことは一度もなかったから、なんとなくわかっていたのに。
そんなこんなで、俺は実際いつもどこでも、一人だった。一人でいることが好きなんだ、と思いこむしかなかった。
本当はあの頃だって、魔法なんて、心のどこかでは信じちゃいない。
信じちゃいない、だけど、信じていたい自分がいた。
魔法とは、俺にとって自分を守る”強がり”という殻だ。
それがなければ、自分を導いてくれる糸口さえも見えなくなってしまいそうな気がして、子供の自分はそれに縋る事で、一人でも怖くないと粋がる事だけは頑張って覚えた。
強がりを捨てれば、友人を得ることぐらいは出来たかも知れないけど、あの頃、それが生きるのを楽にするとはどうしても思えなかった。それよりなにより縋れる親が欲しかった。
現実、自分は一人だった。嘘で強がるしかなかった。が、それはそれで怖かった。気づきながらも、必死に目を反らす事だけで精一杯だった。
まさに、滑稽な程に、今の状況がその縮図だ。
望みを持つことで、一人になり、闇に放り出され、恐れている。
イルミネーションから離れた、深夜の薄暗い街灯の公園には、賑やかな雑踏の音も、行き交う車の音もなく、薄着の裸足の少年が一人、ベンチに横たわっているだけだった。
俺は望みを持っちゃいけないのか、持った応酬がこれなのか、なら俺は、何かを望むのは嫌だ。
こんな目に遭うなら俺は何も望まない。望みたくない。嫌だ、嫌なのに……。
泣きながら、虚ろに開けた瞼の上にふと冷たい感触。
雪だ。
真っ白な雪。しかし、無垢過ぎたその白さ故に、夜の黒に染まってしまった雪。
俺の体に降り注いでいるはずなのに、もう顔ぐらいしか麻痺していないところはなく、寒さまでほとんど感じない。
こんなところで一人、俺は死を覚悟したりなんかしていた。当たり前の日常の公園で。
非日常の中で、願いを叶えたって意味なかった。それで日常が変わる訳じゃない。
僕は一人じゃない日常が欲しかったんだ……。
誰かと手を繋いで、同じ方を向いて、歩きたかったんだ!!
でも、今はもう、繋ぐ手も歩く足も、寒さで麻痺して動かない。まるで、自分のモノじゃないみたいに。
もう俺は、何も出来なくて、やれることと言えばひたすら謝る事ぐらいだった。
ごめんなさい、ごめんなさい、もうしません、もう何も望まない、だから助けて……、ってな。
公園のベンチでガタガタ自分で制御出来ないぐらい震えて……。
それでも朦朧とする意識の中で、子供なりに必死に御願いしていた。魔法を使える、サンタさんに。
お願いだから、一人にしないで―――。
『矛盾してるよね?』
声がした。自分の声だ。
『死にたくないの? 生きている事を望むの?』
そうだ、俺だって生きている、死にたくないのは当然だ。
でも、何かを望むことが悪いというなら、俺は、死んだ方がいいのか。
俺はわからない……そう、自分に答えた。
『わからないなら、やめてしまえばいいと思うよ』
俺の中から、俺を許す声がした。
『キミが望む事は、間違いなんかじゃない。だから、僕がここに来たんだ』
え、誰……?
『もう、一人じゃないよ』
声が、した。でも、もうそれは俺の声じゃない。
どこからか探したけど、すぐに、違いに気付いた。
それは空気を介した”音”じゃなかったんだ。
『僕らが、いる』
俺の精神のファントム空間の向こうから聞こえる、”僕”の声。
『必ず、キミを助ける』
感覚の無くなった自分の、自分のじゃないような手が、動いた――。
どういうことかわからないまま、俺は起きあがることができた。
その、俺の体を起こしてくれた左手を見つめた。
『今、みんな目覚めるから』
僕と名乗るソイツは、俺自身の左手だったんだ。
いまだ俺自身の意識は朦朧として、四肢の感覚も皆無に近い。
それでも、徐々に動こうと、熱が注入されていくのが分かる。
『君は一人じゃない』
『僕らみんなで”キミ”なんだ』
右手も、足だって、俺自身の麻痺した感覚は戻らないまま、動いてくれた。
―――非日常の夜には、奇跡が起こったって、いい。
望んだものとは違っても、俺はどん底の底の中で希望を見つけた。もう、俺は一人じゃない。
その日、俺は魔法のように不思議なプレゼントを貰った。真っ暗な公園で、俺は、初めての”友達”に出会ったんだ。
1.
俺は、次の日、すぐに図書館で調べてみた。子供用コーナーにある生き物図鑑を、開いていろんなページを隅々まで探した。
確か、聞いたことがある……、あった。
そこに載っていた生き物。
管クラゲの仲間、例えばカツオノエボシというクラゲは、海面から出している浮き袋と海中に沈んでいる触手とは別の生き物でありながら、互いに別個では生きられないという。
この性質を”群体”という。
……俺は、じゃあ、群体だったんだ。
だから、みんなと違うのは当たり前だったんだ……。
でも、みんなと違っていても、もう一人じゃない。
もう俺……、いや、我々は一人じゃない。
『僕たちがいるよ』
寒さで麻痺したまま、あの日から感覚の戻らない四肢が、我々の中の”俺”を優しく包みこむイメージ。
もう、友達なんか、いなくたって、いい。
俺には、コイツらがいれば……。
人間は、例えば一本の直立した棒のように、支えがない状態では、押したら簡単に倒れてしまいそうな程脆い。
しかし、逆に、心に確かな支え、街路樹の幹に必ずある鳥居に似た添え木よろしく、自分を裏切らない存在が根本を支えていたなら、人は幾らでも天高く伸びる事が出来る。
少なくとも、当時の俺にとってはそれは確かな実感在る確信だった。絶対に裏切らない他者ともいえる俺の中の別人格ができた結果、他の人間に対しても、だんだんと自信を持って接することができるようになっていくのだ。
人との違いに怯えていたこれまでの過去も、元から違うのだと認めてしまえば、思い起こす過去も苦じゃなく、そして精算も簡単だった。
そうやって垢を削ぎ落としていった俺……我々という存在は、学校や施設内での日常の中で、友人というものがちらほら出来るようになった。
全く皮肉なことに、我々が一人でなくなったが故に、我々が俺だった時代に欲しかったものが、少しずつだが手に入るようになっていた。
そんな中、小学校を卒業し、中学生活、来たる初めての夏、俺は恋の始まりを知る。
―――真夏のグラウンドでは、サッカー部の連中が声を張り上げ、汗を乾いた大地に振りまきながら必死にかけずり回っている。
肌を刺すような日光の中でも、国旗だけは靄然とたなびいて、午後のうららかさを楽しんでいるようだった。
中学校での生活も3ヶ月を越えてしまい、そうすればもうほとんど慣れてしまって、目新しいものも無くなっている。
新しい環境、組織に適応する人間の順応力は凄まじい。大体、それくらいの期間が立てば、誰がどの友人の集まり、形成されたグループに所属するのか、なんてことまで決まってきていた。
もの凄く大まかにいえば、それは体育会系と、文化系、の二つだった。
俺は、そのうちの文化系の方だ。
比較的体は丈夫で、運動神経もそこはかとなくある方だったのに、いかんせん運動には向かない致命的な理由があった。
何せ、我々を司る中枢たる”俺”には、俺の中にいくつもの”自我”が芽生えたあの冬の日からずっと、四肢の感覚が返ってきていない。感覚が途絶えたままに、今はそれぞれが独立して機能している。
あの日目覚めた群体としての自覚が、それまでの感覚を覆滅していたのだ。
それで生活上困ることはなかった。が、麻痺した四肢のままで今、フェンス越しに見つめているような、さんさんと降る日の光の下、青春の汗を迸らせる彼らのようにスポーツの喜びが分かるとも、現状思えなかった。
この日差しの暑ささえ、遮光カーテンを通して浴びたカビ臭い熱気のように、もわり、としか感じない。体を動かす喜びで、はしゃいでいられる訳がない。
まぁ、またそれが残念だと思ったこともまた、一度もないのだが。
遙かにそれを凌駕する恩恵が、俺の中にはある。十分すぎるくらいだった。
『なぁ、早くクーラー効いたところ行こうゼぃ』
思案に耽っているところに、左手の声が響く。
我々の中で、中枢である”俺”と同等の知能を有していたのは、この左手だけだった。
俺は、しっかり、第三者として彼が存在するということを自覚する為に、名前を付けた。プラス、愛着がわくように、と。
あの日の記念として、彼の名前は”ルドルフ”にした。自分の意志とは関係なく光ってしまう赤い鼻。ルドルフは勝手に光るその鼻で、真っ暗な闇の中、行く先を照らすことが出来た。そしてサンタさんがプレゼントを配る助けをする。まさに俺にとっての行く先を照らす彼の名にぴったり、というよりそのものだ。
『そうだな』
俺は秘密の友人、ルドルフと心の秘匿回線を繋いで、それはあの日から今日まで途切れたことはない。
グラウンド沿いに植えてある広葉樹から、伴侶の見つからない孤独な蝉が、ジィジィ鳴いていた。
俺はもう、孤独を嘆いて鳴くことはないだろう。
夏休みとはいえ、事情柄、どこかへ遊びにでる金も、帰る実家もない俺はといえば、こうして図書館へ来るぐらいしかする事がなかった。
この街の図書館は、ラッキーなことに、俺の通う中学校にほぼ併設される様な形で建っていたために実に楽に、そして足しげく通うことが出来た。
パラパラと、本をめくりながら考える。
集合体の中の”俺”という裁定者は、ルドルフという第三者視点のアドバイザーを得たことでより自分の本心と向き合うことができるようになった。
いわば一人岡目八目状態だ。
俺が熱中状態でクレバーさを失ったとき、しばしばルドルフは『それは何の為に?』と問いかけてきた。彼はいつも、手段と目的を明確にすることを重んじていた。
俺には手に入れることが出来ない、学校でクラスメイトみんながこぞってやっているゲームが欲しい、例えば彼が俺に問いかけるのは、そんなときだ。
ゲームを買う事が目的なのか。
いや、違う。俺はそれをきっかけにして、みんなと話したかった。となれば、俺は本当の俺を見つけることができる。
そうか、俺はみんなと話したいんだ。
それが目的なんだ。ということが明確になれば、その目的を達成するための手段を、いくつもいくつも考えればいい。それが手段なんだ。ゲームを買うことを目的と錯覚して、固執する事は愚かで無知だ。
とまぁ、こんな感じにルドルフと俺の問答は続いた。
お陰で、制約の多い環境に生まれ育った俺も随分と生きやすくなった。無駄が無くなったためだ。
殊に、自分が考えて、自分の意志で実行していると思っていたことの、実は殆どが、周りに流されて、迎合するための虚飾であると、ルドルフは俺に教えてくれた。
そうやって無駄を削いでいった結果、副次的に成績も上がっていった。
こうして長期休みにも図書館に通っているくらいだから、尚更だ。
傍目から見れば、ともすればガリ勉ともとれる態度をとっていても、しかしクラスの中でうまくやっていけるほどの、自信と器量もいつのまにか身に付いていたらしい。
「さーいとーくん、なに、読んでんのっ?」
「おっ、と、なんだ杉下か」
我々にはこんな風に気さくに話かけてくる友人もできた。
ちなみに我々は、人間相手には、斉藤 秋文(サイトウアキフミ)と名乗っていた。
「え、ああ、記号論関係の本をちょっと。そっちは?」
「私はほら、初の中間テストがアレだったから。猛勉強中」
とても猛勉強中には見えない格好で、我々に話しかけてくるクラスメイト。
コイツは、決して前回のテストの成績が悪かった訳じゃないはずだが……。
「アレ、杉下…って、んな悪かったっけ?」
「えーと、確か7位」
ちょ、待て。
我らが中学校には400人超の一年生がいるのだ。
約1.7%の上位が悪いとは思えない。
「お前それ、他の奴らには聞かせんなよ?」
「んはは、さいとーくんだからね、この、越えるべき仇敵めッ」
ちなみに俺は、彼女のその小さな枠よりも更に少ない、全体の0.5%の上位だった。
「目指すとこが違うな」
「親が厳しくてさぁ、困ったものだよ」
そう言ってふふっと笑う仕草に、彼女を差してクラスメイトのいった「小動物のような愛らしさ」を感じた。
小耳に挟んだところによれば、彼女、杉下 紗夏の家は随分と立派な家系らしかった。
それにしては、結構フラフラと遊び歩いているようなイメージも、失礼ながら抱いていた。実際はどうだか知らないが。3ヶ月たったとはいえ、クラスメイトの家庭の事情まで詳しく知ってはいない。
一面ガラス張りで、むしろ本読みにくいだろうってぐらい、光の余剰に入る図書館の隅の一角。洒落た緑色の小さめの丸テーブルを囲んで二人は座っている。
彼女は、光が入ってくる方の、窓側の席に座った。
「私さぁ、社会がなんかあんまし良くなかったんだよね。特に歴史の点が低くて……」
あぁ、そうなんだ、と適当に相槌を打ちながら、パラパラと読みかけの本をめくる。
俺自身は成績には特にこだわっている方じゃない。まぁ杉下の学力向上をちょっとばかし助けてやろうかという仏心で多少の勉強には付き合うことにした。
たまに質問に答えたり、杉下の歴史の教科書に三色のアンダーラインを引きながら、俺は自分の本も読む。
これ、この本によると、言葉とは、それ自体は何かを修飾する事しかできない、とある。
一文節の中には、端的かつ単位としてしか、意味を包しておらず、主体はない。その単位的な文節を、組み合わせて、意味を伝達する為の”言語”に発達させる。そこで初めて相手の脳裡に像を結ぶ。
なるほど、群体と同じだ。
我々は、それぞれが、一個では生きていけない。
中途半端な機能しか持っていない、不完全な生命。
出来損ないの存在。
だからこそ、集まり、手を取り合って、初めて誰かに存在を認めてもらえるのだ。
そう、例えばもし、我々が”俺”だけだとしたら、その不完全な”俺”は誰にも認めてもらえない……。
孤独じゃない俺にはもう、関係のない話だ。
「ねぇねぇ、聞いてる?」
「えっ?」
本の方に興味が向いて、質問を聞き落としていた。
なんとなしに口から生返事が出る。
「えぇ、ホント? じゃあどこ行くの?」
「と。何が?」
努めて、にこやかに返したが、皆目何の事だか分からなかった。
おのれ、どうやら、聴覚を担当する個体は、”俺”が集中しているときは勝手に感覚をシャットアウトしてしまうらしい。
「だーかーらー。夏休みどっかいったりしないのか、って。ほーらーやっぱりさいとー君聞いてないよー。」
歴史の教科書の上で、頬杖をついている杉下の、その柔らかそうなすべすべした頬が、ぷっと膨れる。
いつの間に、勉強に関係ない話になったんだ。
「あぁ……別にないなー。どっか行く金もないしな」
中学生がいうには、少し、割にあわない味気ないセリフ。
まぁただ、どっかへ行くとしても、俺一人ということになるし。今のところ、そこまで執着するような場所も、催しも、俺にはなかった。そもそも俺というのは、あまり世の中の動きに興味が向いていく方ではないのだ。
「え、おばあちゃんちとかも、行かないの?」
「ああ、まぁ。」
へぇー、と小さく唸る杉下。
ばあちゃんか。我々にはそう呼べる存在がいるのだろうか? 説明するのもいちいち面倒なので言わないが。
「じゃあ、お盆とかヒマなんだね」
「いつでも、ヒマですよ。俺は」
嘆息するように、一息はいて、本をめくる手を少し止めた。杉下の深意がわからない。が、俺らの年齢の女子は、いや、男子だって、話の中に深意などないまま話すことができる。上目づかいに森下をみた。
興味津々にこちらを見ていた。
「じゃあヒマ人どうしだ、あはは」
杉下が笑う。無邪気な口元に、顔のパーツのアクセントとなっている八重歯が光る。
「杉下はどっか行くんだろ?」
「そうしたいんだけどね。両親ともに、仕事が忙しくて。おばあちゃんち行くのも、一人で電車のよてー」
言い終えると、ベタリ、と机に頭を乗っけてへたり込む。そのまま、口を尖らせて、心底残念そうな溜め息を漏らす。
「へぇ、そっか。そりゃ残念だな」
「ホントヒドいよねー。愛する子供を差し置いてさー。」
……。
図書館の中は、静謐で、一瞬の生の火を燃やす蝉の声さえ介入できない、そんな空間に二人。外を見れば、そこは夏の世界だ。蝉も蛙も人も、異性を求める季節。
「なんか……花火でもするか? お互いヒマだし」
なんとなく、そんな意見が口を付いて出た。
一応は、こうしてナチュラルに同じ時間を過ごせる相手だから、多分きっと楽しい時間になるはずだろう、と思う。俺にしても、長い40日間を本と格闘するばかりでは、いい加減疲れるし。……と、まるで誰かに言い訳しているような考えが浮かぶ。
「あ、それいい! いいね! お盆前ぐらいに一回遊ぼう!」
机の上の頭を即座に持ち上げて、杉下は笑顔を作った。
瞳の中で、いくつもの星がキラキラ瞬いている。
そのいくつもの星の中に自分の像が写っているこの瞬間を、おもしろいな、と思う。
表情豊かな杉下は、まるで脳と顔面の筋肉が直結しているかのようだ。
自分の内面をすらも、自らが作り上げた曇りガラスで仕切っている俺とは、……違う。
……自らが作り上げた……。
自らが作り上げた?
違う、ルドルフはそんなんじゃない。
ひとりぼっちの俺に、神様がくれた友人であって、決してそんなんじゃない。
そんなんじゃ、……そんなん、ってなんだろう。
「じゃあ、どうしようかな……」
思案に耽る杉下を見ながら、ひとまず俺は思考を一旦止めて、ある一つの建設的な提案をした。
「とりあえず……さ、一旦出ようぜ」
気付けば結構話し込んでいた。
ヒソヒソ声で話していたつもりだったが、周りを見渡せば何人かは煙たげな表情を浮かべこちらを見ている。
「……そだね」
杉下も一体何分眺めていたのか分からない歴史の教科書を閉じ、席を立つ。
向かい合わせの緑のテーブル。陽光を浴びる窓際の杉下と、作り物の間接照明に照らされた俺。
逆光の中、立ちあがる杉下の顔は、柔らかな笑みを湛えている。暗くて眩しくて、一瞬、見えなかった。
「そういえば、さいとー君て、いっつも金ない金ない、って言ってるね」
そうだろうか。言われるまで自覚したことはなかった。
なかったが、態度には如実に出ているらしい。
杉下の前には、ハンバーガー、ポテト、そしてシェイク。俺の前には100円のコーヒー。
「なぁ、こういうとこ、よくくるの?」
杉下がどんな日常をおくっているかなど、俺は知らない。
俺はといえば、中学にあがったばかりで、友達同士でこういったところに来る経験も少なく、不慣れな場所に感じる落ち着かなさが、心の空き容量を占有している。その落ち着かなさは、俺と杉下の間の距離だ。
「塾帰りとか、たまにくるけど? どして?」
それもそっか、俺は塾にも行ってないしな。
小学生の時も、クラスの大半の児童がどこかしら、塾へ通っていた。俺にはもちろん、そのようなことが出来る金もない。
最近の小中学生は、進んでるな、などと同年代である俺が考えている間も杉下は話を続けた。
「で、お金ないって、何かにつぎ込んでるとか? お小遣いどれくらいもらってるの?」
まくし立てるように、同時に、杉下が俺に質問をぶつける。結構おしゃべりな奴だったんだなと思いながら、俺もいろいろと話す。
「つぎ込む程、貰ってないし。まぁいろいろカツカツなんで」
あまり詳しく事情を話すわけにもいかず、当たり障りないような言葉を選んで話した。
「ふーん、まぁ、私たちの歳じゃ、バイトもできないしね」
ああ、そんな手段もあるよな、と思う。思うが、バイト、という言葉は少し意外だった。俺たちの年齢で、バイトをする、という発想は、かなり先進的だ、と思った。
「杉下はやりたいの? バイトとか」
「え? ああ、そうじゃなくてね。パパがママと話してたの。職場でバイト雇うとか」
少しホッとした。同年代という枠組みの中で、距離は収まってくれるようだ。
「杉下んちって、なにやってんの? なんか豪邸に住んでるって聞いたけど」
「そんなぁ、あはは。違うよ、技術職。技研で新製品の開発とかしてる」
「え、それってすごくない? 日本最先端の頭脳ってことでしょ?」
「知らないってwww。まぁバイオロジクスやら、人間工学とか言って、アタシにゃよくわかんないことしてるよ。家にいることも少ないし」
そう言うと、杉下はシェイクを啜りながら、窓の外に目をやる。流された視線の先には、曇り始めた空の下の、アスファルトの灰色があった。
「へぇ、なんかかっこいいな」
「ないない。人間相手に人体実験するような危険な人達だから」
こちらに振り向くと、あはは、と笑う。
「聞いたことあるよ。モニターだか治検だかってヤツ? 裏バイト大全みたいなのに載ってたよ」
「そうなのかなー。まぁ改造人間造ってたりしてもオカシくない人達だけど」
おどける杉下を見て俺もふふと笑う。
「まぁ、うちのことはいいよ。それよりさ、いつにしよっか? 花火」
もう杉下の頭の中では、来たる日の夜の光景に目が行ってしまっているようだ。
しかし俺は、そんな杉下をよそに、ふと「今のこの状況で既に、一般的に言う”デート”なのでは?」などと全く違うことが頭をよぎっていた。
『なかなか、かわいいと思うけど?』
うわ!?
ルドルフ、あまり人前では話しかけるな、って言っただろ!?
『いやぁ、変にニヤニヤしたオーラを感じ取ったからな。何が起こってるのかと思えば、大人の階段を登ってる最中とはねぇw』
ニヤニヤしたオーラって何だよ。
というのはさておいても、兎に角、目の前の杉下の前では俺は俺なりの普段のクールさを装っているわけだ。
そういった状態でこの茶々はかなり邪魔だ。
そして、困ったことに、ルドルフはこんな小さな邪魔が、すごく好きだった。
「でさ、私からはリエとカナコあたり誘うからさ……」
ルドルフとの会話中も、俺は平静に他人と話すことが出来るから良いものの、やはり、人前で声をかけられると気が散るのはどうしようもない。
俺はコーヒーカップを持っていた左手を、テーブルの下に降ろすことを試みた。
だが……
『おっと、こんな美味しいとこでオレだけ退場なんて虫が良すぎ』
ちくしょう……やはり、左手の主導権だけは、ルドルフから奪えたことはない。
どうしてか、ルドルフだけは俺と対等の権利を持つらしく、唯一指令系統である俺の命令を無視できるのがルドルフなのだった。
「じゃあ、そんな感じで。次の水曜にしようね。だめならその次の日曜で。じゃ、バイバーイ」
ちょ、いつの間にか話が終わってる!?
もったいねぇ!!
『あはははは!!』
ルドルフ、おい! てめぇふざけんなよ!!
こんなにおいしい状況でこれは……。
ん、おいしい状況……。
そうか、そうだよな、今、おいしい状況だったんだよな。
俺、結構、のらりくらりしてたよな……。
そんな気持ちになった。
―――花火……か。
よし、決めた!
次の水曜の花火、積極的になる!
花火では……花火…、花火!?
席を立つ杉下を、俺は急いで呼び止める。
「ちょ、ちょっと、待ってくれ!!」
「ん、何?」
屈託のない瞳で俺を見つめる杉下を見ると、俺はどうしても次の言葉がでてこなかった。
「あ、…いや、いいんだ。またな」
「うん?…じゃね」
そういえば、俺――お金がないんだ。
本当は月の小遣いなんて出てないんだ。
ほんのちょびっとだけしか。
だから、花火とか、多分買えない……。
言えなかった。が、言わなくて良かった。
「お金……貯めなきゃな」
そんな前向きな気持ちになれたからだ。
ヒントは杉下がくれた。
行くぞ――――俺も席を立った。
「はっはっはー!!身寄りがない!?実にいい、実にこの仕事にぴったりだ!!」
最低の言葉を言うコイツは、ビール腹を無様に揺らして俺をねぶるように見ながら笑っている。
が、俺はどうしてもコイツに頼らなくてはならなかった。
『オイオイ、ホントに大丈夫なのかよ』
若干、狼狽え気味のルドルフ。
ダメでもやるしかないさ……そんな強い決意を、俺は俺の左手に込めた。
杉下と花火に行くために、俺は金をこの手に掴むと決めた。
最も手っとり早いのはやはり、日雇いのバイトだ。
「まぁ、ウチもね、裏人材斡旋……っていっちゃっていいの!自分でいってんだよ!?ホントいいの!?」
中学生でこういうことをするには、やはりこういうところしかないだろう。
ビール腹おやじがニヤニヤしながら、いろいろ聞いてくる。
「いいんです」
俺は静かに言う。
「いいねぇ、兄ちゃん!!!その、何か目んなかに燃やしてる顔、俺ぁ好きだよ!!健康そうだし、いろんなとこ紹介できそうだ!!」
ガッハッハと豪気に笑うが、その度に吐かれる息が、臭くてたまらない。
「いいんで、なるべく早めでお願いします。」
「わかってるわかってる、まぁ、経歴をつくるってのも簡単じゃないから、結果は明日な。顔写真だけ撮るけど、今日はそれでオシマイ!帰ってよし!!」
はぁ……。
そしてその後、本当に顔写真だけ撮って返されてしまった。
暑い夏の、アスファルトで石焼きされながら帰る道すがら、若干不安に思う。本当にバイトを紹介してくれるんだろうか。
中学生という身分では、そう簡単にバイトなどできない。
しかし、例えば薬品の治検などでは、当然子供や妊娠中のご婦人などなど……、多岐にわたる広範囲なデータをとりたいわけだ。
というわけで、そういった需要に対して、表に出せない”裏”の求人を斡旋してくれる、というフレコミでやっている、暗い路地の、さらに奥にかまえる店を訪ねてみた……が。
ちなみに場所は、図書館の”裏バイト”的な本とネットで調べた。便利になったもんだ。
『オレはあんまり気がすすまねぇなぁ』
そんなこと言うなって。せっかくのやる気が削がれる。
ルドルフは帰りの道すがらにずっと、文句を言っている。
そう言うなっての。どうせ日雇いだし、すぐ終わるって。なんていちいち相槌を打ちながら、夕暮れの道を歩く俺達。
河原の堤防の上の道では、ビルの間に沈む夕日が見えた。
伸びる影は今は一つだ。だが、俺達は一人じゃない。そして、次の水曜がくれば、きっともっとたくさんの……。
しかし、その日が来ることはなかった。
あのバイトは、俺にとって、麻薬のようなもので、俺は高揚しながら、内側から……腐っていくことになる。
後にして思えば、ルドルフの言うことを聞いておくべきだったのかもしれない。
彼の助言を真に受けていれば、俺は生涯初の友人を失い、そして『役員』となることもなかった……。
あの夕暮れの日も、蝉は、孤独を悲しむように鳴いていた。
3に続く
俺は、次の日、すぐに図書館で調べてみた。子供用コーナーにある生き物図鑑を、開いていろんなページを隅々まで探した。
確か、聞いたことがある……、あった。
そこに載っていた生き物。
管クラゲの仲間、例えばカツオノエボシというクラゲは、海面から出している浮き袋と海中に沈んでいる触手とは別の生き物でありながら、互いに別個では生きられないという。
この性質を”群体”という。
……俺は、じゃあ、群体だったんだ。
だから、みんなと違うのは当たり前だったんだ……。
でも、みんなと違っていても、もう一人じゃない。
もう俺……、いや、我々は一人じゃない。
『僕たちがいるよ』
寒さで麻痺したまま、あの日から感覚の戻らない四肢が、我々の中の”俺”を優しく包みこむイメージ。
もう、友達なんか、いなくたって、いい。
俺には、コイツらがいれば……。
人間は、例えば一本の直立した棒のように、支えがない状態では、押したら簡単に倒れてしまいそうな程脆い。
しかし、逆に、心に確かな支え、街路樹の幹に必ずある鳥居に似た添え木よろしく、自分を裏切らない存在が根本を支えていたなら、人は幾らでも天高く伸びる事が出来る。
少なくとも、当時の俺にとってはそれは確かな実感在る確信だった。絶対に裏切らない他者ともいえる俺の中の別人格ができた結果、他の人間に対しても、だんだんと自信を持って接することができるようになっていくのだ。
人との違いに怯えていたこれまでの過去も、元から違うのだと認めてしまえば、思い起こす過去も苦じゃなく、そして精算も簡単だった。
そうやって垢を削ぎ落としていった俺……我々という存在は、学校や施設内での日常の中で、友人というものがちらほら出来るようになった。
全く皮肉なことに、我々が一人でなくなったが故に、我々が俺だった時代に欲しかったものが、少しずつだが手に入るようになっていた。
そんな中、小学校を卒業し、中学生活、来たる初めての夏、俺は恋の始まりを知る。
―――真夏のグラウンドでは、サッカー部の連中が声を張り上げ、汗を乾いた大地に振りまきながら必死にかけずり回っている。
肌を刺すような日光の中でも、国旗だけは靄然とたなびいて、午後のうららかさを楽しんでいるようだった。
中学校での生活も3ヶ月を越えてしまい、そうすればもうほとんど慣れてしまって、目新しいものも無くなっている。
新しい環境、組織に適応する人間の順応力は凄まじい。大体、それくらいの期間が立てば、誰がどの友人の集まり、形成されたグループに所属するのか、なんてことまで決まってきていた。
もの凄く大まかにいえば、それは体育会系と、文化系、の二つだった。
俺は、そのうちの文化系の方だ。
比較的体は丈夫で、運動神経もそこはかとなくある方だったのに、いかんせん運動には向かない致命的な理由があった。
何せ、我々を司る中枢たる”俺”には、俺の中にいくつもの”自我”が芽生えたあの冬の日からずっと、四肢の感覚が返ってきていない。感覚が途絶えたままに、今はそれぞれが独立して機能している。
あの日目覚めた群体としての自覚が、それまでの感覚を覆滅していたのだ。
それで生活上困ることはなかった。が、麻痺した四肢のままで今、フェンス越しに見つめているような、さんさんと降る日の光の下、青春の汗を迸らせる彼らのようにスポーツの喜びが分かるとも、現状思えなかった。
この日差しの暑ささえ、遮光カーテンを通して浴びたカビ臭い熱気のように、もわり、としか感じない。体を動かす喜びで、はしゃいでいられる訳がない。
まぁ、またそれが残念だと思ったこともまた、一度もないのだが。
遙かにそれを凌駕する恩恵が、俺の中にはある。十分すぎるくらいだった。
『なぁ、早くクーラー効いたところ行こうゼぃ』
思案に耽っているところに、左手の声が響く。
我々の中で、中枢である”俺”と同等の知能を有していたのは、この左手だけだった。
俺は、しっかり、第三者として彼が存在するということを自覚する為に、名前を付けた。プラス、愛着がわくように、と。
あの日の記念として、彼の名前は”ルドルフ”にした。自分の意志とは関係なく光ってしまう赤い鼻。ルドルフは勝手に光るその鼻で、真っ暗な闇の中、行く先を照らすことが出来た。そしてサンタさんがプレゼントを配る助けをする。まさに俺にとっての行く先を照らす彼の名にぴったり、というよりそのものだ。
『そうだな』
俺は秘密の友人、ルドルフと心の秘匿回線を繋いで、それはあの日から今日まで途切れたことはない。
グラウンド沿いに植えてある広葉樹から、伴侶の見つからない孤独な蝉が、ジィジィ鳴いていた。
俺はもう、孤独を嘆いて鳴くことはないだろう。
夏休みとはいえ、事情柄、どこかへ遊びにでる金も、帰る実家もない俺はといえば、こうして図書館へ来るぐらいしかする事がなかった。
この街の図書館は、ラッキーなことに、俺の通う中学校にほぼ併設される様な形で建っていたために実に楽に、そして足しげく通うことが出来た。
パラパラと、本をめくりながら考える。
集合体の中の”俺”という裁定者は、ルドルフという第三者視点のアドバイザーを得たことでより自分の本心と向き合うことができるようになった。
いわば一人岡目八目状態だ。
俺が熱中状態でクレバーさを失ったとき、しばしばルドルフは『それは何の為に?』と問いかけてきた。彼はいつも、手段と目的を明確にすることを重んじていた。
俺には手に入れることが出来ない、学校でクラスメイトみんながこぞってやっているゲームが欲しい、例えば彼が俺に問いかけるのは、そんなときだ。
ゲームを買う事が目的なのか。
いや、違う。俺はそれをきっかけにして、みんなと話したかった。となれば、俺は本当の俺を見つけることができる。
そうか、俺はみんなと話したいんだ。
それが目的なんだ。ということが明確になれば、その目的を達成するための手段を、いくつもいくつも考えればいい。それが手段なんだ。ゲームを買うことを目的と錯覚して、固執する事は愚かで無知だ。
とまぁ、こんな感じにルドルフと俺の問答は続いた。
お陰で、制約の多い環境に生まれ育った俺も随分と生きやすくなった。無駄が無くなったためだ。
殊に、自分が考えて、自分の意志で実行していると思っていたことの、実は殆どが、周りに流されて、迎合するための虚飾であると、ルドルフは俺に教えてくれた。
そうやって無駄を削いでいった結果、副次的に成績も上がっていった。
こうして長期休みにも図書館に通っているくらいだから、尚更だ。
傍目から見れば、ともすればガリ勉ともとれる態度をとっていても、しかしクラスの中でうまくやっていけるほどの、自信と器量もいつのまにか身に付いていたらしい。
「さーいとーくん、なに、読んでんのっ?」
「おっ、と、なんだ杉下か」
我々にはこんな風に気さくに話かけてくる友人もできた。
ちなみに我々は、人間相手には、斉藤 秋文(サイトウアキフミ)と名乗っていた。
「え、ああ、記号論関係の本をちょっと。そっちは?」
「私はほら、初の中間テストがアレだったから。猛勉強中」
とても猛勉強中には見えない格好で、我々に話しかけてくるクラスメイト。
コイツは、決して前回のテストの成績が悪かった訳じゃないはずだが……。
「アレ、杉下…って、んな悪かったっけ?」
「えーと、確か7位」
ちょ、待て。
我らが中学校には400人超の一年生がいるのだ。
約1.7%の上位が悪いとは思えない。
「お前それ、他の奴らには聞かせんなよ?」
「んはは、さいとーくんだからね、この、越えるべき仇敵めッ」
ちなみに俺は、彼女のその小さな枠よりも更に少ない、全体の0.5%の上位だった。
「目指すとこが違うな」
「親が厳しくてさぁ、困ったものだよ」
そう言ってふふっと笑う仕草に、彼女を差してクラスメイトのいった「小動物のような愛らしさ」を感じた。
小耳に挟んだところによれば、彼女、杉下 紗夏の家は随分と立派な家系らしかった。
それにしては、結構フラフラと遊び歩いているようなイメージも、失礼ながら抱いていた。実際はどうだか知らないが。3ヶ月たったとはいえ、クラスメイトの家庭の事情まで詳しく知ってはいない。
一面ガラス張りで、むしろ本読みにくいだろうってぐらい、光の余剰に入る図書館の隅の一角。洒落た緑色の小さめの丸テーブルを囲んで二人は座っている。
彼女は、光が入ってくる方の、窓側の席に座った。
「私さぁ、社会がなんかあんまし良くなかったんだよね。特に歴史の点が低くて……」
あぁ、そうなんだ、と適当に相槌を打ちながら、パラパラと読みかけの本をめくる。
俺自身は成績には特にこだわっている方じゃない。まぁ杉下の学力向上をちょっとばかし助けてやろうかという仏心で多少の勉強には付き合うことにした。
たまに質問に答えたり、杉下の歴史の教科書に三色のアンダーラインを引きながら、俺は自分の本も読む。
これ、この本によると、言葉とは、それ自体は何かを修飾する事しかできない、とある。
一文節の中には、端的かつ単位としてしか、意味を包しておらず、主体はない。その単位的な文節を、組み合わせて、意味を伝達する為の”言語”に発達させる。そこで初めて相手の脳裡に像を結ぶ。
なるほど、群体と同じだ。
我々は、それぞれが、一個では生きていけない。
中途半端な機能しか持っていない、不完全な生命。
出来損ないの存在。
だからこそ、集まり、手を取り合って、初めて誰かに存在を認めてもらえるのだ。
そう、例えばもし、我々が”俺”だけだとしたら、その不完全な”俺”は誰にも認めてもらえない……。
孤独じゃない俺にはもう、関係のない話だ。
「ねぇねぇ、聞いてる?」
「えっ?」
本の方に興味が向いて、質問を聞き落としていた。
なんとなしに口から生返事が出る。
「えぇ、ホント? じゃあどこ行くの?」
「と。何が?」
努めて、にこやかに返したが、皆目何の事だか分からなかった。
おのれ、どうやら、聴覚を担当する個体は、”俺”が集中しているときは勝手に感覚をシャットアウトしてしまうらしい。
「だーかーらー。夏休みどっかいったりしないのか、って。ほーらーやっぱりさいとー君聞いてないよー。」
歴史の教科書の上で、頬杖をついている杉下の、その柔らかそうなすべすべした頬が、ぷっと膨れる。
いつの間に、勉強に関係ない話になったんだ。
「あぁ……別にないなー。どっか行く金もないしな」
中学生がいうには、少し、割にあわない味気ないセリフ。
まぁただ、どっかへ行くとしても、俺一人ということになるし。今のところ、そこまで執着するような場所も、催しも、俺にはなかった。そもそも俺というのは、あまり世の中の動きに興味が向いていく方ではないのだ。
「え、おばあちゃんちとかも、行かないの?」
「ああ、まぁ。」
へぇー、と小さく唸る杉下。
ばあちゃんか。我々にはそう呼べる存在がいるのだろうか? 説明するのもいちいち面倒なので言わないが。
「じゃあ、お盆とかヒマなんだね」
「いつでも、ヒマですよ。俺は」
嘆息するように、一息はいて、本をめくる手を少し止めた。杉下の深意がわからない。が、俺らの年齢の女子は、いや、男子だって、話の中に深意などないまま話すことができる。上目づかいに森下をみた。
興味津々にこちらを見ていた。
「じゃあヒマ人どうしだ、あはは」
杉下が笑う。無邪気な口元に、顔のパーツのアクセントとなっている八重歯が光る。
「杉下はどっか行くんだろ?」
「そうしたいんだけどね。両親ともに、仕事が忙しくて。おばあちゃんち行くのも、一人で電車のよてー」
言い終えると、ベタリ、と机に頭を乗っけてへたり込む。そのまま、口を尖らせて、心底残念そうな溜め息を漏らす。
「へぇ、そっか。そりゃ残念だな」
「ホントヒドいよねー。愛する子供を差し置いてさー。」
……。
図書館の中は、静謐で、一瞬の生の火を燃やす蝉の声さえ介入できない、そんな空間に二人。外を見れば、そこは夏の世界だ。蝉も蛙も人も、異性を求める季節。
「なんか……花火でもするか? お互いヒマだし」
なんとなく、そんな意見が口を付いて出た。
一応は、こうしてナチュラルに同じ時間を過ごせる相手だから、多分きっと楽しい時間になるはずだろう、と思う。俺にしても、長い40日間を本と格闘するばかりでは、いい加減疲れるし。……と、まるで誰かに言い訳しているような考えが浮かぶ。
「あ、それいい! いいね! お盆前ぐらいに一回遊ぼう!」
机の上の頭を即座に持ち上げて、杉下は笑顔を作った。
瞳の中で、いくつもの星がキラキラ瞬いている。
そのいくつもの星の中に自分の像が写っているこの瞬間を、おもしろいな、と思う。
表情豊かな杉下は、まるで脳と顔面の筋肉が直結しているかのようだ。
自分の内面をすらも、自らが作り上げた曇りガラスで仕切っている俺とは、……違う。
……自らが作り上げた……。
自らが作り上げた?
違う、ルドルフはそんなんじゃない。
ひとりぼっちの俺に、神様がくれた友人であって、決してそんなんじゃない。
そんなんじゃ、……そんなん、ってなんだろう。
「じゃあ、どうしようかな……」
思案に耽る杉下を見ながら、ひとまず俺は思考を一旦止めて、ある一つの建設的な提案をした。
「とりあえず……さ、一旦出ようぜ」
気付けば結構話し込んでいた。
ヒソヒソ声で話していたつもりだったが、周りを見渡せば何人かは煙たげな表情を浮かべこちらを見ている。
「……そだね」
杉下も一体何分眺めていたのか分からない歴史の教科書を閉じ、席を立つ。
向かい合わせの緑のテーブル。陽光を浴びる窓際の杉下と、作り物の間接照明に照らされた俺。
逆光の中、立ちあがる杉下の顔は、柔らかな笑みを湛えている。暗くて眩しくて、一瞬、見えなかった。
「そういえば、さいとー君て、いっつも金ない金ない、って言ってるね」
そうだろうか。言われるまで自覚したことはなかった。
なかったが、態度には如実に出ているらしい。
杉下の前には、ハンバーガー、ポテト、そしてシェイク。俺の前には100円のコーヒー。
「なぁ、こういうとこ、よくくるの?」
杉下がどんな日常をおくっているかなど、俺は知らない。
俺はといえば、中学にあがったばかりで、友達同士でこういったところに来る経験も少なく、不慣れな場所に感じる落ち着かなさが、心の空き容量を占有している。その落ち着かなさは、俺と杉下の間の距離だ。
「塾帰りとか、たまにくるけど? どして?」
それもそっか、俺は塾にも行ってないしな。
小学生の時も、クラスの大半の児童がどこかしら、塾へ通っていた。俺にはもちろん、そのようなことが出来る金もない。
最近の小中学生は、進んでるな、などと同年代である俺が考えている間も杉下は話を続けた。
「で、お金ないって、何かにつぎ込んでるとか? お小遣いどれくらいもらってるの?」
まくし立てるように、同時に、杉下が俺に質問をぶつける。結構おしゃべりな奴だったんだなと思いながら、俺もいろいろと話す。
「つぎ込む程、貰ってないし。まぁいろいろカツカツなんで」
あまり詳しく事情を話すわけにもいかず、当たり障りないような言葉を選んで話した。
「ふーん、まぁ、私たちの歳じゃ、バイトもできないしね」
ああ、そんな手段もあるよな、と思う。思うが、バイト、という言葉は少し意外だった。俺たちの年齢で、バイトをする、という発想は、かなり先進的だ、と思った。
「杉下はやりたいの? バイトとか」
「え? ああ、そうじゃなくてね。パパがママと話してたの。職場でバイト雇うとか」
少しホッとした。同年代という枠組みの中で、距離は収まってくれるようだ。
「杉下んちって、なにやってんの? なんか豪邸に住んでるって聞いたけど」
「そんなぁ、あはは。違うよ、技術職。技研で新製品の開発とかしてる」
「え、それってすごくない? 日本最先端の頭脳ってことでしょ?」
「知らないってwww。まぁバイオロジクスやら、人間工学とか言って、アタシにゃよくわかんないことしてるよ。家にいることも少ないし」
そう言うと、杉下はシェイクを啜りながら、窓の外に目をやる。流された視線の先には、曇り始めた空の下の、アスファルトの灰色があった。
「へぇ、なんかかっこいいな」
「ないない。人間相手に人体実験するような危険な人達だから」
こちらに振り向くと、あはは、と笑う。
「聞いたことあるよ。モニターだか治検だかってヤツ? 裏バイト大全みたいなのに載ってたよ」
「そうなのかなー。まぁ改造人間造ってたりしてもオカシくない人達だけど」
おどける杉下を見て俺もふふと笑う。
「まぁ、うちのことはいいよ。それよりさ、いつにしよっか? 花火」
もう杉下の頭の中では、来たる日の夜の光景に目が行ってしまっているようだ。
しかし俺は、そんな杉下をよそに、ふと「今のこの状況で既に、一般的に言う”デート”なのでは?」などと全く違うことが頭をよぎっていた。
『なかなか、かわいいと思うけど?』
うわ!?
ルドルフ、あまり人前では話しかけるな、って言っただろ!?
『いやぁ、変にニヤニヤしたオーラを感じ取ったからな。何が起こってるのかと思えば、大人の階段を登ってる最中とはねぇw』
ニヤニヤしたオーラって何だよ。
というのはさておいても、兎に角、目の前の杉下の前では俺は俺なりの普段のクールさを装っているわけだ。
そういった状態でこの茶々はかなり邪魔だ。
そして、困ったことに、ルドルフはこんな小さな邪魔が、すごく好きだった。
「でさ、私からはリエとカナコあたり誘うからさ……」
ルドルフとの会話中も、俺は平静に他人と話すことが出来るから良いものの、やはり、人前で声をかけられると気が散るのはどうしようもない。
俺はコーヒーカップを持っていた左手を、テーブルの下に降ろすことを試みた。
だが……
『おっと、こんな美味しいとこでオレだけ退場なんて虫が良すぎ』
ちくしょう……やはり、左手の主導権だけは、ルドルフから奪えたことはない。
どうしてか、ルドルフだけは俺と対等の権利を持つらしく、唯一指令系統である俺の命令を無視できるのがルドルフなのだった。
「じゃあ、そんな感じで。次の水曜にしようね。だめならその次の日曜で。じゃ、バイバーイ」
ちょ、いつの間にか話が終わってる!?
もったいねぇ!!
『あはははは!!』
ルドルフ、おい! てめぇふざけんなよ!!
こんなにおいしい状況でこれは……。
ん、おいしい状況……。
そうか、そうだよな、今、おいしい状況だったんだよな。
俺、結構、のらりくらりしてたよな……。
そんな気持ちになった。
―――花火……か。
よし、決めた!
次の水曜の花火、積極的になる!
花火では……花火…、花火!?
席を立つ杉下を、俺は急いで呼び止める。
「ちょ、ちょっと、待ってくれ!!」
「ん、何?」
屈託のない瞳で俺を見つめる杉下を見ると、俺はどうしても次の言葉がでてこなかった。
「あ、…いや、いいんだ。またな」
「うん?…じゃね」
そういえば、俺――お金がないんだ。
本当は月の小遣いなんて出てないんだ。
ほんのちょびっとだけしか。
だから、花火とか、多分買えない……。
言えなかった。が、言わなくて良かった。
「お金……貯めなきゃな」
そんな前向きな気持ちになれたからだ。
ヒントは杉下がくれた。
行くぞ――――俺も席を立った。
「はっはっはー!!身寄りがない!?実にいい、実にこの仕事にぴったりだ!!」
最低の言葉を言うコイツは、ビール腹を無様に揺らして俺をねぶるように見ながら笑っている。
が、俺はどうしてもコイツに頼らなくてはならなかった。
『オイオイ、ホントに大丈夫なのかよ』
若干、狼狽え気味のルドルフ。
ダメでもやるしかないさ……そんな強い決意を、俺は俺の左手に込めた。
杉下と花火に行くために、俺は金をこの手に掴むと決めた。
最も手っとり早いのはやはり、日雇いのバイトだ。
「まぁ、ウチもね、裏人材斡旋……っていっちゃっていいの!自分でいってんだよ!?ホントいいの!?」
中学生でこういうことをするには、やはりこういうところしかないだろう。
ビール腹おやじがニヤニヤしながら、いろいろ聞いてくる。
「いいんです」
俺は静かに言う。
「いいねぇ、兄ちゃん!!!その、何か目んなかに燃やしてる顔、俺ぁ好きだよ!!健康そうだし、いろんなとこ紹介できそうだ!!」
ガッハッハと豪気に笑うが、その度に吐かれる息が、臭くてたまらない。
「いいんで、なるべく早めでお願いします。」
「わかってるわかってる、まぁ、経歴をつくるってのも簡単じゃないから、結果は明日な。顔写真だけ撮るけど、今日はそれでオシマイ!帰ってよし!!」
はぁ……。
そしてその後、本当に顔写真だけ撮って返されてしまった。
暑い夏の、アスファルトで石焼きされながら帰る道すがら、若干不安に思う。本当にバイトを紹介してくれるんだろうか。
中学生という身分では、そう簡単にバイトなどできない。
しかし、例えば薬品の治検などでは、当然子供や妊娠中のご婦人などなど……、多岐にわたる広範囲なデータをとりたいわけだ。
というわけで、そういった需要に対して、表に出せない”裏”の求人を斡旋してくれる、というフレコミでやっている、暗い路地の、さらに奥にかまえる店を訪ねてみた……が。
ちなみに場所は、図書館の”裏バイト”的な本とネットで調べた。便利になったもんだ。
『オレはあんまり気がすすまねぇなぁ』
そんなこと言うなって。せっかくのやる気が削がれる。
ルドルフは帰りの道すがらにずっと、文句を言っている。
そう言うなっての。どうせ日雇いだし、すぐ終わるって。なんていちいち相槌を打ちながら、夕暮れの道を歩く俺達。
河原の堤防の上の道では、ビルの間に沈む夕日が見えた。
伸びる影は今は一つだ。だが、俺達は一人じゃない。そして、次の水曜がくれば、きっともっとたくさんの……。
しかし、その日が来ることはなかった。
あのバイトは、俺にとって、麻薬のようなもので、俺は高揚しながら、内側から……腐っていくことになる。
後にして思えば、ルドルフの言うことを聞いておくべきだったのかもしれない。
彼の助言を真に受けていれば、俺は生涯初の友人を失い、そして『役員』となることもなかった……。
あの夕暮れの日も、蝉は、孤独を悲しむように鳴いていた。
3に続く